ブラックジャック・マリガン
ブラックジャック・マリガン(Blackjack Mulligan、本名:Robert Deroy Windham、1942年11月26日 - 2016年4月7日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州スウィートウォーター出身。現役選手時代はカウボーイ・ギミックの大型ラフファイターとして活躍し、NWA、AWA、WWEの各団体で実績を築いた[1]。 バリー・ウインダムは長男、ケンドール・ウインダムは次男、マイク・ロトンドは娘婿。マイク・ロトンドの息子である孫のウィンダム・ロタンダ(ブレイ・ワイアット)とテイラー・ロタンダ(ボー・ダラス)もプロレスラーである。 来歴ニューヨーク・ジェッツでAFLプレイヤーとして活躍した後、1967年にワフー・マクダニエルの勧めでプロレス入り[3]。テキサス州サンアントニオでジョー・ブランチャードのコーチを受けた後、ミネソタ州ミネアポリスのバーン・ガニアのもとで再トレーニングを積み、AWA地区でデビュー[3]。ビッグ・ボブ・ウインダム(Big Bob Windham)をリングネームにベビーフェイスとして売り出され、1970年にはAWAと提携関係にあった国際プロレスに初来日[1]。11月19日に足利にて、ラリー・ヘニングと組んでグレート草津&サンダー杉山からIWA世界タッグ王座を奪取する[4]。シリーズ最終戦の12月12日、台東区体育館にて草津と杉山に奪還されるも、戴冠中は草津&杉山、杉山&ラッシャー木村、草津&木村を相手に3回の防衛に成功した[5]。 帰国後、黒ずくめのカウボーイ・スタイルのブラックジャック・マリガン(Blackjack Mulligan)に改名してヒールに転向し、1971年1月よりWWWFを約半年間サーキット[6]。グラン・ウィザードをマネージャーに、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてブルーノ・サンマルチノやペドロ・モラレスと対戦した。同年3月15日には、前月にイワン・コロフからWWWF世界ヘビー級王座を奪取した新王者モラレスの、MSGにおける初防衛戦の相手も務めている[7]。 AWA地区に復帰後は、このスタイルの先達であるブラックジャック・ランザとのタッグチーム、ザ・ブラックジャックス(The Blackjacks)を結成。1971年11月6日、デトロイトでウイルバー・スナイダー&ポール・クリスティを破り、インディアナポリス版のWWA世界タッグ王座を獲得[8]。以降、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーを抗争相手に長期政権を築いた。1973年から1974年にかけてはテキサスのダラス地区に参戦、ランザとのコンビでNWAアメリカン・タッグ王座を獲得したほか、シングルでは1973年5月4日にホセ・ロザリオからNWAテキサス・ヘビー級王座を、1974年3月26日にフリッツ・フォン・エリックからNWAアメリカン・ヘビー級王座を奪取している[9][10]。1975年はブラックジャックスとしてWWWFに進出、8月26日にフィラデルフィアでドミニク・デヌーチ&パット・バレットを下し、WWWF世界タッグ王座を獲得した[11]。 →詳細は「ザ・ブラックジャックス」を参照
その間、単独で日本に2回参戦しており、1973年9月には国際プロレスに3年ぶりに来日。優勝候補の外国人エースとして第5回IWAワールド・シリーズに出場し、アニマル浜口やマイティ井上らに勝利して決勝トーナメントに進出[12][13]。10月10日の長崎国際体育館での優勝戦では別ブロック代表の木村と覇を争い[14]、シリーズ最終戦では広島県立体育館にてストロング小林と金網デスマッチを行っている[15]。翌1974年10月には全日本プロレスに初登場、縁戚関係にあるディック・マードックやキラー・ブルックスと共闘し、ドン・レオ・ジョナサンとの大型タッグも実現[16]。最終戦の11月7日には沼津にてジャイアント馬場のPWFヘビー級王座に挑戦した[17]。 1976年にランザとのタッグを解消し、以後1980年代初頭にかけて、ジム・クロケット・ジュニアが主宰していたNWAのミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリングを主戦場に活動。初期はヒールとしてマクダニエル、ミスター・レスリング、ルーファス・ジョーンズ、ポール・ジョーンズ、マイティ・イゴール、ディノ・ブラボー、リッキー・スティムボート、後にベビーフェイスとなってリック・フレアー、バロン・フォン・ラシク、マスクド・スーパースター、ビッグ・ジョン・スタッド、ボビー・ダンカン、エンフォーサー・ルシアーノ、アイアン・シークらと抗争。同地区認定のUSヘビー級王座(後のWCW・US王座、現在のWWE・US王座)を4回に渡って獲得している[18]。また、当時ハーリー・レイスが保持していたNWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦した[19]。 この間、カナダのトロント地区(NWA主流派のミッドアトランティック地区と提携しつつ、WWWFとも交流するなど独自の活動を行っていたフランク・タニー主宰のメープル・リーフ・レスリング)に出場した縁から、1977年8月に新日本プロレスに初参戦。スタン・ハンセンやザ・ハングマンとの大型外国人トリオの一角として、アントニオ猪木とのシングルマッチも9月16日の久留米と10月5日の松戸とで2回組まれたが、もともと特別参加の別格扱いだったこともあって、猪木のNWFヘビー級王座や小林&坂口征二の北米タッグ王座には挑戦しなかった[20]。 ミッドアトランティック地区での活動と並行して、1979年には当時マードックと共同でプロモーターを兼任していたアマリロ地区にて、5月7日にドリー・ファンク・ジュニアからアマリロ版のNWAインターナショナル・ヘビー級王座を奪取[21]。1981年は南アフリカに遠征し、10月3日にジャン・ウィルキンスを破り世界スーパーヘビー級王座を獲得[22]、帰米後の同月11日には、古巣のWWAにてボボ・ブラジルからWWA世界ヘビー級王座を奪取している[23]。 その後、ジム・バーネットのジョージア・チャンピオンシップ・レスリングを経て、1982年にフレッド・ブラッシーをマネージャーに迎えて久々にニューヨークに登場[24]。当時のWWFヘビー級王者ボブ・バックランドに挑戦する一方、アンドレ・ザ・ジャイアントとスーパーヘビー級の抗争を繰り広げた。日本では報じられることがなかったものの、1982年9月18日のフィラデルフィアにおける6人タッグマッチ(アンドレ&チーフ・ジェイ・ストロンボー&ジュールズ・ストロンボーVSマリガン&ミスター・サイトー&ミスター・フジ)では、アンドレをボディスラムで投げている[25]。 1983年1月、WWFルートで新日本プロレスに再来日[26]。元旦に後楽園ホールで猪木とシングルマッチを行い[27]、2月7日には蔵前国技館にてハルク・ホーガンとも対戦した[28][29]。しかし、いずれもテレビ中継はされておらず、待遇面の問題やコンディションの不調もあり、アメリカでの実績に反し新日本のリングでは本領を発揮することができなかった。 その後はNWAフロリダ地区のCWF(チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)に参戦し、ベビーフェイスのポジションでアブドーラ・ザ・ブッチャーやアンジェロ・モスカと抗争[30]。当時NWAの新星として台頭していた息子のバリー・ウインダムやダスティ・ローデスとタッグを組み、ザンブイ・エクスプレス(イライジャ・アキーム&カリーム・モハメッド)やロング・ライダーズ(ロン・バス&ブラック・バート)とのタッグ抗争も行われた[30][31]。 1984年はAWAに久々に登場し、同じくフェイスターンしていたランザとブラックジャックスを再結成[32]。日本でAWA世界ヘビー級王座を奪取してアメリカに乗り込んできたジャンボ鶴田にも挑戦するなど健在ぶりをアピールした[33]。1985年より改めてCWFに定着し、当時フロリダで武者修行中だったホワイト・ニンジャこと武藤敬司と抗争していた次男のケンドール・ウインダム育成に注力したが、やがてCWFはジム・クロケット・プロモーションズに吸収された[34]。 1986年にはWWFのブッカーとして手腕を振るっていたランザの招きでWWF版マシーン軍団に加入。ビッグ・マシーン(Big Machine)と名乗って覆面レスラーに変身し、ジャイアント・マシーン&スーパー・マシーンと共闘[35]、AWA時代のマネージャーだったボビー・ヒーナン率いるファミリーのスタッド&キングコング・バンディと抗争した[36]。マシーン軍団の解散後は元のカウボーイ・スタイルに戻り、選手としてリングに上がる一方、ベビーフェイス・サイドのインタビュアーやカラー・コメンテーターとしても活動。"Blackjack's Barbeque Pit" なるインタビューコーナーも持ち、ゲストのヒール達と舌戦を展開した。 WWF離脱後はフロリダに戻り、ユニバーサル・スタジオ内に拠点を置くIWF(インターナショナル・レスリング・フェデレーション)設立に参画。ブッカー兼務の団体エースとなる。ブレット・コルトとキップ・ウィンチェスターのロング・ライダーズ(後のスモーキン・ガンズ)もIWFでマリガンに育てられた。しかし1990年、同一行動を取っていた次男とドル紙幣偽造の嫌疑で逮捕され[37]、2年間の懲役刑を受け[38]、しばらく表舞台より消えることとなった。 2006年4月1日、ランザとのブラックジャックスでWWE殿堂に迎えられ、殿堂入りの式典で公の場へ久々に登場した[39]。2012年には長男のバリーもフォー・ホースメンのメンバーとして殿堂入りし、親子2代での顕彰を受けている[40]。 2016年4月7日、73歳で死去[41][42]。2015年6月に心臓発作を起こすなど[43]、健康に数年来の諸問題を抱えており、2016年2月より血栓の治療のため居住地フロリダの病院に入院していた[44][45]。 エピソード
得意技
獲得タイトル
マネージャー
脚注
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