ロッキー・ジョンソン
ロッキー・ジョンソン(Rocky Johnson、出生名:Wayde Douglas Bowles[2]、1944年8月24日 - 2020年1月15日)[3]は、カナダ・ノバスコシア州出身のプロレスラー。生年は1941年、出身地はアメリカ合衆国ニューヨーク州またはワシントンD.C.と紹介されることもあった[4]。 ソウルマン(Soulman)の異名を持つベビーフェイスの黒人スターとして、太平洋岸、南部、中西部、WWFなどアメリカ各地の主要テリトリーで活躍[3]。ばねのある身体から繰り出す華麗な空中殺法で人気を博し、ドロップキックの名手として知られた[4]。 義父(妻の父)はピーター・メイビア、息子はプロレスラーで俳優のドウェイン・ジョンソン。2008年にはWWE殿堂に迎えられた。 来歴1964年にデビュー後、トロントのメープル・リーフ・レスリング、カルガリーのスタンピード・レスリング、バンクーバーのオールスター・レスリングなどカナダ各地を転戦。バンクーバーでは1967年4月3日、ドン・レオ・ジョナサンと組んでクリス・トロス&ジョン・トロスを破り、NWAカナディアン・タッグ王座を獲得[5]、初戴冠を果たす[3]。1969年11月にはトロントのメープル・リーフ・ガーデンにて、ビッグ・サ カこと坂口征二とも対戦した[6]。 その後はアメリカ西海岸のロサンゼルスに進出して、1970年1月16日にグレート小鹿からNWAアメリカス・ヘビー級王座を奪取[7]。以降もフレッド・ブラッシーを相手にタイトルを争った[7]。同年9月、日本プロレスに初来日し、第1回NWAタッグ・リーグ戦にアーニー・ラッドとの強力黒人コンビで出場[8]。両者のサイズとファイトスタイルの相違点がBI砲と通じていたことから(ラッド=ジャイアント馬場、ジョンソン=アントニオ猪木)、「黒いBI砲」として優勝候補の筆頭と期待された[9]。チームワークに難があり、決勝進出は果たせなかったものの、得意のドロップキックを武器に、スピーディーでキレのいいファイトを披露して大会を盛り上げた[4][9]。 1971年からはサンフランシスコを主戦場に、義父となるピーター・メイビアやアール・メイナードとのタッグチームで活躍、パット・パターソン、スーパースター・ビリー・グラハム、ザ・ブルート、ラーズ・アンダーソンらと抗争した[10]。フェイスターン後のパターソンとはタッグも組み、サンフランシスコ版のNWA世界タッグ王座を再三獲得、1973年11月6日にはキンジ渋谷&マサ斎藤を破り、同王座への4回目の戴冠を果たした[11]。 1974年よりアメリカ南部に参戦、ジョージアでは同年12月6日、バディ・コルトからNWAジョージア・ヘビー級王座を奪取[12]。アブドーラ・ザ・ブッチャーとも同王座を賭けた黒人同士の抗争を展開した[13]。1975年はフロリダを主戦場に、7月31日にJ・J・ディロンからNWAフロリダTV王座を[14]、同月および12月23日にはボブ・ループとカーティス・イヤウケアからNWAフロリダ・ヘビー級王座をそれぞれ奪取している[15]。 同年からはセントルイスのキール・オーディトリアムの定期戦にも再三出場して、ジャック・ブリスコのNWA世界ヘビー級王座やハーリー・レイスのNWAミズーリ・ヘビー級王座に挑戦する一方、ディック・ザ・ブルーザーやウイルバー・スナイダーとタッグを組み、ニック・ボックウィンクル、ブラックジャック・ランザ、バロン・フォン・ラシク、オックス・ベーカー、バリアント・ブラザーズなど、AWAやWWAのヒールとも対戦した[16][17]。 1976年はテキサスの東部地区で活動、ダラスではホセ・ロザリオをパートナーに、3月3日にスタン・ハンセン&キラー・ブルックスからNWAテキサス・タッグ王座を奪取[18]。日本でアントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦が行われた6月25日(アメリカでの現地時間)には、ヒューストンでのクローズドサーキット興行にてテリー・ファンクのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している[19]。同年はテネシーのミッドアメリカ地区にも参戦し、11月1日にメンフィスにてジェリー・ローラーを破り、NWA南部ヘビー級王座を獲得した[20]。 1977年よりフロリダに戻り、同年4月にブルーノ・サンマルチノを破りフロリダに乗り込んできたスーパースター・ビリー・グラハムのWWWFヘビー級王座に、8月から9月にかけて連続挑戦[21]。9月19日にはペドロ・モラレスと組んでパット・パターソン&イワン・コロフからNWAフロリダ・タッグ王座を奪取[22]。1978年にかけてはKKKギミックのキラー・カール・コックスを相手に遺恨試合を繰り広げ[23]、テリー・ファンクからハーリー・レイスに移動したNWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦した[24]。 1980年1月、当時フロリダ地区との提携ルートを持っていた新日本プロレスに10年振りの再来日を果たす[25]。1月6日の東京・福生大会にてアントニオ猪木とのシングルマッチも実現したが[26]、バッドニュース・アレンと組んでの北米タッグ王座挑戦を目前に控えた試合(2月5日の愛知県体育館における、スタン・ハンセンと組んでの猪木&ストロング小林とのタッグマッチ)において、ハンセンのウエスタン・ラリアットの誤爆を受け負傷し、翌日のタイトル戦を欠場[25]。これが最後の来日となった。日本とも縁の深いアメリカのメジャーテリトリーで活躍したにもかかわらず、来日回数はわずか2回と少なかった[9](1976年8月に全日本プロレスへの参戦が予定されていたが、当時の主戦場だったダラス地区で絶大な人気を獲得していたため、同地でのスケジュールを優先して中止になっている[27])。 1980年下期からはジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区にて活動。スウィート・エボニー・ダイヤモンド(Sweet Ebony Diamond)なる覆面レスラーに一時的に変身して[28]、マスクド・スーパースターとマスクマン同士の抗争を展開[29]。一時的にフェイスターンしたスーパースターとはタッグを組み、リッキー・スティムボートやブラックジャック・マリガンとも共闘して、ジミー・スヌーカ、レイ・スティーブンス、ボビー・ダンカン、アイアン・シークなど、悪党マネージャーのジン・アンダーソン率いるヒール軍団と抗争、アメリカ再修行中の天龍源一郎やキム・ドクとも対戦した[30]。1981年4月29日にはトーナメントの決勝でグレッグ・バレンタインを破り、空位となっていたTV王座を獲得している[31]。 1982年は太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト・レスリングにて、アイスマン・キング・パーソンズをパートナーに、スタン・スタージャック、バディ・ローズ、マット・ボーン、デビッド・シュルツ、ディジー・ホーガンらと抗争。4月には同地区をサーキットしていたリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦[32]、7月15日にはリップ・オリバーからNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を奪取した[33]。 1983年よりニューヨークのWWFに参戦して、ドン・ムラコが保持していたインターコンチネンタル・ヘビー級王座に再三挑戦[34]。同年8月より、トニー・アトラスとの黒人タッグチーム「ソウル・パトロール(The Soul Patrol)」を結成、11月15日にワイルド・サモアンズ(アファ&シカ)からWWFタッグ王座を奪取している[35]。翌1984年に始まったWWFの全米侵攻サーキットにおいても、同王座を巡りディック・マードック&アドリアン・アドニスのノース・サウス・コネクションと抗争を展開した[36]。同年にはボボ・ブラジルとのタッグチームも実現、サモアンズ(アファ&サムラ)やミスター・フジ&タイガー・チャン・リーと対戦している[37]。WWFには王座陥落後も1985年上期までベテランのベビーフェイスとして出場し、ロディ・パイパー、ポール・オーンドーフ、カウボーイ・ボブ・オートン、ジェシー・ベンチュラ、ビッグ・ジョン・スタッド、ケン・パテラ、ニコライ・ボルコフ、アレックス・スミルノフ、アイアン・マイク・シャープ、ザ・スポイラー、ザ・ムーンドッグス(レックス&スポット)などのヒール勢と各地で対戦した[36]。 WWF離脱後は、義父ピーター・メイビアの未亡人リア・メイビアが再興したハワイのポリネシアン・パシフィック・レスリングにて主力レスラー兼ブッカーとして活動。1987年には、かつて主戦場の一つとしていたテネシーのCWAに登場し、4月6日にソウル・トレイン・ジョーンズと組んでビッグ・ババ&ゴライアスからAWA南部タッグ王座を奪取[38]。7月6日にはビル・ダンディーと組んでポール・ダイヤモンド&パット・タナカのバッド・カンパニーを破り、CWAインターナショナル・タッグ王座を獲得[39]。これが現役最後の戴冠となり、以降は1990年代初頭まで、プエルトリコのWWCや古巣フロリダのインディー団体にゲスト出場していた[40]。 引退後は2003年上期に、WWEのファーム団体OVWのトレーナーを務めていた[3]。2008年3月にはピーター・メイビアと共にWWE殿堂に迎えられている[3]。 得意技
獲得タイトル
脚注
外部リンク
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