パット・パターソン
パット・パターソン(Pat Patterson、本名:Pierre Clemont、1941年1月19日 - 2020年12月2日)は、アメリカ合衆国で活動したプロレスラー、ブッカー。カナダ・ケベック州モントリオール出身のフランス系カナダ人。 現役選手時代はNWA、AWA、WWFの各団体で主要タイトルを獲得し、引退後はWWEのクリエイティブ・コンサルタントを務めていた[2]。 来歴15歳の頃から地元モントリオールにてプロレス興行の裏方として働き始め、同地区で活躍していたキラー・コワルスキーに師事して1958年に17歳でデビュー。キャリア初期は "プリティ・ボーイ" パット・パターソン("Pretty Boy" Pat Patterson)のリングネームを名乗り、口紅を塗ってピンクのトランクスを穿き、ペットのプードルを連れてリングに登場するなどのギミックで活動した[3]。 1960年代からはアメリカ合衆国のNWA加盟団体を中心に活動。太平洋岸北西部では1964年から1966年にかけて、NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を通算3回獲得[4]。テキサス西部のアマリロでは1968年7月18日にサンダーボルト・パターソンからブラスナックル王座を奪取[5]。10月24日にはトーナメントの決勝でパット・オコーナーを下し、同地区認定のNWA北米ヘビー級王座を獲得している[6]。 カリフォルニア北部のサンフランシスコではレイ・スティーブンスとのブロンド・ボンバーズ(The Blond Bombers)で鳴らし、ヒールとベビーフェイスの両方のポジションで活躍。同地区のトップスターとなり、フラッグシップ・タイトルであるUSヘビー級王座には1969年から1977年にかけて、ペドロ・モラレス、ロッキー・ジョンソン、グレート・メフィスト、ムーンドッグ・ロニー・メイン、ザ・ブルート、アンジェロ・モスカ、アレックス・スミルノフらを破り、通算6回に渡って戴冠した[7]。 1977年よりサンフランシスコを離れ、フロリダ(エディ・グラハム主宰のCWF)やAWAなど各地の主要テリトリーをヒールのポジションで転戦。フロリダでは同年5月20日にマイク・グラハムからNWAフロリダTV王座を、6月20日にはイワン・コロフと組んでジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコからNWAフロリダ・タッグ王座をそれぞれ奪取している[8][9]。 AWAではスティーブンスとのコンビを再結成して、1978年9月23日にAWA世界タッグ王座を獲得[10]。以降、マイティ・イゴール&ルーファス・ジョーンズ、ポール・エラリング&スティーブ・オルソノスキー、バーン・ガニア&ビル・ロビンソン、前王者チームのハイ・フライヤーズ(グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼル)などを相手に防衛を続け[11][12]、1979年6月6日にバーン・ガニア&マッドドッグ・バションに敗れるまで戴冠した[10]。 AWA世界タッグ王座陥落後、グラン・ウィザードをマネージャーに迎えてWWFに登場[2]。1979年6月19日にテッド・デビアスから北米ヘビー級王座を奪取する[13]。その後、ブラジルのリオデジャネイロで行われたという架空のトーナメントに優勝したと称して、同王座を北米と南米との大陸間のインターコンチネンタル・ヘビー級王座と改称[14]。この王座こそが団体の最高位のタイトルであるとアピールし、WWF王者ボブ・バックランドと「王者対王者」の抗争を展開、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでの定期戦において、7月から9月にかけてバックランドのWWFヘビー級王座に3か月連続で挑戦した[15]。 1980年初頭より、ウィザードとの仲間割れを機にベビーフェイスに転向、以降はWWFの主力選手として、ケン・パテラ、ボビー・ダンカン、サージェント・スローターらと抗争を展開、フランス出身のアンドレ・ザ・ジャイアントともタッグを組んだ[16][17]。1980年8月9日にシェイ・スタジアムにて開催された "Showdown at Shea" ではトーア・カマタから反則勝ちを収めている[18]。同年10月20日のMSG定期戦ではダスティ・ローデスと組み、ワイルド・サモアンズ(アファ・アノアイ&シカ・アノアイ)が保持していたWWFタッグ王座に3本勝負で挑戦。1本目を先取していたが、23時以降の夜間の興行を禁止するニューヨーク州の条例により時間切れで試合終了となり、スコアの上では1-0で勝利を収めたものの、タイトルは移動しなかった[19]。 WWFでの活動と並行して、古巣のサンフランシスコでは1981年1月24日にハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦[20]。同年7月30日と8月20日にはオークランドにてニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に連続挑戦した[21][22]。地元モントリオールの団体(ジノ・ブリットやディノ・ブラボーが参画していたインターナショナル・レスリング)にも出場し、AWAでの旧敵バションやリック・マーテルなどと対戦していたが[23]、WWFが全米侵攻を開始した1984年に現役を引退した[2]。 引退後はWWFのロード・エージェントに就任、ブッカーとして試合の構成やストーリー立案を手掛け[24]、1988年から現在まで開催されているロイヤルランブルも彼が考案した[1][25]。1996年にはWWF殿堂に迎えられている[3]。WCWとのマンデー・ナイト・ウォーズにおいては、当時のWWFのアティテュード路線における主要なプロデューサーの一人となり[26]、悪のオーナーを演じていたミスター・マクマホンの側近として時折ストーリーにも絡んだ[24]。2000年6月19日にはハードコア王座にも戴冠している[27]。 2003年のRAW10周年記念特番では、ミーン・ジーン・オーカーランドと共に『放送に問題あり賞』のプレゼンターを務めた(受賞したのは、自身も関わったマーク・ヘンリーとメイ・ヤングのラブストーリーであった)。 2004年にトリプルHの起用法を巡りビンス・マクマホンと対立、同年10月にWWEを退団したが、翌2005年5月に復職している[3]。 日本での活躍1968年4月、日本プロレスに初来日。師匠格のコワルスキー、ジェス・オルテガ、フレッド・ブラッシー、ターザン・タイラー、ドン・デヌーチ、アンジェロ・ポッフォらと共に『第10回ワールド・リーグ戦』に出場。対日本陣営ではジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎、吉村道明には敗退したものの、山本小鉄、星野勘太郎、ミツ・ヒライ、デューク・ケオムカからは勝利を収めた[28]。5月7日の熊本大会ではオルテガのパートナーに起用され、大木&吉村が保持していたアジアタッグ王座に挑戦している[28]。 1973年12月にはジョニー・パワーズとのコンビで北米タッグ王者として新日本プロレスに来日。12月7日に大阪府立体育館において、猪木&坂口征二を相手に防衛戦を行った[29]。以降も新日本プロレスに度々参戦し、1976年の再来日時には、12月8日に横浜文化体育館にてラリー・ヘニングと組み、坂口&ストロング小林の北米タッグ王座に挑戦[30]。1977年の3度目の参戦時には、12月1日に大阪府立体育館にて猪木のNWFヘビー級王座に挑み、12月8日には蔵前国技館にてスティーブ・ライトをパートナーに、坂口&小林の北米タッグ王座に再挑戦した[31]。 WWF定着後は、1979年11月に北米ヘビー級王者として来日し、11月8日に小樽市総合体育館にて坂口の挑戦を受けたが敗退[32]、タイトルを明け渡した(後述)。1981年11月には『第2回MSGタッグ・リーグ戦』にバッドニュース・アレンと組んで参戦、優勝候補チームのスタン・ハンセン&ディック・マードックと引き分けるなどの戦績を残したが、リーグ戦を消化することなく途中帰国している[33]。これが選手としての最後の来日となった。 その後は2002年3月1日、WWF初の単独日本興行『スマックダウン・ツアー・ジャパン』にロード・エージェントとして同行、20年ぶりの来日を果たした。 得意技獲得タイトル
追記
脚注
関連項目外部リンク
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