プロフェッサー・タナカ
プロフェッサー・タナカ(Professor Tanaka、本名:Charles Kalani, Jr.、1930年1月6日 - 2000年8月22日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ハワイ州ホノルル出身。現役引退後は、アクション映画の悪役俳優に転じた。 グレート東郷、ハロルド坂田、キンジ渋谷などのステレオタイプな日系悪役レスラーのスタイルを踏襲し、「東洋の悪魔」としてアメリカマット界で活躍したが、出自は不明な点が多い。トール・タナカ(Toru Tanaka)あるいはタロー・タナカ(Taro Tanaka)を名乗り、広島県出身の両親を持つ日系人を自称していたが、ギミックの可能性が高く、実際はハワイ生まれのフィリピン系とされている[2]。その他、ミンダナオ島出身説やタイの山岳民族であるとの説もあった[2]。 来歴「金剛山」を名乗ったハワイの日系レスラーと同一人物という説もあったが真偽は不明[2]。少年期から柔道や空手などの格闘技を身につけ[2]、柔術のブラックベルトも取得[3]。アメリカンフットボールでも活動し、1955年にアメリカ陸軍に入隊[3]。除隊後の1958年、チャーリー・カラニ(Charlie Kalani)の名義で地元のハワイにてデビュー[1]。1960年代に入りアメリカ合衆国本土のサンフランシスコ地区に進出、1964年にはザ・シーク、ベアキャット・ライト、マーク・ルーイン、ホセ・ロザリオらと対戦した[4]。 その後、プロフェッサー・トール・タナカ(Prof. Toru Tanaka)をリングネームに、1966年にオーストラリア(ジム・バーネットが主宰していたワールド・チャンピオンシップ・レスリング)に遠征。6月3日にシドニーにて、ドミニク・デヌーチから豪州版のIWA世界ヘビー級王座を奪取[5]。以降、1968年9月2日にもマリオ・ミラノを破り同王座を獲得[5]、11月にはスカル・マーフィーとのコンビでIWA世界タッグ王座にも戴冠している[6]。同年12月、フィリピン遠征の途中に一度来日し、日本プロレスを表敬訪問したが試合は行わなかった[2]。 その間、アメリカでは1967年よりWWWFに参戦。ブルーノ・サンマルチノと抗争を繰り広げ、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンをはじめ東部各地でサンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦した[7][8]。以降もWWWFを主戦場に、ボボ・ブラジル、エドワード・カーペンティア、スパイロス・アリオン、ビクター・リベラなどの人気選手と対戦[9][10]。塩を相手の目にすり込む反則攻撃で観客の憎悪を煽るなど、卑怯者の日系人ヒールとしてブレイクを果たした。1969年には純正の日系アメリカ人であるミツ荒川とライジング・サンズ(Rising Suns)なるタッグチームを結成、6月にWWWFインターナショナル・タッグ王座の初代王者チームに認定されている[11]。 1970年下期からはNWAのテキサス州ダラス地区で活動、12月18日にフリッツ・フォン・エリックからNWAアメリカン・ヘビー級王座を奪取[12]。戴冠中の1971年1月5日と翌6日にはドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦している[13]。以降もダラスではエリックやジョニー・バレンタイン、ワフー・マクダニエル、ミル・マスカラスなどの強豪を相手にアメリカン王座を争った[14][15]。 1972年よりWWWFに復帰し、ミスター・フジと新コンビを結成。6月27日にフィラデルフィアでチーフ・ジェイ・ストロンボー&ソニー・キングを破り、WWWF世界タッグ王座を獲得する[16]。以降は長期政権を築き、10月16日にはサンマルチノ&ペドロ・モラレスの新旧WWWF王者コンビとも対戦[3]。翌1973年5月30日にトニー・ガレア&ヘイスタック・カルホーンに奪取されるも9月11日に奪還、11月14日にガレア&ディーン・ホーに敗れるまで戴冠した[16]。シングルでも、モラレスが保持していたWWWFヘビー級王座に再三挑戦している[17]。 1974年1月には全日本プロレスの『新春NWAシリーズ』に来日[18]。初の日本マット登場を果たし、1月29日の郡山大会ではジャイアント馬場のPWFヘビー級王座に挑戦している[19]。1975年にはフジと共にジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに参戦、9月19日に行われたトーナメントの決勝で、因縁のガレア&ホーを下してNWAジョージア・タッグ王座を獲得[20]。シングルでは、3月18日にダニー・リトルベアを破って空位となっていたNWAメイコン・ヘビー級王座の新王者となり[21]、8月にはアブドーラ・ザ・ブッチャーからNWAジョージア・ヘビー級王座を奪取している[22]。1977年2月12日には太平洋岸のロサンゼルス地区において、チャボ・ゲレロを破りNWAアメリカス・ヘビー級王座を獲得するなど各地で活躍した[23]。 その後はフジとのコンビでWWWFに戻り、1977年9月27日にストロンボー&ビリー・ホワイト・ウルフからWWWF世界タッグ王座を奪取、通算3回目の戴冠を果たした[16]。1978年3月14日にデヌーチ&ディノ・ブラボーに敗れてタイトルを明け渡したが、翌週3月20日のマディソン・スクエア・ガーデンにおける定期戦ではフジ&ケン・パテラと組み、マスカラス、アンドレ・ザ・ジャイアント、ダスティ・ローデスの豪華トリオと6人タッグマッチで対戦している[24]。 WWWF離脱後はニュージーランドに遠征して、1978年6月13日と7月20日にNWAブリティッシュ・エンパイア・ヘビー級王座を獲得[25]。同年11月には国際プロレスが主催した『日本リーグ争覇戦』に来日[26]。予選リーグでは同ブロックのグレート草津やマイティ井上を下しトップの戦績で決勝トーナメントに進出、1回戦でミスター・サクラダ、2回戦でジャンボ鶴田から反則勝ちを収め、11月30日に千葉公園体育館にてラッシャー木村と優勝戦を争った[27]。 1979年はテネシー州メンフィスのCWAにて、2月にロバート・フラーを破ってAWA南部ヘビー級王座を獲得[28]、同じアジア系ギミックのモンゴリアン・ストンパーとも防衛戦を行った[29]。フジとのコンビでも、5月14日にフラー&ビル・ダンディーからAWA南部タッグ王座を奪取したが、翌月にダンディー&ジェリー・ローラーに奪回されている[30]。 フジとのタッグチームを解消後、1979年下期から1980年にかけては古巣のダラス地区で活動、ブルーザー・ブロディを相手にラフファイターの称号であるブラスナックル王座を争った[31]。ダラスでは国際プロレスでも共闘したサクラダ&ミスター・ヒトとのトリオで、ケビン、デビッド、ケリーのフォン・エリック兄弟とも抗争している[32]。並行してジョージア地区にも出場し、キラー・カーンとタッグを結成[33]。1980年1月27日にはアトランタのオムニ・コロシアムにてボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦している[33]。 1981年にセミリタイアして俳優に転じ、アクション系作品の悪役として映画やテレビで活躍[3]。その後もWWFの西海岸エリアでの興行に時折出場し、1984年11月には旧敵マスカラスとの連戦が組まれた[34]。 2000年8月22日、カリフォルニア州レイクフォレストにて心不全のため死去[3]。70歳没。2019年、WWE殿堂のレガシー部門に迎えられた[35]。 得意技獲得タイトル
俳優活動1980年頃から俳優として様々な映画に日本人役・東洋人役で出演している[41]。
脚注
外部リンク
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