ディノ・ブラボー
ディノ・ブラボー(Dino Bravo、本名:Adolfo Bresciano、1948年8月6日 - 1993年3月11日[1])は、イタリア・モリーゼ州カンポバッソ出身のプロレスラー。 移住先のカナダやWWFを主戦場に、怪力自慢のパワーファイターとして活躍した[2]。なお、彼以前にも "Dino Bravo" と名乗るイタリア人プロレスラーが1960年代に活動しており(本名:Pepe DiPasquali)、このリングネームにおいては2代目となる[3]。 来歴幼少時に家族と共にカナダ・ケベック州のモントリオールに移住[4]。学生時代にレスリングとボディビルで体を鍛え、1970年にデビュー[4]。モントリオールを中心に正統派のパワーファイターとしてキャリアを積み、マッドドッグ・バションが主宰していたグランプリ・レスリングでは、1972年11月20日にジノ・ブリットと組んでキラー・コワルスキー&ジル・ポワソンからGPWタッグ王座を奪取[5]。アメリカ本土では1974年よりロサンゼルスのNWAハリウッド・レスリングで活動、エドワード・カーペンティアやビクター・リベラのパートナーとなり、ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツのハリウッド・ブロンズと抗争した[6][7]。 1976年より、ジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に参戦。ミスター・レスリングことティム・ウッズとタッグを組み、5月5日にジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンのミネソタ・レッキング・クルーから同地区認定のNWA世界タッグ王座を奪取した[8]。ウッズとのコンビでは、同年11月3日のトーナメント決勝でミシェル・デュボア&レネ・グレイを下し、空位となっていたミッドアトランティック・タッグ王座も獲得している[9]。シングルでは1977年5月から6月にかけて、ハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦[10]。持ち前の怪力を活かして、ブラックジャック・マリガンやマスクド・スーパースターなど大型のヒールとも抗争を展開した[11]。 並行してニューヨークのWWWFにも進出し、ドミニク・デヌーチとイタリア人同士のタッグチームを結成。1978年3月14日にプロフェッサー・タナカ&ミスター・フジからWWWF世界タッグ王座を奪取している[12]。同年12月17日にはカナダのトロントでジン・キニスキーを破りNWAカナディアン・ヘビー級王座の初代チャンピオンとなり[13]、カナダの伝説的レスラー、ホイッパー・ビリー・ワトソンよりベルトを授与された。1980年からはAWAをサーキットして、ニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に再三挑戦している[14]。 1981年10月、新日本プロレスの『闘魂シリーズ』に初来日[4]。開幕戦における長州力と組んでのスタン・ハンセン&ハルク・ホーガンとのタッグマッチ、そして最終戦でのアブドーラ・ザ・ブッチャーとのシングルマッチでは、共に相手がヒールの外国人選手だったこともあって、ベビーフェイスとしての持ち味をフルに発揮した好ファイトを展開。ホーガンやブッチャーの巨体を抱え上げアトミック・ドロップを放つなどの怪力ぶりも喝采を浴び、将来の外国人エース候補と期待された。しかし、再来日となる翌1982年11月の『第3回MSGタッグ・リーグ戦』ではヒールのアドリアン・アドニスと組まされたため、本領を発揮することができなかった[15]。1983年5月には北米代表としてIWGPリーグ戦の第1回大会に来日したが、家族の不幸のため試合を行うことなく緊急帰国している。 その間、本国ではモントリオール地区のインターナショナル・レスリング(Lutte Internationale)を主戦場に、プロモーター兼任のエース選手として活動[3]。フラッグシップ・タイトルのカナディアン・インターナショナル・ヘビー級王座をビル・ロビンソン、リック・マーテル、アレックス・スミルノフ、セーラー・ホワイト、キング・トンガらと争い、1985年まで計6回に渡って同王座を獲得した[16]。1985年にはモントリオール地区への進出を図っていたWWFより、WWFカナディアン・チャンピオンに認定される[3]。1986年、WWFのプロモートによりモントリオールでのハルク・ホーガンとのシングルマッチが予定されていたが、同地におけるブラボーの人気にホーガンがヒール扱いされてしまうことを危惧したWWF側の判断で、直前にマッチメイクが変更されるという事態も起こった[3]。 1987年、WWFと再契約。ブルータス・ビーフケーキと仲間割れしたグレッグ・バレンタインの新パートナーとなり、イタリア人でありながら髪をブロンドに染め、フレンチ・カナディアンとしてのアイデンティティを強調したヒールに変身する。1988年にはカナディアン・ストロンゲスト・マンを名乗り、フレンチ・マーチンをマネージャーにジム・ドゥガンとアメリカ対カナダの抗争を開始[17]。1989年からはジミー・ハートを新マネージャーに迎え、アースクエイクとのカナディアン・コンビでハルク・ホーガンやアルティメット・ウォリアー、ビッグ・ボスマン、タグボートらと抗争した[18]。 1992年にWWFを離れて引退。その後は若手レスラーの指導にも携わっていたが、1993年3月11日、違法タバコの密輸に絡むトラブルのため、モントリオールの自宅で犯罪組織に射殺された[1][2][3][4]。44歳没[1]。 得意技
獲得タイトル
脚注
外部リンク
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