ミネソタ・レッキング・クルー
ミネソタ・レッキング・クルー(The Minnesota Wrecking Crew)は、プロレスラーのタッグチーム。メンバーを入れ替えながら、1960年代から1980年代にかけて、ヒールのポジションで長く活躍した[1]。 実際には血縁関係はないものの、4人のメンバーは全員兄弟であるという設定でミネソタ州出身のアンダーソン姓を名乗り、アンダーソン・ファミリー(The Anderson Family)とも呼ばれた。グラハム兄弟(ジェリー、エディ、ルーク、ビリー)やバリアント兄弟(ジミー、ジョニー、ジェリー)などと並んでギミック上のレスリング・ブラザーズの典型的な見本である[2]。 なお、レッキング・クルーとは「解体屋」などの意味を持つが、日本では直訳して「ミネソタの難破船」の異名で呼ばれていた[3]。 概要初代は「長男」ジン・アンダーソンと「次男」ラーズ・アンダーソンのコンビで1966年に結成され、NWAの南部テリトリーを中心に活動した[1]。1960年代末からは、AWAでデビューしたアラン "ザ・ロック" ロゴウスキーが「三男」オレイ・アンダーソンとして加入。その後ラーズが脱退し、ジンとオレイが2代目タッグを結成する。 以後、ジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区やジム・バーネット主宰のNWAジョージア地区を主戦場に活躍。ミッドアトランティックでは1970年代前半、ネルソン・ロイヤル&ポール・ジョーンズの牧童コンビやリップ・ホーク&スウェード・ハンセンのブロンド・ボンバーズとタッグ屋同士の抗争を展開。1975年から1981年にかけては、ワフー・マクダニエル&ルーファス・ジョーンズ、ミスター・レスリング&ディノ・ブラボー、リック・フレアー&グレッグ・バレンタイン、ダスティ・ローデス&ディック・スレーター、ポール・ジョーンズ&マスクド・スーパースターなどの強豪チームを破り、同地区認定のNWA世界タッグ王座を再三獲得した[4]。 ラーズも時折再加入し、ジョージアではラーズとオレイのコンビで1978年2月27日にミスター・レスリング2号&トニー・アトラス、同年4月28日にサンダーボルト・パターソン&トミー・リッチ、1980年6月8日にイワン・コロフ&アレックス・スミルノフからジョージア・タッグ王座を奪取している[5]。その後、両者は仲間割れを起こしラーズがベビーフェイスに転向、会場の照明を落として試合を行うライツ・アウト・マッチやボクシング・マッチなどのデスマッチ形式で分裂抗争を繰り広げた[6]。 1980年代に入ると、ジンが現役を退きミッドアトランティック地区でマネージャーに転身。オレイはシングルプレイヤーとなり、ジョージア地区のブッカー兼選手として活動。そして1985年、オレイが自分と風貌のよく似た新人選手を「四男」アーン・アンダーソンに改名させ、3代目のコンビを結成。このコンビは後にミッドアトランティック地区でフォー・ホースメンにも参加し、一時代を築く。一度解散するも再結成され、オレイの引退によってチームとしてはその歴史を終えた。 2010年にはジン、ラーズ、オレイの3者でNWA殿堂に迎えられた[7]。「アンダーソン」の名はプロレス史に深く刻まれ、その名を名乗るプロレスラーは必然的に彼らとの関連性を連想されてしまう。WWEで活躍したケン・ケネディも、そのためにリングネームを変更した一人である。 日本にはジンとオレイのコンビで1970年1月に日本プロレスへ参戦、1月11日に岡山県体育館にてアントニオ猪木&吉村道明のアジアタッグ王座に挑戦した[8]。1973年10月には国際プロレスにも参戦しており、11月4日に鹿島郡神栖町にてラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦した他、マイティ井上&アニマル浜口と金網タッグ・デスマッチを2回行っている[9]。 なお、ミネアポリス育ちのリック・フレアーは1976年の一時期[10]、ミッドアトランティック地区でジン&オレイの「従兄弟」という役どころでメンバーに加わり、6人タッグマッチなどに出場していたことがある[11]。 影響下のタッグチーム彼らのユニット名は後年、主にミネソタ出身の選手によるタッグチームに継承されている。
獲得タイトル
脚注
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