ラリー・ズビスコ
ラリー・ズビスコ("The Cruncher" Larry Zbyszko、本名:Lawrence Whistler、1953年12月5日[1]- )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。イリノイ州シカゴ出身のポーランド系アメリカ人。生年は1951年ともされる[2]。 ベビーフェイスとして活動後、WWFにて師匠のブルーノ・サンマルチノを裏切ったというアングルのもとヒールに転向[3]。以降、1980年代から2000年代にかけて、NWA、AWA、WCW、TNAなど各団体で活躍した[4]。息子のティム・ズビスコもプロレスラーであり、インディー団体で活動している[5]。 来歴WWWF - WWFハイスクールからペンシルベニア州立大学を通してレスリングで活動後、ブルーノ・サンマルチノとニュートン・タットリーのトレーニングを受け、彼らがプロモートしていたペンシルベニア州ピッツバーグでの興行において1972年9月1日にデビュー[6]。ポーランド系の出自ということもあり、リングネームは戦前に活躍したポーランドの伝説的レスラー、スタニスラウス・ズビスコにあやかって付けられた[7]。 ピッツバーグや太平洋岸北西部での活動を経て、1974年よりWWWFへ本格的に参戦[2]。「ニューヨークの帝王」サンマルチノの愛弟子として、ベビーフェイス陣営の重鎮だったゴリラ・モンスーンやヘイスタック・カルホーンのパートナーにも起用され、バリアント・ブラザーズ、キラー・コワルスキー、ボビー・ダンカン、ニコライ・ボルコフなどと対戦してキャリアを積む[8]。同年はプロレスリング・イラストレーテッド誌の新人賞を受賞[4]。翌1975年9月にはサンマルチノの斡旋で全日本プロレスに初来日している[9]。 ジョージア、フロリダ、ノース&サウスカロライナ、ロサンゼルスなどNWAの各テリトリーも転戦しつつ、1977年よりWWWFに定着[2]。1978年11月21日にはトニー・ガレアと組んでピエール&エリックのユーコン・ランバージャックスからWWWF世界タッグ王座を奪取、翌1979年3月6日にジョニー&ジェリー・バリアントに破れるまで戴冠した[10]。 その間、ビンス・マクマホン・シニアのブッキングで1978年6月に新日本プロレスに来日[9]。新日本には1979年4月の第2回MSGシリーズにも参加し、予選で星野勘太郎に2勝して決勝リーグに進出。アントニオ猪木や藤波辰巳、アンドレ・ザ・ジャイアントやスタン・ハンセンとも公式戦で対戦したが、パートナーのガレアから1勝を挙げたのみの戦績で終わった[11]。 WWWFがWWFに改称してからも、若手のベビーフェイスとして新王者ボブ・バックランドやサンマルチノのパートナーを務めたが、1980年1月22日に行われたサンマルチノとのエキシビション・マッチでヒールに転向[12]。恩師を裏切った男として観客の大ブーイングを浴びる。以降、かつての師匠との遺恨試合を東部一帯で繰り広げ、同年8月9日にはシェイ・スタジアムに3万6295人の大観衆を集めた "Showdown at Shea" のメインイベントでスチール・ケージ・マッチを行った[12][13]。 NWA - AWA1981年にWWFを離れてからは、ブルーノ・サンマルチノが参画していた北東部のインディー団体IWFに出場[14]。その後はジム・バーネットの主宰するNWAジョージア地区を主戦場に、ポール・オーンドーフやトミー・リッチ、サンマルチノの息子デビッド・サンマルチノらと抗争した[15]。1983年3月にはキラー・ブルックスから2万5000ドルでNWAナショナル・ヘビー級王座を買い取るというアングルを展開[4]、タイトルは4月30日に剥奪されるが、6月5日にトーナメント決勝でミスター・レスリング2号を破り奪還に成功している[16]。この間、1981年7月と1982年10月に、サンマルチノの仲介で全日本プロレスに再来日した[17]。 1984年からはAWAに参戦。持ち前のマイクパフォーマンスの才能を活かし、同時期にWWFで悪党人気を博していたロディ・パイパーを意識したようなヒールとして活動するが、二番煎じの感は否めなかった(パイパーが1986年4月7日のレッスルマニア2でミスター・Tとボクシング・マッチを行ったように、ズビスコも同年4月20日にAWAが開催した "Wrestle Rock" なるイベントで元プロボクサーのスコット・レドゥーとボクシング・マッチを行っている)[18]。同年下期からはマサ斎藤や剛竜馬、アメリカ修行中の高野俊二(スーパー・ニンジャ)ら日本人ヒールと結託し、ニック・ボックウィンクルやジミー・スヌーカ、マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズのミッドナイト・ロッカーズなどと抗争した[19]。 1987年からはジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区に転出するが、1989年よりAWAに復帰。同年2月7日、ミネソタ州セントポールで行われたバトルロイヤルで優勝し、第36代のAWA世界ヘビー級チャンピオンとなる[20][21][22]。以後、ケン・パテラ、サージェント・スローター、ワフー・マクダニエル、グレッグ・ガニア、バロン・フォン・ラシク、そして因縁のデビッド・サンマルチノらを相手に防衛戦を行った[23]。1990年2月10日、新日本プロレスの東京ドーム大会でマサ斎藤に敗れ王座を失うが、4月8日にセントポールにて奪回に成功[9][21]。しかし、活動停止寸前のAWAに見切りをつけ、同年12月にWCWに移籍。タイトルは剥奪されるが、翌年にAWAが崩壊したため、結果として彼が「最後のAWA世界王者」ということになった[3][21]。 WCWWCW移籍初期はアーン・アンダーソンとのタッグチーム「ジ・エンフォーサーズ(The Enforcers)」で活動し、1991年9月5日、空位となっていたWCW世界タッグ王座を獲得[24]。マイケル・ヘイズ&ジミー・ガービンのファビュラス・フリーバーズやスタイナー・ブラザーズなどを相手に防衛戦を行ったが[25]、11月19日にリッキー・スティムボート&ダスティン・ローデスに奪取された[24]。その後はポール・E・デンジャラスリー率いるヒール軍団デンジャラス・アライアンスに加入し、リック・ルード、ボビー・イートン、"スタニング" スティーブ・オースチン、メデューサらと共闘。スティムボート、スティング、バリー・ウインダム、ロン・シモンズらベビーフェイス勢と抗争を展開した[26]。 1994年にフェイスターンを行い、5月2日にロード・スティーブン・リーガルを破ってWCW世界TV王座を獲得[27]。これがメジャー団体における最後のタイトル戴冠となった。セミリタイア後の1995年からはカラー・コメンテーターに転じていたが、1990年代後半にnWoが登場するとエリック・ビショフとの抗争アングルが組まれ、一時的にリングに復帰。1997年12月27日のPPVイベント『スターケード』において両者は対戦している[28]。続く1998年1月24日の『ソールド・アウト』ではスコット・ホールと対戦したが[29]、ズビスコ、ビショフ、ホールはAWA末期からの因縁深い間柄でもあった[4]。 TNA - 近年2001年のWCW崩壊後はダスティ・ローデスのTCWなどインディー団体への参加を経て、2003年よりTNAに登場。当初はベビーフェイスの立場だったが、2005年にジェフ・ジャレットと結託してヒールに転向。タイトルマッチ管理委員会のエグゼクティブ・プロデューサーとしてレイヴェンと抗争し、2006年7月16日開催の "TNA Victory Road" では髪切りマッチに敗れて丸坊主にされた[30]。 2006年11月にTNAを離脱してからは、AWAスーパースターズ・オブ・レスリングなど各地のインディー団体に参加。2008年2月5日には、田中将斗の王座剥奪で空位になっていたAWAスーパースターズ世界ヘビー級王者に認定された[31]。2009年からは、フロリダ州ラルゴのFIPにてエグゼクティブ・ディレクターを担当。2010年3月にはカナダ・マニトバ州ウィニペグのWFXに登場し、ジェシー・ゴダーズと組んでブッシュワッカー・ルーク&ユージン・ディンズモアと対戦した。 WWFを離れて以来、師匠ブルーノ・サンマルチノのキャッチフレーズ「リヴィング・レジェンド(Living Legend)」を自らのニックネームに冠している。彼はサンマルチノがビンス・マクマホンと決別する以前の1980年代初頭からWWEとは絶縁状態となり、一貫して反WWE(反ビンス・マクマホン)の姿勢を取り続けていたが、2013年にサンマルチノがWWE殿堂に迎えられた際には式典に姿を見せ、NXTにも出演。2015年にはズビスコ自身も殿堂入りを果たし、式典ではブルーノ・サンマルチノがインダクターを務めた[32]。 得意技
獲得タイトル
脚注
外部リンク |