ボビー・イートン
"ビューティフル" ボビー・イートン("Beautiful" Bobby Eaton、本名:Robert Lee Eaton、1958年8月14日 - 2021年8月4日[1])は、アメリカ合衆国のプロレスラー。アラバマ州ハンツビル出身。 1980年代に活躍した悪役タッグチーム、ミッドナイト・エクスプレス(The Midnight Express)での活動で知られる[2]。 来歴初期![]() 1976年、日系アメリカ人レスラーのトージョー・ヤマモトのトレーニングを受け、地元のアラバマとテネシーをサーキット・エリアとしていたニック・グラス主宰のNWAミッドアメリカ地区にてデビュー[3]。ベビーフェイスの新鋭としてキャリアを積み、1979年2月にはランディ・サベージからミッドアメリカ・ヘビー級王座を奪取[4]。同月はメキシカン・エンジェル(フランシスコ・フローレス)とのコンビでマイケル・ヘイズ&テリー・ゴディのファビュラス・フリーバーズを破り、ミッドアメリカ・タッグ王座にも戴冠している[5]。なお、同年9月と翌1980年4月には同じくテネシーを主戦場としていたジプシー・ジョーの仲介で国際プロレスへの来日が予定されていたが、急遽中止になっている[6]。 1980年下期からはジェリー・ジャレットとジェリー・ローラーが興したCWA(翌年にグラスのプロモーションを吸収)に主戦場を移し、10月にオースチン・アイドルからの不戦勝でCWA世界ヘビー級王座を獲得。以降はビル・ロビンソンと同王座を争った[7]。 CWAではヒールのポジションに回り、ダッチ・マンテル、スウィート・ブラウン・シュガー、ビル・ダンディー、ジャック・ルージョー・ジュニアらを相手に、グラス派から管理権が移行したミッドアメリカ・ヘビー級王座を争った(同王座は1983年にかけて、通算12回獲得)[4]。また、1981年の初頭はジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングにも出場し、1月22日にスティーブ・オルソノスキーからNWAナショナルTV王座を奪取している[8]。 ミッドナイト・エクスプレス1984年、デニス・コンドリーやマネージャーのジム・コルネットと共に、団体間のトレードによってビル・ワットのMSWAに移籍[9]。コンドリーが1981年にランディ・ローズやノーベル・オースチンと結成していたミッドナイト・エクスプレス(The Midnight Express)を再編し[2]、同じくCWAから移籍してきたリッキー・モートン&ロバート・ギブソンのロックンロール・エクスプレスと抗争を繰り広げた。 その後はテキサス州ダラスのWCCWを経て、1985年よりジム・クロケット・プロモーションズと契約し、ジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区に参戦。ロックンロール・エクスプレスとのドル箱カードを同地区でも再現し、ロード・ウォリアーズとも抗争を開始するなど、1980年代を代表するタッグチームの一員として名を馳せた[9]。 1987年にコンドリーがNWAを離脱するとスタン・レーンを新しいパートナーに起用。1988年9月10日にはレーンとの新コンビでフォー・ホースメンのタリー・ブランチャード&アーン・アンダーソンを破り、ミッドアトランティック版のNWA世界タッグ王座を獲得している[10]。一方、コンドリーはAWAにおいてポール・E・デンジャラスリーをマネージャーに、初代メンバーのランディ・ローズとオリジナル版のミッドナイト・エクスプレスを再結成していた。1988年末に彼らがNWAに移籍してくると、イートン&レーンはベビーフェイスのポジションに回り、コンドリー&ローズとの骨肉の争いを展開[2]。この遺恨試合は、コルネットとデンジャラスリーのマネージャー間の抗争にまで発展した。 同時期、テッド・ターナーのクロケット・プロ買収によりNWAは新会社WCWへの移行期にあったが、ジム・ハード副社長との対立でコルネットとレーンは1990年11月にWCWを退団。ミッドナイト・エクスプレスも終焉を迎えることとなった[2]。 WCW![]() ミッドナイト・エクスプレス解散後、1991年5月19日にアーン・アンダーソンからWCW世界TV王座を奪取[11]。久々にシングルタイトルを獲得したが、後にヒールに戻り、ポール・E・デンジャラスリー率いるデンジャラス・アライアンス(The Dangerous Alliance)に加入。ラリー・ズビスコ、リック・ルード、"スタニング" スティーブ・オースチンらと共闘する[12]。1992年1月16日にはアーン・アンダーソンと組んでリッキー・スティムボート&ダスティン・ローデスからWCW世界タッグ王座を奪取した[13]。 1992年下期、当時の新副社長ビル・ワットによってWCWを解雇され、コルネットが旗揚げしたスモーキー・マウンテン・レスリングに参戦していたが、ワットの失脚に伴い翌1993年よりWCWに復帰。同年5月、WCWとの提携ルートで新日本プロレスへの初来日が実現[14] 。シリーズ最終戦の6月14日に大阪府立体育会館にて、トニー・ホームと組んでヘルレイザーズ(ホーク&パワー・ウォリアー)のIWGPタッグ王座に挑戦した[15]。 その後はスタン・レーンのファビュラス・ワンズ時代の相棒だったスティーブ・カーンとバッド・アティテュード(Bad Attitude)なるタッグチームを組み、スティング&リッキー・スティムボートなどのチームとも対戦したが、成功には至らなかった[16]。 1995年、ロード・スティーブン・リーガルに紳士となるための英才教育を受けたという設定のもと、アメリカ南部出身でありながら英国貴族ギミックのキャラクターに変身。リングネームも格調高く "アール" ロバート・イートン("Earl" Robert Eaton)と改め、リーガルのパートナーとなって新チームのブルー・ブラッズ(The Blue Bloods)を結成する[17]。再びタイトル戦線に浮上し、ハーレム・ヒートやナスティ・ボーイズとWCW世界タッグ王座を巡る抗争を展開[18]。リーガルの負傷中は、新メンバーの "スクワイア" デビッド・テイラーと組んで活動した。 1996年にブルー・ブラッズを離れ、リングネームを "ビューティフル" ボビー・イートンに戻してディック・スレーターとコンビを組んでいたが、1990年代後半はセミリタイア状態となり、ジョディ・ハミルトンがディレクター、ポール・オーンドーフがヘッド・インストラクターを務めていたWCWパワープラントにて若手選手の指導に携わった。 2001年のWCW崩壊後は、2003年8月にTNAに出場してキッド・キャッシュと対戦[19]。以降も各地のインディー団体へのスポット参戦を続け[20]、2011年にはJCWなどの団体でデニス・コンドリーとのミッドナイト・エクスプレスを再結成し、ロックンロール・エクスプレスとの往年のライバル対決を実現させた[21]。 晩年2015年10月に現役を引退。6年後の2021年8月4日、62歳で死去[22]。2006年に心臓発作を起こし、以降も糖尿病や高血圧など健康上の諸問題を抱え、晩年は入退院を繰り返していたという[22]。 得意技
獲得タイトル
脚注
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