戸澤陽
戸澤 陽(とざわ あきら、1985年7月22日 - )は、日本の男性プロレスラー。兵庫県西宮市出身。血液型A型。WWE所属。 経歴兵庫県西宮市で育った戸澤陽は3人兄弟の次男坊で、5つ上の兄、5つ下の妹がいる。特に兄と仲が良く、いつも一緒に遊んでいた。戸澤曰く兄はとても喧嘩が強く、戸澤は兄とのケンカに一度も勝ったことがないという。正義感の強い兄とは対照的に戸澤はやんちゃであった。学校が終わればすぐ公園で野球やサッカーなどのスポーツや鬼ごっこなどをして日が暮れるまで遊んでいた。初めてプロレスと出会ったのは小学校高学年の頃であり、兄と一緒に夜遅くにテレビを見ていると新日本プロレス東京ドーム大会が中継されていた。これは長州力が引退試合で5人掛けを行った試合である。初めて観た感想は「これがプロレスかぁ」というストレートなものであり、この時はまだプロレスを好きになるまでには至らなかった。この頃好きだったのはK-1であり、アンディ・フグ、マイク・ベルナルド、ピーター・アーツ、アーネスト・ホーストなどに憧れていた。しかし、それからしばらく経ったある日、WCWの放送を観て、筋肉隆々としたスコット・スタイナーの姿を見て以来プロレスにハマった。この頃からプロレスごっこをするために近所の大学に行って、その大学の陸上部の備品である棒高跳び用のクッションを使ってプロレスごっこを行っていた。中学生の頃には進路志望の書類を提出する時に「プロレスラー」と書いて提出したために親が呼び出され、その時親から「あなたバカじゃないの。高校だけは卒業して」と反対された[2]。 中学卒業後は普通に高校に進学、兵庫県立西宮甲山高等学校ではラグビー部に所属。本当は柔道部に入部したくて実際に柔道部へ入部届を書いたが、ラグビー部の顧問から「柔道部は今あまり活動していないからラグビー部に入った方がいい」と言われてラグビー部に入部したという。ラグビーのルールすらわからなかったが、公立高校の弱いチームであったため厳しくはなく、フォワードでレギュラーの座を得た。高校時代のある年の夏休みに、ラグビーの強豪校として有名な京都市立伏見工業高等学校と練習試合で対戦したことがあり、1年生だけのチームで挑んできた伏見工業に100対0で完敗した思い出がある。練習は毎日のようにあったが、小学・中学と同じように目いっぱい遊び、相変わらずのやんちゃぶりから学校では先生からずっと怒られていたという。高校卒業間近「高校を卒業してほしい」という家族の希望をかなえたためか、プロレス入りに関しては両親から「頑張りなさい」と背中を押された。プロレスラーになる方法を知るためにインターネットで調べると闘龍門の募集告知が目に飛び込み、早速書類を揃えて応募した[2]。 2004年に高校を卒業後、DRAGON GATEに入門。先にデビューした鷹木信悟、B×Bハルクとは同期入門。練習生時代は走り込みやスクワットなど基礎体力トレーニング中心であったが、ラグビーで鍛えていたため練習についていくことは容易であった。それよりもちゃんこ番が苦痛であり、入門前は料理などやったことがなかったためちゃんこ番になる度に気持ちが病んできたという。練習生の頃からドン・フジイに襲われ、抗争が始まっていた[2]。 新人時代2005年4月3日、フジイの暴挙に腹を立てた新井健一郎により戸澤を見切り発進的にデビューさせることになり、戸澤のリングネームで神戸サンボーホール大会のフジイ戦でデビュー。デビュー戦ではリングで走るムーブさえまともにできず、何もできない悔しさから涙した。DRAGON GATEの選手には珍しくギミックなしの新人となった。その後10番勝負を行うが全敗、道場に強制送還され再修業を行うことになる[2]。 同年10月にフジイを相手に大野勇樹と共に再デビュー、ハンディキャップマッチだったが敗れ、戸澤からトザワにリングネームを変更させられる。しばらくはファイナルM2K預かりとして活動していたが2006年、OPEN THE BRAVE GATE王座決定リーグ戦に出場。アラケン(新井健一郎)に「一勝でもしたらFinal M2Kに入れてやってもいい」と言われて奮起し、土井成樹に勝利。アラケンからスカジャンを手渡され、涙のフィナーレかと思いきや、「他にやりたいことがある」とスカジャンをその場で返した。 戸澤塾 - メタボリック・ブラザーズ後にリングネームを戸澤アキラに改名。学ランを羽織り、魁!!男塾を模したような硬派ギミックにチェンジし、新ユニット「戸澤塾」を開校。戸澤塾一号生筆頭を名乗り、岩佐拓、森隆行、大野勇樹と塾生(メンバー)を拡大しデビュー1年でユニットの長となった。 2007年1月25日の「武勇伝」では「戸澤塾vs男塾」と題して男色ディーノと対戦、最初はディーノのゲイっぷりに苦戦を強いられるが次第に何かに目覚め、全試合後には二人ともバスタオル姿で肩を組んで出て来た。 2007年9月1日の666新木場1stRING大会では、デスマッチファイター葛西純と初対戦。松ぼっくり・秋刀魚・イガグリなどの、「ふざけた凶器(葛西純・談)」が使われながらも、自身初となるハードコアで大奮闘。 2008年に入ってからは、戸澤塾内で大野勇樹と「メタボリック・ブラザーズ」というタッグチームで活動し(タッグを組んでいた大野と共にデブキャラに転身)、学ラン、ボンタンなしで闘っていた[2]。 奮起武勇伝にてデブ-1グランプリに優勝し、吉江豊と対戦するも完敗、デブであることに限界を感じ始める。 以降は髪の毛の色は金髪であるが、太っているとはいえかなりの戦果をあげている大野、飛び入りだがトライアングル王座を獲得した忍等、刺激材料によってNEX2周年興行にてダイエット宣言、大野にも勧めるが断られ、亀裂が生じる。団体内外の選手と「ダイエット7番勝負」が行われ、3勝2敗2引き分け(内、2戦は反則勝ち、ノーコンテストの不完全決着もある)と、成長を見せる。最終戦でフジイに勝利し、トライアングルゲートに挑戦表明、11月16日にユニット解散を賭けて挑戦するも善戦むなしく敗れ、結局戸澤塾は解散となった。 その後、同期である鷹木、戸澤塾で兄貴的存在だった岩佐拓と共に新ユニットKAMIKAZEを結成する。なお、1月16日からはリングネームを戸澤アキラから本名の戸澤陽に変更した。以降はハイテンションキャラとなり、リング上、バックステージ等ところかまわず雄たけびを上げる。4月12日にはタッグマッチながら大谷晋二郎と対戦し、大谷にも一目置かれる。 5月にはCIMAの持つオープン・ザ・ブレイブ・ゲートに挑戦する(シングルタイトル初挑戦)。得意のジャーマン・スープレックスであと一歩というところに迫るものの、CIMAの経験には勝てず敗北した。その後CIMAに罵られ、悔し涙を流した。ブレイブゲートにはその後も挑戦が続いたが戴冠には至らなかった。 2010年にサイバー・コングがリング復帰し、KAMIKAZE入りしたが戸澤はそれを快くは思っていなかった。そして何度もサイバーを挑発し、5月の愛知県体育館大会で「負けたら今後しばらくは第0試合(ダークマッチ)」という条件の下で対戦したが、敗れてしまい条件通りしばらくは第0試合で組まれる事になった。 5月のアメリカ遠征では同僚が帰国する中で一人残る事を宣言、その後無期限の武者修行に入った。アメリカ遠征でDragon Gate USA(DGUSA)に参戦した戸澤はアメリカの熱狂的なファンたちの姿に衝撃を受け、これがアメリカ残留の動機となったという。しかしこれは、ギミックで実はCIMAが戸澤に対して、行ったドッキリで戸澤だけ帰りの飛行機チケットを準備していなかった。「今日からアメリカに残れ」の一言で戸澤の海外修行がスタート。[2]。 アメリカ武者修行7月の神戸ワールド記念ホール大会でNOSAWA論外とのタッグでTOZAWA圏外として帰国、一時的に凱旋試合を行った。 戸澤はその後も再渡米し、武者修行を再開。アメリカでは全く無名の戸澤は興業に出場する機会に恵まれず、Dragon GateとのパイプがあるPWGですら興行は月1回であった。最低で月に1、2試合という時期もあり、酷い時にはギャラが現金ではなくブリトーであるということもあった。武者修行を始めて4ヶ月後、9月のPWGのバトル・オブ・ロサンゼルス2回戦となるクリス・ヒーローとの対戦がPWGにおけるマッチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。その翌日から戸澤に試合のオファーが次々と届き、オースチン・エイリース、ケビン・スティーン、エル・ジェネリコ、ロウ・キーなど名だたる選手たちとのシングルマッチを組まれることも多くなった。武者修行初期のほとんど仕事がなかった状況から一転し、週末には試合を組まれない日が無かったほどであった。この時について戸澤は「どこへ行ってもクリス・ヒーローとの試合を見たぞって言われるんや。こんなこともあった。アメリカのアパートに住んでたときのことやけど、ご近所さんが昨日観たよとか言ってくるわけや。そのおっちゃんは絶対に俺がレスラーってことを知らないはずなんや。でもお前はファイターだろ?みたいなことを言ってくる。ファイターには違いないけど、その後ジムへ行っても昨日観たぞと。オレってそんなに有名になったのかなと。PWGとかDGUSAとかみんな見てるのかなと思って、不思議な感じやったんやけど、4人目くらいで気づいたんや。どうやらオレに似た日本人選手が金網マッチ(ケージフォース=総合格闘技)で試合をしてたらしくて、その人と勘違いしていたと。道端で握手とかしていた自分が恥ずかしくなったわ」と話している[2]。 確実に力をつけACWやチカラなどで主要レスラーとして活躍するまでになった。そしてドラゴンゲートのアメリカ興行でもシングルプレイヤーとしての自信を高める試合をするようになる。さらに並みいる強豪を倒し絶好調のPAC相手にブレイブゲート王座にも挑み、あと一歩のところまで迫る試合となった。結果は破れてしまったものの、更なる自信を付けた。アメリカで骨を埋める気で武者修行を続けていた戸澤は当時すでにインターネットで日本の情報が簡単に手に入る時代であったにもかかわらず日本の情報は軽く確認する程度であった。2011年に入ってからも先々までアメリカでの予定が入っている状態であったが、ブラッド・ウォリアーズの仲間達から日本で一緒にやらないかと誘いを受けた[2]。 帰国2011年6月8日の後楽園大会で凱旋帰国し、同時にBlood WARRIORSに加入した。そして様々な相手に勝利するなど結果を残し、今までは格下扱いされていたYAMATOや鷹木にも一目置かれるようになった。YAMATOにはシングルで敗戦するものの、7月17日の神戸ワールド記念ホール大会で鷹木にシングルで勝利し、アメリカでの修行が無駄ではなかった事を証明してみせた。 さらに8月にはBBハルクとタッグを組み、Summer Adventure Tag Tournament 2011優勝を果たす。10月にYAMATOとのノーロープノーDQマッチに勝利しドリームゲート王者の望月成晃を挑発、これに望月が戸澤を逆指名する形で王座戦が実現し、善戦したものの結果は敗北。しかし、12月の後楽園ホール大会で再びハルクと組み、横須賀享、KAGETORA組を破りオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座を奪取する。戸澤自身初のベルトを腰に巻く事となった。その際、破った両名を「ジミー・ススム」「ジミー・カゲトラ」に強制改名させる(これがきっかけで翌年ジミーズが誕生した)。 2012年1月、Blood WARRIORSのリーダーであったCIMAを追い出す事に成功。Blood WARRIORSを消滅させ、残りのサイバー、ハルク、Kzy、谷崎とMAD BLANKEYを立ち上げ、2回目のユニットリーダーとなる。傍若無人に暴れ回り、KING OF GATE2012ではセコンドの手を借りつつも準優勝するなど破竹の勢いで実績を重ねた。更にCIMAに出場選手として選ばれた「CIMAロワイヤル5」では、YAMATOや土井、吉野正人と言った元ドリームゲート王者達を相手に反則技をほとんど使わずに勝利し、CIMAが持つオープン・ザ・ドリームゲート王座の挑戦権を獲得し、団体の年間最大の興行である神戸ワールド記念ホール大会のメインイベントのリングに立った。試合には敗れたものの、これで団体に在籍しているドラゴンゲート1期生全員が神戸ワールド記念ホール大会のメインイベンターを務めた事になる。 2013年は5月に再びCIMAのオープン・ザ・ドリームゲート王座に挑戦するも惜敗、その翌月にはハルクと組み、オープン・ザ・ツインゲート王者の鷹木・YAMATO組と対戦、試合はYAMATOの裏切りもあって勝利しベルトを奪取した。しかし、土井・リコシェ組に敗れ防衛0で王座から陥落。2013年8月1日後楽園ホール大会での暁との解散マッチで自身がフォールをとり勝利するもMAD BLANKEYを追放される。その際マイクで呼びかけた望月に対し、戸澤は「オレは、お客さんを楽しませたいだけなんや!!」と叫び、観客からの大歓声に表情こそ崩さなかったものの涙を流した。 ヒールからベビーフェースにターンした後の8月23日後楽園ホール大会では望月とともにかつて戸澤塾のメンバーだった新井、上記のようにデビュー当時から因縁のあったフジイとタッグマッチで対戦。入場時から終始大歓声を浴び続け、試合は新井に勝利し直後に戸澤はドリームゲート防衛戦に挑む鷹木のセコンドに着いた。鷹木は敗れてしまうが、CIMAの呼びかけもあって鷹木と共闘していくことを決意した。その際に戸澤は、「(略)ふたりで手をつなぎ、幸せになろうやないか!!」と呼びかけ(鷹木は長渕剛の大ファン))、鷹木とともにSummer Adventure Tag Tournament 2013に参戦する。 Tag Leagueの直前には追放されたMAD BLANKEYとのシングル5番勝負も決定した。セコンドの介入もあって1勝3敗と負け越して迎えた5戦目の際、対戦相手のウーハー・ネイションは「友であるお前とは戦えない」と試合を放棄し自らゴングを鳴らし無効試合になった。これに激怒したMAD BLANKEYに対し、救出に入った鷹木・サイバー・コングとの8人タッグマッチが急遽決定するが、今度はサイバーがMBに寝返り敗北。また、Tag Leagueでは順調に星を伸ばすものの9月12日の後楽園ホール大会での吉野・土井戦で土井が吉野を裏切りMB入りしたため無効試合となってしまう。しかしこのことがきっかけで、この日解散したWORLD-1 INTERNATIONALから吉野、リコシェ、しゃちほこBOYが合流。その後正式に「MONSTER EXPRESS」を結成する。 2015年2月、Kzyを破りオープン・ザ・ブレイブゲート王座を奪取(第27代王者)。自身初のシングル王座となり、11月1日にKotokaに奪われるまで6回の防衛に成功した。 2016年7月から9月にWWEクルーザー級クラシックに出場、準々決勝でグラン・メタリックに敗退。 2016年9月25日の神戸大会終了後に11月3日の大阪大会を最後にDRAGON GATE退団を発表し、その大阪大会のメインイベントで卒業試合が行われた(YAMATOのギャラリアでピンフォール負け)。 WWE参戦2016年11月5日、クルーザー級部門の一員としてWWEに参戦することが決まった[3] 2017年1月31日、WWE 205 Liveでアーロン・ソロと対戦。スナップ式ジャーマンスープレックスで勝利した。6月26日のRAWにてタイタス・オニールのタイタス・ワールドワイドと契約を交わしたことを発表[4][5]。同時に7月9日に行われるPPVグレート・ボールズ・オブ・ファイヤーにてネヴィルが持つWWE・クルーザー級王座に挑戦することも決まった[6]。7月9日、グレート・ボールズ・オブ・ファイヤーにてWWEクルーザー級王座を保持するネヴィルに挑戦するも敗戦[7]。8月14日、RAWにてネヴィルに再挑戦。ネヴィルのレッド・アローを回避し、ダイビング・セントーンを決めて3カウントを奪い勝利。ベルトを奪取した[8]。 2018年10月3日(日本時間4日)、WWE 205 Liveのシングルマッチでジャック・ギャラハーと対戦し、ダイビング・セントーンでフォール勝ち。以前、ギャラハーらの乱入で試合を潰された経験のある戸澤にとっては雪辱を果たした試合になった[9]。 12月22日、自身のインスタグラムで結婚を報告する。 2023年10月23日、RAW放送前のバックステージでアルファ・アカデミーへの加入が認められた。 得意技運動神経は良く、高さのあるドロップキックや綺麗なブリッジで放つジャーマン・スープレックス・ホールドが特徴。WWEでは全身黒装束のコスチュームの忍者キャラで同じく忍者軍団を引き連れてファイトしている。 フィニッシュ・ホールド
打撃技
投げ技
飛び技
フォール技
タイトル歴
入場曲
その他
脚注
外部リンク
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