リップ・モーガン
"ビッグフット" リップ・モーガン("Bigfoot" Rip Morgan、本名:Mike Morgan、1957年8月20日 - )は、ニュージーランド・ウェリントン出身の元プロレスラー[5]。 地元のニュージーランドでデビュー後、アメリカのマット界に進出し、ヒールの大型ラフ&パワーファイターとして活動した[6]。 来歴ニュージーランドのNWA傘下団体だったオールスター・プロレスリングにおいて、1981年にデビュー[2]。1983年9月8日、トーナメントの決勝でサモアン・ジョー(ジョゼフ・アファ・マサガ)を下し、空位となっていたニュージーランド・ヘビー級王座を獲得した[7]。 アメリカに進出後の1985年より、テネシー州メンフィスのCWAにおいて、ザ・シープハーダーズのマネージャーだったジョナサン・ボイドとキーウィ・シープハーダーズ(The Kiwi Sheepherders)と呼ばれる別チームのシープハーダーズを結成[8]。翌1986年にかけて、スティーブ・カーン&スタン・レーンのファビュラス・ワンズとAWA南部タッグ王座を巡る抗争を繰り広げた[9]。 ボイドとのコンビを解消後、プエルトリコのWWCやテキサス州ダラスのWCCWを経て、1988年4月からはNWAのジム・クロケット・プロモーションズに登場。バグジー・マグロー、ディック・マードック、イワン・コロフ、ニキタ・コロフ、リッキー・モートン、ロン・シモンズらと対戦したほか、ブッチ・ミラー&ルーク・ウィリアムスのオリジナル・シープハーダーズともトリオを組んだ[10]。モーガンはミラーの甥ともされる[1][8]。 1989年1月、新日本プロレスの『新春黄金シリーズ』に初来日[1]。ビッグバン・ベイダー&バンバン・ビガロと大型トリオを結成し、アントニオ猪木とのシングルマッチも行われた[11]。同年5月の『日米ソ3国対抗戦シリーズ』への再来日では米国チームの一員となり、スティーブ・ウィリアムスともタッグを組んでいる[12]。日本では、ブルーザー・ブロディを彷彿させる風貌とファイトスタイルから「超獣2世」なる異名も付けられた[1]。 アメリカではジム・クロケット・プロモーションズを買収したWCWに継続参戦しており、1989年4月2日の『NWAクラッシュ・オブ・ザ・チャンピオンズ』においてスティングの世界TV王座に挑戦[13]。その後、ジャック・ビクトリーとニュージーランド・ミリティア(The New Zealand Militia)なるニュージーランド特殊部隊ギミックのタッグチームを結成[6]、シェーン・ダグラス&ジョニー・エースのダイナミック・デューズと抗争を展開する[14]。後にロイヤル・カンガルーズにあやかった王侯貴族ギミックのロイヤル・ファミリー(The Royal Family)とチーム名を変更させ、スタイナー・ブラザーズやロード・ウォリアーズとも対戦した[15]。 1990年8月には全日本プロレスの『サマー・アクション・シリーズ』に来日。開幕戦ではスコッティ・ザ・ボディと組んでジャイアント馬場&ラッシャー木村と対戦した[16]。同年12月16日にはWCWの『スターケード1990』で行われたインターナショナル・タッグチーム・トーナメントに、ニュージーランド代表チームとしてビクトリーとのロイヤル・ファミリーで出場したが、1回戦でマサ斎藤とグレート・ムタの日本代表チームに敗退している[17]。 1991年にWCWを離れ、ダラスのGWFやジム・コルネット主宰のスモーキー・マウンテン・レスリングなどのインディー団体を転戦[18]。1993年にはドイツに遠征し、オットー・ワンツが主宰していたキャッチ・レスリング・アソシエーションに参戦。ランボー、デイブ・テイラー、ミレ・ツルノ、トニー・セント・クレアーなどと対戦し、海外武者修行中の山本広吉ともタッグを組んだ[18]。 セミリタイア後はニュージーランドに帰国して、首都ウェリントンにおいてキーウィ・プロ・レスリング(Kiwi Pro Wrestling)を主宰、2006年から2013年にかけて団体のCEOを務めた[19]。 得意技獲得タイトル
脚注
外部リンク |
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