氷川神社
氷川神社(ひかわじんじゃ)は、埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一丁目にある神社。式内社(名神大社)、武蔵国一宮を称する(ないし三宮)勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。宮中の四方拝で遥拝される神社の1つ。 東京都・埼玉県近辺に約280社ある氷川神社の総本社である。他の氷川神社と区別する際は「大宮氷川神社」とも呼ばれる。 概要埼玉県・東京都の荒川流域、特に旧武蔵国足立郡を中心にして氷川信仰に基づく氷川神社が多数分布しており、当社はその中心である。「大宮」の地名は、当社を「大いなる宮居」と称えたことに由来する普通名詞から転じたものである。埼玉県周辺の広域から参拝者を集め、正月三が日の初詣の参拝者数(警察調べ)は全国10位以内に数えられる[注釈 1]。特に全国的に初詣客が増加した2008年(平成20年)以降は毎年200万人以上が訪れている[注釈 2]。 神社の境内は、見沼(江戸時代中期まで存在した広大な沼)のほとりに位置し、もとは見沼の水神をまつっていたと考えられている。神社の南側に広がる神池(かみいけ)は、神社の西側から涌き出た地下水がたまったものであり、かつて見沼の一部であった。神社に隣接する埼玉県営大宮公園は、明治期に神社周辺の森を取得して整備したものであり、神社のある小山を見沼の入江が囲んでいた、という地形の特徴をよく保存している。 大宮の氷川神社、見沼区中川の中氷川神社(現 中山神社)、緑区三室の氷川女体神社は、いずれも見沼の畔にあり、かつ一直線に並んでいる。この三氷川とかつて大宮の氷川神社境内にあった三社(男体社・女体社・簸王子社)がよく混同されるが、別のものである[1]。 祭神現在の主祭神は次の3柱。 現在の祭神は、1833年(天保4年)当時の神主・角井惟臣が著した『氷川大宮縁起』に拠る。 祭神の変遷祭神がどの神であるかは、以下のように多くの議論がなされてきた[2]。平安時代中期の『延喜式神名帳』では一座として記載されている。
歴史前史社伝によれば、孝昭天皇3年4月の創建という[4]。「国造本紀」によると、初代无邪志国造の兄多毛比命は成務天皇(第13代天皇)の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し[5]、祖神を祀って氏神として、当社を奉崇したという。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造(无邪志国造)は出雲国造と同族とされ、社名の「氷川」も出雲の簸川(ひかわ)に由来するという説がある。[要出典] 一方、氷川神社の摂社に「門客人神社」がある(現在も氷川神社社殿の東隣に鎮座)。元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたもので、アラハバキが「客人神」として祀られている。このアラハバキ社は氷川神社の地主神である[6]。現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたもので[7]、先住の神がアラハバキとみられる[6]。 このほか、景行天皇の皇子・日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されている。このことから本地域を「足立」と称するようになったとされる。 古代平安時代前期に編纂された『日本三代実録』に「武蔵国氷川神」の名で神階授与の記載がある。数年の間に位が上がっていることから、朝廷から崇敬されていたことが分かる。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「武蔵国足立郡 氷川神社 名神大 月次新嘗」と記載され、名神大社に列し、朝廷からの月次祭と新嘗祭では官幣に預かっていた。 中世平安時代後期、武蔵国の高位の神社とされ、国司からも崇敬を受けた。平貞盛が平将門の乱において当社で戦勝を祈願し乱を平定したことから、関東地方の武士に幅広く信仰され、荒川流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がった。治承4年(1180年)には源頼朝が土肥実平に命じ社殿を再建して社領3000貫を寄進[3]、建久8年(1197年)には神馬神剣を奉納している。 一宮・三宮に関する議論氷川神社自体は「武蔵一宮 氷川神社」の社標を掲げているが、武蔵国内における氷川神社の位置付けには、一宮と三宮の2説がある(「武蔵国#神社」も参照)。 平安時代中期の『延喜式神名帳』では氷川神社は名神大社として記載される。しかしながら鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、現在の東京都多摩市に所在する小野神社(延喜式神名帳では「小社」)を指すと思われる「多磨郡吉富に一宮」の記述があり、平安時代に社格の逆転があったと考えられる。 武蔵国総社である東京都府中市の大國魂神社(六所宮)では、南北朝時代に編纂された『神道集』を基にして、武蔵国内の一宮から六宮までを「武州六大明神」として祀っており、公式に「一宮」を小野神社、「三宮」を氷川神社としている。現在も大國魂神社の例大祭(くらやみ祭・武蔵国府祭)の祈祷に、氷川神社の神官が「三宮」として参じている。 一方、室町時代後半に編纂されたと思われる『大日本国一宮記』は氷川神社を一宮とした。前述を基に、室町時代以降に氷川神社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したとする説もある。 これとは別に「氷川女躰宮」が一宮ともされている[8]。 近世徳川家康が関東に入ると、文禄5年(1596年)8月に関東郡代伊奈忠次を奉行として社頭を造営した。江戸時代には幕府から社地三百石が寄進されていた。江戸初期の中山道は大宮宿の南で参道を使用していたが、この地を治めていた関東郡司伊奈忠治が、参道を街道とすることは恐れ多いとする宿の意見を受け、寛永5年(1628年)に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転させ、これが現在に至る大宮の町となった。寛文7年(1667年)3月には、阿部豊後守を奉行として社殿を建立した。 近世には男体社、女体社、簸王子社の三社に別れ、それぞれ岩井家・内倉家(のち断絶、角井家が継承して西角井家を称する)・角井家(後に東角井家を称する)が社家として神主を世襲した。三社の祭神や順位を巡る論争もあったが、1699年(元禄12年)三社・三社家を同格とする裁定が下った。 1833年(天保4年)当時の神主・角井惟臣が著した『氷川大宮縁起』に拠り、現在の祭神が定められている。 近代以降明治元年(1868年)10月17日、東京入都の4日目に明治天皇は当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と定めた[9]。10日目には大宮に行幸し、10月28日に関東の神社の中で最初に親祭を行った。以来、例祭には勅使の参向があり、宮内庁の楽師による歌舞が奉納される。1871年(明治4年)には近代社格制度において最高位の官幣大社に列格された。明治天皇は1870年(明治3年)にも再度親拝し、昭和天皇も皇太子時代の1917年(大正6年)11月12日、天皇に即位した1934年(昭和9年)11月18日に、それぞれ陸軍特別大演習の帰途[10]に親拝し、1967年(昭和42年)10月に夫妻で参拝された。明仁上皇も皇太子時代の1963年(昭和38年)9月に参拝し、1987年(昭和62年)7月と天皇に即位した1993年(平成5年)5月には夫妻で親拝している。 明治初頭の寺院整理神社統合により、供僧観音寺は本地仏とともに北足立郡下加村(現・さいたま市北区日進町二丁目)の万福寺へ退転した。また、神域である社有林が開かれて、埼玉県で最初の近代公園「大宮公園」として整備された。 1882年(明治15年)に社殿を改造し、簸王子社と女体社を廃して男体社に三神を祀るようになり、さらに1940年(昭和15年)に国費で社殿・楼門等を改築し、現在の姿になった。また、1929年(昭和4年)9月には埼玉縣招魂社が境内に建立され、県内の戦死者2000余柱が祀られた。招魂社は1939年(昭和14年)3月に分離して埼玉縣護國神社となり、同4月には国指定護国神社となった。1940年(昭和15年)には紀元二千六百年を記念して神社局造営課の設計により社殿建築の多くが建て替えられ、現在の社頭景観の多くがこのとき創出された[11]。 1966年(昭和41年)7月22日に明治神宮の大鳥居(第二鳥居〈木造鳥居では国内最大級〉)が落雷によって破損したため、新たな鳥居が1975年(昭和50年)に竣功。落雷した鳥居は移設され、1976年(昭和51年)4月5日に氷川神社に竣功された[注釈 3]。これが現在の二の鳥居で、旧さいたま市立大宮図書館の前にある。このとき、もともとの石造の二の鳥居は大宮公園との境界へ移設されていたが、東日本大震災で基礎が破損したため一旦撤去された。その後、撤去した柱を新たに整備された摂社寄りの参道と公園との境界の標として再建されている。 1982年(昭和57年)の東北新幹線開業を祝い、この年から薪能が毎年5月に催されている。 境内現在の社殿の多くは紀元二千六百年を記念して造替されたもので、本殿、拝殿、舞殿、楼門、手水舎などは神社局造営課の角南隆や谷重雄、斎館などは国粋建築研究所の二本松孝蔵によるものとされる[11]。
摂末社摂社
末社
参道
さいたま新都心に近い吉敷町の県道164号鴻巣桶川さいたま線(旧中山道)から神社まで、およそ2キロメートルの表参道がほぼ南北一直線に延びており、氷川参道と呼ばれている。参道上に三つの大鳥居があり、旧中山道と分かれる位置に「一の鳥居」が、県道2号さいたま春日部線(旧国道16号、岩槻新道)と交差した市立博物館近くに「二の鳥居」が、境内入り口に「三の鳥居」がある。参道は2キロメートルに及ぶ南北直線だが、神社の拝殿、本殿は参道の直線から西にずれており、また南北に対して約30度傾いている。境内に入ると、参道は左手に弧を描き「神池」を橋で渡って拝殿に至る。 参道はケヤキを中心にした並木に覆われている。30種類680本の木々があり、幹回りが2メートルを超える古木20本を市の天然記念物に指定している(2020年(令和2年)4月現在)[12]。その後2022年(令和4年)3月現在、枯死や倒木によって11本に減少した[13]。1722年(天保7年)江戸名所図会[14]や1790年(寛政2年)の氷川神社の絵図面によると[12]、江戸時代には松が多かったが、明治以降は杉が主体となる樹木で覆われた(1880年(明治13年)の氷川神社図会による)[14]。太平洋戦争中から戦後にかけて燃料として伐採され、また参道に自動車を走らせたことから排気ガスで枯死し、汚染に強いケヤキが6割を占めるようになった。歩行者による根元の踏み固め、車による排気ガスや振動、建物の高層化による日差しや空気の流れが遮断された影響で木々が弱っている[15]。それに対し、歩行者専用化や並木敷への低木植栽を氷川の杜まちづくり協議会や氷川参道歩行者専用化検討協議会が実施し[16][17]、2021年(令和3年)に一部の歩行者専用化整備が完了した[18]。 2キロメートルに及ぶ参道は3つの区間に分かれている。
参道の周辺は、二の鳥居の南側では、参道を挟んで西側が官民のビルや大型マンションが建ち並ぶ大宮の中心市街地、東側が区画された住宅地と、街並みが大きく異なっている。神社に近い二の鳥居の北側では、勅使斎館等の行事施設や市立博物館が並ぶほかは閑静な住宅地であり、特に神社と参道の周辺は風致地区として、建築制限が課せられている。 このほか、大宮区土手町の旧中山道から神社北側に至る「裏参道」があり、こちらにも鳥居が立つ。 交差する主な道路
沿道の主な施設
主な祭事年間祭事一覧 文化財埼玉県指定文化財
さいたま市指定文化財
現地情報
脚注注釈出典
参考文献
関連項目
外部リンク |
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