生田神社
生田神社(いくたじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣中社。廣田神社・長田神社とともに神功皇后以来の歴史を有する神社であり、長田神社・湊川神社とともに神戸を代表する神社の1つである。かつて、現在の神戸市中央区の一帯が社領であり、これが「神戸」という地名の語源となった。地元では「生田さん」として親しまれている。 祭神歴史日本書紀によると、神功皇后元年(201年)に神功皇后が三韓征伐を終わらせて帰還するなか、船が現在の神戸港で進まなくなったために神占を行った。すると、稚日女尊が現れて「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅(うながみのいさち)に命じて生田の地に祭らしめ(私は“いくた”の“ながさの国”におりたいのです。“うなかみのいそさち”に命じて生田の土地に祀らせてほしい)」との神託があった。そこで皇后は海上五十狭茅を神主として、現在の新神戸駅の奥にある布引山(砂山(いさごやま))に稚日女尊を祀らせた。これが当社の始まりであるという[2]。 砂山にあった当社であるが、延暦18年(799年)4月9日に発生した布引の滝の大洪水により砂山の西の端が崩れ、社殿が傾斜する被害が出た。そこで生田村の刀禰七太夫が御神体を避難させ、それを背負って7、8日間鎮座地を探し巡ったところ、生田の森で突然背負った御神体が重くなりこれ以上歩けなくなった。これは御神意であろうとなり、その場所つまり現在地に安置したという[2]。 大同元年(806年)に朝廷より当社のために「生田の神封四十四戸」、つまりお供えする家、世話をする家、守る家である神戸(かんべ)44戸を頂いたとある。以来現在の神戸市中央区の一帯は当社の社領となった。この神戸(かんべ)が紺戸(こんべ)となり、この地が神戸(こうべ)と呼ばれるようになったとする[1][2]。 延喜式神名帳では「摂津国八部郡 生田神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相甞・新甞の幣帛に預ると記されている。 平安時代末期の寿永3年(1184年)2月に戦われた一ノ谷の戦いでは、平知盛が生田の森に本陣を敷いている[3]。 近代社格制度のもとで1871年(明治4年)に県社に列格し、その後1885年(明治18年)に明治天皇の西国巡幸の際、初めて官幣社に列し官幣小社に、1896年(明治29年)には官幣中社に昇格した。 社殿は1938年(昭和13年)の神戸大水害で損壊、1945年(昭和20年)3月17日の神戸大空襲で焼失、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災での損傷など何度も被害にあうが、そのつど復興されてきたことから「蘇る神」としての崇敬も受けるようになっている。 2000年(平成12年)1月には本殿西側に「生田神社震災復興記念碑」が建立され、碑の後方には池の水を利用するための防水ポンプが備え付けられた[1]。 「謡曲生田敦盛」の碑や、地元飲食店や食品関連企業などの寄付で作られた包丁塚・楠の神木がある。柱に書かれた寄進者名には、ホテルあるいは海洋関係の企業も多い。 神階伝説・伝承先述の延暦18年(799年)の大洪水の際、社の周囲には松の木が植えられていたが、洪水を防ぐ役割を全く果たさなかった。そのため松が嫌われるようになったとする伝承があり、正月には門松ではなく杉飾りが立てられる[1]。また、生田の森には1本も松の木は植えられていないといわれている[1]。 中央区熊内町の熊内八幡神社付近にある「旭の鳥居」[4]には、砂山に生田神社があった頃の一の鳥居であるという伝承がある。「旭の鳥居」は、元旦に朝日を受けても影を落とさないとされることからこの名がある[4]。 宮司である加藤隆久『生田神社』(学生社、2005年)に歴史も含め詳しい説明がある。 能の生田敦盛では、敦盛の遺児が賀茂明神への祈誓により当地にて亡き敦盛と対面する。 境内
摂末社境内に以下の摂末社がある[5]。祭神・説明欄は公式サイトによる[5]。
生田森本殿奥には生田森(生田の森)があり、もとは旧生田川のほとりにまで及んでいたという[1]。この森は『枕草子』にも登場する[1]。また幾多の歌にも詠まれた。 生田川の背後にあるという戦略上の位置から源平合戦の一ノ谷の戦いや南北朝期の湊川の戦いでは戦場となった場所でもある[1]。 参道三宮駅の南西、生田ロードの先端に一の鳥居がある。そこから参道はセンター街を抜けて北上し、生田新道を越えたハンズの北東脇に社号標と二の鳥居がある。境内にはいると時間貸しの駐車場があり、その先に三の鳥居と御神門がある。 祭事
分社神社で行われた行事等
周辺名所・旧跡・文化・観光施設
前後の札所所在地
アクセス
脚注注釈出典
関連図書
関連項目外部リンク
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