気多大社

氣多大社

拝殿(手前)と本殿(奥)
(ともに国の重要文化財
所在地 石川県羽咋市寺家町ク1
位置 北緯36度55分33.63秒 東経136度46分2.79秒 / 北緯36.9260083度 東経136.7674417度 / 36.9260083; 136.7674417 (氣多大社)座標: 北緯36度55分33.63秒 東経136度46分2.79秒 / 北緯36.9260083度 東経136.7674417度 / 36.9260083; 136.7674417 (氣多大社)
主祭神 大己貴命
社格 式内社名神大
能登国一宮
国幣大社
創建 (伝)第8代孝元天皇または第10代崇神天皇年間
本殿の様式 三間社両流造檜皮葺
別名 気多大神宮
例祭 4月3日
地図
気多大社の位置(石川県内)
気多大社
気多大社
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鳥居

気多大社(けたたいしゃ、正式名:氣多大社)は、石川県羽咋市寺家町にある神社式内社名神大社)、能登国一宮旧社格国幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。旧称は「気多大神宮」。

概要

能登半島の付け根、羽咋市北方に日本海に面して鎮座する。祭神大己貴命出雲から舟で能登に入り、国土を開拓したのち守護神としてこの地に鎮まったとされる。古くから北陸の大社として知られ、中世近世には歴代の領主からも手厚い保護を受けた。

現在は本殿など5棟の社殿が国の重要文化財に指定されているほか、国の天然記念物社叢「入らずの森」で知られる。

祭神

祭神は次の1柱。

歴史

創建

社伝(『気多神社縁起』)によれば、第8代孝元天皇の御代に祭神の大己貴命出雲から300余神を率いて来降し、化鳥・大蛇を退治して海路を開いたという[1]

また『気多社島廻縁起』では、気多大菩薩は孝元天皇の時に従者を率いて渡来した異国の王子とし、能登半島一帯を巡行して鬼神を追放したと記される[1]。『気多社祭儀録』では、祭神は第10代崇神天皇の御代の勧請とし、神代からの鎮座とする説もあると記される[1]

一説として、孝元天皇の御代には七尾市に鎮座(現・気多本宮北緯37度2分13.47秒 東経136度57分51.41秒)し、崇神天皇の御代に当地に遷座したとも伝えられる[1]

概史

奈良時代には北陸の大社としてにも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持天平20年(748年)に参詣したときの歌が載っている(巻十七・4025番、文献上初見[2])。

国史では、古くは『続日本紀神護景雲2年(768年)の記事が見え[原 1]、同記事では封戸20戸・田2が支給されている[1]。また神階に関しては、延暦3年(784年)の正三位から[原 2]天安3年(859年)に従一位勲一等までの叙位・叙勲の記事が載る[原 3]

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では能登国羽咋郡に「気多神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。

中世以降は能登国一宮とされ、中世・近世の間は畠山氏前田氏など歴代の領主からも手厚い保護を受けた。

明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列し、大正4年(1915年)に国幣大社に昇格した。第二次世界大戦後は神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定されていたが、後述のように平成22年(2010年)に神社本庁に属さない単立神社となった。

神階

神社本庁離脱関連

平成17年(2005年11月28日付けで、神社本庁との包括関係を解消し、単立神社となる決定を行い、同時に「財産の管理および処分に関する役員会の決議事項は神社本庁に報告する」と定めた、気多大社神社規則変更を決議した。

石川県はこの規則変更決議を認証するも、平成18年(2006年)1月に、神社本庁が県の認証を取り消すよう文部科学省に取り消しを申請し、平成18年(2006年)5月に、文部科学省は石川県の認証を取り消す決断を下す。これにより、神社本庁からの離脱が事実上、無効となった。神社本庁は平成18年(2006年)8月29日附で宮司を懲戒免職とし、翌30日に石川県神社庁長(当時)を兼任宮司に特任した。

気多大社側では、これらの処分を不服とし、平成18年(2006年)9月、文部科学省に対する提訴を行った。平成19年(2007年9月13日東京地方裁判所は気多大社側の主張を認める判決を出したが、平成20年(2008年)9月、二審の東京高等裁判所では、一審判決を破棄し、文部科学省の判断を支持する判決を出した。気多大社側は最高裁判所へ上告した。

平成22年(2010年4月20日、最高裁第三小法廷は二審判決を破棄し、気多大社による神社規則変更を認め、「宗教法人の規則は、財産処分に関する事項を定めた規定が存在しなくても、それだけで宗教法人法に違反するとは言えない。」と指摘して、文部科学省の裁決を違法だと結論づけ、同裁決の取り消しを命じた東京地裁判決が確定判決となった[3][4][5]

境内

社殿

拝殿(国の重要文化財)
神門(国の重要文化財)

主要社殿のうち本殿は、江戸時代天明7年(1787年)の造営。三間社(桁行3間、梁行4間)の類例の少ない両流造で、檜皮葺である。拝殿は、江戸時代の承応2年(1653年)または承応3年(1654年)に大工・山上善右衛門による造営とされる。入母屋造妻入で、檜皮葺。神門は、安土桃山時代(社伝によれば天正12年(1584年))の造営。切妻造、四脚門で、檜皮葺。これら3棟はいずれも国の重要文化財に指定されている。

神庫は本殿と同じく、江戸時代の天明7年(1787年)の造営。方一間の校倉造檜皮葺。元は「宝蔵」と呼ばれていた。随身は、境内南東の旧参道口に位置する(北緯36度55分26.32秒 東経136度46分8.58秒 / 北緯36.9239778度 東経136.7690500度 / 36.9239778; 136.7690500 (随身門))。本殿と同じく、江戸時代の天明7年(1787年)の造営。三間一戸の八脚門、切妻造。いずれも石川県の有形文化財に指定されている。

入らずの森

境内裏手には、原生林社叢が広がっている。神門の内は神域「入らずの森」として、大晦日奥宮例祭を催行する宮司神職以外は立ち入りは禁止されている[6]。30,000平方メートルの広さの中にタブの木はじめツバキシイクスノキカラタチなどの常緑広葉樹が密生し[7]スダジイなどでは樹齢300~500年の古木もある。1997年に国の天然記念物に指定された[6]

長らく立ち入りが禁止されてきたが、2019年12月1日から1か月間、気の葉祭で祈願料を3000円収めた者に限り、神門から3-4歩進んで二拝二拍手一拝をすることが許されることとなった。ただし、参拝にはフォーマルな服装が求められ、写真撮影等は禁止される[8]今上天皇即位記念のほか、通常は立入禁止区域であるものの潮風による倒木など荒廃も目立つため、自然保護の大切を訴える目的もある[6]

その他

また、一の鳥居は神社から表参道を進んだ突き当たりに、日本海に面して位置する(北緯36度55分15.86秒 東経136度45分58.77秒 / 北緯36.9210722度 東経136.7663250度 / 36.9210722; 136.7663250 (一の鳥居))。

摂末社

摂社

白山神社(重要文化財)
楊田神社
太玉神社

末社

いずれも境外末社。

  • 印鑰神社(いんやくじんじゃ) - 例祭:11月30日
  • 大多毘神社(おおたびじんじゃ) - 例祭:12月31日

祭事

年間祭事

鵜祭

鵜祭(うまつり)は、12月16日に行われる古式な祭。大己貴命が高志の北島から鹿島郡の新門島に着いた時、この地の御門主比古神を献上したのが始まりとされる。祭で鵜を献上する人々は鵜捕部と呼ばれ鹿島郡の鹿渡島という所に先祖代々住み、そのに仕えていた。12月8日に鵜崖という場所に神酒・米・花などを供えた後、麻糸を付けた竹竿海鵜を捕らえるが手法には一子相伝の秘訣があるという。捕らえた海鵜は気多大社まで2泊3日をかけて運ぶが、これは「鵜様道中」(うさまどうちゅう)と呼ばれている[9]

献上された海鵜は「鵜様」として拝殿に放される[10]宮司はそれを内陣に行くよう図るがその時の鵜の進み具合によって翌年の作物の豊凶を占う。進み方が芳しくない時は神楽御祓いを行う。鵜が内陣の机の上にとまったら神官はそれを捕まえて、浜で放す。気多の鵜祭は能楽の曲目にもなっている。

なお、鵜祭までに鵜が捕らえられなかった年には鵜祭は開催されず、捕獲できなかった旨を伝える報告祭が執り行われる[10]

文化財

重要文化財(国指定)

  • 気多神社 5棟(建造物)[11][注 1]
    • 本殿(附 棟札2枚) - 昭和57年6月11日指定。
    • 拝殿 - 昭和36年6月7日指定。
    • 神門 - 昭和36年6月7日指定。
    • 摂社白山神社本殿 - 昭和57年6月11日指定。
    • 摂社若宮神社本殿 - 明治39年4月14日指定。
  • 後奈良天皇女房奉書(書跡) - 明治33年4月7日指定[12]

重要有形民俗文化財(国指定)

  • 気多の鵜祭の習俗 - 平成12年12月27日指定[13]

国の天然記念物

  • 気多神社社叢 - 昭和42年5月2日指定[14]

石川県指定文化財

  • 有形文化財[15]
    • 神庫(附 棟札1枚)(建造物) - 昭和57年1月12日指定。
    • 随身門(附 棟札1枚)(建造物) - 昭和57年1月12日指定。
    • 気多神社文書 1681点(古文書) - 昭和57年1月12日指定。
  • 天然記念物[15]
    • ケタノシロキクザクラ - 昭和43年8月6日指定。

登場作品

赴参氣太神宮行海邊之時作歌一首
志雄路から 直越え来れば 羽咋の海 朝なぎしたり 船楫もがも
しをぢから ただこえくれば はくひのうみ あさなぎしたり ふなかぢもがも

大伴家持、『万葉集』巻17 4025番

気多苗裔神

気多大社の位置(日本内)
気多大社
気多大社
気多大社
気多大社
気多大社
気多大社
気多大社
気多神社の分布
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六国史や『延喜式神名帳』には、次に示すような気多神の苗裔神(御子神)や分祠が日本海沿いの各地に確認される[1]

気多苗裔神の一覧
六国史・延喜式 比定社 備考
国郡 社名 社名 所在地 座標
飛騨国 気多若宮神 気多若宮神社 岐阜県飛騨市古川町上気多 北緯36度14分22.05秒 東経137度11分52.22秒 国史見在社[原 5]
加賀国江沼郡 気多御子神社 気多御子神社 石川県小松市額見町 北緯36度21分27.27秒 東経136度24分26.05秒
越中国射水郡 気多神社 気多神社 富山県高岡市伏木一ノ宮 北緯36度48分0.80秒 東経137度2分39.55秒 名神大社
越中国一宮
越後国頸城郡 居多神社 居多神社 新潟県上越市五智 北緯37度9分59.18秒 東経138度13分23.41秒 越後国一宮
但馬国気多郡 気多神社 気多神社 兵庫県豊岡市日高町上郷 北緯35度28分41.38秒 東経134度47分35.68秒 但馬国総社

現地情報

所在地

交通アクセス

古くは一の鳥居前に北陸鉄道能登線能登一ノ宮駅が存在し、気多大社までのアクセスを担っていた。

周辺

脚注

原典

  1. ^ 『続日本紀』神護景雲2年10月24日条。
  2. ^ 『続日本紀』延暦3年3月16日条。
  3. ^ 『日本三代実録』貞観元年正月27日。
  4. ^ 『万葉集』巻17 4025番(17/4025(万葉集検索システム〈山口大学〉)参照)。
  5. ^ 『日本三代実録』貞観15年8月4日条。

出典

  1. ^ a b c d e f 『石川県の地名』気多神社項。
  2. ^ 神社由緒書。
  3. ^ 「気多大社の神社本庁離脱認める 最高裁判決」日本経済新聞』朝刊2010年4月21日(2019年12月3日閲覧)
  4. ^ 「神社本庁離脱の規則変更を認める 文科省の裁決取り消し確定 気多神社」[リンク切れ]MSN産経ニュース(2010年4月20日)
  5. ^ “最高裁、神社規則の変更認める 羽咋市の気多神社訴訟”. 47News. (2010年4月20日). オリジナルの2013年5月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130522033043/http://www.47news.jp:80/CN/201004/CN2010042001000916.html 
  6. ^ a b c d 神域「入らずの森」初公開 石川の神社、即位記念『日本経済新聞』朝刊2019年12月2日社会面掲載の共同通信記事(2019年12月3日閲覧)
  7. ^ 芳賀日出男『折口信夫と古代を旅ゆく』慶應義塾大学出版会 2009年 118ページ。
  8. ^ 「入らずの森」きょうから開扉 『富山新聞』2019年12月1日朝刊 2面下段
  9. ^ 安部龍太郎『灯台を読む』株式会社文藝春秋、2024年10月10日、211-212頁。ISBN 9784163919034 
  10. ^ a b “主役不在で鵜祭断念 羽咋の気多大社、3年ぶり”. 北國新聞. (2017年12月16日). オリジナルの2017年12月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20171216201220/http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20171216102.htm 2017年12月16日閲覧。 
  11. ^ 明治39年4月17日内務省告示第38号(参照:[1])、昭和36年6月7日文化財保護委員会告示第43号及び昭和57年6月11日文部省告示第106号
  12. ^ 後奈良天皇女房奉書 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  13. ^ 気多の鵜祭の習俗 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  14. ^ 気多神社社叢 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  15. ^ a b 羽咋市の文化財(羽咋市歴史民俗資料館)。

注釈

  1. ^ 明治39年に摂社若宮神社本殿が、昭和36年に拝殿と神門が指定された。昭和57年に以上3件の重要文化財を1件に統合し、これに本殿と摂社白山神社を追加指定のうえ、指定名称を「気多神社5棟」と改めた(参照:『国宝・重要文化財建造物官報告示』、文化財建造物保存技術協会、1996)。

参考文献

関連項目

外部リンク