伊佐須美神社
伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)は、福島県大沼郡会津美里町宮林にある神社。式内社(名神大社)、陸奥国二宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 概要会津盆地南縁の宮川沿いに鎮座する、陸奥国二宮・会津総鎮守である[1]。「会津」という地名は、第10代崇神天皇の時に派遣された四道将軍のうちの2人、北陸道を進んだ大毘古命と東海道を進んだ建沼河別命とが会津で行き会ったことに由来するといわれ、2人が国家鎮護神を祀ったのが伊佐須美神社の創祀とされる。会津地方では、古墳時代前期にはすでにヤマト王権特有の大型前方後円墳が築造されており、王権勢力の東北地方への伸長の実情を考える上で重要な要素を担う神社である。 境内は広く、内部には鬱蒼とした社叢が広がる。社殿は2008年(平成20年)の火災で焼失したため、現在は仮社殿を設けたうえで再建中である。また文化財として、室町時代の朱漆金銅装神輿(国の重要文化財)を始めとする多くの社宝・天然記念物・神事を現在に伝えている。 祭神祭神は次の4柱[2]。「伊佐須美大神」や「伊佐須美大明神」と総称される[3]。 『延喜式』神名帳では祭神を1座とする[3]。『伊佐須美神社史』のほか現在の諸文献では祭神を上記4柱と記すが[3][1][4]、4柱に加え相殿神として塩釜大神・八幡大神の2柱も祀られており、右座に塩釜大神、左座に八幡大神が鎮座する。また、『奥州二宮慧日山正一位伊佐須美太明神社縁起』によると本地仏は文殊菩薩とされていた[3]。 祭神について伊佐須美神社で現在祭神とする4柱は、いわゆる四道将軍説話に関係を有する[5]。四道将軍とは、『日本書紀』[原 1]に見える伝説上の4人の将軍、大彦命・武渟川別命・吉備津彦命・丹波道主命の総称である。同書では、4人は崇神天皇10年10月[原 2]にそれぞれ北陸・東海・西道・丹波に国土平定のため派遣され、崇神天皇11年4月[原 3]に平定を報告したという。一方、『古事記』[原 4]では派遣人物・時期において異同があるが、やはり大毘古命・建沼河別命を高志道・東方十二道に遣わしたとし、さらに大毘古命・建沼河別命が行き会った地を「相津」と名づけたと地名の起源を伝える(相津は会津を指す)。 四道将軍説話については、『古事記』『日本書紀』での記述の異同の存在や、崇峻天皇2年(589年)[原 5]に近江臣満・宍人臣鴈・阿倍臣がそれぞれ東山道使・東海道使・北陸道使として派遣されたと見える記事の存在から、後世の出来事に基づく造作とする見解が強い[6]。一方で、大毘古命・建沼河別命の後裔である阿倍氏族の分布は下野から会津を経て越後へとつながっており、何らかの歴史的背景が存在したとする指摘もある[6]。併せて、会津地方には亀ヶ森古墳(河沼郡会津坂下町、東北第2位の規模)や三角縁神獣鏡を出土した会津大塚山古墳(東北第4位の規模)に代表される4世紀代(古墳時代前期)の大型前方後円墳が築かれており、早い段階でのヤマト王権の伝播が考古学の面からも指摘されている[7]。 伊佐須美神社の社伝では、上記の四道将軍説話の延長線上の伝承として、当地で行き会った大毘古命・建沼河別命父子が国土開拓祖神の伊弉諾尊・伊弉冉尊を奉斎したことに始まるとしている[5]。そのため、古くは伊弉諾尊・伊弉冉尊2柱を祭神としたが、幕末に国学者の大竹政文により大彦命・武渟川別命の2神祭神説が唱えられ、以後祭神論争が続いた[8]。現在のように4柱を祀ると定められたのは、戦後からである[8]。なお「いさすみ(伊佐須美)」という神名については、「いさなみ(伊弉冉)」の転音とする説や、大毘古命・建沼河別命2人が「いざ進み」と励まし合ったとする説があるが明らかではない[9]。 歴史創建社伝によると、崇神天皇(第10代)10年に大毘古命・建沼河別命父子はそれぞれ四道将軍の1人として北陸道・東海道に派遣され、会津で行き会った。そして会津で中央の農耕技術・先進文化を伝えたのち、国家鎮護のために福島県・新潟県境付近の天津嶽(御神楽岳、北緯37度31分18.67秒 東経139度25分33.29秒)に国土開拓の祖神である伊弉諾尊・伊弉冉尊を奉斎したのが伊佐須美神社の創祀であるという[2]。その後は博士山(北緯37度21分48.02秒 東経139度42分53.33秒 / 北緯37.3633389度 東経139.7148139度)、明神ヶ岳(波佐間山、北緯37度25分40.42秒 東経139度45分34.68秒)を経て、欽明天皇13年(552年)に高田南原(高天原;現・あやめ苑、北緯37度27分18.70秒 東経139度50分24.84秒)に遷座[2]。そして欽明天皇21年(560年)に現在地の高田東原に遷座し、社殿を創建したと伝える[2]。その社殿造営の際には、大宮司は上官の安部宿禰能基、中官は左官に赤吉宿禰公惟と右官に黒田宿禰道実の2人、さらに神主9人や検校ら多数の神官があり奉仕に携わったという[2]。このうち黒田宿禰は建沼河別命の弟と伝える[3]。 地名伝承では、以上に見える山名のうち「御神楽岳」は鎮座の際に神楽が奏されたことに、「博士山」は四道将軍が大大刀を腰に佩いて通ったため「佩かせ山」と称されたことにそれぞれ由来するという[10][11]。また、3番目の明神ヶ岳には現在も伊佐須美神社の奥宮が鎮座している。前述のように四道将軍説話の史実性は明らかでないが、御神楽岳→博士山→明神ヶ岳という道筋には越後から会津への常浪川・只見川沿いの幹線路が想定されるため、伊佐須美神社の遷座ルートは大毘古命による北陸からの侵攻路を表すという説が挙げられている[12]。また、このルート周辺では伊佐須美神社の遷座を妨害したという「千石太郎(仙石太郎/戦国太郎)」伝説が残り、この伝説にヤマト王権への恭順前の会津の様子を見る指摘もある[12][注 1]。 概史国史での初見は承和10年(843年)[原 6]で、「伊佐酒美神」の神階が無位から従五位下に昇叙されたと見える[3]。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では陸奥国会津郡に「伊佐須美神社 名神大」と記載され、名神大社に列している[3]。この会津郡は大沼郡分置前の郡で、当時の会津地方は会津郡と耶麻郡の2郡から成っていた[12]。2郡の式内社は伊佐須美神社・蚕養国神社(会津郡)、磐椅神社(耶麻郡)の3社で、それらのうち伊佐須美神社のみが名神大社に列している。また『和名抄』に見える地名として当地は「会津郡屋代郷」に比定されるが、この「屋代(やしろ)」とは「社」すなわち伊佐須美神社に由来するとされる[14]。そのほか『朝野群載』によると、康和5年(1103年)6月10日において陸奥国の代表的な神社の1つに伊佐須美神社が挙げられている[3]。 上記の磐椅神社(現・耶麻郡猪苗代町字西峰)については、国史において斉衡2年(855年)[原 7]に従四位下に加階されたと見える[5]。すなわち、9世紀中頃までは磐椅神社の方が上位であったが、9世紀後半に社格の逆転が起こり、『延喜式』神名帳がまとめられた10世紀初頭には伊佐須美神社の方が上位となったことになる[5][13]。この逆転に関しては、磐椅神社が磐梯山を祀る国津神として上位にあったのに対して、伊佐須美神社がこの時期に中央神である伊弉諾尊・伊弉冉尊を勧請して天津神に列したためとする説があり[5]、四道将軍の縁起への取り入れもこの時期と推測する説もある[13]。なお、『伊佐須美神社史』では伊佐須美神社と磐椅神社との関係について、古くは伊佐須美神社側では神籬を立てて磐椅神を迎え、磐椅神社側でも伊佐須美神を客神として祀るという相補関係にあったと伝える[2]。 中世には、伊佐須美神社は陸奥国の二宮の地位にあったとされる[4]。中世期の様子を伝える史料は少ないが、『塔寺八幡宮長帳』の裏書において15世紀の動向が確認されるほか[3]、現在に伝わる文化財数点に領主蘆名氏からの崇敬の様子が見られる。社地としては、中世には蘆名氏から300貫文を、近世には会津藩主の松平氏から30石を受けた[1]。また、別当寺として暦応2年(1339年)の開基という清滝寺が存在したが、寛文7年(1667年)の神社改めで社地からは除かれている[3]。 また文献によれば、次のように社殿の焼失と再建を繰り返している[15]。
1873年(明治6年)6月13日には、近代社格制度において国幣中社に列した。また1900年(明治33年)から1916年(大正5年)には、会津藩主松平容保次男の松平健雄が宮司に就いたことが知られる[3]。 戦後は神社本庁の別表神社に列しているほか[16]、全国一の宮会により「新一の宮」として岩代国一宮に認定されている。2008年(平成20年)10月3日には火災により拝殿・授与所が焼失し、同年10月29日にも火災で本殿・神楽殿・神饌所などが全焼したため、現在の本殿・拝殿等は再建中である(2014年8月現在)。 神階宝物の御正体円鏡の銘には「奥州二宮正一位伊佐須美大明神、大同四年(809年)己丑大旦那義清」と記されていたというが、この鏡は文亀3年(1503年)に焼失しており詳細は不明[16]。この火災で宣命・位記も焼亡したので、天文20年(1551年)に僧智鏡が京に上って「正一位」の宣旨・扁額を賜ったというが、これものちに焼亡している[16]。 境内本社境内は0.66ヘクタール(2万坪)で、内苑0.33ヘクタール(1万坪)と外苑0.33ヘクタール(1万坪)からなる[17]。 社殿主要社殿は2008年(平成20年)の火災で焼失したため、現在は拝殿跡に建てられた仮社殿をして祀られている。 焼失した旧社殿は1899年(明治32年)の造営[18]。旧本殿は三間社流造で、これに幣殿で接続された旧拝殿は七間社流造銅板葺であった[18]。楼門は平成元年(1989年)の造営で、上記の火災は免れ現存している[18]。この楼門の造営に際しては、それまで使用されていた神門が東に移されている(現・東神門)[18]。
社叢境内の林は神域として立ち入りが禁じられていたため、自然林が保たれている[19]。特に宮川沿いの東側は巨木が多く、ハルニレ・ケヤキ・キタコブシ・アオナラガシワが自生する[19]。また、低木としてもアブラチャン・ニワトコ・チマキザサが、草ではエゾエンゴサク・ニリンソウなどの植物がある[19]。これらの植生は会津開拓前の生態を表し植物学的・民俗学的に重要であるとして、社叢は会津美里町指定天然記念物に指定されている[19]。 玉垣内では、本殿跡東方にフジ(藤)の巨木が立つ。このフジはシラカシ等に巻き付きながら約35メートル以上の高さまで伸びており、「飛竜の藤」とも称される[20][21]。樹齢は100年以上あるとされ、根回りは2メートル以上になる[20]。福島県内ではまれな巨木のフジであり、福島県指定天然記念物に指定されている[20]。このフジのそばには、天海が天正6年(1571年)に母の病気平癒祈願として植えたヒノキと伝える「天海僧正手植檜」も立っている[22]。 楼門そばには、会津五桜の1つ「薄墨桜(うすずみざくら)」が立つ[23]。学名は「アイヅウスズミ」[24]。花びらは八重に一重が交わり、初めは薄墨を含んだ白色であるが、時期が進むに連れて紅色を帯びていく[24]。社伝では、伊佐須美神が明神ヶ岳から遷座して以来の神木であるといい、毎年春の花祝祭ではこの花を入れて搗いた餅で祝宴が催される[23]。この薄墨桜は会津美里町指定天然記念物に指定されている[24]。 このほか、境内南の道路を挟んだ地には神苑の「あやめ苑」がある。この地は、伊佐須美神が明神ヶ岳から遷座した際に最初に鎮座した「高天原(高田南原)」の地であるといわれ、伊佐須美神は当地に欽明天皇13年から21年(552年-560年)の間鎮座したとされる[25][2]。苑内には約150種・10万株のあやめが植えられており、これらの花が見頃を迎える6月15日から7月5日には「あやめ祭り」が催される[26][27]。
奥宮奥宮は会津美里町西本字明神岳(北緯37度25分37.26秒 東経139度45分41.29秒 / 北緯37.4270167度 東経139.7614694度)に所在し、明神ヶ岳山頂付近の東側に石祠が鎮座する[28]。 奥宮の地は伊佐須美神の旧鎮座地といわれ、社伝では伊佐須美神は博士山から奥宮の地へ、そして奥宮の地から高田南原へと移ったという[28]。奥宮の地では古くは自然石1個をして神座跡と伝えていたが、寛保4年(1744年)に現在に見る高さ115センチメートルの石祠が建てられた[28]。 この奥宮の地は、伊佐須美神の信仰が低地文化の発展とともに山岳から平地に移ったことを示すものであるとされ、「伊佐須美神社奥宮の地」として会津美里町指定史跡に指定されている[28]。 摂末社境内社境外社『伊佐須美神社史』[29]では、境外摂末社として次の12社を載せる。
祭事年間祭事一覧
伊佐須美神社で年間に行われる祭事の一覧[30][31]。大祭と重要神事は太字で表した。
文化財重要文化財(国指定)
重要無形民俗文化財(国指定)福島県指定文化財
会津美里町指定文化財
現地情報所在地 付属施設
交通アクセス
周辺
脚注注釈
原典出典
参考文献・サイト
書籍
サイト
関連文献
関連項目外部リンク
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