大航海時代。大西洋を渡り新世界に到達したコロンブス。
マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。
太陽の石。1479年にアステカ帝国皇帝アシャヤカトルが現メキシコシティの中央広場の位置に奉献したもの(メキシコ国立人類学博物館蔵)。
後期ミシシッピ文化。北アメリカでは1450年代にはカホキア遺跡にみられる巨大建築物マウンドでの祭祀が停滞し、社会が大きく変容した。画像はこの時代に作られた中空土器の水差しで、神話上の水中豹を表している(アーカンソー州クロス郡出土)。
香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。
エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子とされているが異論もある。
インド洋の活況。東アフリカ沿岸部ではキルワ王国などイスラム諸王朝がインド洋航路を保持し、それに伴い中国の明やポルトガルの船も姿を現していた。画像はキルワの大モスク跡。
サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。
ビフザード。ティムール朝からサファヴィー朝のヘラートで活躍した細密画家で、その巧緻な技術で「第二のマニ」とも呼ばれている。画像はサアディー『果樹園』のユースフとズライハ」の挿絵。
コンスタンティノポリスの陥落。オスマン帝国のメフメト2世の占領により、1000年以上続いてきた東ローマ帝国はここに滅亡した。画像はジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタンの歴史画(トゥールーズのオーギュスタン美術館蔵)。
ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。
グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。
正義王マーチャーシュ。ハプスブルク家に勝って領土の保全に力を尽くし、ルネサンス文化を導入して黄金期の立役者となった賢君。画像は『ハンガリー年代記(英語版)』の挿絵に描かれた正義王。
ヨーロッパの機械式時計。中世末期には歯車や脱進機の性能が向上し各地に大規模な時計が作られた。画像は「プラハのオルレイ」と呼ばれる天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。
プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。
オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。画像は15世紀に描かれたジャンヌの肖像のミニアチュール(フランス国立中央文書館蔵)。
薔薇戦争。百年戦争に敗北したイングランドでは続いて薔薇戦争が起こった。画像はヘンリ・ペイン(英語版)の歴史画で、ヨーク公リチャードが白薔薇を、サマセット公エドムンドが赤薔薇を選んでいる(バーミンガム市美術館)。
魔女のイメージの拡散。15世紀には魔女のイメージが変容して、「キリスト教徒の敵」としての位置づけがなされるようになり、異端審問官が介入する魔女裁判がしばしば行われた。画像は棒や箒にまたがった魔女図像の最初期のものでマルタン・ル・フラン(フランス語版)の長編詩『女性の擁護者』の写本(1451年頃)より。
活版印刷の始まり。ドイツのマインツの技術者ヨハネス・グーテンベルクの発明が世界の情報を大きく変革した。画像はベルリン国立図書館所蔵の『グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。
帝国都市ニュルンベルク。神聖ローマ皇帝の滞在地として、帝国議会の開催地として、宗教改革が起こるまで繁栄の時代が続いた。画像は1493年に出版されたハルトマン・シェーデル『ニュルンベルク年代記』の挿絵に描かれた都市ニュルンベルクの眺望。
『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母(ルーヴル美術館蔵)」。ニコラ・ロラン(英語版)はこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。
フィレンツェ共和国の繁栄。画像はブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。
人文主義者たち。古典古代への憧れが人文主義を育み、数多くの学者や著作家を生み出した。画像はドメニコ・ギルランダイオの「神殿のザカリアス(サンタ・マリア・ノヴェッラ教会トルナブオーニ礼拝堂壁画)」に描かれたマルシリオ・フィチーノら人文主義者たち。
ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。
レコンキスタの完了。カトリック両王(カスティーリャ女王イサベルとアラゴン王フェルナンド)によりイベリア半島のイスラム系王朝支配は終わった。画像はフランシスコ・プラディリャ・オルティスの歴史画「グラナダ征服」(スペイン上院蔵)。
サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。
アユタヤ朝の発展。スコータイ朝に代わりタイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。
マラッカ王国と大交易時代。中国の明や東南アジア諸国そしてポルトガルを惹きつけたのがこの時代随一の港市国家となったマラッカである。画像はマラッカ王国のスルタン・マンスール・シャー(英語版)に仕え、この国の黄金時代を支えたマレー人の国民的英雄ハン・トゥア(英語版)のブロンズ像。
万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。
明の永楽帝。靖難の変により甥の建文帝から帝位を奪うと都を根拠地の北京に定めた。漠北への五度の親征や、宦官鄭和を派遣しての南海大遠征を通じて明の威光を周辺諸国に知らしめた傑出した君主であった。
鄭和の南海大遠征。永楽帝は明の国威を示すため、大艦隊をインド洋沿岸に派遣した。画像はベンガルから朝貢されたキリンを描いた「瑞応麒麟図」。
明代の宮廷画家たち。明の初期には宮廷画家が画壇の中心となり、写実的な巧緻さを保ちつつ絢爛で装飾的な画風を確立した。画像は1413年に描かれた辺文進(中国語版)の「三友百禽図」(台湾故宮博物院蔵)。
「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北国立故宮博物院蔵)。
万国津梁の鐘。1458年に琉球王国の尚泰久王が鋳造させた釣鐘で、「舟楫を以て万国の津梁となす」と刻まれた銘文は海洋国家琉球の気概を示すものとして名高い。現在は沖縄県立博物館・美術館に展示されている。
如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。
「万人恐怖」。籤引きにより六代将軍に選ばれた足利義教は強権的な政治を行い「万人恐怖」と恐懼された。しかしそれが仇となって赤松満祐による嘉吉の乱で非業の死を迎えることになる。画像は愛知県妙興寺にある将軍義教の肖像画。
慈照寺銀閣。室町将軍足利義政は応仁の乱を引き起こすなど政治的才覚に欠けたが、東山山荘に隠棲してわびさびの文化を極めた。将軍義政が賞翫した蒐集品は「東山御物」として珍重されることになる。
応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。
枯山水の庭。応仁の乱で東軍の総帥を務めた管領細川勝元は深く禅宗に帰依し、1450年に京都北西衣笠山山麓に創建したのが竜安寺である。この方丈庭園は禅の思想に基づくもので、1500年頃までに現在の形になったと伝える。
一休宗純。後小松天皇の落胤との出自に加え、五山の禅風に対する苛烈な批判精神と奇行で、一休宗純はこの時代きっての禅者として評価が高い。詩文を能くし『狂雲集』などでも有名である。画像は東京国立博物館所蔵の一休宗純の頂相。
15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。
15世紀の歴史
世界
ヨーロッパでは1453年、オスマン帝国により東ローマ帝国が滅ぼされ、古代から続いてきたローマ帝国は完全に滅亡した(これを以て「中世の終わり」とする場合がある)。オスマン帝国の勢力が拡大し地中海の交易を支配すると、15世紀中頃から新たな交易ルートの開拓を目指して、ポルトガル・スペインを中心に航海ブームが起き、大航海時代に突入した。1492年、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達すると大きな転機となり、ヨーロッパ諸国はしのぎを削って新大陸への進出を開始することとなる。
またフィレンツェ・ミラノ・ヴェネツィア・ローマ・ナポリの連携によるローディの和約はイタリア半島の安定をもたらし、哲学・科学・芸術などにおけるルネサンス文化は各地で発展が見られた。その影響はアルプス以北の西ヨーロッパ諸国にも及び北方ルネサンスが形成された(イタリア・ルネサンス年表も参照のこと)。
石炭がエネルギー源、暖房用として大変重要になった[1]。
日本
室町時代の中期にあたる。応仁の乱(1467年)、または明応の政変(1493年)以後は戦国時代に区分される場合もある。戦国時代には室町幕府権力の著しい低下、幕府と守護の体制の崩壊などにより、戦国大名の乱立が起き全国動乱の時代に突入した。この動乱は約1世紀に渡り続くことになる。
できごと
1400年代
- 1401年
- 1402年
- 1403年
- 1404年
- 1405年
- 1406年
- 1407年
- 1408年
- 「永楽大典」が成立する。
- 足利義満死去。朝廷から「太上天皇」の尊号を贈られるが、幕府はこれを辞退。
- 1409年
1410年代
- 1410年
- 1411年
- 1412年
- 1413年
- 1414年
- 1415年
- 1415年以前
- 1416年
- 1417年
- 1418年
- 1419年
1420年代
- 1420年
- 1421年
- 明の永楽帝が北平を北京と改名し正式に遷都する。
- 尚巴志王が中山王に就く。
- 1422年
- 1423年
- 1424年
- 明の洪熙帝が第4代皇帝に即位。
- 朝鮮で世宗の仏教弾圧(斥仏揚儒の始まり)。
- 1425年
- 明の宣徳帝が第5代皇帝に即位。
- 将軍足利義量が死去、先代将軍であり父の足利義持が職務を代行。
- 1426年
- 1428年
- 1429年
1430年代
- 1430年
- 1431年
- 1432年
- 1433年
- 1434年
- 1435年
- 1436年
- 1437年
- 1438年
- 1439年
1440年代
- 1440年
- 1441年
- 1442年
- 1443年
- 1444年
- 1445年
- 1446年
- 1448年
- 1447年
- 1449年
1450年代
- 1450年頃
- 1450年
- 1451年
- この年までに鄭和の南海遠征を記録した馬歓の『瀛涯勝覧』がまとめられる。
- グラスゴー大学の創設。
- 尚金福王の命を受け懐機が那覇から沖縄本島の安里川側までの間に「長虹堤」と呼ばれる長さ1kmに及ぶ堤道を建設させる。
- 1452年
- ローマで神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の戴冠式と結婚式(ローマで行われた神聖ローマ皇帝の最後の戴冠式)。
- 1452年 - 1453年
- 1453年
- 1454年
- 1455年
- 1456年
- 復権裁判法廷により処刑されたジャンヌ・ダルクの無罪が宣告される。
- 1457年
- 1458年
- 1459年
1460年代
- 1460年
- 1461年
- 1462年
- 1463年
- 1464年
- 1465年
- 1466年
- 1467年
- 1468年
- 1469年
1470年代
- 1470年
- 1471年
- 1472年
- 1473年
- 山名宗全と細川勝元が相次いで死去。足利義尚が室町幕府第9代将軍となる。
- 1474年
- 1475年
- 1476年
- 1477年
- 1478年
- 1479年
1480年代
- 1480年
- 1481年
- 1482年
- 足利義政が東山山荘(その一部が現在の慈照寺銀閣)の造営を始める。
- 1483年
- 1484年
- 1485年
- 1486年
- 1487年
- 1488年
- 1489年
1490年代
- 1490年
- 足利義政死去。足利義材が室町幕府第10代将軍となる。
- ハンガリー王マーチャーシュ1世急死、ハプスブルク家のフリードリヒ3世がウィーンを奪還。
- 1491年
- 1492年
- 1493年
- 1494年
- 1495年
- 1496年
- ローマ教皇アレクサンデル6世により、スペイン国王夫妻フェルナンドとイサベルが「カトリック両王」の称号を授けられる。
- 1497年
- 1498年
- 1499年
1500年代
人物
キリスト教世界
フランス・フランドル
イングランド
神聖ローマ帝国
ローマ教皇・イタリア
イベリア半島
東ローマ帝国
東欧
ロシア
イスラム世界
南アジア
東南アジア
東アジア
明
大越
モンゴル
朝鮮
琉球
日本
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、15世紀に関するカテゴリがあります。