ゲンナディオス2世スホラリオス (ギリシア語 : Γεννάδιος Β΄ Σχολάριος , 1400年 頃 - 1468年 頃?[ 1] )は、コンスタンティノープルの陥落 後の正教会 のコンスタンディヌーポリ総主教(コンスタンティノープル総主教) 。
コンスタンティノープル の支配者が東ローマ帝国 からオスマン帝国 に移行した時代における最初のコンスタンディヌーポリ総主教である[ 2] 。また、優れた哲学者 ・神学者 でもあった。
俗名はゲオルギオス・スホラリオス (ギリシア語 : Γεώργιος Σχολάριος )。姓である"Σχολάριος "は古典ギリシャ語再建 音からはスコラリオス とも転写できる。修道名 ゲンナディオスと俗名を組み合わせてゲンナディオス・ゲオルギオス・スコラリオス と表記される事もあるが[ 3] 、このように修道名と俗名を組み合わせた表記は他言語および正教会では一般的ではない。
生涯
コンスタンティノープルの陥落まで
コンスタンディヌーポリ(コンスタンティノープル) に1400年頃[ 2] 生まれ、同地で教育を受ける。マルコス・エヴゲニコスに学ぶ。アリストテレス 哲学の教養を備え、同時代人より西方教会 の神学に明るかった[ 4] 。
哲学を講じた後、東ローマ帝国 皇帝ヨアニス8世パレオロゴス のもとで裁判官を務めた[ 2] 。
フィレンツェ公会議 では当初、東方教会 と西方教会との合同に賛成していたが、師マルコスの説得により自己の過ちを認めて意見を変え、師マルコスの死後、時のコンスタンディヌーポリ総主教 (ミトロファニス2世 : 1440 -1443 、グリゴリオス3世 : 1443 -1450 )が合同賛成派であった際に、合同反対派のリーダーとなった。グリゴリオス3世によって職を追われた後、修道士 となり修道名 ゲンナディオス を受ける(グリゴリオス3世はその後、1451年 にローマ に亡命した)。東西教会 合同反対派リーダーとしてのゲンナディオスの立場は、その後も変わらなかった[ 4] 。
コンスタンティノープルの陥落以降
アギア・ソフィア大聖堂 の夜景。周囲の4本のミナレット は、モスク に改修された際に付け加えられた。博物館を経て、現在は再びモスク。
1453年 5月29日 、オスマン帝国 のメフメト2世 による侵攻により、コンスタンティノープルが陥落 した。
メフメト2世はアギア・ソフィア大聖堂 をはじめとする多くの正教会 の聖堂 を接収してイスラーム のモスク に改修するなど正教への抑圧策をとる一方で、拡大する領土における正教徒 (主にギリシャ人 )を懐柔・統括するために、信頼の置ける総主教を必要としていた[ 4] 。
人選が行われ、ゲンナディオスが適任とされるに至った。ゲンナディオスはその時、コンスタンティノープル陥落時に奴隷の身分に落とされてエディルネ(アドリアヌーポリ) でトルコ人貴族のもとに居たが、メフメト2世の命令で解放された[ 4] 。
1454年 1月、ゲンナディオスは総主教 に着座。権杖 、十字架 、ローブはメフメト2世が与えた。座所は接収されたアギア・ソフィア大聖堂ではなく十二使徒聖堂 (英語版 ) (Church of the Holy Apostles) に定められた[ 4] 。
その後総主教職から一旦退きアトス山 に一時的に滞在した後、セレス にある前駆授洗イオアン 修道院 に入ったが、その後2回呼び戻されて復職(1462 -1463 、1464 )。オスマン帝国時代のコンスタンディヌーポリ総主教には離職と復職を繰り返した者が珍しくなかったが、ゲンナディオスはその最初の例である。これはオスマン帝国治下では総主教 が継続して在任出来る年数に制限が設けられたためである。ゲンナディオスは在任中、オスマン帝国のもとで正教徒に係る司法等を担いつつ、正教徒の権利保護のために尽力した[ 4] 。
永眠した年ははっきりしていない。
学者・著述家として
ゲンナディオスは優れた哲学者 ・神学者 でもあった。ゲンナディオスがアリストテレス 哲学を、プラトニズム 、およびゲミストス・プレトン から守ろうとした事は、巷間に散見される、西方教会 の神学 をアリストテレス哲学と結び付け、東方教会 の神学 をプラトン 哲学に結び付けるといった、通俗的解釈傾向が誤っていることの証拠となる[ 4] 。
東西教会 の合同に反対するようになってからは、フィリオクェ問題 に関連する著作も書いた[ 2] 。ゲンナディオスはトマス・アクイナス の著作のギリシャ語訳と解釈も行った事にもみられるように、西方教会の神学・哲学に対して師マルコスと同様に明るく、その上で精力的に西方教会の考え方を批判した。またユダヤ教 やイスラーム に対しても批判する論文を遺した[ 2] 。
メフメト2世 からその学識により尊敬を勝ち得ていたゲンナディオスは、メフメト2世の求めに応じて正教信仰についての著作『告白』を手紙型式で著した。当初版はギリシャ語 ・ラテン語 であったが、まもなくトルコ語 に翻訳された。1530年 にはウィーン で、1582年 にはフランクフルト で出版された。正教徒宛の手紙という形式をとった著作も晩年に残している[ 2] 。
文学作品への登場
塩野七生 による小説『コンスタンティノープルの陥落』(新潮文庫 )の中に、東西教会 合同反対派のリーダーとして登場する。
脚注
参考文献
"The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5), p208 - p209, ISBN 9780631232032
関連項目
外部リンク