紀元前1世紀(きげんぜんいっせいき、きげんぜんいちせいき)は、西暦による紀元前100年から紀元前1年までの100年間を指す世紀。紀元前を区分する最後の世紀でもあり、紀元1世紀の直前の世紀である。「紀元0世紀」というものは存在しない。
なお、天文学やISO 8601では、紀元前1年を西暦0年と定めている(詳細は「紀元前1年#西暦0年」または「0年#西暦0年」を参照のこと)。
できごと
紀元前100年代
紀元前90年代
紀元前80年代
紀元前70年代
紀元前60年代
紀元前50年代
- 紀元前59年
- 紀元前58年 - カエサルがガリア戦争を開始(- 紀元前51年)。
- 紀元前56年 - ルッカ会談でカエサルとポンペイウスとクラッススが密約を行う。
紀元前40年代
- 紀元前49年 - ローマ元老院がカエサルに「元老院最終勧告」を下す。
- 紀元前48年 - ファルサロスの戦いでカエサルがポンペイウスを破る。
- 紀元前47年
- 紀元前46年
- 紀元前45年 - ムンダの戦いでカエサルが小ポンペイウスと元老院派に勝利し、ローマ内戦を終結させる。
- 紀元前44年
- 紀元前43年
- 紀元前42年
- 紀元前42 - 20年頃 - ヘレニズム時代の彫刻「ラオコーン像(ヴァチカン美術館(ピオ・クレメンティーノ美術館)蔵)」が作られる。
紀元前30年代
- 紀元前37年 - エルサレム攻囲戦。
- 紀元前37年頃 - 『三国史記』によると東明聖王高朱蒙により高句麗が建国される。
- 紀元前36年
- 紀元前33年 - 匈奴の呼韓邪単于が再び前漢に入朝し、王昭君が呼韓邪単于に嫁ぐ。
- この時期に前漢の領土は最大となる。元帝が死去し、成帝が即位。
- 紀元前32年 - オルメカの祭祀センターのトレス・サポーテスの石碑Cの日付。
- 紀元前31年 - アクティウムの海戦でオクタウィアヌスがアントニウス・クレオパトラ連合軍を破る。
- 紀元前30年 - クレオパトラ7世が自殺し、息子カエサリオン(プトレマイオス15世)が殺害される。
紀元前20年代
- 紀元前27年
- 紀元前27年頃 - 前漢が夜郎を滅ぼす。
- 紀元前25年
- 紀元前25年頃
- 紀元前22年 - ローマ帝国に南インドのパーンディヤ朝の使者が到着。
- 紀元前20年頃 - ヘロデ大王がエルサレム第二神殿の修繕と大拡張工事を行う(ヘロデ神殿)。
紀元前10年代
- 紀元前19年 - カンタブリア人の反乱が鎮圧され、その領土が属州ヒスパニア・タラコネシスに編入される。
- 紀元前19年頃 - アグリッパの命で水道橋ポン・デュ・ガールが架けられる。
- 紀元前18年 - ユリウス姦通罪/渉外交渉罪法とユリウス正式婚姻法が成立する。
- 紀元前16年 - ローマがノリクムに遠征し、属州ノリクムが設置される。
- 紀元前15年 - ローマがラエティアに遠征し、属州ラエティアが設置される。
- この地の首府アウグスタ・ウィンデリコルム(現アウクスブルク)が建設される。
- 紀元前13年 - ローマのマルケッルス劇場が完成する。
- 紀元前12年
- 紀元前12年頃
紀元前0年代
- 紀元前後
- モンゴル高原北部のノイン・ウラの匈奴の墓が築かれる。
- 倭人が百余国に分かれて、一部の国が前漢の楽浪郡に朝献する(『漢書』地理誌)。
- 日本:弥生時代
- 弥生文化が関東地方に波及する。
- 近畿地方を中心に銅鐸、西日本に青銅製武器形祭器による祭祀が行われる。
階層の秩序化すすむ。
- 関東地方や東北地方南部に縄文時代の一墓制である再葬墓が見られる。
- 北部九州では甕棺墓が盛行し、その中の一部のものが多くの前漢鏡を副葬する。
- 北部九州では、鉄器や鉄製農具が使用される。また吉野ヶ里遺跡のような巨大集落現れる。
- 北部九州勢力と畿内勢力の間で、鉄の獲得のための軍事的緊張が高まる。
人物
共和政ローマから帝政ローマ
ヘレニズム国家と西アジア
南アジア
東アジア
前漢
- 武帝(前156年 - 前87年) - 前漢の皇帝(在位前141年 - 前87年)・匈奴征討など積極外交策を行う・治世後期は内政再建を実施
- 桑弘羊(前152年 - 前80年) - 前漢の政治家・財政家・武帝に仕え均輸法・平準法・専売制の実施など財政改革を行う
- 蘇武(前140年頃? - 前60年) - 前漢の官僚・使者として匈奴に赴くが捕縛され帰順を拒んで20年近く抑留される
- 李広利(? - 前88年) - 前漢の軍人・武帝の命で汗血馬を求め大宛を攻略・後年は匈奴に降伏し粛清される
- 司馬遷(前145年 - 前87年) - 前漢の歴史家・『史記』の著者・武帝の前で李陵を弁護して怒りを買い宮刑に処せられる
- 李陵(? - 前74年) - 前漢の軍人・李広利の救援に急ぐが匈奴と戦い敗北・降伏した後は匈奴の右校王となる
- 江充(? - 前91年) - 前漢の官僚・巫蠱の禍により劉拠を失脚させんとして太子に斬殺される
- 劉屈氂(? - 前90年) - 前漢の丞相・皇族で武帝の甥・戾太子の反乱を鎮圧・帝位継承で李広利との密約が露見し処刑される
- 金日磾(前134年 - 前86年) - 前漢の政治家・もとは匈奴の休屠王の太子・武帝の信任を得て霍光らと昭帝を補佐する
- 霍光(? - 前68年) - 前漢の政治家・大将軍・武帝亡き後の昭帝を補佐・その後は昌邑王劉賀を廃し宣帝を擁立
- 劉旦(? - 前80年) - 前漢の皇族(燕王)・武帝の子で昭帝の異母兄・上官桀らと霍光打倒の反乱を起こすが鎮圧される
- 上官桀(? - 前80年) - 前漢の政治家・将軍・霍光らとともに昭帝の補佐をするが後に反目・霍光打倒の反乱を起こすが鎮圧される
- 丙吉(? - 前55年) - 前漢の丞相・もとは獄吏だったが巫蠱の獄に際し戾太子の孫(後の宣帝)を庇護した功で昇進し善政を行う
- 宣帝(前91年 - 前49年) - 前漢の皇帝(在位 前73年 - 前49年)・武帝の曾孫・戾太子の孫・前漢中興の祖とも呼ばれる
- 鄭吉(? - 前48年) - 前漢の軍人・西域南道と西域北道を併せて統括する西域都護の初代として安遠侯に封じられる
- 呼韓邪単于(? - 前31年) - 匈奴の単于・匈奴の内紛のため前漢に帰順し宣帝と会見・後に元帝時代にも入朝
- 戴徳(生没年不詳) - 前漢の儒者・宣帝の治世に「礼」の記録を整理し「大戴礼」を編纂・甥の戴聖(小戴)に対し大戴と呼ばれる
- 桓寛(生没年不詳) - 前漢の官僚・始元6年の「塩鉄の議」の記録を宣帝の時代に『塩鉄論』としてまとめたことで知られる
- 劉向(前77年 - 前6年) - 前漢の学者・政治家・宣帝から成帝に仕え『説苑』『列女伝』を著す
- 王昭君(生没年不詳) - 前漢の宮女・元帝時代に匈奴の呼韓邪単于の入朝に選ばれてその妻女となる
- 王政君(前71年 - 13年) - 前漢の元帝の皇后で成帝の生母・外戚の王氏一族を伸張させる・甥王莽の帝位簒奪には反対した
- 王鳳(? - 前22年) - 前漢の政治家・王政君の兄弟は「五侯」として列侯に封じられたがその中心として大司馬大将軍となる
- 趙飛燕(? - 前1年) - 前漢の成帝の皇后・歌舞音曲に通じ成帝の寵を得る・稗史『飛燕外伝』では傾国の美女とされている
- 王莽(前45年 - 23年) - 前漢の政治家・外戚として権力を握り哀帝没後に平帝を擁立・前漢を簒奪して新王朝を立てる
高句麗
伝説・架空のできごと
- 紀元前93年以降 - 前漢の武帝に仕えた東方朔は滑稽でありながら機知に富んだ人物であったが、崑崙山の仙女西王母が植えた三千年に一度しかならない桃の実を三つも盗んで、八千歳の長寿を得たという(『漢武故事』)。
- 紀元前50年頃 - ユリウス・カエサルによりガリアのほとんどがローマの支配下に編入された中にあってアステリックスとオベリックスらの仲間たちが自分たちの村を知恵と勇気で守り抜いている(ルネ・ゴシニとアルベール・ユデルゾ『アステリックス』)。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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