ルキウス・ユリウス・カエサル (紀元前90年の執政官)
ルキウス・ユリウス・カエサル(ラテン語: Lucius Iulius Caesar、紀元前135年頃 - 紀元前87年)は共和政ローマ期の政務官。紀元前91年からの同盟市戦争中に「ラテン人と同盟市への市民権付与に関するユリウス法 (Lex Iulia de civitate Latinis et sociis danda)[2]」を通過させた。父は同名のルキウス・ユリウス・カエサル。ガイウス・ユリウス・カエサル・ストラボ・ウォピスクス(紀元前90年のアエディリス・クルリス)は弟の可能性がある。 経歴紀元前95年にプラエトルに選出され[3]、翌年プロコンスルとしてマケドニアを担当した[4]。 同盟市戦争中の紀元前90年に執政官に選出され、イタリア南部の指揮を執り、サムニウム人と戦ったとされるが、古代の記録には前年の執政官セクストゥス・カエサルとの混同がみられる。また、ローマに忠実な同盟市に対してローマ市民権を付与する「ユリウス法」を提案、可決させた[1]。 紀元前89年にケンソルに選出された。同僚はプブリウス・リキニウス・クラッスス。彼らは恐らくマルクス・アエミリウス・スカウルスをプリンケプス・セナトゥス(元老院第一人者)に再指名し、ケンスス(国勢調査)完了の儀式(ルストルム)を行なったようだが、ケンスス自体は未完だった。ルキウスはイリオスの税金を免除した[5]。アッピアノスによれば、新たにローマ市民となった同盟市市民は既存の35トリブス(選挙区)ではなく、新設の10トリブスに登録されたという[6]。 紀元前87年にガイウス・マリウスとルキウス・コルネリウス・キンナの党派がローマ市を占領すると、ルキウスはマルクス・アントニウス・オラトル、カエサル・ウォピスクスらと共にマリウス派によって殺害され、首級はロストラに晒されたとティトゥス・リウィウスは伝えている[7]。 ルキウスには同名のルキウス・ユリウス・カエサル (紀元前64年の執政官)とユリアの2人の子供が知られている。 出典参考文献
関連項目
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