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この項目では、中国の大司馬について説明しています。イングランドの大司馬については「大司馬 (イングランド)」をご覧ください。 |
大司馬(だいしば)は、中国の王朝の官職の一つ。主に軍事を取り仕切り、現在の役職に例えれば国防長官である。ただし、その上に大将軍職が設けられる場合もあった。
概要
春秋戦国時代では、兵馬(軍事)を司る省の長だったようである。
秦代には太尉と呼ばれていた武官の職である。
前漢では、三公(三つの最高官職の内の一つ)の中の一つであった。恵帝6年(紀元前189年)に周勃が太尉となったのが漢での最初である。武帝の建元2年(紀元前139年)に田蚡が免官されて以後は太尉は置かれず、事実上の廃止となる。武帝の元狩4年(紀元前119年)に大将軍衛青と驃騎将軍霍去病を並立させるため、初めて大司馬が霍去病に与えられ、将軍号に冠した。宣帝の地節2年(紀元前68年)に、大司馬・大将軍霍光が亡くなると、宣帝はその子の霍禹を単に大司馬とし、将軍号を削って兵権を奪った。この時のみ大司馬には兵権が無かった。その後も三公での順位や将軍号の有無の変遷があったが、大司馬の職位は続いた。
新の王莽を打倒した更始帝も大司馬を置き、劉秀は当初、兼務の行大司馬として河北に渡った。劉秀が皇帝に即位すると、また大司馬を置き、呉漢が任じられた。
後漢の建武27年(51年)に太尉に置き換わった。
魏・晋には、太尉と並立しながらも三公より格上の職として復活し、曹仁などの大物が就任した。
大司馬就任者の一覧
漢代
前漢
注記のない限り『漢書』百官公卿表による。
新
新末後漢初
名前
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将軍号
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君主
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就任
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退任
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前職
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退任理由
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備考
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朱鮪
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(なし)
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更始帝
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更始元年2月辛巳
(23年)
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建武元年9月辛卯
(25年)
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光武帝に降伏
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更始2年より左大司馬
[3][4]
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(劉秀)
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破虜将軍
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更始元年9月
(23年)
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建武元年6月己未
(25年)
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司隷校尉
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皇帝即位
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行大司馬事
[3]
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(劉賜)
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(なし)
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更始2年
(24年)
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更始3年9月
(25年)
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丞相
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政権崩壊
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前大司馬
[4]
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(趙萌)
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(なし)
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更始2年
(24年)
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更始3年9月
(25年)
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政権崩壊
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右大司馬
[4]
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荘尤
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(なし)
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劉望
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更始元年8月
(23年)
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更始元年10月
(23年)
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政権崩壊
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新でも大司馬
[2][4]
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李育
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(なし)
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王郎
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更始元年12月
(23年)
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更始3年
(25年)
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政権崩壊
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[5]
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(逄安)
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(なし)
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劉盆子
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建世元年6月
(24年)
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建世3年閏月丙午
(27年)
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光武帝に降伏
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左大司馬
[6]
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(謝禄)
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(なし)
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建世元年6月
(24年)
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建世3年閏月丙午
(27年)
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光武帝に降伏
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右大司馬
[6]
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弓林
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(なし)
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劉嬰
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更始3年正月
(25年)
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更始3年
(25年)
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政権崩壊
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[4]
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蘇茂
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(なし)
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劉永
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建武2年
(26年)
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建武5年
(29年)
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更始討難将軍
(光武帝)
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政権崩壊
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[7]
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後漢
三国時代
曹魏
蜀漢
孫呉
参考文献
脚注
- ^ a b c d e f 『漢書』王莽伝中
- ^ a b c d 『漢書』王莽伝下
- ^ a b c d 『後漢書』光武帝紀
- ^ a b c d e 『後漢書』劉玄伝
- ^ 『後漢書』王郎伝
- ^ a b 『後漢書』劉盆子伝
- ^ 『後漢書』劉永伝
- ^ 『後漢書』呉漢伝
- ^ a b c 『後漢書』献帝紀
- ^ 『後漢書』董卓伝所引『献帝起居注』
- ^ 『三国志』蜀書2 先主伝
- ^ a b 『三国志』魏書2 文帝紀
- ^ a b 『三国志』魏書82 公孫度伝
- ^ 『三国志』魏書9 曹仁伝
- ^ a b c 『三国志』魏書2 明帝紀
- ^ 『三国志』魏書9 曹休伝
- ^ 『三国志』魏書9 曹真伝
- ^ 『三国志』蜀書3 後主伝
- ^ 『三国志』蜀書14 蔣琬伝
- ^ a b c 『三国志』呉書2 呉主伝
- ^ 『三国志』呉書11 呂範伝
- ^ a b 『三国志』呉書11 朱然伝
- ^ 『三国志』呉書15 全琮伝
- ^ a b 『三国志』呉書3 孫亮伝
- ^ 『三国志』呉書15 呂岱伝
- ^ 『三国志』呉書19 孫綝伝
- ^ a b c 『三国志』呉書3 孫晧伝
- ^ 『三国志』呉書13 陸遜伝
関連項目