カスペの妥協カスペの妥協(カスペのだきょう、スペイン語:Compromiso de Caspe、カタルーニャ語:Compromís de Casp)は、1412年にカスペで成立した、アラゴン王国、カタルーニャ君主国、バレンシア王国(これらはアラゴン連合王国を構成する)の各国代表による決議およびその合意内容のこと。これは1410年にバルセロナ家のアラゴン王マルティン1世が後継者を定めないまま没した後の空位を解消するためのもので、カスティーリャ王子であったトラスタマラ家のフェルナンド1世が後継者に選出された。 経緯背景当時のアラゴン連合王国には明確な王位継承法が存在せず、継承者の決定は何らかの法律というよりは慣習に基いていた。また判例法も存在していなかった。当時、アラゴン=カタルーニャにおける王位の継承はすべて、長男・次男・長女(娘しかいない場合)へと行われていた。しかし、それまでの継承履歴はアラゴン王家の娘やその娘への継承よりも男系相続が優先されていたことを示していた。例として、マルティン1世は長兄フアン1世に娘ビオランテがいたにもかかわらず王位を継いでいる。しかし、過去の男子相続は11世紀後期、ペトロニラ女王がナバラにいたヒメノ家の同族(ナバラ王ガルシア・ラミレスら)を差し置いて即位したことで断絶していた。また、ペトロニラの息子アルフォンソ2世の王位継承によってバルセロナ家がヒメノ家に代わるアラゴンの王家となり、カタルーニャとの同君連合はこの時に成立していた。 J.N ヒルガースはこう記述している: またT.N.ビッソンはこう記述している:
有力な候補者は以下の人物であった(年齢は1410年末時点)。
アラゴン、バレンシア、カタルーニャの議会または政府間の交渉は、新王に関わる様々な利害、貴族の派閥抗争、ウルジェイ伯支持者らの性急ぶり、そしてカスティーリャ王子フェルナンドの軍の干渉などのため、困難を極めた。マルティン1世は孫であるファドリケを後継に望んでいたとされるが、庶出であることが問題となった。ガンディア公アルフォンソが血統では優位であったが、決定前に死去した。その後、マルティン1世に長官職を与えられ厚遇されていたウルジェイ伯ジャウマが本命候補となった。しかし彼はその専制的な政治姿勢が災いし、ジャナラリター・デ・カタルーニャをないがしろにする者と警戒されていた。また、ベネディクトゥス13世はイベリア半島へ自身の影響力を伸ばすために、カスティーリャ王子フェルナンドを推していた。 合意までの過程各国代表者として法律に精通した者たちが各3人ずつ任命され(1412年2月15日、アルカニス)、彼らはサラゴサ近郊のカスペに集まって正統性主張者らを吟味した。代表者は以下の人物たちである。
1412年6月28日、6票(アラゴン3票、バレンシア2票、カタルーニャ1票)を獲得したカスティーリャ王子フェルナンドが、フェルナンド1世として即位した。アラゴン王家(バルセロナ家)の血を引いているとはいえ、3カ国の臣民は外国人の王を戴くことを選択したことになる。それには、投票で選ばれた王ならば、各国の自治制度(3カ国とも独自の法体系を持っていた)を尊重するに違いないという期待が働いていた。その期待は、結果的にはフェルナンド1世の後継者たちによって裏切られることになる。 カスペの妥協以後バルセロナ家の別系統が治めていたシチリア王国は、1377年にフェデリーコ3世の死により男系男子が絶えた後、1392年にマルティン1世(母レオノールはフェデリーコ3世の姉)と息子の若マルティン(マルティン1世の異母姉コンスタンサとフェデリーコ3世の娘マリア女王と結婚)によって征服されていたが、マルティン1世の死後は在地の貴族たちが内紛によって消耗していた。そのため、2年間の空位を経た後もアラゴン王に対抗する余力がなく、翌1413年にカターニアの議会でフェルナンド1世をシチリア王として承認した。 カスペの妥協によって王位請求権の問題は完全に決着したわけではなかった。有力候補でありながら王位を得られなかったウルジェイ伯ジャウマ2世はただちに兵を挙げたが、フェルナンド1世に敗れ、翌1413年から20年間幽囚の身となってそのまま死去し、これによりバルセロナ家の正嫡の男系男子は絶えた。その間、1416年にフェルナンド1世の長男アルフォンソ5世が王位を継承している。 また、1458年にアルフォンソ5世の後を継いだ弟フアン2世に対して起こったカタルーニャの内乱 (en) が1462年から1472年まで続く間に、対立王としてフアン2世の甥であるカスティーリャ王エンリケ4世、ウルジェイ伯ジャウマ2世の外孫でポルトガル王族のペドロ・デ・コインブラ、ルイ3世・ダンジューの弟ルネ・ダンジューが次々とバルセロナ伯に選ばれた(彼らはアラゴン王も称したが、バレンシア王位はフアン2世が終始保っていた)。ルイ3世・ルネ兄弟との間では、他にもアルフォンソ5世がナポリ王位の継承権を争い、1442年に獲得を果たしている。なお、若マルティンの後妻であったナバラ王女ブランカがフアン2世の最初の妻となっており、フアンのアラゴン王位継承以前の1425年に共同でナバラ王位を継承している。 1479年にアラゴン王位を継いだフアン2世の息子フェルナンド2世は、すでに1474年に妻イサベル1世とともにカスティーリャ王位についており、これによってアラゴン連合王国とカスティーリャの連合が新たに成立し、スペイン王国へと統合されていくことになる。 系図
脚注
参考文献
関連項目 |