怕尼芝王統
怕尼芝王統(はねじ おうとう、はにじ おうとう)は、山北王国(北山王国)の最後の王統。別名:羽地王統。 経歴今帰仁グスクを本拠に沖縄本島北部(国頭)とその周辺の島、奄美群島南部(与論島、沖永良部島)が勢力下にあった。 明への朝貢数が一番少ないことから、国力は三山のうちで最も低かったと思われる。 名称「怕尼芝」は中国人による漢字音写で、「怕尼芝」や「攀安知」などという表記もある。 これらの表記の原語としては、
などの諸説がある。 石井望は、珉とは八幡であるとの新説を立ててゐる。等韻学では珉と閩とが同音で、閩は福建で「ばん」なので、珉も「ばん」だとする。山北の怕尼芝、珉、攀安知の三代はみな頭音「は」「ば」に「n」音を加える形で、何らかの同一の継承名だとする。孫薇(そんび)は攀安知の攀を八幡(ばはん)だとするため[2]、よって石井望は怕尼、珉、攀はみな八幡であり、「ばはん」を縮めて「ばん」(珉)、按司を加えて「ぱんあじ」(攀安知)、転じて「ぱねじ」(怕尼芝)とする[3]。 伊敷賢「琉球王国の真実」(42、57、80ページ)は、怕尼芝の子の名を「藩」もしくは「播」として、「ばん」「はん」と読む。石井望はこれを播でなく八幡の幡に作るべきとして、珉に充當する。 歴代
怕尼芝の治世が70年にわたるため、実は親子で同じ名を使っていたのではともいわれている。 伝説おもろさうしでは怕尼芝が王になった経緯については、従兄弟(仲昔今帰仁按司)の子で山北王である今帰仁仲宗根若按司を討ち、自ら山北王(後北山王)となったと言われている。 北山の起源に関する諸説
与論島と沖永良部島諸説あるが、怕尼芝王統のいずれかの代で、与論島・沖永良部を平定し、王子がそれぞれ与論島、沖永良部島の世之主として君臨したとされている。与論島は王舅(おうしゅん、うーしゃん)、沖永良部島は真松千代(ままちぢよ)であり兄弟であったとされる。 すなわち北山(国頭)と与論島、沖永良部島は同じ王族により連合していたとも評価できる。この領域では沖永良部与論沖縄北部諸方言が話されている。 1416年に北山王国が滅ぼされると二島とも中山王国、次いで琉球王国の勢力下となった。
脚注注記出典
参考文献
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