頂法寺
頂法寺(ちょうほうじ)は、京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町にある天台宗系単立の寺院。山号は紫雲山。本尊は如意輪観音。寺号は頂法寺であるが、本堂が平面六角形であることから一般には六角堂の通称で知られている。華道、池坊の発祥の地としても知られている。西国三十三所第18番札所。洛陽三十三所観音霊場第1番札所。 本尊真言:おん ばらだ はんどめい うん ご詠歌:わが思う心のうちは六(むつ)の角 ただ円(まろ)かれと祈るなりけり 歴史頂法寺の創建縁起は醍醐寺本『諸寺縁起集』、『伊呂波字類抄』に見え、寺所蔵の『六角堂頂法寺縁起』や近世刊行の『洛陽六角堂略縁起』などにも見える。これらの縁起が伝える創建伝承は大略以下のとおりである。[1]
『元亨釈書』によれば、平安京造営の際、六角堂が建設予定の街路の中央にあたり邪魔なため取り壊されそうになったが、その時黒雲が現れ、堂は自ら北方へ約5丈(約15メートル)動いたという[2]。 以上のように六角堂の創建は縁起類では飛鳥時代とされているが、1974年(昭和49年)から翌年にかけて実施された発掘調査の結果、飛鳥時代の遺構は検出されず、実際の創建は10世紀後半頃と推定されている[3][4]。六角堂が史料に現れるのは11世紀初めからである。藤原道長の日記『御堂関白記』寛仁元年(1017年)3月21日条に、「六角小路」という地名が見えるのが早い例である。他にも『小右記』(藤原実資の日記)などに六角堂の名が見える。『梁塵秘抄』所収の今様には「観音験(しるし)を見する寺」として、清水、石山、長谷などとともに「間近く見ゆるは六角堂」とうたわれている。こうしたことから、六角堂は平安時代後期には観音霊場として著名であったことがわかる[3]。 鎌倉時代初期の建仁元年(1201年)、延暦寺の堂僧であった29歳の範宴(のちの親鸞)が、この六角堂に百日間参籠し、95日目の暁の夢中に聖徳太子の四句の偈文を得て、浄土宗の宗祖とされる法然の専修念仏に帰依したとされる。 室町時代に入ると当寺で祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式が行われるようになり、江戸時代末まで行われた。 寛正2年(1461年)山城大飢饉のとき、8代将軍足利義政は、この堂の前に救済小屋を建て、時宗の僧願阿弥に命じて洛中に流入した貧窮者に対し、粥施行(かゆせぎょう)を行なわせた。寺地が下京の中心であったことから、特に応仁の乱の後からこの寺は町堂として町衆の生活文化や自治活動の中核となる役割を果たした。下京に危機がせまると、この寺の早鐘が鳴らされたりもしている。また、京都に乱入する土一揆や天文法華の乱などでは出陣する軍勢の集合場所となったり、あるいは下京町組代表の集会所になったりしている。 近世には「京都御役所向大概覚書」によると、朱印寺領1石と記されており、寺内には多聞院、不動院、住心院、愛染院などの塔頭があったが現存しない。観音霊場の寺として庶民の信仰を集め、近世に門前町が発展し、そこには巡礼者のための宿屋が数多く建ち並び、洛中では有数の旅宿町として発展した。 天治2年(1125年)の火災をはじめ、江戸時代末までの間に確認できるだけで18回の災害にあったが、庶民の信仰を集める寺であり、また町組の中核となる寺としてその都度復興されてきた。現在の本堂は、1877年(明治10年)に再建されたものである。 境内京都の街中に建つ寺で、境内は狭い。山門を入ってすぐ正面に本堂、右手に「へそ石」、親鸞堂、納経所、本堂裏には聖徳太子沐浴の伝説にちなむ池や太子堂がある。鐘楼は山門から公道を隔てて向かい側の飛地境内にある。また、境内北側には、華道家元「池坊」の本部ビル・池坊会館がある。
本尊六角堂の本尊・如意輪観音像は古来厳重な秘仏とされている。西国三十三所に関する信頼できる史料として最古のものである『寺門高僧記』所収の行尊(園城寺の僧)の巡礼記(11世紀末頃)によれば、六角堂の本尊は「金銅三寸」の如意輪観音像とされている。鎌倉時代成立の天台系の仏教図像集である『阿娑縛抄』(あさばしょう)には、六角堂の本尊は、石山寺の本尊と同様の「二臂」の如意輪観音とされている。しかし、秘仏本尊の厨子の手前に安置される「お前立ち像」は六臂像であり、寺の納経所で配布している本尊御影も六臂像である。秘仏本尊は内陣中央の三重の厨子内に安置されており、指定文化財でないため、制作年代等の詳細は不明である。 本尊の如意輪観音像には、建礼門院(平徳子)が治承2年(1178年)6月27日に安産祈願のため寄進したとの伝承がある[6]。 2008年(平成20年)が西国巡礼の中興者とされる花山法皇の一千年忌にあたることから、2008年(平成20年)から2010年(平成22年)にかけて、西国三十三所の全札所寺院にて札所本尊の「結縁開帳」が行われることとなった。六角堂本尊の如意輪観音像は2008年11月8日 - 2009年1月5日、および2009年3月3日 - 4月12日の2度にわたり開扉されたが、これは前回開扉(1872年)以来136年ぶりの公開であった。 2016年(平成28年)には西国三十三所草創1300年記念で開扉が行われた(11月5日 - 11月14日)[7]。 2020年(令和2年)7月 - 9月に京都国立博物館で開催される「西国三十三所草創1300年記念 特別展 聖地をたずねて─西国三十三所の信仰と至宝─」には秘仏「如意輪観音座像」が出展予定で、展覧会公式サイトに写真が掲載されている[8]。 池坊この寺の本堂である六角堂は寺内塔頭で、頂法寺の本坊にあたる池坊が執行として代々経営・管理に当たってきた。聖徳太子の命により小野妹子が入道し仏前に花を供えたことが華道の由来とされ、その寺坊が池のほとりにあったことから「池坊」と呼ばれている[9]。ただし、前述の縁起類には、聖徳太子が沐浴した池にちなんで寺坊を「池坊」と号したことと、小野妹子を寺主としたことは述べられているが、妹子と華道の関係については述べていない。小野妹子を華道の道祖とするのは、史料で知られる限りでは近世以降のことである[10]。 池坊の僧は、頂法寺の住持として本尊の如意輪観音に花を供えることとなっており、花の生け方に別格の妙技を見せることで評判となっていたことが15世紀の記録に残されている。文明年間(1469年 - 1486年)に池坊12世専慶が立花(たてばな)の名手として知られ、ここから池坊としての立花が生じ、天文年間(1532年 - 1555年)には、池坊13世専応が度々宮中に招かれて花を立て、また「池坊専応口伝」を表して立花の理論と技術を初めて総合的に体系化した。 現在は華道家元「池坊」の本部ビル・池坊会館があり、その3階には「いけばな資料館」がある。 文化財重要文化財前後の札所
アクセス拝観時間
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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