三室戸寺
三室戸寺(みむろとじ)[注釈 1]は、京都府宇治市にある本山修験宗の別格本山の寺院。山号は明星山。本尊は千手観世音菩薩。西国三十三所第10番札所。 本尊真言:おん ばざら たらま きりく そわか ご詠歌:夜もすがら月をみむろとわけゆけば 宇治の川瀬に立つは白波 歴史創建伝承寺伝によれば、宝亀元年(770年)光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建したものという。創建と本尊に関しては次のような伝承がある。天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)は、毎夜宮中に達する金色の霊光の正体を知りたいと願い、右少弁(右少史とも)藤原犬養なる者に命じて、その光の元を尋ねさせた。犬養がその光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着くと、滝壺に身の丈二丈ばかりの千手観音像を見た。犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁(ハスの花びら)が流れてきて、それが一尺二寸の二臂の観音像に変じたという。光仁天皇がその観音像を安置し、行表を開山として創建したのが当寺の起こりで、当初は御室戸寺と称したという。その後、桓武天皇が二丈の観音像を造立、その胎内に先の一尺二寸の観音像を納めたという[1][2]。 平安時代以後以上のように、当寺の創建伝承については伝説的色彩が濃く、創建の正確な事情についてははっきりしない。園城寺(三井寺)の僧の伝記を集成した『寺門高僧記』所収の僧・行尊の三十三所巡礼記は、西国三十三所巡礼に関する最古の史料であるが、これによると、11世紀末頃に行尊が三十三所を巡礼した時は、御室戸寺は三十三番目、つまり最後の巡礼地であった[3]。 寛平年間(889年 - 898年)には園城寺の円珍が留錫し、その後、花山法皇がこの地に離宮を設け、当寺を西国三十三所巡礼の第10番札所とした[2]。 長和年間(1012年 - 1017年)には三条天皇により法華三昧堂が、また白河天皇によって常行三昧堂が建立され、荘園の寄進が行われている[2]。康和年間(1099年 - 1103年)に園城寺長吏の隆明大僧正が当寺を中興し、また白河天皇の御願によって園城寺に建立された子院の羅惹院を当寺に移転させ、自らも住するようになると、御室戸の僧正と呼ばれるようになり、御室戸寺も隆盛を誇った。その後、隆明大僧正に深く帰依する堀河天皇によって当寺の伽藍は増修され、塔頭・羅惹院の本尊・尊星王の護摩料所として武蔵国中茎郷領家職の官符を賜わっている。この頃に光仁天皇、花山法皇、白河法皇三帝の離宮になったことから御室戸寺の「御」を、「三」に替えて三室戸寺と称するようになる[2]。 また、白河法皇が熊野を参詣する際に、当寺に於て17日間の護摩供修行が行われたことから、これ以来、熊野検校宮の入峰に際しては、当寺にて17日間の御修行を行うことが佳例とされた[2]。 開創以来、歴代天皇の崇敬を集め寺域も漸次拡張されて伽藍坊舎が年を追って増加していった当寺であったが、寛正3年(1462年)12月13日に食堂より出火し、貝吹堂、観音堂、彼岸所、西塔院、常行堂、宝蔵と延焼し、大伽藍が悉く焼失してしまったが、文明19年(1487年)7月に後土御門天皇の勅を受けた園城寺阿弥陀院の壱阿によって本堂が再建された[2]。 天正元年(1573年)に織田信長に敵対して槙島城に立て籠もった将軍足利義昭の味方をしたため、寺領を悉く没収されて衰退する。しかし、寛永16年(1639年)に道晃法親王によって復興される[2]。 明和年間(1764年 - 1772年)頃に本堂が再び廃頽し、忍興和尚の時に改築を計画したが果すことができなかったが、文化11年(1814年)に法如和尚によって再建された[2]。 本尊本尊は千手観音像であるが、厳重な秘仏で、写真も公表されていない。本尊厨子の前に立つ「お前立ち」像は飛鳥様式の二臂の観音像で、二臂でありながら「千手観音」と称されている。この本尊像に関わる伝承は「歴史」の項で述べたとおりで、高さ二丈の観音像は寛正年間(1460年 - 1466年)の火災で失われたが、胎内に納められていた一尺二寸の二臂の観音像は無事であったという[1]。 秘仏本尊を模して造られた前述の「お前立ち」像は、大ぶりの宝冠を戴き、両手は胸前で組む。天衣の表現は図式的で、体側に左右対称に鰭状に広がっている。こうした像容は奈良・法隆寺夢殿の救世観世音菩薩像など、飛鳥時代の仏像にみられるものである。厨子内の秘仏本尊像自体については、指定文化財でないため、年代等の詳細は不明である。 2008年(平成20年)が西国巡礼の中興者とされる花山法皇の一千年忌にあたることから、2008年(平成20年)から2010年(平成22年)にかけて、西国三十三所の全札所寺院にて札所本尊の「結縁開帳」が行われることとなった。三室戸寺本尊の千手観音像は2009年(平成21年)10月1日 - 11月30日に開扉されたが、これは前回開扉(1925年)以来84年ぶりの公開である。 境内
文化財重要文化財
京都府指定有形文化財下記の出典[6]
宇治市指定有形文化財下記の出典[6]
寺宝
前後の札所所在地
アクセス
周辺脚注注釈
出典参考文献
関連項目外部リンク |
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