天智天皇(てんじてんのう / てんぢてんのう、626年〈推古天皇34年〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)は、日本の第38代天皇(在位:668年2月20日〈天智天皇7年1月3日〉- 672年1月7日〈天智天皇10年12月3日〉)。
諱は葛城(かづらき/かつらぎ)。皇子時代の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)の名でも知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。
また、661年の斉明天皇崩御後に即日中大兄皇子が称制したため暦が分かりにくくなっているが、『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。中臣鎌足と共に大化の改新を行った事などで知られる。
生涯
大化の改新と即位
舒明天皇の第二皇子。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)。皇后は異母兄の古人大兄皇子の娘の倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はない。
645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父の蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行った。また、有間皇子など有力な勢力に対しては種々の手段を用いて、一掃した。
百済が660年に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子の扶余豊璋を送り返し、百済救援を指揮するために斉明天皇と共に筑紫の朝倉宮に滞在したが、661年8月24日(斉明天皇7年7月24日)斉明天皇が崩御し、百済復興を図って663年に白村江の戦いを起こすも敗戦した。
その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制した(天智天皇元年)。663年8月28日(天智天皇2年7月20日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、唐に遣唐使を派遣する一方で、667年4月17日(天智天皇6年3月19日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、668年2月20日(天智天皇7年1月3日)、ようやく即位した。668年4月10日(天智天皇7年2月23日)には、同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。しかし、671年1月2日(天智天皇9年11月16日)に第一皇子の大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、671年11月23日(天智天皇10年10月17日)に大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。
白村江の戦い以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。
中大兄皇子時代の660年(斉明天皇6年)に漏刻(ろうこく、水時計のこと)を作り、671年(天智天皇10年)には大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始したとされる。671年での日付(4月25日)に対応するグレゴリオ暦 (ユリウス暦ではないことに注意)の6月10日は時の記念日として知られている[1]。
崩御とその後
669年11月13日(天智天皇8年10月15日)、中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任じ、藤原の姓を与えた。
671年10月(天智天皇10年9月)、病に倒れる。なかなか快方に向かわず、10月には重態となったため、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人皇子は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へ去った。672年1月7日(天智天皇10年12月3日)、天智天皇は近江大津宮で崩御されたとの云われがある。(『扶桑略記』では天智天皇は山中で行方不明になったと記されており、これらには四国の山中での崩御説や天武天皇側による暗殺説などがある)[2][注釈 1]。宝算46。
天智天皇は大友皇子の側近として蘇我赤兄・中臣金・蘇我果安・巨勢比等・紀大人を選んでいるが、これは息子かつ次期天皇候補の側近の数としてはかなり少ない[3]。これは、乙巳の変以来、中臣鎌足と少数のブレインのみを集めた「専制的権力核」を駆使して2人による専制支配を続けた結果、大友皇子の勢力基盤として頼みにすることができる藩屏が激減してしまったからである[3]。
天武元年(672年)6月26日には、大友皇子が群臣に方針を諮ったとあるが、近江朝廷の構成から考えて、その相手は左右の大臣と3人の御史大夫のみであり、その時には既に大化前代以来のマヘツキミ合議体はその機能を完全に喪失していたと見られる[3]。
天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかったとされる(『日本書紀』)。しかし、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において大海人皇子が大友皇子に勝って即位して天武天皇に成る。以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。
称徳天皇崩御後に、天智天皇の孫の白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇が誕生した。以降は天智系統が続く。
弟の大海人皇子から額田王を奪ったので自分の皇女4人を大海人皇子に嫁がせたと言われている[要出典]。
年譜
※年は西暦、月日は和暦による。
- 626年 - 田村皇子(のちの舒明天皇)の第二王子として誕生
- 645年 - 6月、乙巳の変。蘇我宗家を滅ぼす。叔父の孝徳天皇の皇太子となる。9月、異母兄の古人大兄皇子を謀反の疑いにて処刑。12月、難波長柄豊碕宮へ遷都
- 646年 - 「改新の詔」
- 649年 - 3月、蘇我日向の密告を受け、蘇我倉山田石川麻呂を謀反の疑いにて自害に追い込む
- 653年 - 孝徳天皇の意に反し、群臣らを率いて板蓋宮へ遷る
- 654年 - 10月、孝徳天皇崩御
- 655年 - 1月、母の宝皇女が即位して斉明天皇になる(皇極天皇の重祚)。引き続き皇太子を務める
- 656年 - 岡本宮へ遷る
- 658年 - 11月、蘇我赤兄の密告を受け、孝徳天皇の遺児の有間皇子を謀反の罪にて処刑
- 659年 - 阿倍比羅夫に蝦夷国(東北地方・北海道)遠征を命じる
- 660年 - 百済が唐と新羅に攻め滅ぼされる。百済皇子の扶余豊璋を帰国させる
- 661年 - 百済再興を救援するために西下するが、7月、斉明天皇が朝倉橘広庭宮にて崩御。皇太子のまま称制
- 663年 - 7月、白村江の戦いにて唐・新羅連合軍に大敗
- 664年 - 2月、甲子の宣
- 667年 - 3月、近江大津宮へ遷る
- 668年 - 1月、即位。2月、大海人皇子を皇太弟とする。10月、高句麗が唐と新羅に攻め滅ぼされる。この年、「近江令」制定?
- 669年 - 10月、中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任じ、藤原の姓を与える
- 670年 - 2月、「庚午年籍」を造る。11月、子の大友皇子を史上初の太政大臣に任ずる
- 671年 - 10月、大海人皇子が吉野へ去る。12月3日崩御
系譜
他にも藤原不比等は天智天皇の落胤という説が『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などに見られる。
即位に関する諸説
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中大兄皇子が長く即位しなかったことは、7世紀中葉の政治史における謎の一つである。これに関する説がいくつか存在する。
- 天武天皇を推す勢力への配慮。すなわち、従来定説とされてきた、天武天皇は天智天皇の弟であるというのは誤りで、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくものである。確かに、『日本書紀』の天智天皇と一部の歴史書に掲載される天武天皇の宝算をもとに生年を逆算すれば、天武が年長となってしまう。しかし、同一史料間には矛盾は見られず、8~9歳程度の年齢差を設けている史料が多い。これに対しては「『父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が』ということでは体裁が悪いので、意図的に天智の年齢を引き上げたのだ」との主張があるが、「『日本書紀』に見える、天智の年齢16歳は父の舒明天皇が即位した時の年齢だったのを間違えて崩御した時の年齢にしてしまった。だから、本当の生年は『本朝皇胤紹運録』などが採用している614年だ」との反論、「古代においては珍しくなかった空位(実際、天武の前後に在位していた天智・持統も称制をしき、ただちに即位しなかった)のために誤差が生じたのだ」との反論、また『日本書紀』と指摘されているその他歴史書は編纂された時代も性質も異なるため、同一には扱えないとの意見もある(「天武天皇#出生」の項も参照)。
- 乙巳の変は軽皇子(孝徳天皇)のクーデターであり、中大兄皇子は母親である皇極天皇と共に地位を追われたという説。近年、中大兄皇子と蘇我入鹿の関係が比較的良好であり、基本政策も似ていることが指摘されている。そうなると、中大兄皇子の変事の年齢は弱冠20と若く、皇極天皇以外に強力な後ろ盾がないことを考慮すると、親子ほど歳の差のある軽皇子と違い、皇位狙いであわてて入鹿を殺害する動機がなくなる。また、『日本書紀』の大化の改新の記述には改竄が認められることから、この説が唱えられるようになった。この説では皇極天皇の退位の理由や、入鹿以外の蘇我氏がクーデター後も追放されていない理由など、その他の疑問点も説明できるため注目を浴びている。
- 天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。これは、『日本書紀』に記載された孝徳天皇が妻の間人皇女(天智の同母妹)にあてた歌に、彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである。異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、同母兄弟姉妹間でのそれは許されなかったのが当時の人々の恋愛事情だったとされる。
- 斉明天皇の崩御後に、間人皇女が先々代の天皇の妃として皇位を継いでいたのであるが、何らかの事情で記録が抹消されたという説。これは『万葉集』において「中皇命」なる人物を間人皇女とする説から来るもので、「中皇命」とは天智即位までの中継ぎの天皇であるという解釈出来るという主張である。もし間人皇女=「中皇命」とすれば、なぜ彼女だけが特別にこうした呼称で呼ばれる必要性があったのかを考えられるが、斉明天皇だとする説もあり、必ずしも確証はない。
- 天智は元々有力な皇位継承者ではなかったために、皇太子を長く務めることでその正当性を内外に認知させようとした説。舒明の后には敏達・推古両天皇の皇女である田眼皇女がいるにもかかわらず、敏達の曾孫に過ぎない皇極が皇后とされている点を問題とするもので、『日本書紀』の皇極を皇后とする記事を後世の顕彰記事と考え、天智は皇族を母とするとしても皇極の出自では有力な継承者になりえず、皇極の在位も短期間でその優位性を確立出来なかったために、乙巳の変後にもただちに即位せず皇族の長老である孝徳を押し立てて、自らは皇太子として内外に皇位継承の正当性を認知させる期間を要したとする説。
- 乙巳の変の意義を、蘇我大臣家のみならず同家に支えられた実母・皇極天皇率いる体制打倒にあったとする観点から、孝徳天皇との対立→崩御の後に自らの皇位継承の正統性を確保するため、皇極天皇の重祚という、乙巳の変の否認とも取られかねない行為を行ったことで群臣たちの信用を失った中大兄が、信頼を回復するまでに相当の期間を必要としたとする説。
政治史という性質・史料の制約などもあり、証明は困難ではあるが、考古学的成果との連携などとも含め、今後の研究の進展が待たれる。
天智と蘇我氏
天智は、皇極4年(645年)の乙巳の変で蘇我蝦夷と蘇我入鹿を、大化元年(645年)9月に蘇我田口川堀を、大化5年(649年)3月に蘇我倉山田石川麻呂を政治的に、あるいは物理的に抹殺しているが、蘇我入鹿抹殺の際には蘇我倉山田石川麻呂を、蘇我倉山田石川麻呂抹殺の際には蘇我日向を、有間皇子抹殺の際には蘇我赤兄を頼り、大化2年(646年)に東国に派遣する国司として蘇我氏同族を6人も任命し、晩年には大友皇子の補佐役として蘇我赤兄(左大臣)と蘇我果安(御史大夫)を選び、自身や親族の后妃に蘇我氏の女性を選んでいるように、自身の勢力の地盤として、大化以前からの伝統的な雄族であった蘇我氏の権力に頼らざるを得なかった[3]。それにもかかわらず、蘇我安麻呂によって大海人皇子を逃してしまっていることから、蘇我氏全体を権力に組み込むことはできなかったことがわかる[3]。
在位中の重臣一覧
年月日(旧暦) |
太政大臣 |
左大臣 |
右大臣 |
内臣 |
内大臣 |
御史大夫
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661年8月24日(斉明天皇7年7月24日)
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中臣鎌足
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662年(天智天皇元年)1月
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蘇我連子
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中臣鎌足
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664年(天智天皇3年)3月
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中臣鎌足
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669年11月13日(天智天皇8年10月15日)
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藤原鎌足
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669年11月14日(天智天皇8年10月16日)
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671年2月19日(天智天皇10年正月5日)
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大友皇子
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蘇我赤兄
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中臣金
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蘇我果安
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巨勢人
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紀大人
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系図
諡号
和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。漢風諡号である天智天皇は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代に淡海三船が撰進した。森鴎外は『帝諡考』において、その典拠に『逸周書』世俘解、『淮南子』主術訓、『韓非子』解老篇を候補に挙げている。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市山科区御陵上御廟野町にある山科陵(やましなのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は上円下方(八角)。遺跡名は「御廟野古墳」。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。崩御の天智天皇10年12月3日はグレゴリオ暦672年1月10日に相当するので、1月10日に御陵で正辰祭が行われる(1月7日はユリウス暦)。
歌
万葉集に4首の歌が伝わる万葉歌人でもある。百人一首でも平安王朝の太祖として敬意が払われ、冒頭に以下の歌が載せられている。
- 秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ[注釈 2]
- 「屋根を葺いている苫が粗いので、私の袖は夜露にしっとり濡れてしまった」農民のことを思って読んだ歌百人一首の最初の歌。
万葉集からも以下の一首。大和三山を詠んだ歌といわれているが、原文は香具山でなく高山であり、大和の天香久山ではない、畝火や耳梨は山ではないなど多くの異論がある。
- 香具山は畝火雄々(を愛)しと耳梨と相争ひき神代よりかくなるらし古へもしかなれこそうつせみも嬬(妻)を争ふらしき
- 原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」
遣新羅使
- 668年(天智天皇7年) 新羅の文武王の代に使節を送った
- 670年(天智天皇9年) 新羅の文武王の代に使節を送った
在位年と西暦との対照表
脚注
注釈
- ^ 『扶桑略記』では病死説の後一説として「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」とあり山中で行方不明になったとされている。これには四国の山中で崩御した説があり、愛媛県の大生院郷土誌では「天智天皇が京都をお立ちになった後、ひそかに当国へ行幸なされたが、この地に崩御あそばされ、おそれおおくも御陵地とせられた所で、後世の人が神社としたものである。」と記されている。この他にも天武天皇側による暗殺説もあり、「日本書紀は天武天皇側が編纂したものなので自分たちに都合の悪いことは書かない」と扶桑略記の信憑性は高いとの見解もある。
- ^ よく似た「秋田刈る仮庵を作りわが居れば衣手寒く露そ置きにける」というのが万葉集に詠み人知らずと収められている。内容から農民が詠んだ歌で、その辛さを思いやる慈悲深い天皇の心を示す歌として語り継がれるようになった[4]。
出典
- ^ “漏刻について”. 近江神宮時計館宝物館. 2018年8月19日閲覧。
- ^ 高島正人『藤原不比等』吉川弘文館〈人物叢書〉、1997年、62頁。
- ^ a b c d e 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社 2015年)
- ^ 田辺聖子『田辺聖子の古典まんだら』 上、新潮社〈新潮文庫〉、2013年、65頁。
関連作品
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
天智天皇に関連するカテゴリがあります。
外部リンク
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皇親摂政 |
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人臣摂政 |
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中大兄皇子を摂政とみなすのは、『藤氏家伝』上巻に「〔斉明天皇〕悉以庶務、委皇太子。皇太子毎事諮決、然後施行」とあることによる。 草壁皇子を摂政とみなすのは、『日本書紀』天武天皇10年2月25日条に「立草壁皇子尊、為皇太子。因以令摂万機」とあることによる。
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