後堀河天皇
後堀河天皇(ごほりかわてんのう、1212年3月22日〈建暦2年2月18日〉- 1234年8月31日〈天福2年8月6日〉)は、日本の第86代天皇(在位:1221年7月29日〈承久3年7月9日〉- 1232年11月17日〈貞永元年10月4日〉)。諱は茂仁(とよひと)。 高倉天皇の第二皇子の守貞親王(後高倉院)の第三皇子。母は、持明院基家の娘、北白河院・陳子。 略歴承久3年(1221年)の承久の乱により、鎌倉幕府は後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の三上皇を配流し、仲恭天皇を退位させた。次代皇位継承者には、乱の首謀者である後鳥羽上皇の直系子孫を除外し、後鳥羽上皇の兄・守貞親王(行助入道親王)の三男であり、出家していなかった茂仁王(後堀河天皇)を即位させた。また、茂仁の母である持明院棟子(北白河院)の存在も注目される。彼女の父・基家は源頼朝の妹婿である一条能保の叔父、母は平頼盛の娘(平治の乱の際に源頼朝の命を救った池禅尼の孫にあたる)であり、鎌倉幕府にとっても彼女が生んだ茂仁は皇位継承者として望ましい存在であったと考えられる[2]。ちなみに守貞親王の異母弟である惟明親王(聖円入道親王)の子である国尊王(交野宮)もまだ出家前であったが、乱の直前に父である惟明が亡くなったことから治天の君が得られないことを理由に候補者から外されたとみられている[3]。 茂仁王も十楽院僧正仁慶(松殿基房の子)の弟子となり、すでに十楽院に入室していたが、まだ正式に出家していなかった。立太子礼を経ずして、仲恭天皇廃位後同日の承久3年7月9日(1221年7月29日)践祚、同年12月1日(1222年1月14日)即位。 後堀河天皇はこのとき10歳であったので、父親の守貞親王に太上天皇の尊号を奉り上皇(後高倉院)として、院政を行わせた。この時代は、主に承久の乱の後処理が行われていた。貞応2年(1223年)5月、守貞親王薨去。 幼い天皇を巡って自分の娘を后妃に送り込みたい有力貴族の活動が活発化し、当初は三条公房の有子(安喜門院)が中宮に立てられるが、関白近衛家実が宣陽門院(後白河法皇の皇女で長講堂領の所有者)と結んで有子を退出させて自分の娘である長子(鷹司院)を新しい中宮に立てた。しかし、承久の乱で一旦は失脚していた九条道家が舅の西園寺公経や息子の九条頼経、公経の叔母である北白河院を味方につけて家実を失脚させて自らが関白に就任する(安貞二年の政変)と、長子を退出させて自分の娘である竴子(藻璧門院)を新しい中宮に立てた[4]。 貞永元年10月4日(1232年11月17日)、院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位。3日後に太上天皇となる。しかしながら、将来的には治天の君として院政を行うことが確実になっていたとは言え、九条道家が天皇の外祖父の地位を得るために幕府にも一方的な通告を行った上で強引に譲位を行ったとする指摘もある[5]。また、元来病弱であり、院政開始後2年足らずの天福2年8月6日(1234年8月31日)に宝算23歳で崩御した。その崩御が中宮竴子の死から間もない時期だったため、かつて天皇から天台座主の地位を約束されたものの反故にされた僧正仁慶の怨霊の祟りや、後鳥羽上皇の生霊のなせる怪異であるなどと噂されたといわれる。 系譜
系図
后妃・皇子女
在位中の元号
陵・霊廟陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある觀音寺陵(観音寺陵、かんおんじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 脚注
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