安康天皇
安康天皇(あんこうてんのう、履中天皇2年? - 安康天皇3年8月9日)は、日本の第20代天皇(在位:允恭天皇42年12月14日 - 安康天皇3年8月9日)。『日本書紀』での名は穴穂天皇。暗殺されたと明確に記された最初の天皇である。 略歴雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の第二皇子。母は稚渟毛二派皇子(応神天皇皇子)の女の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。木梨軽皇子の同母弟で、大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)の同母兄。父帝が崩御すると、群臣の支持を失っていた太子の兄に替わって即位。石上穴穂宮に都を遷す。即位元年、根使主の讒言を信じておじ(大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の皇子)の大草香皇子を誅殺。即位2年、その妃であった中蒂姫を皇后に立てたが、翌年8月9日に連れ子の眉輪王に暗殺されて崩御した。 その後、弟の大泊瀬皇子が眉輪王を含めた多くの皇族を殺して後を継ぎ即位。根使主は14年後に讒言が発覚して誅殺されたが、やすやすと信じてしまった安康天皇の過ちもあり根使主の子孫が根絶やしにされることはなかった。 名漢風諡号である「安康天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。 事績即位允恭天皇42年1月に雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)が崩御。皇太子の木梨軽皇子には近親相姦の前科があったため群臣は従わず、同母弟の穴穂皇子を推戴した。木梨軽皇子は群臣が離反していく不利な現況を悲嘆して物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の館に潜んだ。そこで穴穂皇子は兵を率いて館を包囲。大前宿禰の計らいで戦は避けられたが軽皇子は自殺した(『古事記』では伊余湯に流罪となったと記される)。穴穂皇子は12月に践祚。 根使主の讒言即位元年、天皇は大泊瀬皇子の妃探しがうまくいかないのを見て、おばの草香幡梭姫皇女(仁徳天皇の皇女)と結婚させようと考えた。そこで根使主を皇女の兄の大草香皇子へ遣わし、その意を伝えさせた。大草香皇子は心から喜び感謝して四回も頭を下げ、言葉だけを返すのは無礼だとすら考え根使主に宝石と金で飾った冠を持たせた。しかし根使主は宝の美しさに目がくらんで着服し「大草香皇子は縁談を断ったうえ、刀を抜き怒った」と讒言した。これを信じ激怒した天皇は大草香皇子を誅殺し、翌年にその妃であった中蒂姫を皇后としてしまった。 眉輪王の復讐即位3年、天皇は神殿で皇后に悩みを打ち明けた。それは皇后と大草香皇子の子、すなわち皇后の連れ子である当時7歳の眉輪王が成長し、父親を殺したのが自分だと知って復讐心を起こさないかということだった。実はそのとき床下に当の眉輪王が入って遊んでおり、真実を知った眉輪王は天皇の心配通りに復讐を決意した。眉輪王は8月9日、天皇が寝入った隙を見計らって神床に侵入。そばに置いてあった大刀を使って天皇の首を切り落としてしまった。天皇の宝算は『古事記』『旧事紀』に56歳、『帝王編年記』には54歳と伝えられる。皇太子を指名することなく崩御したが、従兄弟の市辺押磐皇子(履中天皇の皇子)を皇位継承者に立てる腹積もりであったとされる。しかし、その後は天皇の弟の大泊瀬皇子が市辺押磐皇子を殺害し帝位に就いた(雄略天皇)。 系譜
后妃・皇子女允恭天皇の第三皇子。母は忍坂大中姫(応神天皇皇孫)。雄略天皇の同母兄。 年譜『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[1]。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
皇居宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)。伝承地は現在の奈良県天理市田町、同市田部、橿原市石原田町の3説がある。 陵・霊廟陵(みささぎ)の名は菅原伏見西陵(すがわらのふしみのにしのみささぎ)。宮内庁により奈良県奈良市宝来4丁目にある宝来城跡に治定されている。「古城1号墳」とも称されるが古墳ではないとする見方が強い。近年の調査結果でも古墳時代の遺物は発見されていない。城跡としては堀をめぐらした方形館の東側に馬出を付けた中世の平城である。宮内庁上の形式は方丘。 なお、南東には垂仁天皇陵に治定されている菅原伏見東陵(宝来山古墳)が所在する。垂仁天皇陵の飛地い号に治定されている遺跡名「兵庫山古墳」[2](奈良市宝来町字堂垣内:北緯34度40分55.37秒 東経135度46分42.18秒 / 北緯34.6820472度 東経135.7783833度)は安康天皇陵に考定する説が元禄期以後に散見される[2]。直径約40メートルを測る大型円墳である[2]。宝来山古墳の北西約200メートル[2]の平城京三条大路上に位置し、大路を歪めてでも残された古墳ということになる。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 考証倭の五王
中国の『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王興に比定されている。「興」の由来は不明であるが、『日本書紀』によると雄略天皇は治世19年に安康天皇の名代として孔王部とも表記される穴穂部を置いている。森浩一は『記紀の考古学』第15章「仁徳天皇の子供たち」で「ぼくは興王部かとみる」と述べ、「興」は「あな」の漢訳「孔」の同音字としている。父の済と共に高句麗を討って百済を救い興す意図から「興」が選ばれたと考えられる。漢風諡号「安康」も「あな」「コウ」に由来すると考えられる。なお、『古事記』『日本書紀』には安康天皇の対中国外交や高句麗征討の記録は無い。 近親相姦説兄である木梨軽皇子には近親相姦疑惑があったとされているが、安康天皇も近親相姦をしていたのではないかという説がある。これは、『古事記』では大草香皇子を殺した後に妻にした皇后が、同母姉であるはずの長田大娘皇女とされており、木梨軽皇子と軽大娘皇女の逸話からして禁止されていると推測されている同母の兄弟姉妹婚に当たるためである。『日本書紀』の雄略紀では安康天皇の妻は履中天皇の皇女である中磯皇女とし、亦の名は長田大娘皇女と註を付けている。ただし、本件が記紀の誤述から生じた謬説であることは次のように、少なくとも徳川時代にはすでに知られていた。「長田ノ大郎女は、書紀雄畧ノ巻に、去來穂別ノ天皇(履中天皇)ノ女(みむすめ)中蒂姫ノ皇女更名ハ長田ノ大娘皇女ト曰也。大鷦鷯ノ天皇ノ子ノ大草香ノ皇子長田ノ皇女ニ娶テ眉輪ノ王ヲ生也。云〻とある女王にて、履中ノ巻に、次ノ妃幡梭ノ皇女中磯ノ皇女ヲ生とある是なり(中蒂と中磯は同じ)。然るを此記(古事記)に履中天皇の御子には此ノ中磯ノ皇女は無くて、允恭天皇の御子に長田ノ大郎女あるは、履中天皇の御子の允恭天皇の御子に紛れたる傳ヘの誤なり(又書記に、允恭天皇の御子にも名形ノ大娘皇女あるは、かの同じ誤リの傳へを取り記されたるものにして、長田と名形と字を異て書れたれども、実はかの履中天皇の御子の長田ノ大娘皇女と一ツにぞありける)。允恭天皇の御子とするときは、天皇(安康)の御同母妹に坐スものを、いかでか后とは為賜はむ。」古事記傳 四十 ○十二 脚注関連項目
外部リンク
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