兄弟姉妹婚兄弟姉妹婚(きょうだいしまいこん、けいていしまいこん)は、兄弟姉妹同士の結婚である。平仮名や片仮名による兄弟姉妹を意味する表現を用いて「きょうだい婚」や「キョウダイ婚」などと表現する場合もある。現在許可している国としては、異母もしくは異父の場合に限っては可能としているスウェーデンが知られているが、多くの国において近親婚の制限として全血半血を問わず禁止されている。 歴史的状況西ユーラシア・北アフリカ全血の兄弟姉妹婚は古代エジプトなどで見られた。姉弟婚がエジプトの王家でよく見られることについて、元々は母権制の社会において男性が子供達との系譜上の関係性を高めようとしたためであったという見方もあり[1]、また、あくまでも継承の正統性を確立するため名目上の婚姻であったとの見解もある。但し、エジプトのファラオであるツタンカーメンのDNA鑑定を行ってみたところ、ツタンカーメンは兄弟姉妹の間に生まれた子供と推測されたという研究報告も存在する[2]。王族の話が特に有名ではあるが、山内昶は2世紀におけるエジプトの記録で婚姻例113例のうち兄弟姉妹婚は23例とされ、兄弟姉妹婚の比率が20%に達していたことを指摘している[3]。 ユダヤ人は『レビ記』の規定において兄弟姉妹同士の性関係を禁止したが、ウル(所在地は後のイラク南部と推定されている)生まれでカナン(後のパレスチナ周辺地区)に移住し、ユダヤ人の祖となったとされるアブラハムは異母妹のサラと結婚していたという伝承もある。 古代ギリシアでは兄弟姉妹婚に対してある程度柔軟な対応を採っていたとされている。半血の兄弟姉妹婚について、スパルタにおいては子供の関係が同母異父の場合は認めていたとされ、アテナイにおいては子供の関係が同父異母の場合は認めていたとされる[3]。 東ユーラシア日本では現在の民法においては全血半血にかかわらず兄弟姉妹婚を禁じているが、古代においては同父異母兄弟姉妹間の婚姻は許可されていた。用明天皇と異母妹穴穂部間人皇女の息子聖徳太子や、押坂彦人大兄皇子と異母妹糠手姫皇女の息子舒明天皇などは異母兄妹婚で生まれた子供である。同母異父兄弟姉妹間の結婚も全く存在していなかったとも言えず、珍しいが橘諸兄と藤原多比能のように同母異父の兄と妹が結婚することもあった[4]。だが、同父同母の兄弟姉妹に関しては完全に婚姻が禁じられていたと言われている[5]。また、上代日本語では「兄(せ)」を夫の意味として使ったり「妹(いも)」を妻の意味として用いたりすることがあるが、これについて『日本書紀』の仁賢天皇紀に異母兄弟姉妹婚を行っている家庭で異母姉妹である妻が夫について「兄(せ)」と表現している例もあることから、夫婦と兄妹が同一視されていた結果という見方もある[6]。 平安時代中期から、同父異母の兄弟姉妹婚も見られなくなる。平安時代中後期に執筆された『源氏物語』には、異母姉弟と知らずに玉鬘に思いを寄せていた柏木・紅梅が、実は玉鬘が異母姉であると知って落胆し、逆に実は玉鬘が異母姉でなかったと知った夕霧が積極的な行動に出る描写がある(行幸・藤袴)。 東アジアで異母の兄弟姉妹が婚姻することができた地域としては、他にはかつての朝鮮が挙げられる。高麗の王族では、君主の光宗とその異母姉妹である大穆王后のように異母兄弟姉妹で結婚している例が見られる。また、春秋時代に斉で襄公と文姜が異母兄妹で性交渉を行っていたという話も、古代の血族婚の風習が東夷を通じて伝わっていたためという見方もあるが、このように兄妹が通じることは中国人の父権的な価値観からは批判されやすい慣習であった[7]。 なお、近親婚について遺伝的な危険性が高まるのではと言われることもあるが、実際には遺伝的リスクを回避する手段も存在し、タイの国王で複数の半血兄弟姉妹婚を行ったラーマ5世のように姉妹以外にも大量の妻を作ることで子孫の多様性を高めている例もある[8]。 現代における論争スウェーデンではかつては半血の兄弟姉妹の婚姻を認めていなかったが、現実に存在する異父兄弟姉妹カップルを別れさせようとした問題から、最終的に政府当局が許可を発行した上でならば半血兄弟姉妹婚を認めると1973年に法改正が行われた[9]。 21世紀の話としては、スコットランドにおいて異父兄妹で近親相姦を行ったとして罪を問われ有罪となった事件で、デイリー・メールのウェブサイトであるMail Onlineが異父兄と結婚したいと異父妹が語っていると報道したことが2008年にあった[10]。 兄弟姉妹婚の例→「兄弟姉妹同士のカップル一覧」も参照
古代エジプト
古代アナトリア・ヨーロッパ
東アジア・東南アジア日本皇族
皇族外朝鮮
タイ
その他、インカ帝国では、代々皇帝は同母姉妹との結婚が行われた。 脚注
関連論文
関連項目 |