木梨軽皇子
木梨軽皇子(きなしのかるのみこ、生没年不詳)は、古墳時代の皇族。 生涯允恭天皇の第一皇子、皇太子であった。『日本書紀』に「容姿佳麗。見者自感」(容姿が可憐で美しかった。木梨軽皇子に拝謁した者はみな感動せずにはいられなかった。)とあり、日本書紀においてこれほど美男子である事を強調されている皇子は木梨軽皇子ただ1人である[1]。 母は皇后の忍坂大中津比売命(おしさかのおおなかつのひめのみこと)。同母弟に穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)、大泊瀬稚武皇子(おおはつせのわかたけるのみこ、後の雄略天皇)など。 『古事記』によれば、允恭23年立太子するも、同母妹の軽大娘皇女と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の死後に廃太子され伊予国へ流される。その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自殺したといわれる(衣通姫伝説)。また『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が死去した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたとある。 四国中央市にある東宮山古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地とされている。
参考文献
脚注
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