順徳天皇
順徳天皇(じゅんとくてんのう、旧字体:順德天皇、1197年10月22日〈建久8年9月10日〉- 1242年10月7日〈仁治3年9月12日〉は、日本の第84代天皇(在位:1210年12月12日〈承元4年11月25日〉- 1221年5月13日〈承久3年4月20日〉)[1][2][3]。諱は守成(もりなり)[1][2][3]。 後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。承久の乱によって佐渡へ配流された。 生涯後鳥羽天皇と、寵妃藤原重子(修明門院)の皇子として生まれる[1][2][3]。正治元年(1199年)1月に親王宣下[2]。 正治2年(1200年)4月に土御門天皇の皇太弟となる[2]。摂政である九条良経が自分の娘(立子)を土御門天皇に入内させようとすると、後鳥羽上皇はそれを中止して東宮(順徳天皇)の妃にするように命じ(『愚管抄』巻6)、更に長年朝廷に大きな影響を与えてきた後白河法皇の皇女で歌人として名高かった式子内親王を東宮の准母にしようとして彼女の急死によって失敗に終わると、その代わりとして上皇自身の准母であった殷富門院(式子の姉)を准母として(『猪隈関白記』建仁元年12月18日条)、上皇の後継者としての地位強化が図られている[4]。 承元2年(1208年)8月、莫大な八条院領の相続人である異母姉の昇子内親王(春華門院)を准母とし、建暦元年(1211年)11月の昇子内親王の死後には八条院領を相続した。 承元4年(1210年)11月後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて践祚し、14歳で即位する[1][2]。譲位した土御門上皇には権力は無く、後鳥羽上皇による院政が継続される。そのため、即位後の内裏は閑院であった[2]。天皇の治世に関して、『増鏡』は「この御世には、いと掲焉なる事おほく、所々の行幸しげく、好ましきさまなり」と評しているが、このように世人の注目を引く華々しい行動が多かったのは、鎌倉幕府に対する皇権の示威行為の一端と考えられ、おそらく父上皇の意図によるところが大きい。 直接政務に与らない天皇は、王朝時代の有職故実研究に傾倒し、幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって、『禁秘抄』を著した[2][3]。これは天皇自身に関わる有職作法の希少な書物として、後世永く珍重された。また、父の影響で和歌や詩にも熱心で、藤原定家に師事して歌才を磨き、藤原俊成女や藤原為家とも親交があった。家集としては『順徳院御集』(紫禁和歌草)があり、歌論書には、当時の歌論を集大成した『八雲御抄』が知られる[2][3]。『続後撰集』以下の勅撰集には159首が入る。 父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、承久3年(1221年)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた[2]。父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わった[3]。乱後の7月21日、上皇は都を離れて佐渡へ配流となった[2][3]。 在島21年の後、仁治3年(1242年)9月12日に佐渡で崩御した[2]。上皇と近かった平経高の『平戸記』の仁治3年10月10日条に「御帰京事思食絶之故云々」とあることから、同年初めの四条天皇の崩御後に鎌倉幕府が自分の皇子である忠成王を排除して土御門上皇の皇子である邦仁王(後嵯峨天皇)を即位させた(仁治三年の政変)ことで、自らの帰京と子孫への皇位継承に対する幕府の強い拒絶の意思を知った上皇が絶食による事実上の自殺を図った可能性も指摘されている[5]。配流後は佐渡院と称されていたが、建長元年(1249年)7月20日順徳院と諡された[2]。 人物穏和な兄の土御門天皇とは対照的に、激しい気性の持ち主だと言われていて、後鳥羽上皇から大きな期待を寄せられていたという。角田文衞は、順徳天皇に反幕府の意識が強かったのは、平家の生き残りである祖母平教子の元で育ち、周囲には平家の関係者が多かったことに一因があるのではないかと見ている。 在島中の詠歌として、貞永元年(1232年)の『順徳院御百首』が残されている[3]。藤原定家は幕府への配慮から、『新勅撰和歌集』に順徳天皇の御製を採らなかったが、『小倉百人一首』には以下の1首を採録した。
系譜
系図
后妃・皇子女
在位中の元号
陵・霊廟陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市左京区大原勝林院町にある大原陵(おおはらのみささぎ)に治定されている[3]。宮内庁上の形式は円丘。 崩御翌日に佐渡真野山にて火葬されたが、寛元元年(1243年)4月に遺骨は都に持ち帰られ、翌月に後鳥羽院の大原法華堂の側に安置された。堂は後に荒廃して所在も不明となったが、元禄探陵の際に当所が陵に擬定され、明治22年(1889年)正式に治定された。 なお、新潟県佐渡市真野にある真野御陵(まののみささぎ)は正式には火葬塚であるが、古来地元から御陵として崇敬されてきたもので、延宝7年(1679年)に佐渡奉行曽根吉正が修補を加え、明治7年(1874年)から政府の管理下にある。ちなみに、この陵は宝暦12年(1762年)に起こった佐渡沖地震の際、石垣が崩れる被害があったという[8]。 皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。また大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮では、祭神として祀られている。 伝承関連作品
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |