光孝天皇(こうこうてんのう、830年〈天長7年〉- 887年9月17日〈仁和3年8月26日〉)は、日本の第58代天皇(在位:884年3月4日〈元慶8年2月4日〉- 887年9月17日〈仁和3年8月26日〉)。諱は時康(ときやす)。
仁明天皇の第三皇子。母は藤原総継の娘、贈皇太后沢子。
略歴
幼少より太皇太后橘嘉智子の寵愛を受ける。843年(承和10年)、父仁明天皇の御前で元服して親王となり、四品に叙せられた。以後、中務卿、式部卿、相撲司別当、大宰帥、常陸太守、上野太守と、親王が就任する慣例となっている官職のほぼ全てを歴任し、 882年(元慶6年)、一品に叙せられ親王の筆頭となった。
陽成天皇が母方の伯父である藤原基経によって廃位されたのち、55歳で即位した。陽成帝の次代を誰にするかの評定の席では、母方の従兄弟にあたる関白の藤原基経が時康親王(のち光孝天皇)を強く推し、同調した藤原諸葛が剣を抜いて諸衆を恫喝したため、異論は押さえ込まれた。即位後は基経を関白として、前代に引き続いて政務を委任した。『徒然草』には、即位後も不遇だった頃を忘れないよう、かつて親王であった自身が炊事をして黒い煤がこびりついた部屋をそのままにしておいた、という話があり、『古事談』にも似たような逸話が載っている。ただし、親王として一流の地位であった経歴であり、そこまで困窮してはいなかったはずである。
光孝は、基経が陽成の弟であり自身の甥である貞保親王に天皇位を継がせるであろうと推測し、即位と同時に自身のすべての子女を臣籍降下させることで、自身の子孫に皇位を伝えない意向を内外に表明していた。一方で、基経は妹である高子と対立しており、その子である貞保親王の立太子を妨害していた為に次代の天皇の候補者が確定していなかった。やがて光孝は病を得、仁和3年8月25日に子息の源定省を皇籍に復し、翌26日に立太子させた。同日に天皇は58歳で崩御、定省親王が践祚した(宇多天皇)。
宮中行事の再興に務めると共に、諸芸に優れた文化人でもあったとされる。和歌・和琴などに秀でたとされ、桓武天皇の先例にならって鷹狩を復活させた。また、親王時代に相撲司別当を務めていた関係か、即位後に相撲を奨励している。晩年は、政治改革を志向するとともに、親王時代の住居であったとされる宇多院の近くに勅願寺創建を計画するも、いずれも実現を見ぬままに終わり、跡を継いだ宇多天皇の「寛平の治」及び仁和寺創建に継承されることになる。
『日本三代実録』では「天皇少く(わかく)して聡明、好みて経史を読む。容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、九族を親愛す。性、風流多く、尤も人事に長ず」と評されている。
- 830年(天長7年)、生誕。
- 836年(承和3年)1月7日、四品に叙品。
- 843年(承和10年)2月2日、元服。
- 848年(嘉祥元年)1月13日、常陸太守に任官。
- 850年(嘉祥3年)5月17日、中務卿を兼任。
- 851年(仁寿元年)11月21日、三品に昇叙。
- 853年(仁寿3年)、常陸太守を止む。
- 856年(斉衡3年)6月、上野太守を兼任。
- 860年(貞観2年)1月15日、上野太守を止む。
- 864年(貞観6年)、上野太守を兼任。(系図纂要は、上総太守としている)
- 866年(貞観8年)1月13日、上野太守を止め、大宰帥を兼任。
- 870年(貞観12年)2月7日、二品に昇叙。
- 871年(貞観13年)1月28日、大宰帥を止む。
- 873年(貞観15年)1月13日、上野太守を兼任。
- 876年(貞観18年)12月26日、中務卿を止め、式部卿を兼任。
- 877年(元慶元年)10月17日、上野太守を止む。
- 880年(元慶4年)1月11日、常陸太守を兼任。
- 882年(元慶6年)1月7日、一品に昇叙。
- 884年(元慶8年)1月11日、大宰帥を兼帯。 2月4日、受禅。
系譜
兄弟には、文徳天皇、宗康親王 、人康親王、本康親王、源多、源光がいる。また嵯峨源氏の源是茂を養子としている。
系図
后妃・皇子女
諡号・追号・異名
光孝天皇の諡号を奉られた。漢風諡号を持つ古代最後の天皇であり、漢風諡号の奉呈はその後、千年近く経った江戸末期の光格天皇による復興まで待つことになる[注釈 1]。在位中の年号をもって仁和帝(にんなのみかど)、また山陵の名をもって小松帝(こまつのみかど)とも呼ばれた。
なお、吉川真司は『西宮記』巻12「定先帝諡号事寛平元年八月例」を根拠として、最初の諡号は光仁天皇であったとする可能性を指摘している。光仁天皇は現在では光孝天皇の高祖父にあたる第49代天皇(御名:白壁/和風諡号:天宗高紹天皇)の諡号とされているが、吉川は『西宮記』が引用した「光仁天皇」と定めた詔勅らしき公文書には4文字に対する個々の解説があり「孝」を「仁」と誤記したと考える余地はないこと、また同文中に『令義解』からの解説も含んでいることで『令義解』編纂よりも40年前に亡くなった第49代天皇の諡号決定の史料が混入したとは考えられないことから、『西宮記』は事実を伝えたものとしている。また、第49代天皇は9世紀を通じて国史や公文書においては和風諡号の「天宗高紹天皇」と呼称され続けていることから、この当時(仁和5年/寛平元年時点)にはまだ漢風諡号が定められていなかったとしている。吉川は『日本三代実録』が完成する延喜元年(901年)以前に何らかの事情で漢風諡号が光仁から光孝への変更が行われ、その後、光仁が漢風諡号が存在しなかった天宗高紹天皇に対する諡号として転用されたと推測している[1](後世において諡号・追号が変更された例としては、顕徳院→後鳥羽院、後文徳院→後花園院の例がある)。
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区宇多野馬場町にある後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。「小松山陵(こまつやまのみささぎ)」とも。
江戸時代には陵の所在はまったく不明となっており、明治期になり京都市右京区宇多野馬場町の現陵の場所に定められた。ただし、比定に確たる根拠があったわけではなく、仁和寺の西南にあたる現在の場所は文献記録とも矛盾すると指摘されている[注釈 2][2]。
上記とは別に、京都府京都市右京区御室大内にある宮内庁の御室陵墓参考地(おむろりょうぼさんこうち)では、光孝天皇が被葬候補者に想定されている[3]。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
和歌
小倉百人一首にとられる。
- 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ
- (きみがため はるののにいでて わかなつむ わがころもでに ゆきはふりつつ)
脚注
注釈
出典
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
光孝天皇に関連するカテゴリがあります。
ウィキクォートに
光孝天皇に関する引用句集があります。