讃岐永直
讃岐 永直(さぬき の ながなお)は、平安時代前期の貴族・明法家。姓は公のち朝臣。讃岐権介・讃岐浄直の子。官位は従五位下・大判事。 経歴讃岐氏(讃岐公)は景行天皇の子神櫛王の後裔[2]で讃岐国造家の嫡流子孫[3]。平安時代初期までは讃岐国寒川郡の郡司を務めていたが、平城朝以降に永直の祖父・広直[4]および父・浄直と続いて明法博士に任ぜられた。 祖父や父に続いて永直も明法家の道を歩み、幼い頃から大学寮で学び律令を好んで読んだ。非常に聡明で、一度聞いたことは暗誦してしまったという[5]。 嵯峨朝の弘仁6年(815年)明法得業生兼但馬権博士に任ぜられると、数年後に明法試に及第する。淳和朝の天長7年(830年)明法博士に任ぜられると、左/右少史・勘解由判官も務めた。 仁明朝初頭の承和元年(834年)外従五位下・大判事に叙任。承和3年(836年)に弟の右少史・讃岐永成や従兄弟の讃岐当世らと共に公姓から朝臣姓に改姓する。仁明朝では大判事を務める一方で、勘解由次官・出雲權介・阿波権掾などを兼ね、承和13年(846年)に発生した善愷訴訟事件の裁断にあたっては、明法道の権威として中心的な役割を果たした。 だが、嘉祥元年(848年)に親族である和気斉之の犯罪(大不敬)に連座して土佐国(または佐渡国)への流罪となった。2年後の嘉祥3年(850年)仁明天皇が重態に陥る中で行われた恩赦により帰京を許されて、仁寿3年(853年)本位(外従五位下)に復し、再び明法博士・大判事を歴任、清和朝の貞観元年(859年)には77歳で内位の従五位下に叙せられた。 貞観4年(862年)8月に卒去。享年80。最終官位は従五位下守大判事兼行明法博士。 逸話・人物致仕後も特に許されて自宅で律令を講義する事が許されたこと、判決の要諦を究めて司法に関する官職に就く者から目標とされたこと、朝廷が遣唐使に託して唐の明法家に充てた質問書の中身を事前に閲覧させたところ、全ての質問に対して正しい回答を出したために、質問書の件が中止になった事などが伝えられている[5]。『令集解』に大量に引用されている書物・『讃記』(実物は散逸)の著者であり、『令義解』の編者の一人ともされる。 官歴『六国史』による。
系譜脚注参考文献 |
Portal di Ensiklopedia Dunia