禁闕の変
禁闕の変(きんけつのへん)は、室町時代の嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)夜に京都で起こった後花園天皇の禁闕(皇居内裏)への襲撃事件である。吉野朝廷(南朝)復興を唱える勢力(後南朝)が御所に乱入し、三種の神器のうち剣璽の二つを奪い比叡山へ逃れたが、26日までに鎮圧された。幕府は宝剣の奪還には成功したが、神璽はそのまま奪い去られ、長禄元年(1457年)に赤松氏が後南朝より奪い返し北朝の手に戻る(長禄の変)まで15年に渡って後南朝の下にあった。嘉吉の変(かきつのへん)という呼び方もあるが、嘉吉元年(1441年)の守護赤松満祐による6代将軍足利義教の殺害事件「嘉吉の変」と混同を招くため、避けられる傾向にある[1]。 経緯建武3年/延元元年(1336年)に後醍醐天皇により開かれた南朝(大覚寺統)は、3代将軍足利義満時代の明徳3年/元中9年(1392年)に明徳の和約が行われて名目上は解消された。しかし、室町幕府が約定をほぼ履行しなかったこともあり、その後も南朝の後胤を擁する後南朝勢力は室町時代を通じて登場し、反幕府勢力とも関係して活動を続ける。一方で、かつての北朝(持明院統)側では後小松天皇の直系が断絶して、伏見宮家から後花園天皇が迎えられるという事態が起こっていた。 その上、室町幕府では、恐怖政治による中央集権化を目指した6代将軍足利義教が、嘉吉元年6月24日(1441年7月12日)に守護赤松満祐によって殺害されるという大乱があった(嘉吉の乱)。嘉吉の乱は9月10日に鎮圧されたものの、火種は確実にくすぶっていた。 森茂暁は、禁闕の変の予兆を示す傾向として、以下の二つを指摘している[1]。
戦闘こうした幕府の空白期間を狙い、嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)夜、後南朝の軍勢が蜂起した。 神泉苑に200–300の軍勢が集ったが(『康富記』)、甲冑で完全装備した武者もいれば、兵具を身に着けていない者もいる雑多な衆だった[1]。 変の首謀者・実行犯は以下の通りである。
後南朝軍は変の事前に、室町幕府の御殿である室町殿を襲撃するという噂を流していた[1]。ところがそれは室町殿に足利軍を引きつける計略であり、23日夜、警備が手薄になった土御門東洞院殿を襲撃。後南朝軍のうち30–40人が清涼殿に押し入って火を付け、公家の甘露寺親長・四辻季春らが果敢にも太刀を取って応戦したが、武士には敵わず、宝剣と神璽は奪い去られた(『看聞日記』)[8]。 後花園天皇は運良く近衛第(左大臣近衛房嗣邸宅)に避難することができた[9]。この時、天皇は冠を脱ぎ女房姿となって唐門から逃れ四辻季春が一人で付き従ったという。甘露寺親長は賊との乱戦のうちに見えなくなってしまっていた[10]。 後南朝軍はその後、比叡山に逃れ、東塔根本中堂と西塔釈迦堂に立て篭もった[1]。山門に登ったのは、「元弘の吉例」(『十津河之記』)つまり後醍醐天皇の先例を模したものだとされる[2]。 しかし、同24日、後花園天皇から凶徒追討の綸旨(追討令)が出ると、比叡山は室町幕府に付くことを決め、管領畠山持国が派遣した幕府軍や、後南朝への協力を拒んだ山徒によって、後南朝軍は25日の夕刻から26日の明け方にかけて鎮圧された[1]。一味のうち金蔵主と日野有光はこの戦闘で討たれた[2]。実働部隊の将である楠木正威も25日に戦死している(『全休庵楠系図』)[5]。 変が小規模のうちに鎮圧されたのは、ほぼ完全に比叡山護正院の功績であり、9月29日には室町幕府が書状で正式に称賛している[2]。 影響この事件は京都の公家・武士を震撼させ、『看聞日記』『康富記』『師郷記』『斎藤基桓日記』『大乗院日記目録』等、当時の多くの日記に記載された[1]。ただし、最も情報の多いはずの『建内記』が、この月の記録が散逸しているため、事件の詳細を知ることが難しくなってしまっている[1]。 幕府は変に関与したものを捕らえて、処刑あるいは流罪にした。28日には六条河原で日野資親以下、捕えていた者たちを処刑した[2]。10月2日には、勧修門跡の門主である教尊(小倉宮聖承の息子)もこの変に関与したと疑われて逮捕された[2]。そして、皇族である通蔵主は死刑を免ぜられ、四国へ流罪とされたが、『東寺執行日記』によれば、10月4日、道中の摂津太田で「原林」なるものに暗殺された(暗殺という形式をとった事実上の死刑)[2]。 ところが、肝心の総大将である源尊秀のその後が不明である。『看聞日記』は「南方人主と称する人」は変で討ち取られたとし、『東寺長者補任』も討死説を支持するが、『康富記』は逃れて行方不明になったとするなど、情報が錯綜している[2]。14年後に長禄の変で暗殺された後南朝の自天王が源尊秀の後の姿という説もあるが、定かではない。 天皇家や将軍家と姻戚関係にあった日野父子が後南朝に与していたこともあって、事件は幕府内に憶測を招いた[2]。この事件単体で見ると、即時鎮圧されたこともあって小規模な戦いのように見えるが、政界の大物である日野が自ら動いた以上は一定の勝算はあったということであり、『看聞日記』では、山名氏や細川氏といった有力守護の関与が疑われている[2]。 奪われた神器のうち、のちに剣は清水寺で発見され朝廷に返却されたが、その経緯がまた奇妙である[2]。清水寺の僧侶を自称する心月坊承桂という誰もその素性を知らない謎の人物が、9月25日早朝に清水寺に棄てられているのを発見したと言って届け出てきた[2]。剣には付札があり「三種の神器の一つだから拾った人は大切に返却して欲しい。粗略に扱ったら神罰があたってしまうから」というような内容が書いてあった(『看聞日記』)[2]。発見者の承桂の身元を疑う向きもあったが、功があるということで深くは追求されず、処刑された日野資親の領地である美濃国加納郷を与えられた[2]。ところが、清水寺で発見されたのではなく、実は比叡山から発見されたのではないか、という説もあり(『管見記』)、源尊秀同様その経緯が曖昧である[2]。 神璽は持ち去られたままであった[2]。これは、壇ノ浦の戦いで消失したあと再造された剣や、火災にあった神鏡よりも、原型を保持している神璽の方が後南朝から重視されたのではないか、という説がある[2]。朝廷・室町幕府には衝撃的だったようで、10月25日には東寺で神璽御出現の祈祷が行われている(『東寺執行日記』)[2]。この事件により神器の守備は以前より厳しくなった[2]。 神爾は約15年の間後南朝のもとにあったが、長禄元年(1457年)に嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が再興を目指して後南朝より奪い返し、翌年には北朝の手に戻っている(長禄の変)。赤松氏は赤松政則の家督相続を認められ、加賀半国を与えられて再興を果たした[11]。 脚注
参考文献
小説
関連項目 |