長門国
長門国(ながとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。 「長門」の名称と由来長門は、古くは「穴門(あなと)」と呼ばれ、「穴戸」と書くこともあった。『日本書紀』によれば、大化6年(650年)穴戸の国司(草壁醜経)が白雉を献上した。天智4年(665年)には長門国が初見される。この間に改められた。 穴門とは海峡(関門海峡)を指しており、日本神話にも「穴戸神」の名が見える。古墳時代に成立した穴門国造の領域と阿武国造の領域をあわせて、7世紀に穴戸国が設置された。7世紀後半に長門国に改称した。 領域明治維新の直前の領域は、下関市、萩市、長門市、美祢市、山陽小野田市、阿武郡および山口市の一部(旧阿東町)、宇部市の大部分(あすとぴあ・今村北・今村南・亀浦三丁目・亀浦四丁目・床波・西岐波・東岐波を除く)にあたる。 沿革古代海を隔てて朝鮮半島と向かい合う位置に在るので、古代には北部九州に準じて外交・防衛上重視された。 665年(天智天皇3年)には、筑紫国の大野城や基肄城と並んで、長門国に名称不明の城が築かれた[要出典]。675年(天武天皇4年)には、畿内と陸奥国と長門国を除いて、国司は大山[要曖昧さ回避]位以下を任じることが定められた[要出典]。陸奥国と長門国が特別扱いされたのは、辺境の要地にあるためで、同じく辺要の九州は、筑紫大宰を上に持っていた。こうして、一時は他国より格上とされた長門国ではあるが、後に周防総領が置かれるとその管轄下に入ったと考えられる[要出典]。 この時代の重要な遺跡としては次のようなものがある。
一説によると、下関市豊田湖湖畔に日女尊(ヒメコ・ヒミコ)の冬の居城があり、更に安徳天皇西市陵墓参考地が日女尊の墓とされる[要出典](安徳天皇の陵墓は下関市赤間神宮横にある。明治期に正式に認定されたが、安徳天皇が葬られた場所という伝承があるため陵墓参考地に指定されている土地は当該土地を含め10か所以上あるという)。 奈良時代の長門国は、銅を多量に産した。国司直営の銅山から採掘された銅は、都に送られて東大寺の大仏の原料になった[要出典]。 平安時代また貨幣の原料としても重宝され、818年(弘仁9年)3月7日に国司が廃止されて鋳銭使と改められ、長門の行政・貨幣鋳造を司った。鋳銭使は制度上京官である鋳銭司を引き継いだものでありながら、国司が持つ行政機能も統合するという特殊な機関であり、長門の租税と産銅を貨幣鋳造に振り向ける仕組みであったと考えられている。しかし、この時期、長門国内では飢饉や凶作で税収が不振になったことに加え、周防との国境にある長登銅山以外の銅山が枯渇し始めていた。こうした状況を受けて、825年(天長2年)により都に近い周防国吉敷郡に鋳銭司を再建して長登銅山から直接材料を搬入することになり、長門から鋳銭組織が撤退したことを受けて国司が再設置されることになった[1]。鋳銭所の所在地は下関市長府逢坂・安養寺に比定されている[要出典]。 源氏と平氏が権力争いを展開した時代の末期、平氏の知行国であった中で厚東氏、豊田氏の両氏が勢力を伸ばし、1185年(元暦2年)には壇ノ浦の戦いの舞台ともなった。 鎌倉時代1276年(建治2年)、鎌倉幕府が元寇に対処するため長門探題が置かれた。 室町・戦国時代周防国山口を本拠地とする大内氏が守護職となり守護代として鷲頭氏や内藤氏が務めた。この大内氏は九州のうち豊前国、筑前国までを勢力圏としていたが、後に安芸国の毛利氏に取って代わられる。 江戸時代萩に藩庁を置いた長州藩の所領であった。寛永年間には馬関が北前船が寄港地として繁栄し、幕末には明治維新への拠点となった。 近世以降の沿革
国内の施設国府国府は豊浦郡にあった。現在の下関市長府宮ノ内町の忌宮神社の近辺と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。 長府(長門国府)と呼ばれる前は、穴門の豊浦宮(古事記、日本書紀に記載)と呼ばれていた。 国分寺・国分尼寺
神社地域郡合計40郷(『和名抄』) 江戸時代の藩人物国司
守護鎌倉幕府
建武政権室町幕府
戦国大名武家官位としての長門守
長門国の主な合戦
脚注注釈出典参考文献
関連項目 |
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