秋月種長
秋月 種長(あきづき たねなが)は、戦国時代末期から江戸時代初期の武将・大名。日向国高鍋藩初代藩主[3]。 生涯永禄10年(1567年)2月7日、筑前の戦国大名である秋月種実の長男として生まれる。天正14年(1586年)の豊臣秀吉の九州征伐では父と共に豊臣軍と戦ったが、敗れて父と共に降伏した。このとき、父が秀吉に対して剃髪して謝意を示し、さらに隠居したため、家督を継いで当主となる。しかし間もなく、秀吉の命令で日向高鍋3万石に減移封された。 その後、豊臣政権下では文禄・慶長の役に出陣し、慶長3年(1598年)の蔚山城の戦いで功績を挙げた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に属して大垣城を守備していたが、関ヶ原の本戦で西軍が壊滅した直後の9月17日、水野勝成の勧めで東軍に内応し、同じく籠城していた弟の高橋元種と相良頼房を誘って熊谷直盛、垣見一直、木村由信・木村豊統父子らを城中で殺害して降伏、23日には守将の福原長堯は大垣城を開城して東軍に明け渡した。これによって徳川家康から所領を安堵され、高鍋藩の初代藩主となった。 種長には男子がいなかったため、長野鑑良の息子で種長の甥にあたる種貞を婿養子として迎えた。だが、種貞が病弱であったため廃嫡し、種貞と娘オチョウの間に誕生した外孫の種春を後継者とした。このため、これを不満に思う家臣との間に確執が生じたという。 慶長19年(1614年)6月13日に死去した。享年48。家督は種春が継いだ。 系譜父母 正室 子女
養子 脚注 |