田村神社 (高松市)
田村神社(たむらじんじゃ)は、香川県高松市一宮町にある神社。式内社(名神大社)、讃岐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として「田村大社」「一宮神社」「定水(さだみず)大明神」「一宮大明神」「田村大明神」とも。 概要高松市中部、高松市街地から南に約7kmの地に鎮座する。 一帯は湧水地であり、現在も当社の奥殿が深淵の上に建てられているように、水神信仰を基盤とした神社である[1]。讃岐国内では名神大社三社の1つで、讃岐国の一宮として崇敬された。また、現在に伝わる神宝は「田村神社古神宝類」として国の重要文化財に指定されている。 なお「田村」の社名は鎮座地名によるもので、他の田村神社のような坂上田村麻呂との関係はない。 祭神祭神は以下の5柱で、「田村大神」と総称される。
田村大神について、中世の書物では猿田彦大神[2]や五十狭芹彦命[3]を指すとされ、近世には神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命[4]など様々で一定していない。社殿創建前は井戸の上に神が祀られていたという社伝から、元々は当地の水神(龍神)であったとする説もある。 歴史創建社伝によれば、古くは「定水井(さだみずのい)」という井戸にいかだを浮かべて、その上に神を祀っていたという。その後、和銅2年(709年)に行基によって社殿が設けられたのが創建とする。この「定水井」は現在も奥殿の下にある。 なお、当初は義淵僧正によって大宝年間(701年-704年)に開基された一宮寺と同一視(建物も同じ)されていた。 概史朝廷の当社に対する信仰は篤く、平安時代には度々神階の授与が行われている。また延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では「讃岐国香川郡 田村神社」と記載され名神大社に列したほか、讃岐国一宮として信仰された。建仁元年(1201年)には正一位の昇叙があったとされ、後宇多天皇が弘安7年(1284年)7月に寄せた「正一位田村大明神」の勅額が残っている[5]。 また武家からも崇敬・統制を受け、長禄4年(1460年)には細川勝元により、社殿造営や寄進のほか「讃岐国一宮田村大社壁書」(高松市指定文化財)が定められた。これは当社の関係者に対し、守るべき事項を26箇条で記したものである[6]。 天正年間(1573年-1592年)には兵火により一切経蔵を焼失したが、仙石秀久から社領100石を寄進された[1]。その後も社領の寄進を受け、藩主が松平大膳家に代わったのちも祈願所として崇敬された。 延宝7年(1679年)、高松藩主であった松平氏により一宮寺が分割され、後に一宮寺は別の地に移された。その際、一国一宮として選ばれていた四国八十八箇所の札所と本地・正観音像は、一宮寺に移される。 明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列した。 大正14年(1925年)12月10日、北白川宮大妃こと能久親王妃富子お成り(松をお手植え)[7]。 昭和9年(1934年)4月5日、閑院宮載仁親王お成り[7]。同年5月22日には梨本宮守正王お成り(松をお手植え)[7]。 神階いずれも「田村神」と記載。
境内本社拝殿・奥殿は宝永7年(1710年)の造営で、春日造。奥殿は二重構造で前方は本殿に接続していて、神座があり、その床下に「定水井」と呼ばれる深淵がある。なお、現在、奥殿には垣根で近づくことができず鬱蒼と茂った木々でほとんど見ることはできない。拝殿は明治10年の再建で、入母屋造。 そのほか境内には、海軍少年飛行兵之碑・海外開拓者殉難之碑などの鎮魂のための石碑や、桃太郎話に仮託した犬・猿・雉と吉備津彦・倭迹迹日百襲姫命や讃岐七福神の石像など、多くの石造物が設けられている。
関係地
摂末社おもな末社を本社の向って右から外へ順に。
そのほか、姫の宮、淡島社、稲荷社など多くの末社が祀られている。
祭事年間祭事
御蚊帳神事御蚊帳神事(おかちょうしんじ)は、春と秋に行われる特殊神事。奥殿の下にある井戸に蚊帳を下げ深淵の姫神に籠もってもらう神事である[1]。 5月8日に春季例大祭とともに御蚊帳垂神事 (おかちょうたれのしんじ)で蚊帳が下ろされ、10月8日に秋季例大祭ともに御蚊帳徹神事 (おかちょうあげのしんじ)で蚊帳が上げられる。 高松市・香川郡一円では、この神事に従って5月8日以前に蚊帳を吊るす際は一隅を外す風習が残っている[1]。 文化財重要文化財(国指定)
高松市指定有形文化財
前後の札所現地情報所在地 交通アクセス
周辺 備考毎週日曜の午前中に朝市が開かれており、社脇の建物では讃岐うどんの店が開かれる。讃岐うどんは香川県の特産・観光資源として有名であるが「田村神社日曜朝市の讃岐うどん」は県内でも珍しい「神社で食べるうどん」として知られている。 脚注参考文献
関連図書
外部リンク
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