渚滑駅
渚滑駅(しょこつえき)は、北海道(網走支庁)紋別市渚滑町3丁目にかつて存在した、北海道旅客鉄道(JR北海道)名寄本線の駅(廃駅)である。事務管理コードは▲122116[1]。1985年(昭和60年)までは渚滑線の分岐駅であった。 歴史1980年(昭和55年)まで運行されていた急行「天都」、及び1986年(昭和61年)まで運行されていた急行「紋別」の停車駅であった。 年表
駅名の由来当駅が所在していた地名、「渚滑町」より。地名は、アイヌ語の「ソー・コッ」(滝壺)に由来する[6]。その滝壺から砂金が産出し、鴻之舞金山の起源となった[6]。 駅構造廃止時点で、1面1線の単式ホームと線路を有する地上駅であった。ホームは、線路の北側(遠軽方面に向かって左手側)に存在した。 国鉄時代末期に無人化されるまでは、単式ホーム・島式ホームを複合した計2面3線のホームと線路を有する、列車交換可能な交換駅であった[6]。互いのホームは、駅舎側ホーム西側と島式ホーム西側を結んだ跨線橋で連絡した[6]。1983年(昭和58年)時点では、駅舎側単式ホーム(北側)が下りの1番線、島式ホーム駅舎側が上りの2番線、外側が渚滑線発着の上下共用3番線となっていた[6]。3番線の外側(山側)に旧貨物側線を5線有し、そこから車庫線などの行き止まりの側線も数線有した。そのほか、1番線の遠軽方から分岐し駅舎東側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を1線有していた[6]。 無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の北側に位置し、ホーム中央部分に接していた[6]。改札口は西側1箇所にあった。 利用状況乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。
駅弁1935年(昭和10年)から1978年(昭和53年)まで、駅前の食堂の村上待合所が帆立めしを駅弁として販売していた。 駅周辺
バス路線
駅跡地の再開発名寄本線が廃止となった後、当駅の旧駅本屋はバスの待合所として活用された。この他、旧駅構内は渚滑パークゴルフ協会が管理するパークゴルフコースとなり、1991年12月からは市民有志によって冬季間、旧機関庫を「旧渚滑駅機関庫跡室内パークゴルフ場」として利用するようになった。機関庫内の室内パークゴルフ場は現在も地元住民の同好会が管理し、毎年12月から翌年4月まで開放されている。 当駅の跡地は渚滑地区の中心部にあることから跡地利用が課題となっていたが、紋別市は1997年度から再開発に着手した[9]。駅本屋は同年解体され、1999年までに市食品加工センター(うまいっしょ工房)、渚滑高齢者ふれあいセンター、バス待合所が入る紋別市渚滑総合交流促進施設とオホーツク農業共済組合紋別家畜診療所が建設されたほか、パークゴルフコースが「渚滑ふれあいパークゴルフ場」として再整備された[10]。 紋別市は2004年度、渚滑ふれあいパークゴルフ場などの周辺再整備を行い、この際、市が紋別市運動公園(紋別市南が丘町7丁目)で静態保存していた9600形蒸気機関車(69644)が移設された。同機は国鉄から1975年に無償貸与されたもので、老朽化が進んだため、所管する紋別市教育委員会は機関車を解体して車体の一部のみを保存することにしていたが、全国のSLファンから完全保存を求める声があがり、市教委が方針を転換して補修の上、渚滑駅跡地に移して保存した[11]。 渚滑線跡は、現在も一部が築堤として残存している。1985年の同線廃止後、レールなどの設備はいったんすべて撤去されたが、駅から数百メートル西方の渚滑小学校地内の校門と運動場の間を横切っていたことから、地元の渚滑小・中学校PTAが「全国で唯一鉄道が走っていた学校」を後世に伝えようと国鉄からレールや踏切遮断機、信号機、駅名標などを譲り受け、校地内の渚滑線跡地に1989年、線路(約30メートル)を復元して保存している[12]。 隣の駅
脚注
関連項目 |