ブルーバード映画
ブルーバード映画(ブルーバードえいが、英語: Bluebird Photoplays Inc., 1916年1月1日 設立 - 1919年3月 合併消滅)は、かつて存在したアメリカ合衆国の映画製作会社である。わずか3年の間であるが製作した多くの映画が日本で公開され、米国での評価に比し、日本映画への影響が大きかったことで知られる[1]。日本では、当初ブルーバード写真劇合資会社(ブルーバードしゃしんげきごうしがいしゃ)と紹介され[2]、青鳥映画(せいちょうえいが)とも呼ばれた[3]。 略歴・概要ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)は、ジェシー・L・ラスキーのジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー(フェイマス・プレイヤー=ラスキー)、トライアングル・フィルム・コーポレーション、あるいはメトロ・ピクチャーズといった企業に比して「二流」であった[1]が、日本市場を最初に開拓した企業となった[1]。その中心的な役割を果たしたのが、日本で「ブルーバード映画」と呼ばれた作品群である[1]。 ブルーバード映画はユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニーの子会社として、同社の幹部であったM・H・ホフマンが代表となって1916年(大正5年)1月1日に設立され[2]、同年1月31日に米国内で、ロバート・Z・レナード監督の『暴』を封切ったのが最初の作品となったが[4]、同作が日本で公開されたのは同年10月30日、日本公開第17作であった[5]。ブルーバード映画が製作する映画は、上映尺を全5巻、50分程度とした小品で、青少年向けの明朗な人情劇であった[1]。合衆国内では、毎週月曜日に定期公開された[2]。 同年、ユニバーサル社の極東支配人であるトム・コクレンと播磨勝太郎が提携し、播磨ユニヴァーサル商会を設立、同年6月以前に製作されたユニバーサル映画に関しては自由配給であるが、同年7月1日以降の製作物に関しては、同商会が独占的に日本配給する旨を宣言した[1]。日本で初めて公開されたブルーバード映画は、アイーダ・シュナール主演、ヘンリー・オットー監督の Undine で、同作を『美人島』と題し、浅草公園六区の帝国館で同年8月26日に封切った[5]。同館では多くのブルーバード映画を公開したが、なかでも1917年(大正6年)5月28日に合衆国で封切られて日本では翌1918年(大正7年)1月19日に同館で公開されたマートル・ゴンザレス主演、リン・F・レイノルズ監督の『南方の判事』[6][7]は、活動辯士・林天風が考案し、生駒雷遊も使用した説明の文句「春や春、春南方のローマンス」で一世を風靡した[8]。 1916年10月18日に日本で公開されたロイス・ウェバー監督の『毒流』について、当時の映画雑誌『活動之世界』では「活動写真が藝術だと云ひ得るなら、この写真の如きにそれであらう。従来の映画と比較して見ても、江戸時代の戯作者の作物から、急に自然派文学に接した心地がする」と評した[9]。『沼の少女』(1916年)、『南方の判事』に主演した女優マートル・ゴンザレスが1918年に世界的に流行したスペインかぜにより満27歳で急死した際には、同年12月の『活動評論』創刊号に2ページ見開きによる追悼文『汝悲しいマートルよ』が掲載されている[10]。 日本市場での歓待にかかわらず、米国市場を中心としたブルーバード映画は、営業不振により、1919年(大正8年)3月をもって営業を停止し、ユニバーサル社に合併され、3年あまりのうちに全168作を数えた[11]「ブルーバード映画」の歴史を閉じた。最終作品は、山中十志雄・塚田嘉信の指摘によれば、同年3月2日発売(米国公開)[12]のジャック・ディロン監督の『赤い酒』である[2]。Internet Movie Databaseによれば、同作の米国公開日は同一であるが、『屍の輝き』の公開日が15日遅い同年3月17日[13]、山中・塚田によれば『赤い酒』より13日早い同年2月17日である[14]。 1920年代にユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニーがユニバーサル・ピクチャーズと改名した後、「ブルーバード喜劇」(Bluebird Comedies)というブランドが生まれ、ブルーバードの名のみ復活したが、これは本項の「ブルーバード映画」とは異なる[4]。 日本映画への影響のちの映画監督・衣笠貞之助は、まだ日活向島撮影所で女形の俳優であった時代に夢中になり、欠かさず観た監督としてルパート・ジュリアンの名を挙げ、同監督作のカットのつながりまで記憶し、静かに語るストーリー展開に魅了されたという[15]。1920年(大正9年)に衣笠が初めて執筆した脚本『妹の死』は、本人によれば、ブルーバード映画の影響が色濃く出た脚本であったといい、同作は阪田重則[16](衣笠の回想によれば若山治)の名義で衣笠が初めて監督し、主演の妹役も自ら演じたという[17]。 映画史家・田中純一郎の指摘によれば、「ブルーバード映画」の撤退後に現れた帰山教正の映画芸術協会や松竹蒲田撮影所の諸作品に影響が見出せるという[1]。1917年(大正6年)製作、シオドア・マーストン監督の『深山の乙女』と同タイトルの映画を映画芸術協会は1919年(大正8年)に発表しており[18]、ドナルド・リチーは、同日公開の『生の輝き』においても、イワン・ツルゲーネフの女主人公やチャールズ・チャップリンに登場する少年といった人物造形と並んで、「ブルーバード映画」の研究の痕跡を指摘している[19]。 1921年(大正10年)、松竹キネマ研究所は小山内薫の指導のもと、ヴィルヘルム・シュミットボンの『街の子』(森鷗外訳)とマクシム・ゴーリキーの『夜の宿』(小山内訳、『どん底』)を原作に、牛原虚彦が脚色、村田実が監督した『路上の霊魂』を制作した。家に仕える娘と労働者の青年のロマンスという『路上の霊魂』のストーリー設定は、ドナルド・リチーの指摘によれば、「ブルーバード映画」の影響が大いにあるという[20]。牛原は『南方の判事』の生駒雷遊の声帯模写を得意とするほど、大学時代に多くのイタリア映画やアメリカ映画と同様に「ブルーバード映画」に耽溺したという[21]。松竹蒲田撮影所が1922年(大正11年)に製作した野村芳亭監督の『海の呼声』、牛原虚彦監督の『傷める小鳥』は、ロイス・ウェバー監督の『毒流』(1916年)を原作にいずれも伊藤大輔が脚本を書き、「ブルーバード映画『毒流』より」と原作クレジットされている[22]。伊藤が最初に洋画に興味をもったのは、18歳のころに観たブルーバード映画がきっかけだという[23]。 アーサー・ノレッティ・ジュニアの指摘によれば、小津安二郎の『会社員生活』(1929年)等の庶民劇には、10代のころに小津が観たチャールズ・チャップリンとならんで、ブルーバード映画からの影響があるという[24]。小津の旧制中学校時代の日記には、メアリー・マクラレン、メイ・マレイ、プリシラ・ディーン、ルース・クリフォード、ドロシー・フィリップスらブルーバード映画のスター女優たちへのファンレター宛先が綴られている[25]。旧制中学校の後輩であった梅川文男によれば、小津は、自宅のあった飯南郡松坂町愛宕町(現在の松阪市愛宕町)にあった神楽座のほか、名古屋や大阪までもアメリカ映画の新作を観に出かけていたという[26]。 のちに東宝の副社長となった森岩雄は、大正時代の東京の知識人階級の若者たちにとって、銀座のカフェーパウリスタでカレーライスとコーヒーを摂り、近くの金春館(現在の旧電通本社ビル)で最新作の「ブルーバード映画」を観ることが、「文化的生活を生きること」と同義であったと回顧している[27]。当時旧制中学校に通っていた山本嘉次郎は、のちの脚本家の小林正とともに、カフェーパウリスタと金春館に通いつめ、スピーディなアメリカ映画に詩情を添えた「ブルーバード映画」に酔い、なかでもルパート・ジュリアン、J・ウォーレン・ケリガン、ハリー・ケリーの名を挙げ、演劇で鍛えた芝居を賞讃している[28]。当時の金春館の弁士は小川紫明で、大辻司郎と比較するに後者を「野暮ったい」早稲田・明治の学生向きとし、前者を「粋な洒落っ気」ある自らを含めた慶應の学生や虎ノ門の女子学生、新橋の粋な芸者向けであるとしている[28]。当時明治の学生でもあった大辻については、山本の映画づくりの仲間でもあったゆえのこき下ろしであり、森岩雄は当時の山本たちの製作した映画を配給した中央映画社を経営していた[29]。 フィルモグラフィ本リストはInternet Movie Database上の Universal Film Manufacturing Company の項のBluebird Photoplays作品によるもので[4]、現状不完全なものである[30]。下記のうち日本語題の付されていない作品はすべて日本未公開である[31]。山中十志雄・塚田嘉信がリストアップした全168本のうち、当時日本で公開されなかったものはわずか30作である[32]。現在では、一部を除き、ほとんどの上映用プリントが現存していないか、あるいは不明である[33]。 1916年
1917年
1918年
1919年
関連事項
参考書籍以下3冊は東京国立近代美術館フィルムセンター蔵書であり、閲覧可能である[59]。
註
外部リンク |