グレイス・キュナード
グレイス・キュナード(Grace Cunard, 1893年4月8日 - 1967年1月19日)は、アメリカ合衆国の女優、脚本家、映画監督、映画プロデューサーである[1]。出生名はハリエット・ミルドレッド・ジェフリーズ(Harriet Mildred Jeffries)、結婚後の本名はグレイス・キュナード・シャノン(Grace Cunard Shannon)となった[2]。シリアル・フィルムに多く出演し「ザ・シリアル・クイーン」の異名をもつ[1]。日本ではグレイス・キューナードとも表記される[3]。 人物・来歴オハイオ州コロンバスに生まれる[1]。1歳下の妹はのちに女優となったミナ・キュナードである[1]。 ハイティーンのころには舞台で活動を開始し、1910年には、バイオグラフ・カンパニー製作、D・W・グリフィス監督、フランシス・J・グランドン主演の短篇映画 The Duke's Plan に出演したのが、映画界での最初の記録である[1]。1912年には、カリフォルニア州ロサンゼルス市のエレンデイルのバイソン・スタジオに入社、同年、トーマス・H・インス監督、フランシス・フォード主演の The Indian Massacre に出演する[1]。次作 A Soldier's Honor では、脚本を書き、フランシス・フォードの相手役として出演、フォード=キュナードのコンビが始まる[1]。 1913年には、バイソン・スタジオはユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に経営統合され、量産されるフォード=キュナードの短篇映画・シリアル映画は、ユニヴァーサルが配給を行うようになる[1]。同年、 The Black Masks をフランシス・フォードと共同で脚本を執筆、共同で監督、コンビで主演して監督業にも進出する[1]。フォード=キュナード・コンビのなかでも、1915年に製作・公開されたシリアル映画『名金』は、日本でも公開され、爆発的なヒットとなった。 1917年にはフォードの弟で俳優のジャック・フォード(のちのジョン・フォード)の監督デビュー作『颱風』にフランシス・フォードとともに脚本を提供する[1][4]。そのころにはフォード=キュナードの短篇映画量産の時代は終息迎え、1918年には、ユニヴァーサル子会社・ブルーバード映画製作、ジョセフ・ド・グラス監督の『涙痕』に主演[1]、同作は日本でも公開された[5]。1920年、ユニヴァーサルを離れ、小プロダクションで主演・監督作を手がけるが、翌1921年の Her Western Adventure をもって監督業から撤退する[1]。 最初の夫ジョー・ムーアと1925年までに離婚、俳優のジャック・シャノンと結婚する[1]。ムーアはその翌年1926年8月22日に満31歳で死去している[6]。同年、ユニヴァーサル・ピクチャーズに戻り、その後、トーキー時代には完全な大部屋女優として過ごすことになる[1]。1928年にジョゼフ・レヴィガードの監督作に提供したオリジナル・シナリオが最後の脚本作品となる[1]。 1944年から1945年にかけてリパブリック・ピクチャーズに移籍するが、端役である[1]。第二次世界大戦後、満53歳を迎える1946年(昭和21年)には女優業も引退[1]、夫のシャノンも1948年以降、1956年までは出演作が見当たらない[7]。 1967年1月19日、カリフォルニア州ロサンゼルス市ウッドランド・ヒルズで癌のため死去した[1]。夫シャノンの手によって埋葬され、同市内チャッツワースにあるオークランド記念公園墓地に眠る[2]。 フィルモグラフィ特筆以外はすべて出演作である[1]。 1910年代
1920年代
1930年代
1940年代
関連事項
註
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