ルーシャス・ヘンダーソン
ルーシャス・ヘンダーソン(Lucius Henderson, 1861年6月8日 - 1947年2月18日)は、アメリカ合衆国の映画監督、俳優である[1]。本名ルーシャス・ジュリアス・ヘンダーソン(Lucius Julius Henderson)、作品によってはルーシャス・J・ヘンダーソン(Lucius J. Henderson)とも名乗った[1]。 人物・来歴日本では文久4年にあたる1861年6月8日、アメリカ合衆国のイリノイ州アルドに「ルーシャス・ジュリアス・ヘンダーソン」として生まれる[1]。 クラシック音楽の教育を受けた音楽家となるが、まだ20代であった1880年代に舞台俳優に転向する[2]。1891年(明治24年)に米国で公演したピアニスト・イグナツィ・パデレフスキを風刺するようなヴォードヴィルで各地を回るようなこともしている[2]。 1910年(明治43年)、ニューヨークのタンハウザー・カンパニーに入社、俳優として映画に出演し始める[2]。1911年(明治44年)、「ルーシャス・J・ヘンダーソン」名義の名で監督した When Love Was Blind が記録に残る最古の監督作である[1]。1913年(大正元年)には、一座を引き連れてカリフォルニア州ロサンゼルスに移ろうとするが、すぐにニューヨークに戻っている[2]。 1915年(大正4年)、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に入社する[2]。1916年(大正5年)にユニヴァーサル傘下に設立された製作会社・ブルーバード映画でも、同年、メアリー・フラーを主演に The Strength of the Weak を発表している[3]。1917年(大正6年)、メアリー・フラー主演の To the Highest Bidder を最後に監督業を引退している[1]。 1920年代には、各製作会社で俳優として出演した[1]。 1942年(昭和17年)、ラムズ・クラブの最古参会員として、晩餐会が開かれ、表彰されている[2]。 1947年(昭和22年)2月18日、ニューヨーク州ニューヨーク市で死去した[1]。満85歳没。 フィルモグラフィ
関連事項註外部リンク |