M・H・ホフマン
M・H・ホフマン(M. H. Hoffman, 1881年3月21日 - 1944年3月8日)は、アメリカ合衆国の映画プロデューサー、実業家である[1]。本名モーリス・ヘンリー・ホフマン(Maurice Henry Hoffman)、愛称はマックス(Max)[1]。ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)の元総支配人であり[1]、同社傘下のブルーバード映画[2]、独立してティファニー・ピクチャーズ[3]、アライド・ピクチャーズ[1]、リバティ・フィルムズの各社を創立、経営した。 人物・来歴1881年(明治14年)3月21日、イリノイ州シカゴに生まれる[1]。 ニューヨークにいた1910年(明治43年)5月27日、のちにプロデューサー業を継ぐ長男のM・H・ホフマン・ジュニアが生まれる[4]。 1912年(明治45年)にカール・レムリが設立したユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニーで、総支配人を務める[1][2]。1916年(大正5年)1月1日、同社の傘下にブルーバード映画を設立、社長に就任する[2]。同年1月31日に米国内でユニヴァーサルが配給して公開した、ロバート・Z・レナード監督の『暴』が第1作である[5]。同社は、同年日本に設立されたユニヴァーサルの独占配給会社播磨ユニヴァーサル商会(のちのユニヴァーサル日本支社)により日本でも多く紹介され、歓待されたが、営業不振により、1919年(大正8年)3月をもって営業を停止し、ユニバーサル社に合併された[6]。これと平行し、1917年(大正6年)には「M・H・ホフマン・インク」「ホフマン=フォースクエア・ピクチャーズ」を設立し、映画製作を行なっている[7][8][9]。「M・H・ホフマン・インク」は、『涙痕』や『切望』等、ブルーバード映画が製作した作品の再映時の配給を行なった[7]。 1921年(大正10年)、ユニヴァーサル出身のメイ・マレイ、ロバート・Z・レナードの夫妻とともにティファニー・ピクチャーズを設立[3][3]、1922年(大正14年)、設立第1作、マレイ主演、レナード監督による『孔雀の路』を製作、メトロ・ピクチャーズがこれを配給する[10][11]。1929年(昭和4年)、ホフマンは同社を売却する[12]。 1931年(昭和6年)、製作・配給の会社アライド・ピクチャーズを設立する[1][13]。同社で、ジュニアをプロデューサーとしてデビューさせている[4]。同社は1934年(昭和9年)をもって製作を中止、配給会社に特化し、1939年(昭和14年)まで営業を続ける[13]。また同時期、モノグラム・ピクチャーズ、マスコット・ピクチャーズ、マジェスティック・フィルムズ、チェスターフィールド・モーション・ピクチャーズ、インヴィンシブル・ピクチャーズとならぶ6つのポヴァティ・ロウの1社とされるリバティ・フィルムズを設立、経営していたが、リパブリック・ピクチャーズに吸収される。 1944年(昭和19年)3月8日、カリフォルニア州ロサンゼルス市で死去した[1]。満62歳没。 おもなフィルモグラフィ特筆以外はすべてプロデューサーである[1]。ホフマンの別会社が再映配給を行なった作品[7]を除き、ブルーバード映画等でのクレジットされていない作品は省いた[1]。 1910年代
1920年代
1930年代
関連事項
註
外部リンク |