映画芸術協会映画藝術協會(えいがげいじゅつきょうかい、1920年 設立 - 1924年 活動停止)は、かつて存在した日本の映画製作会社である。「純粋劇映画運動」の創始者帰山教正が設立。 東宝争議(1946年 - 1948年)の末に山本嘉次郎、成瀬巳喜男、黒澤明、谷口千吉監督らによって設立された「映画芸術協会」とは異なる。 略歴・概要かつて映画会社吉沢商店が出資した映画雑誌『活動写真界』(1909年 - 1913年)の寄稿者で、1917年に『活動写真劇の創作と撮影法』(正光社)という映画理論書を出版した帰山教正(1893年 - 1964年)が同年、天然色活動写真(天活)輸入部へ入社[1]、海外に輸出できる映画を目指し、1919年、同社で『日本芸妓の踊り』(撮影大森勝)を撮った後に26歳で独立。大正9年(1920年)、「天活」と提携するかたちで設立したのが「映画芸術協会」である。 帰山は1919年(大正8年)に、実験作『深山の乙女』および『生の輝き』を制作。天活の配給により、1919年9月13日に同日公開された。『深山の乙女』に出演した花柳はるみは日本の映画女優第一号であり、同作は日本映画史上初めて「女優」を起用した伝説の作品となった。 帰山の実験映画は弁士が必要ないように字幕を入れたのも特徴であり、字幕担当者名が作品にクレジットされていた。『深山の乙女』では、戦後まで活躍する撮影技師となった当時天活社員の青島順一郎が、撮影も担当した帰山の助手をつとめている。また、のちに映画監督になる村田実が出演しているが、これが村田初めての映画体験であった。 翌1920年(大正9年)に製作した第三作『白菊物語』で、帰山は「映画藝術協會」を名乗り[2]、日本初の芸術映画プロダクションとして始動する。 以降1924年までに、帰山監督作13本、近藤伊与吉・津田秀水共同監督作1本、青山杉作監督作1本、押山保明監督作2本の合計17本が製作されたが、概して興行的には振るわなかった。また間の1921年、その新しい手法を取り入れるべく松竹蒲田撮影所が帰山を監督として招いたが、『愛の骸』は東京で上映中止、『不滅の呪』は未完に終わった。 1924年12月26日に公開された『自然は裁く』を最後に、同社は製作活動を停止した。 フィルモグラフィ「映画藝術協會」の実質的な制作第一号は『白菊物語』である。特筆クレジット以外、すべて監督は帰山教正である。
関連事項脚注外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia