ロイド・B・カールトン
ロイド・B・カールトン(Lloyd B. Carleton, 1872年 - 1933年8月8日)は、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家、俳優、映画プロデューサーである[1]。本名カールトン・B・リトル(Carleton B. Little)、L・B・カールトン(L. B. Carleton)、ロイド・カールトン(Lloyd Carleton)とも名乗った[1]。 人物・来歴1872年(明治5年)、生地不明、「カールトン・B・リトル」として生まれる[1]。兄弟にのちに俳優となるジョン・T・カールトンがいる[1]。 コロンビア大学に学んだのちに舞台俳優となる[1]。1910年(明治43年)、バイオグラフ・カンパニーが製作したD・W・グリフィス監督の短篇映画 Simple Charity に出演する[1]。同年、タンハウザー・フィルム・カンパニーに入社、フランク・ホール・クレイン主演の短篇映画 St. Elmo で映画監督としてデビューする。1912年(大正元年)、ルービン・マニュファクチャリング・カンパニー(ルービン・スタジオ)に移籍、短篇映画を量産する[1]。1914年(大正3年)、ボックス・オフィス・アトラクションズ・カンパニー、翌1915年(大正4年)、セリグ・ポリスコープ・カンパニーに移籍、引き続き短篇映画を量産する[1]。同年、 Sacred Tiger of Agra を最後に同社を去る[1]。 1916年(大正5年)、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に移籍、同年に同社が設立した子会社・ブルーバード映画で、『恨の短剣』を監督[1]、同作は日本でも公開された[2]。同社の同様の子会社であるレッド・フェザー映画で監督した『離れ島』、『浮雲』等も日本で公開され、同じくレムリ映画等でも監督した[1]。 1920年(大正9年)、自らの製作会社ロイド・カールトン・プロダクションズを設立、1925年(大正4年)までに6作を製作した[3]。1927年(昭和2年)、『九秒五分の三』の脚本を書いたローイ・クレメンツの監督作に出演して以降は映画界を離れ、舞台に戻った[1]。 1933年(昭和8年)8月8日、ニューヨーク州ニューヨーク市で死去した[1]。満60-61歳没。 フィルモグラフィ特筆以外は監督である[1]。
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