東京都電車
東京都電車(とうきょうとでんしゃ)は、東京都地方公営企業の設置等に関する条例[1]及び東京都電車条例[2]に基き東京都(交通局)が経営する路面電車である。一般には都電(とでん)と呼称される。1972年以降は、荒川区の三ノ輪橋停留場と新宿区の早稲田停留場を結ぶ12.2 kmのみが運行されている。 前身は1882年に開業した東京馬車鉄道で、1903年から1904年にかけて同社が路線を電化して誕生した東京電車鉄道、新規開業の東京市街鉄道、東京電気鉄道の3社によって相次いで路面電車が建設された。その後3社は1909年に合併して東京鉄道となり、さらに1911年に当時の東京市が同社を買収して東京市電、1943年の東京都制施行によって都電となった。 最盛期(1955年頃)には営業キロ約213 km、40の運転系統を擁し一日約175万人が利用する日本最大の路面電車であったが、モータリゼーションの進展や帝都高速度交通営団(営団地下鉄)、東京都交通局の都営地下鉄の発達によって採算性が悪化していった。1967年に東京都交通局が財政再建団体に指定されると再建策の一環として1972年までに廃止されることになったが、残存区間は1974年に荒川線として恒久的な存続が決定し今日に至っている。 歴史創業期東京馬車鉄道の開業東京における都市交通の歴史は、1872年(明治5年)頃に日本最初の鉄道が開業したのと相前後して乗合馬車(通称:円太郎馬車)と人力車が登場したことに始まる。1876年(明治9年)には乗合馬車は170台、人力車は2万4000台以上が活躍していた[3]。 一方、東京の人口は1873年(明治6年)の60万人から1881年(明治14年)には114万人に増加していた[3][4]。そこでより大量輸送に適した交通機関として馬車鉄道の計画が持ち上がり、1880年(明治13年)2月、元薩摩藩士の谷元道之、種田誠一らによって新橋から日本橋本町、上野、浅草を経て再び本町に至る全長10マイル(約16km)の循環線敷設が出願された[5][4]。谷元らの出願は同年12月28日付で認可され、日本最初の私鉄[注釈 1]となる東京馬車鉄道株式会社(資本金30万円、本社芝区汐留町二丁目[6])が設立された。 馬車鉄道の営業は1年半後の1882年(明治15年)年6月25日にまず新橋 - 日本橋間で開始され、同年10月1日には循環線が全線開業した[4]。開業当初こそ失業を恐れた人力車夫たちの反対運動に遭ったものの、東京市の人口増加や上野・浅草方面への行楽輸送を背景に馬車鉄道は大きな成功を収め、開業20年目の1902年(明治35年)度には年収140万円、客車300両と馬匹2000頭を擁し、多客時には1時間に60 - 70台もの高頻度運転を行うほどの盛況ぶりとなった[4]。また1897年(明治30年)12月には品川・八ツ山下 - 新橋間に品川馬車鉄道が開業したが、1899年(明治32年)に東京馬車鉄道に吸収合併された[4]。 しかし馬車鉄道は東京市民の生活を便利にした反面、課題も少なくなかった。経営的にはウマの飼育に莫大な費用がかかること[7]、乗客の増加に対し運転回数が限界に達していてこれ以上の需要拡大に対応できないことが課題であった[8]。またウマの蹄によって路面が損傷し、馬糞混じりの砂塵が飛び散ることへの沿線住民の苦情は跡を絶たなかった[4][8]。 電車開業までの経緯そこでより近代的な交通機関として路面電車が計画されるようになり、1889年(明治22年)には大倉喜八郎、藤岡市助ら東京電燈関係者や実業家の立川勇次郎らが政府に敷設計画を出願した[4]。だが当時は電気鉄道そのものがまだ誕生して間もない技術であり[注釈 2]、これらの出願は時期尚早とみられ認可されなかった[4]。そこで翌1890年(明治23年)に東京・上野公園で第三回内国勧業博覧会が開催されると、東京電燈は同社技師長であった藤岡市助主導のもと会場内に170間(約300m)の軌道を敷設し、藤岡らが米国視察の折購入した電車のデモ運転を行った[4][9]。入場料3銭に試乗料2銭と決して安くはなかったが、電車の静粛さや物珍しさも手伝ってデモ運転はたちまち大評判となり、内国博をきっかけに電車敷設の動きは本格的なものとなった[4][9]。こうした経緯を経て、1895年(明治28年)に開業した京都電気鉄道[注釈 3] を皮切りに名古屋電気鉄道[注釈 4]、大師電気鉄道[注釈 5]小田原電気鉄道[注釈 6] など、全国各地で電気鉄道が続々と開業していった[4][10]。 ところが東京では1893年(明治26年)から1899年(明治32年)の6年間で35社もの出願が相次ぎ、特許権獲得をめぐって対立しあっていた[10][11][12]。特に有力な出願者だった東京馬車鉄道、雨宮敬次郎らの東京電車鉄道、藤山雷太らの東京電気鉄道、利光鶴松らの東京自動鉄道の4社の対立は激しく、許認可が自由党と進歩党の政争の具にされたり、電車を民営とするか市営とするかで東京市会や市参事会が紛糾するなど、大きな混乱が生じた[10][11][12][13]。また当時東京市内の都市計画を担っていた東京市区改正委員会が電気鉄道の敷設条件について介入[注釈 7]したことも混乱に拍車をかけた[10][11][12]。デモ運転から10年が過ぎた1900年(明治33年)、紆余曲折の末内務省は東京電車鉄道、東京電気鉄道、東京自動鉄道の3派が合同して組織した東京市街鉄道、岡田治衛武[注釈 8]らが四谷信濃町 - 青山 - 渋谷 - 池上 - 川崎間などの路線を計画して設立した川崎電気鉄道、そして既設の東京馬車鉄道の3社に対して特許を与えた[10][11][12][13]。 東京市電の誕生3社のうちまず最初に開業したのは東京馬車鉄道から改称した東京電車鉄道(通称:電車[15]、東電[15]、電鉄[16]。前節の東京電車鉄道とは別会社)で、1903年(明治36年)8月22日に馬車鉄道線のうち品川 - 新橋間を電化して三重県の宮川電気線[注釈 9] に次ぐ日本8番目の電気鉄道となった[4][13]。運転未熟と軌道に石が入るなどで終点まで約1時間30分を要し(3銭。乗客8872人)、11月25日上野まで開通した[17][18]。東京電車鉄道は1904年(明治37年)3月までに全ての路線を電化し、馬車鉄道の運行を廃止した[13]。 東京電車鉄道に遅れること25日後の1903年9月15日には東京市街鉄道(通称:街鉄[15][16])が数寄屋橋 - 神田橋間で開業した[13]。その後同社は同年11月に日比谷 - 半蔵門間、12月には神田橋 - 両国、半蔵門 - 新宿間などを開業させていき、営業キロや乗客数、運賃収入などの面において3社中最大の会社となった[13][19]。 1900年に川崎電気鉄道から改称した東京電気鉄道(通称:外濠線[16]、電気[15])は、1904年12月8日に土橋[注釈 10] - 御茶ノ水橋間で開業し、その後皇居外堀に沿って飯田橋、四谷、赤坂などを経由し土橋に戻る環状線を建設した[13][15]。 この様に、東京市内の路面電車は3つの会社によって別々に整備された。だが市民にしてみれば、こうした状況は電車を乗り換える度に運賃が嵩む[注釈 11] 不便さがあり、次第に運賃の共通化を求める声が大きくなった[19]。一方各社の経営陣は、当時日露戦争の戦費調達を目的に通行税が新設されたこと、また内務省の要請で運賃の早朝割引を開始したことなどが経営の負担になっているとして運賃の値上げを計画しており、1906年(明治39年)には利用者の要望に応えるという建前で運賃の共通化と同時に値上げを申請していた[19]。そして同年9月11日に3社が合併して東京鉄道(通称:東鉄)を設立すると、翌12日には運賃を4銭均一に引き上げた[19]。しかし日露戦争に伴う増税や物価高が負担になっているのは市民も同じであり[注釈 12]、合併と値上げが認可された直後から激しい反対運動が起こり、同年9月5日には日比谷公園で開かれた集会の参加者が暴徒化して電車が投石される事件まで発生した(詳細は東京市内電車値上げ反対運動を参照)[19][20]。 折しも当時は1903年に大阪市が市営電車を開業したことで電車事業の公益性が意識され始めた時期で、この一件をきっかけに東京でも電車の市有市営を求める世論が高まった[20]。そこで東京市はかねてからの市営派だった尾崎行雄市長の音頭で東京鉄道の市有化に乗り出し、1907年(明治40年)12月には同社との間に買収価格6750万円で仮契約を締結した[20]。ところが東京市が内務省に提出した買収認可申請が翌1908年(明治41年)1月に却下されてしまった上、その直後に東京鉄道が突如買収を拒絶したことから、東京市は市有化を一時見送ることにした[20]。 買収が不発に終わった同年の12月、東京鉄道は再び5銭均一への運賃値上げを申請し、前回にも増して猛烈な反対運動が起ったことで政府もついに東京鉄道の市有化を本格的に検討するようになった[20]。1909年(明治42年)10月、時の逓信大臣[注釈 13]後藤新平は尾崎市長に3か条からなる覚書を示して、一定の条件の下で東京鉄道の市有化を認めることを約束した[20]。この覚書をもとに東京市は再び東京鉄道の買収に臨んだが、東京鉄道が市の提示した買収価格5800万円を不服としたので物別れに終わった[20]。 だが市有化問題が長期化すると、最初買収を却下した内務省も次第に市有化容認に傾き、1911年(明治44年)6月になり平田東助内務大臣は後藤逓相、一木喜徳郎内務次官列席のもと、尾崎市長に対して東京鉄道の買収を勧告した[20][23]。勧告を受けた東京市は同年7月1日から買収交渉を再開し、政府の仲裁もあって7月6日には買収価格6416万5518円[注釈 14] で合意し改めて買収仮契約を締結した[23]。買収案は7月9日に東京市会、7月24日に東京鉄道の臨時株主総会でそれぞれ承認され、7月31日付で政府の買収認可が交付された[23]。こうして東京市内の路面電車は1911年8月1日から新設された東京市電気局に引き継がれ、東京市電が誕生した[23][24]。 市電時代第一次世界大戦と市電黄金期東京市電の発足後、東京市電気局は路線網の大規模拡充を図り、1913年(大正2年)度から1916年(大正5年)度までの4年間に総額1317万6000円を投じて未成線128.7kmを整備する第一次継続事業計画に着手した[25][26]。東京市電は発足時点で既に営業キロ98.8km(軌道延長192.4 km)、局員7861名、車両1054両、1日の乗客数約51万人という規模を有していたが、東京鉄道時代に特許権を取得して開業に至っていない未成線も180km余り引き継いでおり、市有化で電車の整備が進むと市民から大きな期待が寄せられていたためであった[24][25][26]。当初は全ての未成線を4カ年計画で整備する予定であったが、財政への悪影響を懸念した監督官庁の指導で計画を第一期と第二期に分割し、このうち第一期線が第一次継続事業計画の対象となった[26]。 積極的な拡大方針により、東京市電の営業キロは市有化から1914年(大正3年)度末までの5年弱のうちに30km以上伸びて128.0 km(軌道延長255.3 km)となり、市内のみならず目黒、渋谷、新宿、大塚、巣鴨など当時まだ東京市外の郡部だった地域にも電車が開通した[26][27][28][29]。ところが1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、金融市場の混乱で市債発行による資金調達が難しくなった上、日本国内では大戦景気と呼ばれる好景気で物価が著しく高騰し路線整備にも支障をきたすようになった[27]。やむなく市電気局は第一次継続事業計画の見直しを行い、1915年(大正4年)2月には市会の議決を得て修正予算案と事業期間の2年延長を決定したが、1915年度の新規開業はわずか0.4 km、1916年(大正5年)度は皆無に終わり、大規模な新線建設は市有化後の数年間推進されただけで頓挫してしまった[27]。運賃も物価高騰に伴い1916年7月には片道4銭から5銭(往復9銭)、1920年(大正9年)6月には7銭(往復14銭)へと値上げされた[27][30][31]。 一方で好景気とあって交通需要も増大著しく、1日の乗客数は1916年度の約72万人から1919年(大正8年)度には約108万人、1922年(大正11年)度には約131万4000人と6年あまりで約1.8倍の増加となった[27][30]。これにより営業係数34.3[注釈 15] を記録した1917年(大正6年)頃から経営状況は好転し、以降も1921年(大正10年)度、1922年度には減債基金の積立や市経済への繰入を行ってなお400万円以上の剰余金を計上するなど大幅な黒字経営に転換した[30][32]。この時期の東京市電はほとんど唯一の近代的交通機関として市内交通の8割を担っており、1910年代後半から20年代前半にかけての時期はまさに東京市電の「黄金期」であった[30][33]。 もっとも、乗客が増えてもそれを輸送する路線や電車の整備が進んでいなかったため、黄金期の市電では慢性的な混雑が大きな問題となった。特に1910年代から出現した通勤ラッシュ時の混雑は深刻で、乗車まで30分から1時間待ちになることや乗り切れない乗客が車外にまで鈴なりにぶら下がるといったことが常態化し、「東京名物満員電車」として当時の絵葉書や俗謡(東京節)の題材にされるほどであった[27][30][34][35][36]。この事態に市電気局は日本の路面電車車両としては初の3扉電車1653形200両を製造したほか単車と呼ばれる小型電車の2両連結運転を行うなどの対策を採ったが、より抜本的な解決策として1920年度から新たに第二次継続事業計画に着手した[30]。第二次継続事業計画は総事業費1億3230万円を投じて未成線約80kmの建設と車両2050両の新造及び改造、車庫15か所と変電所20か所の新設、さらに既設線の架線や軌道の改良も行う一大プロジェクトであったが、結局関東大震災の発生で見直しを余儀なくされた[30]。 関東大震災からの復興1923年(大正12年)9月1日、いわゆる関東大震災が発生すると、東京市電は電力設備の機能停止で送電が途絶したちまち全線で運転不能となった[37]。さらに地震後の大火災によって電気局本庁舎をはじめ営業所4か所、車庫5か所、車両工場などが全焼し、焼失した電車は779両に及んだ[37]。設備の被害は軌道152km、架線66km、橋梁26か所などで、被害総額は市電だけで2500万円、市営電灯を含めた電気局全体では4000万円に上った[注釈 16][37][38]。 本庁舎を失った電気局は、9月2日に東京市役所、次いで9月3日に桜田門外にあった資材置き場に仮本部を設置し、大阪市電気局などの協力を得て復旧に取り掛かった[39]。市電の復旧は比較的被害の少なかった山の手方面から着手され、早くも9月6日には神明町車庫前 - 上野三橋間、9月8日には青山六丁目 - 桜田門、四谷塩町 - 泉岳寺前間で運転再開に漕ぎ着けた[37]。被害の大きかった下町方面も同年10月20日柳島 - 亀沢町間で運転を再開したのを皮切りに復旧が進められ、1924年(大正13年)6月12日には市電全線の復旧が完了した[39]。また1924年(大正13年)1月18日からは市電復旧までの代替措置として都営バスの前身である東京市営バスの運行が開始され、市電復旧後も引き続き東京市民の足として活躍することとなった[40]。 震災後の経営不振しかし関東大震災後、東京市電の利用者数は1924年度(大正13年)の1日平均136万人をピークに減少傾向となり、1934年度(昭和9年)度にはピーク時の6割ほどの約78.8万人まで減少した[41]。 これは関東大震災を契機に自動車の有用性が広く認識されたことで、日本国内でも初期的なモータリゼーションが始まり[注釈 17]、雨後の筍の如くに乱立した路線バスやタクシー事業者との激しい競争に見舞われたためである[注釈 18][41]。また震災後は郊外の宅地開発や都心部のビジネスセンター化など都市構造の変化が進み、省線電車や私鉄が郊外へと路線網を拡大した一方、既存の市街地にしか路線を持たない市電は交通需要の変化に十分対応できなかったことも不振の一因であった[41]。 さらにこの頃になると、路線の拡充などのため度々発行してきた市債の償還が大きな負担となり、乗客の減少と相まって1935年(昭和10年)度には市債費が運賃収入の96%にまで膨れ上がっていた[注釈 19][41]。 年表前史
都制施行後 - 財政再建団体指定
路線撤去
1路線1系統化後
運賃大人(東京市電以降) 東京市電時
都制施行後
1路線1系統化後
路線営業中の路線
旧路線区間ごとの正式な線路名称を基準に記し、当該区間または複数の区間をまとめた通称がある場合は付記する。 運転系統は1962年を基準とする(26系統を除く)。電停の名称は、最終運行時のものである。 なお、東京23区のうち大田区、葛飾区、世田谷区、練馬区は都電路線を有したことがない[57]。 東京電車鉄道(電鉄)が一部または全部を敷設した路線
東京市街鉄道(街鉄)が一部または全部を敷設した路線
東京電気鉄道(外濠線)が一部または全部を敷設した路線
東京鉄道が一部または全部を敷設した路線
王子電気軌道が敷設した路線
城東電気軌道が敷設した路線→城東電気軌道については東京地下鉄道を参照
玉川電気鉄道が敷設した路線
西武軌道が敷設した路線高円寺線・荻窪線は杉並線の通称を持っていた。これらは軌間が1067mmであった。
その他の路線
系統太平洋戦争後、一之江線(通称今井線、26系統)廃止前の系統数41は日本の路面電車史上最多である。とはいえ、放射状に広がる広大な路線網を効率的に運行するため、各系統の独立性が高く、単一系統しか通過しない区間も多かった。同じ理由により、他都市(例:京都市電)で見られた循環系統も存在しない。 なお、この全41系統は一時期にすべて揃っていたわけではない(26系統の廃止後に41系統が新設された)。1974年10月1日をもって、それまで残っていた27系統と32系統が「荒川線」として統一され、系統番号は消滅した。
廃線跡都電は道路を運行していたため、廃線跡はほとんどの場合道路に埋もれてしまい、現存していない。しかし、一部の専用軌道など、廃線跡として残っているものもある。 船路橋港区芝浦二丁目にあった、都電の車両工場へ繋がる専用の橋である船路橋は、21世紀初頭まで残っていた都電の数少ない廃線跡であった。対岸の工場跡には難民やホームレスの収容施設が建てられたこともあった。しかし、工場跡地を含む一帯が芝浦アイランドとして再開発されるのに伴い撤去された。 2007年5月28日に、同じ場所に新しい船路橋が歩行者専用橋として架けられ、橋上には来歴にちなんでタイルでレールをかたどった装飾が施されている。 城東電気軌道錦糸町駅小松川線は東京地下鉄道(旧・城東電気軌道)の路線を継承したもので、錦糸町起点は1947年9月までは江東橋線錦糸堀電停とは繋がっておらず、錦糸町駅前交差点南東角の白木屋錦糸町店の1階に位置しており、そこから京葉道路(国道14号)に出ていた(小松川線の項参照)。建物はその後東京都交通局の外郭団体が経営する「江東デパート」という名のショッピングビルになっていたが、老朽化のため隣接する富士銀行(現・みずほ銀行)錦糸町支店とともに1990年に東京トラフィック錦糸町ビルに建て替えられ、痕跡は残っていない。 亀戸緑道公園・竪川人道橋・大島緑道公園砂町線は水神森から大島一丁目までは明治通りに沿うような形の専用軌道となっており、途中竪川を専用橋で渡っていたが、廃線後は竪川を境に以北は亀戸緑道公園、以南は大島緑道公園として整備され、専用橋は「竪川人道橋」としてそのまま歩行者専用橋に転用された。その後、竪川河川敷公園の整備と橋の老朽化に伴い、2011年9月に竪川人道橋は撤去され遊歩道の一部となり、橋のあった部分にはレールの装飾が設置されている。また、橋の北詰には、亀戸九丁目付近で使われていた実際のレールと、車輪のモニュメントとともに説明板が設置されており、南詰には橋のデータの説明板(橋の撤去後に設置)が設置されている。 南砂緑道公園砂町線は南砂三丁目から南砂二丁目までも専用軌道になっていた。南砂三丁目交差点附近から西へ入って小名木川貨物線を潜り、江東南砂団地(旧:汽車会社東京支店工場跡地)をぐるりと囲むように東陽町まで延びていた専用軌道跡は、南砂緑道公園として整備されている。 西荒川付近小松川線も亀戸九丁目より国道14号から外れて終点の西荒川まで専用軌道が続いていた。廃線後もしばらくの間空き地となっていたが整備され、江東区側の大部分は「浅間通り」と言う名称の道路として整備された。旧中川を渡っていた専用橋跡は1995年同じ場所に「亀小橋」という名称の道路橋が架橋された。道路橋から先は再開発事業に伴い、江戸川区さくらホールと新築移転後の小松川第二小学校の敷地、区道、病院の敷地にそれぞれ取り込まれ、また終点西荒川駅跡は首都高速7号小松川線の高架脇の側道となっているが、これも再開発事業に伴い周囲が更地となり、かつ2002年までにスーパー堤防として整備されたため地形も変形しており、面影はまったく残っていない。 一之江線東荒川より今井橋までの全線は今井街道上ではなく、専用軌道であった。現在の起点の東荒川は首都高速7号小松川線の高架下(小松川JCT付近)で児童公園になっており、南に折れる形で道路として続いている。小松川境川親水公園を跨ぎ、東小松川二丁目西児童遊園を経て、船堀街道から先は一旦民地(宅地)に取り込まれる。途中廃線跡に設置された貞明児童遊園がある。また、一之江境川親水公園の上にガーダー橋が架けられているが、都電設置時と位置が異なっている。この先廃線跡は保育園敷地や道路となり、また新中川開削時に水没している。終点の今井橋は新大橋通りの高架下付近となっている。なお、都営新宿線の一之江駅は一之江線の一之江電停跡ではなく、瑞江電停跡付近に立地している。 池ノ端地区上野公園前より池ノ端二丁目までの区間。不忍池の畔の専用軌道跡は、入り口付近が下町風俗資料館となり、そのまま上野動物園までは公園内歩道として跡を辿ることができるが、モノレール高架下より先は動物園敷地のほか、上野グリーンクラブ敷地等の民地となっている。専用軌道から不忍通りに出る池之端二丁目電停跡地は台東区の手により池之端児童公園として整備され、線路が敷かれてその上に東京都交通局7500形電車(7506号)が設置され、静態保存されている。 面影橋分岐点荒川線面影橋電停は1949年12月1日から1968年9月29日までは15系統戸塚線が分岐していて、北へ曲がる32系統早稲田線(現・荒川線)に対し、暫く専用軌道で直進し、南に曲がり、すぐ西に曲がって東京都道305号芝新宿王子線(明治通り)上に出ていた。 新宿遊歩道公園「四季の路」靖国通りから大久保車庫に向かう回送線用専用軌道の跡で、現在は新宿遊歩道公園となっている。もともとは13系統が運行されていたが、1948年12月25日に13系統は明治通りから四谷三光町交差点で靖国通りに入る路線に付け替えられ、従来の軌道は翌1949年4月1日より回送用軌道として運用された。 新宿区役所前交差点から新宿六丁目交差点(新田裏)へ抜ける遊歩道として整備されていて、新宿ゴールデン街を囲むような線形となっている。 角筈終点13系統は角筈から先も新宿通りに線路が向かっており、新宿通りとの交点に角筈終点があった。1953年6月1日に廃止され、跡地は区画整理され、現在は道路(新宿区道11-60号線)となっている[注釈 24]。 大久保車庫周辺東大久保(抜弁天)より新田裏(新宿六丁目交差点)までの区間。牛込より新宿駅方向にかけて下る坂道で、途中に大久保車庫があった。道路として整備され、現在は牛込より新宿駅方面への一方通行道路となっている。 信濃町駅前信濃町駅南口に、中央線をまたぐ専用橋があった。現在は外苑東通りの道路敷に取り込まれているが、都電運行時はこの箇所にのみ道路が無く、道路は西側に外れて迂回しており都電の線路だけが南へ直進していた。 喰違見附若葉一丁目から赤坂見附までの区間。専用軌道は両端から坂を下る形で見附跡のトンネルをくぐっていた。なお、このトンネルは都電唯一の専用トンネルだった。1963年7月にトンネルは廃止され、赤坂方は首都高速4号新宿線の敷地となり、トンネル入口は首都高速の赤坂トンネル入口に改築されている。四谷方は桜並木となっている。1963年より1967年12月までの同区間は外堀通り脇の専用軌道を単線で運行していたが、こちらは外堀通りの歩道となっている。 渋谷駅1911年8月3日、前身の東京市街鉄道が渋谷地区まで延伸した際の終点は「中渋谷」であった。宮益坂下から渋谷川を渡り、山手線をくぐらずそのまま直角に向きを変えて山手線に沿い、現在の玉川通りを越えたところに中渋谷終点が位置していた。2022年現在は渋谷スクランブルスクエア東棟の敷地の一部となっている。 1923年3月29日より1957年3月25日まで、青山線の渋谷駅前電停は渋谷駅西口に位置していた。1938年からは東急百貨店東横店西館1階に食い込むように存在していたが、これは従来あった線路の上に建物が建築されたためである。線路跡やホーム跡は渋谷駅西口駅前広場となり、渋谷地下街の大階段出入口が建設されている。 一方、1937年7月27日に玉川電気鉄道(玉電)の渋谷駅が玉電ビル(上述の東急百貨店東横店西館)建設のため、玉川・下高井戸方面と天現寺橋方面に二分され、玉川・下高井戸方面は新築建物の二階に乗り入れることになり、天現寺橋方面は東口の東横百貨店(東急百貨店東横店東館)前に乗り場が新設される。1938年11月19日以降、玉電天現寺橋線が東京市に運行委託され市電路線に編入されると、今度は市電乗り場が従来の青山線(西口)と引き取った天現寺橋線(東口)で二分されることになった。 1957年3月26日以降は天現寺橋線の渋谷駅前電停に集約された。ただし、青山線と天現寺橋線のレールは最後まで繋がっていなかった。このターミナルは、都電廃止後形状を若干変更しただけで(34系統用停留所をバスに転用するため、行き止まりとなっていた部分を通り抜けられるようにした)そのまま都営バスのバスターミナルに転用され、このまま長らく使用されたが、1998年10月に明治通りの交通運用改善を狙った駅前広場整備が実施され(バスターミナル部を西側、一般車線を東側に集約)、その際、残置されていたホーム、軌条、架線柱などはすべて撤去された。以降も同位置で都営バス乗り場として機能していたが、その後上記渋谷駅東口再開発事業用地に取り込まれ、2022年現在は渋谷スクランブルスクエア東棟の敷地の一部となっている。 恵比寿線戦前に廃止された区間であり、天現寺橋より伊達跡までの間は外苑西通りになっており、その先は一部が道路になっているほかは民地(宅地)になっている。 広尾線開業以来、天現寺橋から西麻布を経て北青山一丁目までは専用軌道であったが、東京オリンピック関連街路整備の一環として環状4号線(外苑西通り)・補助6号線・環状3号線等の道路敷地として利用されることとなり、街路整備以降は全線にわたり併用軌道区間となった(なお、青山一丁目 - 南町一丁目間など街路中央から微妙に偏心している区間、広尾車庫前のように明確に偏側している区間もあった)。 廃止時においても西側に大幅に偏側し、計画道路区域をはみ出していた広尾車庫周辺は現在、都営広尾五丁目アパートの敷地となっている。 なお、開業当初については、地形上の問題や周辺施設との関連から若干廃止時の線形と異なっている部分があり、例えば当初、南青山一丁目 - 墓地下付近は陸軍の射撃場を避けるため大きく西側に回り込んでいたが、戦後すぐの段階で線形が修正されていることが確認できる。この部分は現在青山葬儀所の敷地となっている。 北品川終点1925年3月11日に、それまで八ツ山橋南詰にあった北品川終点に京浜電気鉄道の軌道が接続。京浜電鉄の車両が市電軌道に乗り入れて、途中の高輪南町から分岐して品川駅前の同社ターミナル・高輪駅まで、市電の車両が京浜電鉄に乗り入れて同社北品川駅までそれぞれ乗り入れた。京浜電鉄はこの直通運転のために軌間を従来の1,435mmから1,372mmに改軌した。しかしながら、1933年に京浜電鉄は横浜以南の湘南電気鉄道(1,435mm軌間)と相互直通運転を行うために、軌間を1,435mmに再改軌。市電との直通運転と高輪駅への乗り入れは打ち切られ、このとき市電の終点は品川駅前まで後退した。八ツ山橋を渡った先にはもともと京浜電鉄の物である1,435mmに改軌された併用軌道が1956年(昭和31年)6月30日まで存在しており、京急電車が通っていた。市電北品川終点跡地は京急電鉄の手で開発され、分譲マンションになっている(現在の北品川駅北側には保線車両用の側線があるが、これは市電跡地ではなく1956年7月の移設時に新設されたもの)。 道路上の痕跡併用軌道を廃止する場合、事業者は原状を回復する必要があるため、原則として軌条類は撤去される必要がある。しかし、都電の大規模廃止が実施された時期は、全国的に事業者の経営問題による軌道の廃止が相次いでおり、現状復旧費用が事業者の収支をさらに悪化させる懸念があったことから、特例として軌条の上に5センチのオーバレイ舗装を行うのみで原状復旧とみなしてよいとされていた。そのため、経年により道路上に線路のある部分が浮き出し、軌道がわかるような箇所がいくつか存在したが、後の舗装改修時の撤去や街路拡幅工事などにより2000年代前半までに概ね処理されており、現在はほとんど残っていない。2020年1月、お茶の水橋の改修工事に伴い、舗装の下から錦町線(太平洋戦争中に休止されたまま廃止)の線路が発見され、話題となった(改修に伴い撤去)[105][106]。2024年には神田川にかかる白鳥橋(江戸川線・39系統が経由[107])の橋上の舗装を撤去した際に、軌道敷が発見されている[108]。 なお、銀座通り(通三丁目 - 新橋)については、使用していた軌条をすべて共同溝の立杭に転用しているほか、軌道の敷石に使用していた御影石は整備のうえ歩道の舗石としてリサイクルしており、大規模撤去の対象区間でありつつも、例外的に完全な撤去が行われた。 若干性格は異なるが、博物館明治村に移築保存されている新大橋(一部)の橋上には、現役当時敷設されていた都電の軌道が再現されている。 廃止代替バス都電が廃止されると、その系統ごとに代替バスが運行されるようになる。系統ごとの代替バスは次のとおり。なお、並行する地下鉄の延伸・開業などにより廃止された区間や一部経路が都電時代からやや変更されている区間もある。
車両現行2020年(令和2年)4月現在、都電の車両は以下の5形式が使用されている。いずれもワンマン車、冷房車であり、1両で運行される。 路面電車ではあるが、現在運行されている荒川線には路面停留場が無く、また各停留場のホームを車両床面と同じ高さまでかさ上げしてあるため、他事業者にみられる超低床電車は導入されていない。また、現存する荒川車庫を含めた殆どの車庫が敷地の都合上車両移動にトラバーサーを使用しているため、全長は13mに制限されている。
過去の車両路線廃止に伴い余剰車両は大量に廃車され多くが解体されたが、86両は他の交通機関や地方自治体、学校、企業に譲られた。函館市へ7000形10両、長崎電気軌道へ2000形6両が営業用として譲渡され、1000形1両は西武所沢車両工場で客車に改造され羽後交通横荘線で使用された。また5501が上野公園に展示され(のち荒川車庫での保管を経て現在は都電おもいで広場で保存)、葛飾区、府中市、板橋区、豊島区、大田区などへ公園展示用として、企業には従業員休憩所や倉庫として、ほかには幼稚園、小学校に寄贈され、千葉県は団地児童対策として15両を譲り受けている[115]。この前後も多数の車両が譲渡された。しかしこの時も含めて譲渡車で現存するものはごく一部であり、営業車両は老朽化により既に全廃されており、保存車両も荒廃や施設自体の改修等で多くが撤去されている。 その他の特徴として、他社による模倣形式が挙げられる。ある会社の車両とよく似た仕様の車両が別の会社で製造されるケースは他にもあるが、路面電車において、日本一大きな都電からの模倣はかなり多く、該当形式としては3000形、6000形、7000形、8000形などが挙げられる。 *を付したものは譲渡車か保存車が現存する車種を示す。 旅客用電車
貨物用電車事業用車両備品営業所・車庫都電の大規模撤去が開始される前の1960年(昭和35年)の時点では、都電の営業所は17か所、車庫は16か所、さらに派出所が1か所存在していた。その後都電撤去の進捗に合わせて営業所、車庫は順次廃止されていき、1972年(昭和47年)11月12日に柳島電車営業所・柳島電車車庫および錦糸堀電車営業所・錦糸堀電車車庫が廃止されて以降は、それぞれ荒川電車営業所と荒川電車車庫の1か所ずつのみとなった[130]。
廃止された営業所・車庫各営業所が担当した運転系統は、1962年(昭和37年)時点のものである。
工場
軌間高円寺線・荻窪線(総称して杉並線)を例外として、それ以外の全路線の軌間が1372mmである。東京電車鉄道の前身である東京馬車鉄道がこの軌間を採用し、東京市街鉄道、東京電気鉄道も追随した。国際標準軌の1435mmと、国鉄在来線などのいわゆる狭軌の1067mmの中間のサイズ(どちらかというと前者に近い)であり、馬車鉄道に由来することから、馬車軌間と呼ばれることが多い。日本では、都電(旧市電)との関連からこれを選択した後述するいくつかの東京圏の例を除けば、函館市電が採用しているのみである。また、世界的にも他に採用例は少ない。 →「4フィート6インチ軌間 § 日本」を参照
東京馬車鉄道が1882年の開業時に1372mm軌間を選んだ理由は不明である[167][168]。ニューヨークの馬車鉄道がかつてこの軌間を採用していたのに倣ったとする説[169]があるが、ニューヨークの馬車鉄道は当初から1372mmではなく1435mmの標準軌を採用していたためこの説は誤りだとする反論[167]がある。 現存の私鉄線では、都内に残るもう一つの軌道線である東急世田谷線(旧玉川電気鉄道、開業時は1067mm)と、軌道線として開業し、後に鉄道路線となった京王電鉄京王線(旧京王電気軌道)がある。いずれも当初、市電(都電)との乗り入れをもくろんで、選択したものであった。
過去の例としては、京浜急行電鉄(戦前、京浜電気鉄道時代の一時期、現在は標準軌)、京成電鉄(旧京成電気軌道 都営地下鉄浅草線《当時は1号線》・京急線と直通運転を行なうため標準軌に改軌する以前)、新京成電鉄(1067mm→馬車軌→標準軌と2回改軌している)、東急玉川線(大部分が廃止され、現存する東急世田谷線はその支線)・横浜市電(関東大震災により多大な被害を受けた横浜市電は急遽京王電気軌道より車両を譲り受け、車両を京王電気軌道→東京市電→京浜電気鉄道というルートで自力走行させて調達した[170])などがある。 その他の構造物など
都電が登場する作品
脚注注釈
出典
参考文献交通局史および刊行物
一般書籍
雑誌
関連項目
外部リンク
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