秋葉線 |
---|
概要 |
---|
現況 |
廃止 |
---|
起終点 |
起点 新袋井駅(本線) 可睡口駅(可睡支線) 終点 遠州森町駅(本線) 可睡駅(可睡支線) |
---|
運営 |
---|
開業 |
1902年12月28日 (1902-12-28) |
---|
廃止 |
1962年9月20日 (1962-9-20) |
---|
所有者 |
静岡鉄道 |
---|
使用車両 |
車両の節を参照 |
---|
路線諸元 |
---|
路線総延長 |
12.1 km (7.5 mi)(本線) 1.1 km (0.68 mi)(可睡支線) |
---|
軌間 |
1,067 mm (3 ft 6 in) |
---|
過去の軌間 |
762 mm (2 ft 6 in) |
---|
電化 |
直流600 V 架空電車線方式 |
---|
テンプレートを表示 |
停留所・施設・接続路線
|
|
|
静鉄駿遠線
|
|
|
東海道本線
|
|
|
袋井駅
|
|
0.0
|
新袋井駅
|
|
0.3
|
宮本町駅 *
|
|
|
原野谷川橋梁
|
|
0.8
|
袋井町駅
|
|
|
沖ノ川橋梁
|
|
1.0
|
永楽町駅
|
|
2.0
|
一軒家駅
|
|
|
可睡口駅
|
|
|
|
|
1.1#
|
可睡駅 -1945
|
|
3.8
|
平宇駅
|
|
4.8
|
山科学校前駅
|
|
5.3
|
下山梨駅
|
|
5.9
|
金屋敷駅 *
|
|
6.1
|
山梨駅
|
|
6.6
|
市場駅
|
|
7.3
|
高平山駅 *
|
|
8.1
|
天王駅
|
|
8.4
|
中飯田駅 *
|
|
9.0
|
飯田駅
|
|
9.4
|
観音寺駅
|
|
10.4
|
福田地駅
|
|
11.0
|
戸綿口駅
|
|
|
戸綿駅
|
|
|
二俣線
|
|
11.4
|
森川橋駅
|
|
|
太田川橋梁
|
|
12.1
|
遠州森町駅
|
*: 1942年4月27日廃止
|
|
秋葉線(あきはせん)は、静岡県袋井市の新袋井駅から周智郡森町の遠州森町駅までを結んでいた静岡鉄道(静鉄)の軌道線(路面電車)。
1962年(昭和37年)に廃止された。
概要
国鉄袋井駅前の新袋井駅から森街道[注釈 1]沿いに線路が敷かれ、袋井市の中心市街地を通り抜け、市の北部にある山梨という集落を経由し、ここから北東に向きを変えて森町に至るルートであった。専用軌道と未舗装の併用軌道が混在していた。
電化後は全長9メートル程度の小型電車が客車や貨車を牽引していた。起点の新袋井駅は国鉄袋井駅前に立地していたが、プラットホームは貨物専用で、一般乗客は木製の踏み台を使って乗降していた。
路線データ
1962年9月の廃止時点のもの
- 路線距離(営業キロ):12.1km(本線)、1.1km(可睡支線)
- 軌間:1067mm
- 複線区間:なし(全線単線)
- 電化区間:全線(直流600V)
歴史
森町をはじめとする周智郡各地で生産される茶や果物などの農産物を東海道本線の駅へ輸送する目的で、1902年(明治35年)に秋葉馬車鉄道により軌間762mm[注釈 2]の馬車鉄道線として開業した。また1911年(明治44年)には袋井市内にある可睡斎への参拝客輸送を目的として、可睡口 - 可睡(かすい)間の支線も開業させた。
第一次世界大戦による好景気を受けて馬車鉄道による輸送力に限界を生じ、輸送力増強のため電化を計画したが、小資本と大戦終結後の不況により自社では実現できず、1923年(大正12年)に静岡電気鉄道に吸収合併されたのち電化と1067mm軌間への改軌を実施した。
1943年(昭和18年)に戦時統制の国策により静岡鉄道が成立し、同社の一路線となった。1945年(昭和20年)には可睡支線が休止となる(その後再開せず)。
太平洋戦争終戦直後の食糧不足の時期には沿線の農村に向かう買出し客が殺到し、車両の屋根に乗客が乗るほどであったが、1950年代以降はモータリゼーションにより輸送量が減少した。『文藝春秋』1962年4月号において「石松電車がんばる!茶畠の中を走って60年」という記事で紹介された[1][注釈 3]が、同年9月に秋葉線は廃止された。同区間は自社の代替バスに転換されたが、1996年のバス事業分社化に伴い、現在は秋葉バスサービスが代替路線を運行している。
年表
運行概況
- 所要時間:袋井駅前(後、新袋井) - 遠州森町間43分、可睡口 - 可睡間3分(1940年3月改正時)
- 運行間隔:全区間ほぼ毎時1・2本(1940年3月改正時)
車両
秋葉線の車両は客貨車問わずすべて木造車である[注釈 4]。電動客車はいずれも小型の路面電車タイプの車両で、当初はヴェスティビュール(英語版)[注釈 5]付きだがドアなしのオープンデッキであった。ブレーキは手ブレーキを常用。単行もしくは客車・貨車1両を牽引して運行された。電化開業から廃線までリンクとバッファーを装備した連結器[注釈 6]を使い続け、終点では機回しを行って電動車と付随車を入れ替えした。
山梨駅の車庫は工場併設で、最末期まで車両の設備更新を積極的に実施した。ドアなしのオープンデッキだった電動客車・電動貨車と付随客車ハ3に後年ドアを取り付け(モハ7(初代)を除く。)、モハ3(2代)・ハ3・ハ5(2代)の二重屋根(ダブルルーフ)を丸屋根に改造した。集電装置はトロリーポールをシングルで用いたが1959年にトロリーポールをYゲルに改造し、一部車両は1961年にパンタグラフ化を実施、さらにモハ6・モハ7(2代)・モハ8をボギー車化改造した[7]。
以下、改番・改造履歴を含め各車両について記す。
- 電車
-
- モハ1(初代) -モハ3(初代): 天野工場製。1920年玉川電気軌道から譲受。1925年の当線電化開業までの消息は不詳。モハ2(初代)、モハ3(初代)は1948年廃車、モハ1(初代)は1950年電装解除してハ5(初代)になった[7]。
- モハ1(2代) - モハ3(2代) : 1925年鶴見木工所製。静岡清水地区で10・11・12の車番で使用されたのち1942年当線に転入。1948年にモハ1(初代) - 3(初代)と入れ替わる形で10・11・12→モハ1(2代)・モハ2(2代)・モハ3(2代)と改番。1959年にトロリーポールをYゲル化、モハ3(2代)は1961年にパンタグラフ化[7]。
- モハ5・モハ6・モハ7(初代): 1925年日本車輌製。モハ7(初代)は事実上の休車状態で保管中にモハ9に改番の上1956年廃車→電装解除してハ5(2代)に振り替え(無認可)。モハ5・モハ6は1959年にトロリーポールをYゲル化、1961年にYゲルのポール部に関節を設け2機を向い合せに接合してパンタグラフ化[注釈 7]。モハ6は1960年台車をブリル27GE-1に交換してボギー車化[7]。
- モハ7(2代)・モハ8 : 1926年日本車輌製。元モハ10・モハ11。1954年改番してモハ7(2代)・モハ8。1959年日本車輌S形単台車[注釈 8]を切断・接合して重ね板ばねによる枕ばねとスイングボルスターを装備した自社工場製ボギー台車に交換してボギー車化[7]。1959年にトロリーポールをYゲル化、1961年にパンタグラフ化。
- デ3・デ5→デワ1 : 有蓋電動貨車、1924年日本車輌製。静岡電気鉄道(現静岡鉄道静岡清水線)で使用されたのち1927年当線に転入。当初はデ3・デ5。デ3は1948年廃車。デ5は1954年に改番されてデワ1。1957年に存在が確認できるが秋葉線廃線を待たず廃車された。静岡電気鉄道デ10形電車、水浜電車1・ 2(有蓋電動貨車)と同型[7]。
- 客車
-
- ハ1 - 3 : 天野工場製。モハ1(初代) - 3(初代)と共に1920年玉川電気軌道より譲受。駿遠電気→静岡電気鉄道の別路線(のちの静岡清水線および静岡市内線か)で使用されたのち1926年に当線に転属。元はサハ1 - 3と称し、1954年ハ1 - 3に改番[7]。
- ハ5(初代): 旧モハ1(初代)。天野工場製。1920年玉川電気軌道より譲受。1950年電装解除して客車化。ハ5(2代)と振り替えて廃車(無認可)[7]。
- ハ5(2代): 旧モハ7(初代)→改番で旧モハ9(初代)を1956年廃車→電装解除してハ5(2代)に振り替え(無認可)[7]。
- 貨車
-
- ワフ1 - 3 : 有蓋車、1925年日本車輌製[7]。
- トフ1 - 3 : 無蓋車、1925年日本車輌製[7]。
全線廃止後、一部の車両については、台車やパンタグラフなどの機器が取り外され、沿線の事業所・幼稚園・個人に車体のみが引き取られた。それらは休憩所や倉庫などとして再利用するためのもので、年月の経過とともに解体処分されていったが、このうちの1両・モハ7(2代)は当初袋井市内を転々とし、後に森町の自動車整備会社に設置され、従業員の休憩室として使用されていたところを袋井市職員が偶然発見し、1991年に袋井市に引き取られ、現在市役所の倉庫に収蔵されている[7]。当初は復元の予定があったが、現在諸事情によって実現していない。
停留所
廃止時点
- 本線
- 新袋井(しんふくろい) - 袋井町(ふくろいちょう) - 永楽町(えいらくちょう) - 一軒家(いっけんや) - 可睡口(かすいぐち) - 平宇(ひらう) - 山科学校前(やましながっこうまえ) - 下山梨(しもやまなし) - 山梨(やまなし) - 市場(いちば) - 天王(てんおう) - 飯田(いいだ) - 観音寺(かんのんじ) - 福田地(ふくでんじ) - 戸綿口(とわたぐち) - 森川橋(もりかわばし) - 遠州森町(えんしゅうもりまち)
- 可睡支線 1945年1月に休止
- 可睡口(かすいぐち) - 可睡(かすい)
接続路線
廃線後の状況
| この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2015年11月) |
元々の路線が併用軌道であったこともあり、大部分の区間が道路に転用されているほか、区画整理によって線路跡自体が消滅している所も存在する。線路跡として明確に判る部分は、袋井町 - 永楽町間の沖ノ川橋梁が道路橋に転用されている程度である。なお袋井駅前には、駅前の再開発事業に伴い解体撤去されるまでは秋葉線の駅舎がバスの待合室兼案内所として存置されており、改札口のラッチなどもそのまま残っていた。原野谷川に掛かる橋梁も、廃止後長らく歩行者と自転車専用道路に転用されていたが、1985年頃の台風による増水で一部が流失し、その後撤去され現存しない。
秋葉バスサービスの本社車庫は秋葉線の遠州森町駅跡に位置する。
2014年(平成26年)11月30日、JR東海東海道本線の袋井駅の新駅舎が完成し、北口は秋葉線の起点駅があったことから『秋葉口』という愛称が付けられた[8][注釈 9]。
秋葉線が登場する作品
内田康夫の推理小説『箱庭』に森町界隈が登場した[8]。
脚注
注釈
- ^ 現在の県道58号線にほぼ相当する。
- ^ 奥田(1963)では2フィート5インチ、今尾 (2008) では737mmとしている。
- ^ 大ヒットした2代目広沢虎造の浪曲・清水次郎長伝の登場人物「森の石松」の出身地が遠州森町である事にちなみ当該記事内で「石松電車」として紹介されたもので、現役時代の地元沿線でそのような通称が存在した事実はない。
- ^ 電動客車・付随客車のデッキ部ダッシュボードのみ鋼板。
- ^ 本来はアメリカの建築用語で控えの間のこと。鉄道用語では客室を本部屋に見立てて運転台デッキを控えの間とみなし、転じて運転台正面の窓を示す。
- ^ ねじ式連結器から締結用のねじ部品を省略したもの。
- ^ 現在のシングルアーム式パンタグラフを向い合せにしたような形態をしている。
- ^ ブリル21Eのコピー品。
- ^ ちなみに南口は駿遠線の起点駅があったことから『駿遠口』と付けられた。
出典
- ^ 「静岡電気鉄道(静岡鉄道秋葉線)」『日本の路面電車II-廃止路線・東日本編-』132頁。
- ^ 春野町史編さん委員会 編『春野町史 通史編 下巻』春野町、1999年3月31日、267頁。
- ^ 武内 孝夫『遠州地方の交通発達史』遠州鉄道株式会社、1993年10月、142頁。
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、35頁。
- ^ 『鉄道省鉄道統計資料. 大正11年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、36頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 「秋葉線の車輌」『静岡鉄道秋葉線-石松電車始末記-』29 - 47頁。
- ^ a b “袋井駅 秋葉口(北口)ポスター (PDF) ”. 袋井市 (2014年11月30日).
参考文献
- 川島常雄「静岡鉄道秋葉線ものがたり -時代に翻弄されて消えて行った小さな電車の話-」『鉄道ファン』No. 485、交友社、2001年9月、pp. 96-105。
- 原口隆行『日本の路面電車II-廃止路線・東日本編-』JTB〈JTBキャンブックス〉、2000年。
- 吉川文夫・花上嘉成『静岡鉄道秋葉線-石松電車始末記-』NEKO PUBLISHING〈RM LIBRARY 18〉、2001年。
- 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳』 7 東海、新潮社、2008年。ISBN 978-4-10-790025-8。
- 奥田愛三「静岡鉄道〔電車線〕」『鉄道ピクトリアル』No. 140、交友社、1963年1月、pp. 67。
- 吉川文夫・道村博・宮松丈夫「またひとつトロリーラインは消えた 静岡鉄道秋葉線」『鉄道ファン』No. 17、交友社、1962年11月、pp. 55-59。
関連項目
|
---|
営業中 |
|
---|
廃止 |
|
---|
関連項目 | |
---|
軌道法に拠る路線のみ。△印は一部区間が別路線として現存、▼印は廃止後ほぼ同区間に別路線が開業。
|