東京メトロ銀座線
銀座線(ぎんざせん)は、東京都台東区の浅草駅から渋谷区の渋谷駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は3号線銀座線。 路線名は経由地である繁華街の銀座に由来する。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「オレンジ」(#ff9500、橙)[7]、路線記号はG。 概要1927年(昭和2年)に浅草駅 - 上野駅間で営業を開始した、日本で最初の“本格的”な地下鉄である[注釈 1]。当時のポスター[注釈 2]では「東洋唯一の地下鉄道」というキャッチコピーが使われ、アジア・オセアニア地域でも初めての地下鉄路線である。なお、1番切符を手にし、一番初めに乗った乗客は、後に原鉄道模型博物館の館長を務めた原信太郎であり、同館には当時の新聞記事等が展示されている。 東京地下鉄(東京メトロ)の路線では丸ノ内線とこの銀座線のみ標準軌である。また、第三軌条方式を採用しているため分岐機の前後で無電区間が生じている箇所がある。このため車両間引き通しを持たず、600 V電源を直接使用して室内灯等に用いていた01系導入前の車両(電動発電機搭載の100形・1500N形を除く)では、ポイント通過時や駅到着直前に室内灯や扇風機などが瞬間停電し、代わりにバッテリー電源の非常灯が点灯していた[注釈 3]。現在運用されている車両には引き通し線が装備されており、停電することはなくなった[注釈 4]。狭軌及び架空電車線方式を採用している周辺他社路線との直通運転は形態的に困難なため、丸ノ内線と同様に実施されていない。 建設費削減のためにトンネル断面が小さいゆえ、1両の車両長が16 m、1編成6両の長さが96 m、車幅が2,550 mmと[注釈 5]、車体の規格が東京地下鉄で最も小さい。そのため、1両あたりの乗車定員が少ない、車内冷房装置の屋外機が屋根に取り付けられない、などの制約が生じている。初めての地下鉄建設とあって将来的な輸送の見込みを立てるのは困難であり、実際開業当時は十分な輸送力を持っていたが、現代に至っては輸送力不足を招く結果になった。 冷房装置については、前述の理由で車両冷房化が困難であったことにより、一般の鉄道車両においては冷房装置搭載が一般的になっていた1983年から製造が開始された01系も当初は非冷房で製造されたが、1990年頃になって薄型冷房装置が開発されたことにより屋根上に搭載できるようになったため、これ以降に製造された01系からは当初より冷房が搭載され、冷房装置なしで登場した01系にも冷房装置の設置が行われた。現在運用されている1000系車両には全編成に冷房装置が取り付けられている。なお地上区間がごく短いことや、地下線内は地上ほど冷え込まないという事情もあって、開業時から01系初期型に至るまで銀座線電車には暖房装置も装備されていなかった。 路線延長は14.2キロメートル[8]で、駅数は19[1]。浅草通り、中央通り 、外堀通り、青山通りなどの地下を通って[注釈 6]、東京都心3区とそれに隣接する台東区、渋谷区の主要な繁華街やビジネス街を縫うように走り、浅草、上野、秋葉原、神田、日本橋、銀座、新橋、虎ノ門、赤坂、青山、渋谷エリアに駅がある。このため利用客が多く、高頻度運行が行なわれている。日中においては3分間隔で運行されていたが、COVID-19流行による5分間隔への減便を経て、2023年4月29日以降は4分間隔での運行となっている[9]。渋谷駅から赤坂見附駅/永田町駅まで並走する半蔵門線は、銀座線の混雑緩和のために建設された路線(バイパス路線)である。 また銀座線は開削工法で建設されたため、後発の他路線に比べて乗り場が浅く、田原町駅や稲荷町駅、末広町駅などの一部の駅では階段を降りるとすぐに改札口があり、改札口の先にすぐホームがあるという利用しやすい形態になっている。相対式ホームの駅ではそのほとんどで線路間を隔てて建てられている支柱がリベット組みの鉄骨となっており、日本最初の地下鉄の歴史を偲ぶことができる。
また、浅草駅にて松屋浅草店、上野広小路駅にて松坂屋上野店、三越前駅にて日本橋三越本店、日本橋駅にて日本橋高島屋、銀座駅にて銀座三越と松屋銀座、渋谷駅にて東急百貨店東横店(現在は閉店)と繋がっている[10]。これらの百貨店の多くが地下鉄開業以前の開店か同時期に創業した老舗であり、買物客の誘致を図って、古くから地下鉄と百貨店各店とのタイアップも積極的に行われてきた。駅自体がタイアップで設置された三越前駅は端的な事例である。三越前駅に関しては日本橋三越本店が、日本橋駅に関しては日本橋高島屋が駅の建設費を負担している[11][12]。その他、白木屋(元・東急日本橋店)や銀座松屋、銀座三越等が地下鉄の建設費の一部を負担している[10]。 車両基地の上野検車区は地上と地下の2層構造になっており、地上車庫の入口箇所には日本の地下鉄では唯一となった踏切(しかも日本では珍しい、道路の通行が優先される軌道遮断式。同種の踏切はイギリスに存在する)が存在する。また、渋谷駅周辺は窪地となっており、同駅では東急百貨店東横店3階にあったホームから発着していたが、基盤整備によりホームを東口バスターミナル付近に移設する工事が進められ、2020年1月3日に新ホームの供用が開始された[報道 1][新聞 1]。 赤坂見附駅の溜池山王側には丸ノ内線とを結ぶ連絡線がある。銀座線車両の重点検整備に際しては、中野工場(中野富士見町駅近在)や小石川CR(茗荷谷駅近在)への回送時にこの連絡線を通過する。過去には隅田川花火大会開催日の臨時列車「花火ライナー」(1992年 - 1999年。丸ノ内線新宿駅発浅草駅行)や浅草寺への初詣客向けの「初詣新春らいなー」(1993年 - 廃止時期不明。運転区間は花火ライナーと同一)、中野工場見学会などのイベント列車なども通過していた。2010年5月2日には映画『仮面ライダー×仮面ライダー×仮面ライダー THE MOVIE 超・電王トリロジー』公開を記念したイベント列車「メトロデンライナー」が上野駅 - 赤坂見附駅 - 中野富士見町駅間で運転され、連絡線を通過した。なお2008年以降丸ノ内線がホームドア使用のワンマン運転となったこともあり、車両ドアとホームドアの位置の関係から、丸ノ内線駅ホームでの乗降を取り扱わないイベント列車を除いての直通運転は行われていない。 ホーム有効長が編成長ぎりぎりの駅が多いことから、オーバーラン防止と駅進入速度の向上による運転間隔の短縮・輸送力増強を図るために定位置停止装置(TASC)が設置されている。 2012年12月17日、銀座線全19駅をリニューアルすることが発表された。2017年度中に浅草駅 - 京橋駅間を、2022年度までに全駅をリニューアルする計画[報道 2]で、ホームや改札口を刷新し、2012年12月30日に開業85周年を迎える日本最古の地下鉄として歴史を守りつつ、各駅に先端の機能を取り入れた主要路線として新たなイメージ定着を目指すとしている[報道 2]。 都市計画と延伸計画太平洋戦争後、戦災復興院によって「東京都市計画高速鉄道網」の改訂が行われ、1946年(昭和21年)12月7日に戦災復興院告示第252号によって戦後の第3号線は「大橋 - 渋谷 - 浅草間」の路線として告示し、都市計画を決定した[13]。 日本最古の地下鉄である区間を含むにもかかわらず『鉄道要覧』での路線名が「3号線銀座線」を名乗るのは、前述の戦災復興院の告示において、開業の順序にかかわらず、都心への路線が東京湾に近い方から時計回りに計画路線番号を割り当てたためである[注釈 7]。 1962年(昭和37年)6月の都市交通審議会答申第6号において、第3号線は「二子玉川方面より渋谷、赤坂見附、新橋、神田、上野及び浅草の各方面を経て三ノ輪方面に至る路線」として答申され[14]、8月29日の建設省告示第2187号により、第3号線二子玉川園駅 - 三ノ輪間(26.0 km)の都市計画が決定された[14]。 しかし、1968年(昭和43年)4月の答申第10号において、第3号線は渋谷 - 三ノ輪間(17.3 km)に短縮され[15]、二子玉川園 - 渋谷間(東急新玉川線の建設を予定)は銀座線規格の第三軌条方式の路線から架空電車線方式の路線となり、新たに追加された第11号線(半蔵門線)の一部となった[15]。その後1977年(昭和52年)4月に東急新玉川線(現在の東急田園都市線)として開業している。 浅草 - 三ノ輪間(3.2 km)の延伸は、都市高速鉄道第3号線としての都市計画決定が行われ現在も有効であるが[16]、1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号にて同区間の延伸は削除されており、事実上の凍結状態となっている。 路線データ
建設費用駒形土砂搬出線浅草駅 - 上野駅間の土木工事に発生した土砂(掘削土・主に田原町駅方面から)は隅田川の水運(土運搬船)で搬出していた[20]。この土砂搬出用として、駒形橋西詰交差点付近の地下(本線トンネル)から東に向かって約70 mのトンネル(高さ:1.83 m 、幅:3.05 m)および約20 mの切開部を構築し、隅田川河岸付近で地上に出て、隅田川に沿った桟橋 (112.78 m) が構築された[20]。搬出した土砂は約36,000 m3にもなる[20]。 トンネル(坑道)には軌道が2線敷設されており、電動回転のエンドレスワイヤーによって小型トロリー(貨車)を往復運転して、桟橋まで搬出していた[20]。田原町方面からの土砂は、トロリーに積載して小型ガソリン機関車けん引で当地点まで運び、ここで解放してトロリーは1両ごとにワイヤーへ引っ掛けて桟橋まで運搬していた[20]。 沿革浅草駅 - 新橋駅間は「東京地下鉄道」によって建設・運営された[10]。本来は新橋駅から浅草駅まで一挙に開通させることを目指していたものの、関東大震災(1923年)による不況のため資金調達が困難になり、当時は日本一の繁華街で、高収益が見込める浅草から上野までの建設を先行させたのである[10]。なお、建設は関東大震災後の1925年(大正14年)に開始された[10]。1927年(昭和2年)の開業当初は物珍しさもあって乗車時間がわずか5分の区間に乗車するため、2時間待ちの行列ができたという。その後の経営も順調で、1934年(昭和9年)までに全通した[10]。 一方、渋谷駅 - 新橋駅間は目黒蒲田電鉄系(東急の前身)の「東京高速鉄道」により建設・運営され、支那事変(日中戦争)中の1939年(昭和14年)までに全通した[21]。同区間は当初、東京市が市営での事業経営を目論んでいたため、東京市から免許の譲渡契約を結んだ上で建設された[21]。譲渡契約は将来的に東京地下鉄道と合併すること、東京市が買収したいときはいつでも応じることが盛り込まれた内容であった[21]。 1939年(昭和14年)9月16日から、東京地下鉄道との相互乗り入れ運転が開始[21]。この際、ラッシュ時の運転間隔が2分半から2分に短縮された[21][新聞 2]。さらに1941年(昭和16年)7月には、両社は陸上交通事業調整法に基づき、特殊法人「帝都高速度交通営団」(営団地下鉄)に統合された[21]。営団の発足に伴い学生定期券が新たに導入された(従前は高速鉄道側のみで発売されていた)[新聞 3]。 同年12月の太平洋戦争開戦後しばらく、日本本土は1942年(昭和17年)4月18日のドーリットル空襲を除き戦禍に見舞われなかった上、経済活動が活発化して鉄道需要も高まったため、同年12月31日より全列車を3両編成とするなど輸送力増大に対応した[22]。しかし戦争激化による電力不足のため、1943年(昭和18年)1月19日以降は節電ダイヤとして、一部列車の運行区間短縮(一部列車の三越前駅 - 渋谷駅間折り返し運転、休日は運休)や速度低下などの措置がとられる[22]。その後もさらなる電力状況の悪化や、車両部品不足による運用可能な電動車の減少などにより、スピードダウンや運行本数減少が相次いだ[22]。 戦争末期には東京はアメリカ軍により繰り返し爆撃を受けるようになり(東京大空襲)、土被りの浅い本路線は空襲の度に運休を余儀なくされた。また、土被りの浅さから他路線の地下鉄(例えば大阪市の御堂筋線)のように防空壕代わりに使用されることはなかった。 1945年(昭和20年)1月27日の空襲時には、銀座通り(現・中央通り)上に投下された爆弾より銀座駅や京橋駅が被害を受け乗客多数が死亡し、さらに水道管の破裂により、日本橋駅 - 新橋駅間のトンネルが浸水したため、浅草駅 - 三越前駅間、新橋駅 - 渋谷駅間で折り返し運転を行い、2月1日から新橋駅 - 三越前駅間を単線運転で再開させた(全線復旧は3月10日)。また5月25日には、渋谷検車区に着弾して車輌5両が焼損(廃車とはならず、後に修復して復帰)する被害を受けた[22]。6月1日時点では在籍車両84両のうち稼動車は24両のみとなり、また空襲により駅周辺が過疎となったことから、田原町駅と末広町駅では1946年(昭和21年)10月14日まで時間を限って駅通過扱いとされた。 終戦後もしばらく劣悪な電力事情から低速運行が続いたが、徐々に戦前の水準を回復し、さらに1949年(昭和24年)3月15日には新型車両(1300形)が導入された[23]。丸ノ内線が開業する前年の1953年(昭和28年)には、当線に銀座線の名称が付与され、長く営団の重要路線として機能することとなる。そして、2004年(平成16年)4月1日の営団の民営化に伴う「東京地下鉄」の発足に際しては、上野駅で発車式が行われた。 東京地下鉄道
東京高速鉄道
帝都高速度交通営団
東京地下鉄
運行形態平日朝夕ラッシュ時は最短2分間隔[59]、日中は4 - 5分間隔(コロナ禍前は3分間隔)で運行されている[9]。 全区間(浅草駅 - 渋谷駅間)直通運転を基本とする。全線の所要時間は33分である。
運転時間と車両運用の沿革1993年(平成5年)7月30日までは01系車両と旧形車両(先頭に2000形・中間に1500N形組込)で運用し、保安装置は打子式ATSを使用してきた[62]。最高速度は55 km/h、全線所要時分は34分30秒、最大運用数は36本(予備4本)であった[62]。7月30日の終電後に保安装置の切り換えを実施し、翌7月31日からは新CS-ATC化と全車両が01系に統一された[62]。 旧形車引退後の1993年8月2日、01系統一による車両性能の向上(旧型車両と比較して、01系は35 km/h以上の加速性能が優れている[62])と曲線および分岐器通過速度の向上、保安装置の新CS-ATC化とTASC(駅定置停止制御装置)の使用開始を反映したダイヤ改正を実施した[49][62]。これにより最高速度は65 km/hに向上し、全線所要時分は4分短縮した30分30秒に[49]、朝ラッシュ時に3本の列車増発を行っても、最大運用数は2本削減した34本(予備3本)となった[62]。 銀座線のTASCはホームドアなどの設置を目的としたものではなく、銀座線の各駅はホーム有効長と列車の長さがほぼ同じで、運転士の個人差に左右されるブレーキ操作をTASCにより均一化することを目的としたものである[63][64][注釈 8]。TASCの停止精度は± 50 cm以内となっている[64]。 その後、1997年(平成9年)9月30日には溜池山王駅開業に伴い、全線所要時分は55秒増えた31分25秒となり、運用数が1本増えた35本(予備3本)となった。このため、第38編成が新製された[65]。 なお、01系の置き換えを目的として2011年(平成23年)度より順次導入された1000系も当初は置き換え対象の01系と同数の38本の導入予定であったが[66][67]、東京メトロが2016年3月28日に発表した、2016年度から2018年度までの3年間の中期経営計画『東京メトロプラン2018〜「安心の提供」と「成長への挑戦」〜』において、今後銀座線全駅に整備を予定しているホームドアの関係で各駅での停車時分が拡大し、全線所要時分・運用数がそれぞれ増えることになり、2本増の40本の導入へと変更された[68][66]。 車両現在の車両
過去の車両
旧型車両の塗色は、1927年の開業用の車両の製作にあたってベルリン地下鉄の淡黄色を参考とした[70]。しかし、戦中・戦後の混乱期に色見本を紛失したため、改めて記憶で色見本を製作したものがやや濃い目となり、その後作り直すたびにさらに濃くなったという[70]。 利用状況2023年(令和5年)度の最混雑区間(B線、赤坂見附駅 → 溜池山王駅間)の混雑率は98%である[報道 19]。 表参道駅は半蔵門線と、赤坂見附駅は丸ノ内線と対面乗り換えができる駅であり、始発駅の渋谷駅のみならず各路線から新橋駅周辺への最短ルートとなるため混雑する。1988年度まで混雑率は230%を超えていたが、1989年に半蔵門線が三越前駅まで延伸開業してバイパス路線となったことにより、1990年度に200%を下回った。その後も輸送人員の減少により混雑が緩和し、2001年度に170%を下回った。逆方向も宇都宮線、高崎線、常磐線が乗り入れる上野駅のほか、東西線と接続する日本橋駅から混雑が激しくなるが、上野東京ラインの開業により上野駅 - 新橋駅間が当路線と並走するようになり、混雑は緩和されている。 2007年度の一日平均通過人員は、虎ノ門駅 - 新橋駅間が392,196人で最も多く、これに次ぐのは溜池山王 - 虎ノ門間の391,849人である。渋谷駅 - 表参道駅間は258,609人であるが表参道駅 - 外苑前駅間が321,942人に増加し、日本橋駅までは一日平均通過人員が30万人を超える。京橋駅 - 日本橋駅間は313,981人であるが日本橋駅 - 三越前駅間で252,874人と一気に減少する。その後も通過人員が減少するが上野広小路駅 - 上野駅間は206,943人であり、上野駅までは一日平均通過人員が20万人を超える。上野駅 - 稲荷町駅間で126,225人と一気に減少し、一日平均通過人員が最も少ない田原町駅 - 浅草駅間は90,362人である。1人平均乗車キロは3.6 kmであり、これは東京メトロ全線で最も短い[71]。 近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
駅一覧
発車メロディ2012年10月30日から上野・浅草、翌31日から溜池山王・銀座の各駅において、従来のブザーに代わり発車メロディ(発車サイン音)の使用を開始した[報道 11]。その後、2015年6月18日から20日にかけて神田・末広町・上野広小路・稲荷町・田原町の5駅に、さらに2018年8月から11月にかけて残りの10駅にも順次導入された。銀座・日本橋・三越前・神田・上野・浅草の各駅では、その駅や街にゆかりのある楽曲をアレンジしたメロディを使用している。 また、2019年3月26日からは、放送装置が更新された車両より順次車載メロディの使用を開始している。 メロディの制作は、銀座駅・上野駅・浅草駅および2018年導入の10駅と車載メロディはスイッチ[73][74][75][76]、2015年導入の5駅はスタマック[77]、溜池山王駅はエピキュラス[78][注釈 9]が担当し、塩塚博、福嶋尚哉(以上スイッチ)、岡村みどり、薄井由行、ゴンドウトモヒコ、山口優、永田太郎(以上スタマック)[79]、鈴木ヤスヨシ(エピキュラス)[80]の8名が作曲および編曲を手掛けた。
今後の予定
渋谷駅移設工事渋谷駅は、東急百貨店東横店の西館3階に設けられていた相対式ホーム2面2線が使用されてきたが、渋谷駅街区基盤整備の一環で同百貨店を解体するのに併せ、元位置から東へ130 mの明治通りの上空に、幅12 mの島式ホーム1面2線を設ける工事が実施された[82]。 この工事の一環として、新しいホームを築造するスペースを確保するため、渋谷 - 表参道間を終日運休して明治通り上空での「線路切替工事」が2016年より段階的に実施された。
2020年1月3日、始発電車より渋谷駅新駅舎の供用が開始され、開業記念式典が催された[新聞 1]。移設によって銀座線渋谷駅 - 表参道駅の駅間キロは1.3 kmから1.2 kmに短縮されたが、東京メトロの旅客営業規程第13条に渋谷駅 - 表参道駅間の運賃計算キロを1.3 km(半蔵門線の駅間キロ)とする旨が追加されたため、運賃計算上の最短経路が渋谷駅 - 表参道駅間を経由する駅相互間の運賃に変更はなかった[58]。駅移設後もエレベーターの増設やホームドア設置などの工事が、同年7月の東京オリンピック当初の開幕直前までを工期として進められた[新聞 1]。 選奨土木遺産・近代化産業遺産2008年8月29日に、社団法人土木学会から銀座線浅草駅 - 新橋駅間が鉄構框構造やアーチ構造など「土木的に貴重な構造物が多数存在する」との理由で、土木学会選奨土木遺産に選ばれた[報道 7]。同年11月18日の「土木の日」に同学会から認定書と銘板が贈呈された[報道 7][新聞 7]。 また、2009年には経済産業省から銀座線(全線)と旧新橋駅(東京高速鉄道時代に営業していたホーム)、銀座線での運用から退いた後に地下鉄博物館で保存されている1000形1001号車・100形129号車などが「近代化産業遺産続33」に認定され[報道 8]、次いで2017年には1000形1001号車が重要文化財に指定及び機械遺産に認定された[報道 25][報道 26][85]。 脚注注釈
出典
報道発表資料
新聞記事
参考文献
関連項目
外部リンク
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