日本における死刑囚の一覧 (1970-1999)
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この項目では、日本で死刑が確定した歴代の死刑囚の一覧(1970年 - 1999年)について説明しています。
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日本における死刑囚の一覧 (1970-1999) (にほんにおけるしけいしゅうのいちらん)は、1970年(昭和45年)から1999年(平成11年)の日本で、刑事裁判によって死刑判決を言い渡され、確定した死刑囚(死刑確定者)の一覧記事である。
1970年 - 1974年
1970年死刑確定囚(12人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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川越一家3人殺傷事件 (M) |
1970年2月19日 |
1965年8月24日 |
交際を求めていた女性の家族に反対され、逆上し姉夫婦を殺害し実弟に重傷を負わせた[1]。
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浜松義妹殺害事件 (I) |
1970年2月20日 |
1968年1月10日 |
犠牲者1人。死刑執行日は不明。
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町田署警察官殺害事件 (O) |
1970年3月26日 |
1967年10月5日 |
愛人と無理心中するため、交番勤務の警察官を殺害し、拳銃を強奪[2]。死刑執行日は不明。
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福岡2人連続殺傷事件 (K) |
1970年3月26日 |
1966年・1967年 |
一審は無期懲役。福岡現金輸送車職員毒殺事件のT死刑囚と同じ1975年10月3日に死刑執行予定であったが、当日Tが自殺したため延期。2日後の1975年10月5日に死刑執行(37歳没)。
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三原食堂女主人強盗殺害事件 (H) |
1970年5月 |
1963年1月20日 |
殺人前科に余罪多数。1965年に留置場から脱獄しその際窃盗や傷害の余罪を起こし別件で懲役15年が確定。1975年死刑執行(38歳没)。
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弘前宝石商殺害事件 (N) |
1970年4月16日 |
1967年8月10日 |
共犯は無期懲役、死刑執行日は不明。
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北海道知人強盗殺人事件 (N) |
1970年6月 |
1968年10月19日 |
控訴取り下げにより死刑確定。死刑執行日は不明。
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秋田県五城目町夫婦殺害事件 (I) |
1970年6月11日 |
1968年7月23日 |
強盗に入りマサカリで夫婦を撲殺し金品を奪った[3]。
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女性美容師殺害事件 (S) |
1970年8月20日 |
1967年1月26日 |
犯行時19歳(少年死刑囚)。一審は無期懲役。内縁の妻がいるのに、結婚すると騙して金をとった女性が邪魔になった為、連れ出した矢板市で殺害し、死体を玉川上水に遺棄した[4]。1968年に一時脱走の前科あり。
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日暮里用務員夫婦殺害事件 (T) |
1970年9月22日 |
1966年8月10日 |
一審は無期懲役。死刑執行日は不明。
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マルヨ無線事件 (O) |
1970年12月12日[5] |
1966年12月5日 |
1946年(昭和21年)9月19日生まれ。2020年9月27日時点で福岡拘置所に収監中(現在78歳)。 1968年12月24日に福岡地裁第2刑事部で死刑判決[事件番号:昭和42年(わ)第25号]。1970年3月20日に福岡高裁第3刑事部で控訴棄却判決[事件番号:昭和44年(う)第64号]を、同年11月12日に最高裁第一小法廷(入江俊郎裁判長)[12]で上告棄却判決を受け、同年12月12日に死刑が確定した[5]。 被害者の死因の1つとされる放火を否認して再審請求中。死刑確定後の収監年数(53年10か月と5日 )は、帝銀事件の平沢貞通[注 1](32年)を上回る世界記録。
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栃木連続少女殺害事件 (U) |
1970年12月15日 |
1962年・1963年 |
殺人前科あり(懲役8年)。死刑執行日は不明。
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1971年死刑確定囚(7人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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横浜団地主婦殺害事件 (W) |
1971年2月23日 |
1967年6月9日 |
死刑執行日は不明。
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静岡同僚妻殺害放火事件 (M) |
1971年3月9日 |
1967年4月29日 |
死刑執行日は不明。
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横須賀線電車爆破事件(純多摩良樹) |
1971年4月22日 |
1968年6月16日 |
犠牲者1人。本名はW。獄中で「純多摩良樹」の筆名で短歌を寄稿。1975年12月5日、宮城刑務所で死刑執行(32歳没)。純多摩の希望により遺骨は支援者の牧師が預かったが、1995年、遺族により遺骨が引き取られ、短歌新聞社より歌集『死に至る罪―純多摩良樹歌集』 が刊行された。
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新潟デザイナー誘拐殺人事件 (Y) |
1971年6月1日[14] |
1965年1月13日 |
犯行手口が映画『天国と地獄』に似ているとして注目された[14]。 1966年2月28日に新潟地裁(石橋浩二裁判長)で死刑判決を受け[15]、1968年12月19日に東京高裁第4刑事部(久永正勝裁判長)で控訴棄却の判決を受けた[16]。1971年5月20日に最高裁第一小法廷(藤林益三裁判長)で上告棄却の判決を受け[17]、同年6月1日に死刑が確定[14]。 死刑確定後の1977年5月21日、収監先・東京拘置所の独房で窓ガラスを割り、その破片で首を切って自殺(36歳没)[14]。
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栃木呉服店一家3人強盗殺人事件 (M) |
1971年8月17日 |
1969年1月3日 |
犯行当時19歳(少年死刑囚)。死刑執行日は不明。
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横浜母子強盗殺人事件 (H) |
1971年10月26日 |
1967年3月14日 |
1975年12月7日に死刑執行(37歳没)。
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愛知義妹夫婦殺害事件 (F) |
1971年12月21日 |
1969年2月20日 |
1976年に死刑執行。
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1972年死刑確定囚(7人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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京都幼稚園管理人夫婦強盗殺傷事件 (A) |
1972年2月22日 |
1966年6月11日 |
無期懲役仮出獄中。1976年に死刑執行。
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愛知母親・長崎少女連続殺人事件 (K) |
1972年4月20日 |
1969年4月19日 1969年5月26日 |
1976年9月2日に死刑執行。
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名張毒ぶどう酒事件(奥西勝) |
1972年7月5日[18][19] |
1961年3月28日 |
1926年(大正15年)1月14日生まれ[20]。 確定判決によれば1961年3月28日、三重県名張市葛尾の集落で開かれた懇親会の酒席で振る舞われたワイン(ぶどう酒)に農薬「ニッカリンT」を混入し、そのワインを飲んだ集落の女性17人を中毒症状に陥らせ、5人を死亡させたとされる[22]。 1964年12月13日、津地裁[23](小川潤裁判長[22])で証拠不十分として無罪判決を受けた[23]。しかし検察側が控訴したところ、1969年9月10日に名古屋高裁刑事第1部(上田孝造裁判長)[注 2]で原判決を破棄され、有罪として死刑判決を受けた[22]。 1972年6月15日に最高裁第一小法廷(岩田誠裁判長)で上告棄却判決を受けた[24]。判決訂正申立も同年7月4日付で同小法廷が出した決定[事件番号:昭和47年(み)第8号]によって棄却され[25]、翌5日付で死刑が確定[18][19]。第一審の無罪判決が控訴審で死刑に逆転した例は、最高裁によれば1958年(昭和33年)以降では初で[22]、その死刑判決が確定した事件も戦後初である[24]。 死刑確定後は無実を訴えて再審請求を繰り返し、2005年4月には第7次再審請求が認められたが、検察の異議申し立てにより2006年12月に再審開始取り消し決定がなされた。最高裁で2010年4月に名古屋高裁への差し戻し決定がなされるも、その後も再審は認められなかった。 第9次再審請求中の2015年10月4日に八王子医療刑務所で病死(89歳没)。死後、2015年11月6日に実妹が第10次再審請求。
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東北大学女子職員殺害事件 (K) |
1972年6月27日 |
1969年9月1日 |
事件当時19歳6か月(少年死刑囚)。 事件当日夜、宮城県亘理郡山元町の町道で東北大学農学研究科職員の女性(20歳)を襲い[27]、背後から左手を首に巻き付けて後方に引き寄せ、所携の小刀を女性の背中に数回突き刺すなどして強姦し、失血死させた。 第一審・仙台地裁は1971年1月28日に無期懲役判決を言い渡したが、控訴審・仙台高裁は1971年8月3日に逆転死刑判決を宣告[27]。1972年(昭和47年)6月27日に最高裁第三小法廷で上告棄却判決を受け死刑確定。 1976年に宮城刑務所で死刑執行。
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藤沢市女子高生殺害事件 (S) |
1972年7月18日 |
1967年1月13日 |
1941年(昭和16年)7月10日生まれ[32](出身地:岩手県西磐井郡花泉町[注 3])[33]。強盗強姦・窃盗・傷害の罪により懲役刑に処された前科がある[32]。 神奈川県藤沢市内で帰宅途中の女子高生(事件当時19歳・神奈川県立湘南高等学校定時制4年生)[34]を襲い、強姦した上で絞殺し、死体を被害者宅近くの宅地造成地に埋めた[35]。 第一審・横浜地裁第3刑事部[32](赤穂三郎裁判長)は死刑求刑に対し、1969年3月18日に無期懲役判決を言い渡したが[36]、控訴審・東京高裁刑事第5部(吉川由己夫裁判長)[35]は1971年(昭和46年)11月8日に逆転死刑判決を宣告[37]。1972年(昭和47年)7月18日に最高裁第三小法廷(田中二郎裁判長)で上告棄却の判決を受け死刑確定[38]。 死刑確定後も再三にわたり再審請求を繰り返したが、確定から10年4か月後の1982年11月25日に東京拘置所で死刑執行(41歳没)。拘置所長から死刑執行を宣告された際には激しく抵抗し、刑場で刑務官たちと格闘を繰り広げた。
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戸田一家4人殺害事件 (H) |
1972年8月1日 |
1970年8月9日[43] |
埼玉県戸田市下笹目3271番地の実兄(当時40歳)宅を襲撃し[43]、一家4人(兄と37歳の妻、12歳長男、7歳次男)をまき割で殴殺、妻に乱暴した事件[44]。1972年7月17日に浦和地裁(石橋浩二裁判長)で死刑判決を受けた[43]。控訴期限の7月31日までに控訴せず、死刑が確定[44]。1976年4月27日に死刑執行。
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尼崎母娘強盗殺人事件 (M) |
1972年12月8日 |
1969年4月5日 |
強盗殺人未遂前歴(中等少年院送致)。1976年4月23日に死刑執行。
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1973年死刑確定囚(5人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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連続女性誘拐殺人事件(大久保清) |
1973年3月9日[45] |
1971年3月31日 - 5月10日[46] |
1935年(昭和10年)1月17日生まれ、群馬県碓氷郡八幡村(現:高崎市八幡町)出身。1971年3月から5月にかけ、群馬県(多野郡新町・高崎市・前橋市・伊勢崎市・藤岡市)で、女子高生やOLら若い女性8人を次々と言葉巧みに誘い出して殺害、遺体はすべて土中に埋めた[49]。この他、富岡市で起こした強姦・強姦致傷の余罪1件がある[51]。その巧妙で残虐な犯行手口から、事件当時は「第二の小平事件」と世間を震撼させた[49]。 強姦致傷、強姦、殺人、死体遺棄の罪に問われ、1973年2月22日に前橋地裁(水野正男裁判長)で死刑判決を受けた[52]。同年3月8日の控訴期限までに控訴しなかったため、死刑が確定[53]。 1976年1月22日に東京拘置所で死刑執行(41歳没)[49]。死刑確定から2年10か月後の死刑執行であり、当時は「スピード執行」と報じられた[49][54][55]。
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福岡農協強盗殺傷事件 (A) |
1973年3月2日 |
1967年6月20日 |
1976年9月2日に死刑執行。
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富山少女殺害事件 (T) |
1973年10月18日 |
1970年3月29日 |
1977年に死刑執行。
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山口県徳山市家政婦殺害事件 (B) |
1973年9月27日 |
1967年11月11日 |
上告棄却。Bは仲間D(無期)と共謀し女性金融業者宅に押し入り金融業者の悲鳴を聞いた家政婦を殺害、金融業者の手足を縛り銀行に電話をかけさせ約42万円を届けさせそれを奪取。逃亡時にBは金融業者の首を縛った。彼女は命は助かったものの全治7か月の重傷であった[56]。1978年に死刑執行。
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神奈川3人連続毒殺事件 (H) |
1973年12月13日 |
1969年12月 |
上告棄却。金欲しさのため友人三人を次々と毒殺。犯行を隠すため放火もした[57]。最高裁は1974年2月に判決訂正申立棄却。
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1974年死刑確定囚(2人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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大田原女性セールスマン殺害事件 (M) |
1974年7月 |
1971年8月2日[58] |
栃木県大田原市下石神の自宅で、母親と共謀し、呼び出した知人女性(当時44歳:ポーラ化粧品大田原営業所長)をナタで撲殺し、現金13,000円を奪った[58]。 一審は無期懲役だったが二審で逆転死刑。上告取り下げにより死刑確定。 1975年9月5日未明、収監先の東京拘置所の独房内で、シーツで首を吊って自殺(34歳没)[58][59]。
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沼津金融業者殺害事件 (W)[60] |
1974年12月20日 |
1969年2月 |
1936年(昭和11年)2月9日生まれ。 静岡県沼津市で1969年[60]、共犯2人とともに、金融業者を誘い出し睡眠薬を飲ませ絞殺。死体を箱根山中に埋めた。 逮捕後、贖罪のために獄中で考案した排気ガス浄化装置が、特許庁から実用新案として認められ、「発明家死刑囚」として話題になった[60]。 1971年7月16日に静岡地裁沼津支部で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1972年12月6日に東京高裁第7刑事部で控訴棄却の判決を言い渡されている。 1974年12月20日に最高裁第二小法廷(吉田豊裁判長)で上告棄却の判決を受け、死刑が確定(当時38歳)[60]。1977年に死刑執行。
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1975年 - 1979年
1975年死刑確定囚(2人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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山口県由宇町2女性強盗殺傷事件 (H) |
1975年5月27日 |
1966年10月7日 |
1936年(昭和11年)8月3日生まれ。 金に窮して自暴自棄になったことから、登山用ナイフ(刃渡り約14 cm)を用いた強盗殺人を計画。1966年10月7日、山口県玖珂郡由宇町(現:岩国市)の民家に侵入し、家人である男性の妻(当時26歳)と祖母(当時79歳)を襲撃した。2人にナイフを突きつけて脅し、現金3,000円を奪った上で相次いで2人の首を絞め、祖母を殺害した。妻は殺し損ねたものの、彼女を強姦しようとしたが、「妊娠中だからやめて」と告げられて嫌悪の情を感じ、欲情が減退したため目的を遂げなかった。 住居侵入、強盗殺人、同未遂、強盗強姦未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反の罪に問われ、1968年11月21日に山口地裁岩国支部で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1972年7月28日に広島高裁第4部で控訴棄却の判決を言い渡された。 1975年(昭和50年)5月27日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定。 1983年11月29日に死刑執行。
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木曽川アベック殺人事件 (O) |
1975年10月3日 |
1973年2月4日 - 5日[68] |
1938年(昭和13年)10月20日生まれ、仮枠大工(事件当時34歳)。山口県下関市生まれ。 大工仲間の男2人(当時30歳のX、23歳のY)と共謀し[71]、1973年2月4日に愛知県尾西市の木曽川河川敷(Oらが働いていた建設現場近く)にいた面識のない男女2人(ともに当時19歳)を襲撃、OがXとともに男性を登山ナイフで刺殺した[68]。男性の遺体はその後、尾西市富田の富田山公園付近(木曽川左岸の旧堤防と新堤防の間)で発見されており、事件当時乗っていたオートバイも同公園で発見されている[72]。 その後、3人は女性を労務者宿舎に連れ込んでかわるがわる乱暴した上、翌5日未明に絞殺した[68]。同日朝、宿舎に出勤してきた男Z(当時31歳)を脅して3人でZの運転する車に乗り[71]、女性の死体を岐阜県各務原市須衛の通称「大平山」頂上付近の山林(標高約150 m、東海自然歩道の一部)に遺棄した[72]。その後、Oら殺人に関わった3人と、女性の死体遺棄に関与したZの計4人が逮捕された[71]。 Oら3被告人は殺人・強姦・死体遺棄の罪に問われ、検察官はO・Xの両被告人に死刑、被告人Yには懲役15年をそれぞれ求刑[73]。1973年10月24日、名古屋地裁一宮支部(服部正明裁判長)は主犯Oを死刑、Xを無期懲役、Yを懲役12年とする判決を言い渡した[73]。同地裁支部はXについては「Oに追従した犯行で、悪質だが死刑を科するほどではない」と無期懲役を[74]、Yも女性殺害をやめるよう2人に働きかけたものの、Oの強引な性格に引っ張り込まれたことを考慮し[75]、「犯行が軽い」と懲役12年を適用していた[74]。名古屋地裁管内における死刑判決は、妻の妹夫婦をハンマーで撲殺した男に対し、名古屋地裁が1970年2月に言い渡して以来だった[75]。 O・Xの両被告人は量刑不当を主張して控訴した一方、名古屋地検もXを死刑にすべきとして控訴した。Yも量刑不当を理由に控訴したが、まもなく取り下げ、懲役12年の刑が確定[68]。1974年7月4日、名古屋高裁刑事第2部(小淵連裁判長)は控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した[74]。Xは控訴審で無期懲役が確定[68]。 Oは上告したが、1975年10月3日に最高裁第二小法廷(大塚喜一郎裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、一・二審の死刑判決が確定[68]。 名古屋拘置所に収監されていたが[68]、1977年に死刑執行。
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1976年死刑確定囚(2人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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ピアノ騒音殺人事件 (O) |
1976年10月5日 |
1974年8月28日 |
1928年(昭和3年)6月4日生まれ。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在96歳)。2018年6月時点で、日本における収監中の死刑囚としては最高齢[77]。 騒音トラブルの末に隣人の母子を殺害。 1975年10月20日に横浜地裁小田原支部で死刑判決を受けた。1976年10月5日付で控訴を取り下げ、死刑が確定。
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波崎事件 (T) |
1976年4月1日 |
1963年8月26日 |
1917年(大正6年)4月26日生まれ(事件当時46歳)。 1971年12月24日に水戸地裁土浦支部(田上輝彦裁判長)で死刑判決を受け、1973年7月6日に東京高裁(堀義次裁判長)で死刑判決(破棄自判)。 1976年4月1日に最高裁第一小法廷(藤林益三裁判長)で上告棄却判決を受け死刑が確定。 物証・自白とも一切なく、再審請求中の2003年9月3日に東京拘置所で病死(86歳没)。
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1977年死刑確定囚(2人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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沖縄県名護市一家3人殺傷事件 (O) |
1977年6月2日 |
1973年3月30日 |
1942年(昭和17年)3月30日生まれ(事件当時31歳)。本籍地は沖縄県国頭郡今帰仁村。 沖縄県名護市字古我地嵐山原630番地の1[注 4]にあった義父宅で、義母(当時47歳)と義弟(同19歳)の2人をステンレス製料理用包丁(刃体の長さ約26 cm)で刺殺し、義父(当時62歳)も包丁で刺し殺そうとして2か月の怪我を負わせた。また、同住宅に放火する目的で、付近の藪の中にポリ容器入りのガソリンを隠していた。 動機は自身の不倫から妻に家出され、義父母に乱暴な振る舞いをしたことから離婚話が出たところ、それを逆恨みしたものだった。事件から3日後の4月2日、現場から約19 km離れた名護市瀬嵩の空き家で逮捕された[89]。 放火予備、殺人、同未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、窃盗の罪に問われた。同年6月4日に名護警察署から尊属殺人罪で那覇地検へ送検されていたが、尊属殺人重刑を規定していた刑法第200条について最高裁大法廷で違憲判決が下っていたため、通常の殺人罪(刑法第199条)で起訴された事件としても注目された[91]。 1974年(昭和49年)3月12日、那覇地裁刑事第2部(玉城栄助裁判長)で死刑判決を受けた[91]。戦後、那覇地裁における死刑判決は(アメリカ統治時代を含めて)Oが7人目で、1972年の日本復帰後では2人目だった[注 5][92]。 1976年(昭和51年)1月19日、福岡高裁那覇支部(高野耕一裁判長)で控訴棄却の判決を受けた[96]。 1977年(昭和52年)4月26日に最高裁第三小法廷(服部高顕裁判長)で上告棄却の判決を受け[97][98][99]、同年6月2日付で死刑が確定。 1980年12月16日に福岡拘置支所[注 6]で死刑執行(38歳没)。
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北九州組員4人連続殺人事件 (K) |
1977年6月7日 |
1975年6月4日 1975年6月17日 |
1945年(昭和20年)4月12日生まれ[注 7](事件当時30歳)。暴力団合田一家3代目「小桜組」組員。 福岡刑務所に服役中[注 8]、同じ作業所で働いていた男性(事件当時46歳)[注 9]の紹介を受け、1975年4月24日に仮出所すると翌日に「小桜組」に入った。知人男性宅(福岡県北九州市小倉南区城野一丁目のマンション)で男性夫婦と同居して覚醒剤の密売を始めたが、男性の内妻(当時34歳)[注 10]と不倫関係になり、それを巡って男性とトラブルになったことで本事件を起こした(強盗殺人・殺人・銃砲刀剣類所持等取締法違反・火薬類取締法違反)。
- 1975年6月4日に服役中に知り合った知人男性(当時46歳)とその内妻(同34歳)を脇差で刺殺し、知人所有の宝石類等28点と約束手形3通(額面:各200万円)を強取した。
- 同月17日、北九州市戸畑区正津町にて2件の殺人事件。覚せい剤の密売で協力しあっていた知人男性(28歳)が金銭関係の清算に応じなかったことから、この知人を拳銃で射殺したほか、偶然逃走中に出会った女性(28歳)に匿ってもらうよう頼んだが、断られたため拳銃で射殺した。
このほか殺人未遂・公務執行妨害1件[注 11]、覚醒剤取締法違反2件を犯した。 1977年3月30日に福岡地裁小倉支部で死刑判決を受け、同年6月7日に控訴を取り下げたことで死刑が確定。 1978年11月16日に福岡拘置支所で死刑執行(33歳没)。
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1978年死刑確定囚(4人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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正寿ちゃん誘拐殺人事件 (K) |
1978年1月5日 |
1969年9月10日 |
1950年(昭和25年)8月28日生まれ。犯行時19歳の少年死刑囚。 金のある質屋の子供を誘拐して身代金を得ようと考え、東京都渋谷区内で当時6歳の男児(広尾小学校1年生・渋谷区恵比寿在住)を身代金目的で誘拐し、渋谷区東三丁目の公衆便所内にて繰り小刀で刺殺した。その後、男児の死体をオープンケースに詰め、これを駅構内の携帯品一時預かりところに預けて遺棄したほか、男児の実家(質屋)に電話を掛けて身代金500万円を要求した(殺人・死体遺棄・身代金目的拐取および要求)。このほか身代金目的拐取予備1件・器物損壊2件・恐喝未遂1件・現住建造物放火未遂1件の余罪あり。 1972年(昭和47年)4月8日に東京地裁刑事第12部で死刑判決を受け、1976年(昭和51年)7月20日に東京高裁第8刑事部で控訴棄却判決を受けた。 1977年(昭和52年)12月20日に最高裁第三小法廷で上告棄却判決を受け、翌1978年(昭和53年)1月5日に死刑が確定。1979年に東京拘置所で死刑執行(29歳没)。
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東京連続少年誘拐殺人事件 (K) |
1978年2月9日 |
1965年1月22日 1970年10月17日 |
1925年(大正14年)5月31日生まれ(2. の事件当時45歳)。海軍軍楽隊当時、上官から求められて同性愛行為の間柄となったことを契機に、終戦後にはバンド仲間や家出少年、勤務先の工場付近で遊んでいた中学生などと同性愛行為を繰り返し、1962年(昭和37年)6月には中学生の裸体写真を撮影したことが発覚して警察署で取り調べを受けたこともあった[注 12]。
- 1965年(昭和40年)1月22日19時ごろ、東京都小金井市中町で帰宅途中に偶然見かけた小学校6年生の男児(12歳)を「いずれ将来は同性愛行為の対象にしよう」と考え、男児と親しくなるつもりで連れ出した。しかし19時30分ごろ、自身が経営していた工場事務室(東京都三鷹市井口)に男児を連れ込んだところ、不安を感じた男児が逃げ出そうとしたため、抱きかかえて工場材料置き場に連れ込もうとしたが、さらに逃げようとした上に大声で騒いだため、これを従業員に気づかれたり、男児を連れ込んだことが警察に露見したりすることを恐れ、男児の殺害を決意。男児の首を荷造り用の紙紐で縛り、同工場または埼玉県狭山市大字根岸の山林内(もしくはその山林に向かう途中の自動車内)で絞殺した。犯行後、自分の工場の空き地で犯行に使用した紙紐や被害者の着衣・鞄などを焼却した。
- 1. の事件後、経営していた工場が経営不振で倒産したため、台東区内の土木建築業者で手配師として働き、山谷で労働者を集めていた。そのような中、小学校3年生の男児(当時8歳)と自身の趣味の話がきっかけで親しくなっていた。1970年(昭和45年)10月17日13時ごろ、男児から頼まれて自身の運転する自動車に同乗させたが、男児が自身を信用しきっていることにつけ込み、荒川河川敷に連れ込んで同性愛行為をしようと決意。荒川河川敷(埼玉県和光市大字下新倉)までわいせつ目的で男児を誘拐し、駐車中の社内で男児の体を触ったが、男児から拒絶され「両親に言いつける」などと言ったり、付近の自動車教習所を見て助けを求めようとする素振りを見せたため、口封じのため殺害を決意。14時30分ごろ、男児の首を強く絞め、鼻を塞いで気絶させたが、男児が死亡したと思って遺棄しようとしたところ、急に男児が起きて「おじさん、僕を殺すのか」と言ったため、車から持ってきた電工用ナイフ1丁(刃体の長さ約8.5 cm)で首を切りつけ、左胸(心臓)を2回刺して殺害。
事件後、警察庁は同じ誘拐であっても営利目的と比べわいせつ目的は罪が軽いとして、罰則強化に向けた検討を行った[123](結果的に変わらず)。
1973年1月31日に東京地裁刑事第11部で死刑判決を受け、1976年10月7日に東京高裁第8刑事部で控訴棄却判決を受けた。 1978年1月26日に最高裁第一小法廷で上告棄却判決を受け、同年2月9日付で死刑が確定。1981年1月に東京拘置所で死刑執行(55歳没)。
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愛知県武豊町一家3人強盗殺人事件 (O) |
1978年5月4日 |
1971年5月1日 |
1931年(昭和6年)12月9日生まれ(事件当時39歳)。 事業に失敗し、新たに砂利採取業を始めようとした1971年春、愛知県知多郡武豊町冨貴の男性(当時61歳)が山林約30,600 m2(当時の時価総額約2億5,000万円)を売りに出したことを知り、男性を殺害して財産を奪うことを決意[127]。 同年5月1日19時ごろ、土地の売買を装って男性宅を訪れ、男性と彼の内妻(当時44歳)を金槌で撲殺。偶然遊びに来ていた内妻のいとこの女性(当時24歳)も居間で絞め殺し、3人の遺体を全裸にした上で庭の下水用水槽に投げ込み、上からセメントを流し込んでコンクリート詰めにした[127]。 その後、男性宅にあった現金187,000円、預金通帳(残高43万円余)、不動産権利書16通、実印、株券、指輪などを盗み、預金を全額下ろした[127]。また、自らの経営する共和電解工業と男性との間で山林の売買契約が成立したように装い、移転登記も済ませた[127]。被害者3人の遺体は約8か月後に発見された[127]。 強盗殺人、死体遺棄、窃盗、有印私文書偽造・同行使、詐欺、公正証書原本不実記載・同行使の罪に問われた。逮捕当時から主犯は別人と主張。公判でも「殺害実行犯は『平山』という別人の男で、自分は遺体を埋めただけだ」と主張し[128]、公判中にも逃亡を図ったが、1974年5月20日に名古屋地裁刑事第2部(藤本忠雄裁判長)でOの単独犯と認定され、求刑通り死刑判決を受けた[127]。1975年4月21日、名古屋高裁刑事第1部(平野清裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡されている[129]。 1978年4月17日に最高裁第一小法廷(岸盛一裁判長)で上告棄却の判決を受け[130]、同年5月4日付で死刑が確定。 1985年5月31日に名古屋拘置所で死刑執行(53歳没)[131][132]。
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松井田町2女性殺害事件 (N)[133] |
1978年7月12日 |
1968年9月9日 1971年3月11日 |
1930年(昭和5年)10月3日生まれ(1. の事件当時37歳)。 過去に詐欺1回・強盗および窃盗1回の前科あり。強盗および窃盗の罪で服役後、1967年12月に仮出所した。事件当時は群馬県碓氷郡松井田町上増田(現:安中市松井田町上増田)で農業を営んでいたが[137]、以下の2事件(強盗殺人・死体遺棄・死体損壊)を起こしたほか、群馬県(安中市・高崎市)および埼玉県熊谷市で、1971年7月から1972年1月までの間に詐欺4件(被害額41万円)を犯した[137]。
- 仮釈放中の1968年9月9日、前刑(窃盗)の被害者である44歳女性宅を訪れ謝罪したところ、女性から罵られ、相手にされなかったことに逆上。当時金銭に窮していたこともあって、仕返しを兼ねて女性宅に押し入り、女性の腹を拳で殴るなどの暴行を加えたが、激しく抵抗されたために持っていた手拭いで絞殺。女性のがま口(現金18,000円入り)1個を奪い、また事件の発覚を恐れたことから同日22時ごろには女性の遺体を約1.3 km離れた自分の畑に運び、翌10日夜に埋めた[137]。
- 1. から約2年6か月後の1971年3月11日に発生。服役中に習得したミシンの技能を生かして生計を立てようとしたが、その資金の金策に苦慮していたところ、偶然付近で土地を売って1,000万円以上の大金を得た者がいる旨の話を聞き、その人物から金を奪おうと企てた。事件当日にその人物の家を下見し、翌12日深夜に覆面をして侵入したところ、留守番をしていた女性(当時48歳)と鉢合わせしたため、女性を手および細紐で絞殺して現金28,400円、定期預金証書4通などを強取した。さらに翌13日0時ごろ、死体を山林に運び出して放置し、同日22時30分ごろには死体を運びやすくするため、のこぎりで死体の両足を切断し、15日までに自分の畑に埋めて遺棄した[137]。
その犯行は大久保事件よりも残酷と言われた[140]。捜査段階では犯行を認めていたが、第一審の初公判以降、捜査官から暴行・脅迫を受けて自白したとして、2件の殺人について無罪を主張した[133]。1974年(昭和49年)7月26日、前橋地裁高崎支部(野口仲治裁判長)はNの自白には任意性・信用性があり、一方でNの主張するアリバイは証拠がなく成立しないと認定、死刑判決を言い渡した[137]。当時、同地裁支部では二十数年ぶりの死刑判決だった[137]。 Nは判決を不服として控訴したが[137]、1975年(昭和50年)10月8日に東京高裁第9刑事部(矢部孝裁判長)で控訴棄却判決を言い渡された[141]。 1978年6月22日に最高裁第一小法廷(団藤重光裁判長)で上告棄却判決を言い渡され、死刑が確定[133]。1984年10月30日に東京拘置所で死刑執行(54歳没)。
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1979年死刑確定囚(4人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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大分・福岡女性連続殺人事件 (A) |
1979年1月5日 |
1977年2月28日 1977年3月8日 |
1945年(昭和20年)11月3日生まれ(事件当時31歳)。 大分県別府市と福岡県福岡市で、飲食店経営者の女性とホステスを相次いで殺害した[147]。 強盗強姦・強盗殺人・窃盗・住居侵入の罪に問われ、1978年9月18日に大分地裁(永松昭次郎裁判長)で死刑判決を言い渡された[147]。控訴取り下げにより、1979年1月5日付で死刑が確定。 1985年7月25日に福岡拘置支所[注 6]で死刑執行[131](39歳没)。
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古谷惣吉連続殺人事件(古谷惣吉) |
1979年1月29日 |
1965年 (10月30日ごろ - 12月12日) |
1914年(大正3年)2月16日生まれ(事件当時51歳)。警察庁広域重要指定105号事件[151](8人殺害で起訴)。 1951年に福岡県で2人を殺害して強盗殺人罪で懲役10年に処された前科があり(参照:福岡連続強盗殺人事件)[152]、1964年11月9日に熊本刑務所を仮出所して以降もなお定職に就かず、金銭に窮した末に強盗目的で犯行におよんだ。 1971年4月1日に神戸地裁第二刑事部(中川幹郎裁判長)で死刑判決を受け[155]、1974年12月13日に大阪高裁第5刑事部(本間末吉裁判長)で控訴棄却判決を受けた[157]。 1978年11月28日に最高裁第三小法廷(高辻正己裁判長)で上告棄却判決を受け[158]、翌1979年1月26日付で同小法廷から判決訂正申立棄却決定を[事件番号:昭和53年(み)7号]を受け[159]、同月29日付で死刑が確定。死刑確定後の1982年12月2日、収監先の大阪拘置所で下記Oら死刑囚2人を襲撃する事件を起こしたが、「仮に同事件で起訴されれば古谷は判決が確定するまで死刑執行が見送られる一方、かえって自分たちの死刑執行順位が繰り上がることになる」と恐れた被害者2人が立件を望まなかったため、起訴されなかった。 1985年5月31日に大阪拘置所で死刑執行(71歳没)[131][151]。死刑執行当時の年齢(71歳3か月)は当時、戦後最高裁とされていたが、2006年に死刑を執行された秋山芳光(当時77歳)と、今市4人殺傷事件の藤波芳夫(当時75歳)[163]がこれを更新している。
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芦屋の人妻一家殺傷事件 (O) |
1979年5月31日 |
1976年12月24日[165] |
1943年(昭和18年)10月12日生まれ(事件当時33歳)。 兵庫県芦屋市でタクシー運転手として働いていた1976年、交際していた喫茶店経営者の女性(当時33歳)から冷たくされたことを逆恨みし、彼女の長男(当時8歳)を人質にして手切れ金を奪おうと計画[165]。1976年12月24日8時ごろ、女性宅に上がり込んだところ、1人で留守番していた長男に騒がれたため、タオルで首を絞めて殺害[165]。その後、タンスから現金33万円を盗み、正午近くまで女性の帰宅を待っていたが、たまたま帰宅した夫(当時54歳)に110番通報されそうになったため、文化包丁で刺殺した[165]。 殺人・同未遂、強盗殺人、窃盗の罪に問われたが、神戸地裁尼崎支部は「殺意は偶発的で、責任の一端は相手の女性にもある」として[165]、1977年(昭和52年)3月30日、Oに無期懲役判決を言い渡した。しかし検察官が控訴したところ、同年10月18日に大阪高裁第7刑事部は死刑判決(破棄自判)を言い渡した。Oは1979年4月17日に最高裁第三小法廷(高辻正己裁判長)で上告棄却の判決を受け[165]、同月31日付で死刑が確定。 死刑確定後の1982年12月2日に収監先・大阪拘置所内で、別の死刑囚1人とともに古谷惣吉に襲撃された。1987年9月30日に大阪拘置所で死刑執行[169](43歳没)。
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熊本義兄一家殺傷事件 (K) |
1979年7月30日 |
1970年7月4日[170] |
1927年(昭和2年)2月12日生まれ(事件当時43歳)。 1953年4月に強盗殺人・強盗・窃盗の罪を犯し[注 13]、1954年1月30日付で無期懲役判決が確定[注 14]。熊本刑務所に服役していたが、1968年6月4日に仮釈放された。同年10月に熊本県熊本市内で知り合った女性と結婚したが、2年後に妻が家出した[170]。その原因を妻の姉(義姉)夫婦が離婚させようとしているためだと誤解したことから、1970年7月4日夜、熊本県阿蘇郡高森町高森1246番地(座標)[注 15]の義姉夫婦宅に侵入し、義兄の男性(当時39歳:熊本地方法務局高森出張所長)を包丁で刺殺した上、彼の妻子3人も切りつけて全治1週間 - 半年の怪我を負わせた[170]。また逃走中には同町内の無人の物置に放火し[170]、公判中の1972年1月19日には、拘置先の熊本刑務所京町拘置支所の房内で、主任看守(当時53歳)の顔面を千枚通しの柄で殴りつけ、全治1週間の怪我を負わせる事件も起こしている。 殺人、同未遂、非現住建造物等放火、傷害の罪に問われ、1972年10月26日に熊本地裁刑事第2部で死刑判決を言い渡された。1977年7月27日、福岡高裁第2刑事部で控訴棄却の判決を受けた。 1979年7月10日に最高裁第三小法廷(江里口清雄裁判長)で上告棄却の判決を受け[170]、同月30日付で死刑が確定。 1989年11月10日に福岡拘置支所[注 6]で死刑執行(62歳没)[180][181]。これ以降、日本では1993年3月まで3年4か月間にわたり死刑執行が行われなかった[181]。
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1980年 - 1984年
1980年死刑確定囚(7人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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上野の一家5人殺し (K) [182][183] |
1980年1月5日 |
1974年2月6日[185] |
1934年(昭和9年)4月26日生まれ(事件当時39歳)。下記Tの共犯。裁判経緯はTと同一だが、上告審判決(1979年12月25日)に対し訂正申立をせず、1980年1月5日付で死刑が確定。 1986年5月20日に東京拘置所で死刑執行(52歳没)。
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上野の一家5人殺し (T) |
1980年1月17日 |
1974年2月6日[185] |
1937年(昭和12年)5月12日生まれ(事件当時36歳)。 事件の10年ほど前から、東京都台東区上野七丁目で消火器のセールスマンをしていた義父から得意先500軒を引き継いだが、これを同業者(義父の勤務先であった製作所の経営者)に奪われたことを恨み、1973年12月ごろから、顔見知りで金に困っていた上記Kに強盗殺人の計画を持ちかけた[185]。1974年2月6日15時過ぎ、経営者の男性(当時71歳)宅を訪れ、まず男性と妻(当時69歳)をハンマーで殴ったり、コードなどで首を絞めたりして殺害した[185]。続いて18時40分ごろ、帰宅した三男(当時33歳)と、この家に遊びに来た元従業員の男性(当時26歳)をハンマーで殺害したほか、三男の妻(当時27歳)も両手足を縛り、桶の水に顔を漬けることで窒息死させた[185]。その後、現金84,000円と背広などを奪い、翌7日に逃走した[185]。事件発生当時、東京都内では片岡仁左衛門一家殺害事件(1946年)以来の凶悪犯罪として世間を震撼させたが、Kは同月11日に逮捕され、Tも約1か月後に知人宅に立ち寄ったところを逮捕された[185]。 2人とも刑事裁判では強盗殺人罪などに問われ、Tは基礎事実を認めた一方、弁護人が「犯行当時は心神耗弱状態だった」と主張、Kは殺意などを否認した[185]。しかし1975年12月22日に東京地裁刑事第4部(柳瀬隆次裁判長)で2人とも死刑判決を受けた[185]。東京地裁における死刑判決は、1972年4月に言い渡された正寿ちゃん誘拐殺人事件の第一審判決以来だった[182][185]。 2人とも控訴したが、1977年3月17日に東京高裁第4刑事部(寺尾正二裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[189]。同判決の理由で寺尾裁判長は、「死刑が凶悪犯罪の予防的効果を持つことは科学的に立証されていないが、一般国民は死刑があることによって、本件のような凶悪犯罪が抑止されると思い、日常の行動を規制している。この素朴な国民感情を無視することはできない」と、死刑存続論を述べた[190]。これは、日本の刑事司法に大きな影響を持つと言われる東京高裁の裁判官による意見として注目された[190]。 2人とも1979年12月25日に最高裁第三小法廷(環昌一裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[183][191]。Tは1980年1月16日付で同小法廷から判決訂正申立棄却の決定を受け[192]、翌17日付で死刑が確定。 1986年5月20日に東京拘置所で死刑執行(49歳没)。
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銚子民宿母子殺害事件 (Y) |
1980年3月22日 |
1976年6月14日[193] |
1952年(昭和27年)5月10日生まれ(事件当時24)。福島県須賀川市古屋敷生まれ[195]。 逮捕当時は土木作業員で前科1犯[196]、逮捕歴3回[195]。 Yは中学卒業直前の1968年2月20日[注 16]、福島県須賀川市で母方の叔父の三男である従弟の男児(当時2歳)を殺害し、義理の叔母(当時36歳)を強姦しようとする事件を起こしていた[199]。Yは同日11時ごろ、従弟を殺害し[注 17]、死体を肥溜めに遺棄した[200]。その直後、叔父宅に戻ったYは在宅していた義理の叔母(当時36歳)を乱暴しようとしたが、叔母から厳しくたしなめられたことに逆上し、顔などを殴りつけて1週間の怪我を負わせた上、台所から包丁を持ち出して約30分間、逃げ惑う叔母を山林などで追いかけ回した[200]。その後逃走したが、翌21日未明に殺人・死体遺棄・傷害・暴行未遂容疑で緊急逮捕され[200]、同年3月21日に福島家裁白河支部で医療少年院送致の処分を受けた[201]。同年4月3日から盛岡少年院に入院したが、約7か月後の同年11月15日に仮退院した。 退院後は東京で溶接見習い工、運転助手など職を転々としており、1972年には母親の口利きで事件当時勤めていた建設会社に就職したが[197]、同年10月23日には東京都内(王子警察署管内)で強盗未遂事件を起こして逮捕され、懲役3年6月の実刑判決を受けた[201](住居侵入・準強盗の罪)。黒羽刑務所に服役し、1976年4月6日に出所後、逮捕前と同じ建設会社に雇われていた[197]。 事件現場は千葉県銚子市川口町2丁目の民宿で、被害者は旅館の主人の義理の娘A(当時24歳:主人の長男の妻)と、長男夫婦の長女B(生後2か月:主人の孫)である[注 18][203]。Yは現場の民宿付近で行われていた銚子漁港整備事業(燃料タンク基礎工事)に携わっており、事件前夜から同僚3人とともに現場の民宿に投宿していたが、同僚たちが寝静まった隙にAに乱暴しようと2階に上がった[196]。しかし物音でAに見つかったため、そばにあった置き時計で顔を殴って乱暴した後、室内の電気コードで首を絞めて殺害した[196]。その際[196]、Aと一緒にいたB[204]が泣き出したため、発覚を恐れて手で首を絞めて殺害し[196]、2人の死体を住宅2階の押し入れに隠した[203]。当時、同僚たちは熟睡していたため、Yの犯行に気づかなかった[196]。 強姦致傷・殺人・窃盗の罪に問われ、1977年3月24日に千葉地裁第2刑事部(森岡茂裁判長)で死刑判決を受けた[193]。1979年3月15日、東京高裁第8刑事部(西村法裁判長)で控訴棄却判決を受けた[204]。 1980年3月11日に最高裁第三小法廷(横井大三裁判長)で上告棄却の判決を受け[205][206]、同月22日付で死刑が確定。 1987年9月30日に東京拘置所で死刑執行[169](35歳没)。
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福島連続保険金殺人事件 (K) |
1980年5月21日 |
1970年7月28日 1971年5月20日 |
1937年(昭和12年)11月20日生まれ(事件当時33歳)。本籍地および住居は西白河郡表郷村(現:白河市)で、同村で農業を営んでいた[208]。 1970年 - 1971年にかけ、福島県で雑貨商と材木商の2人を殺害した罪に問われた[209]。1970年に福島県で知人と共謀し、交通事故を偽装した保険金殺人を犯したほか、さらに別の男性を殺害して金を奪った[210]。強盗殺人の被害者は表郷村の材木商男性(当時44歳)、保険金殺人の被害者は東白川郡棚倉町の雑貨商男性(当時42歳)で[208]、後者はKらの知人であった[211]。 Kは強盗殺人・殺人・死体遺棄の罪に[212]、共犯の男は殺人・現住建造物等放火・詐欺の罪にそれぞれ問われ[213]、「県内の犯罪史上まれな凶悪犯罪を重ねた」と評された[214]。 1974年3月29日、福島地裁白河支部(磯部喬裁判長)でKは死刑、共犯の男は無期懲役(いずれも求刑通り)の判決を言い渡された[注 19][208]。2人とも控訴したが、1977年6月28日に仙台高裁第2刑事部(三浦克己裁判長)で控訴棄却の判決を受けている[211]。 1980年4月25日に最高裁第二小法廷(栗本一夫裁判長)で上告棄却判決を受けた[215][212]。同年5月19日付で同小法廷から判決訂正申立棄却の決定を受け[216]、同月21日付で死刑が確定したが、雑貨商については事故死を主張し[209]、計4回にわたり自力で再審請求していた。 1993年3月26日に宮城刑務所(収監先・仙台拘置支所に隣接。刑場は宮城刑務所にある)[注 20]で死刑執行(55歳没)[210][209]。 雑貨商殺害事件の共犯は一・二審とも無期懲役の判決を受け、1980年4月23日付で最高裁第二小法廷(栗本一夫裁判長)から上告棄却の決定を受けた[213]。同決定に対する異議申立も同年5月13日付で棄却され[217]、無期懲役が確定している[215]。
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徳島県上那賀町母娘殺害事件 (M) |
1980年8月11日[218] |
1976年3月12日[219] |
徳島県那賀郡上那賀町拝宮(現:那賀町拝宮)生まれ[220]。逮捕当時23歳[221]。 窃盗の前刑服役を終えて3か月後の[220]1976年3月12日夜[219]、上那賀町拝宮[221](自宅近所[219])で建設作業員の女性(当時46歳)とその次女(同19歳)の母娘が住む家に侵入[221]。就寝中の母娘の首を鯵切り包丁で刺して殺害した上[219]、整理タンスから現金35万円[注 21]を奪ったほか、次女を殺害後に乱暴した[221]。遊興費欲しさに母娘を殺害した上で情欲を満たしたものである[220]。同事件発覚から3日後の3月16日未明、那珂郡木沢村沢谷(現:那賀町沢谷)でタクシー強盗をしたほか、沢田郵便局に侵入して同局に勤務する近隣住民の次男を略取し、約6時間にわたって車に籠城した[221]。 事件当時、「県史上まれにみる凶悪事件」として徳島県民の注目を集めた[220]。強盗殺人・強盗婦女暴行、未成年者略取[221]など8つの罪に問われ[220]、検察官からは死刑を求刑されたが[222]、1978年6月29日に徳島地裁(安芸保寿裁判長)で無期懲役の判決を言い渡された[220]。同地裁は弁護人の「心神喪失もしくは心神耗弱」との主張を退けたが、犯行は幼児期のてんかんが心理的・生物的に影響して性格を歪めた結果、自己防御・統制力を失ったと認定し、矯正可能性の存在やMが深く反省していることを理由に無期懲役を選択した[220]。 検察官が同月7月10日、量刑不当を理由に高松高裁へ控訴[220]。1980年7月22日、高松高裁(桑田連平裁判長)は原判決と同じく持病と犯行の因果関係を否定した上で、「犯行は残虐非道で人格矯正も難しい」との理由から原判決を破棄し、Mに死刑判決を言い渡した[218]。上告したが後に取り下げ、同年8月11日付で死刑が確定[218]。 1988年6月16日に大阪拘置所で死刑執行(35歳没)[223]。
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寝屋川夫婦殺害事件 (W) |
1980年11月26日 |
1975年8月23日 |
1926年(昭和元年)3月27日生まれ(事件当時49歳)。元タクシー運転手[225]。 失業保険金32万円を不正受給していたことが発覚し、その返済を迫られたことから強盗を計画[225]。タクシーの客が置き忘れた鍵を用い、1975年8月23日未明、手斧を持って三井団地(大阪府寝屋川市三井ヶ丘四丁目)A79棟108号室に押し入り、就寝中だった住人の男性(当時26歳)とその妻(当時22歳)を滅多打ちにして殺害(妻は同朝、夫も翌24日に死亡)[225]。被害者2人は新婚夫婦だった[226]。 詐欺・住居侵入・強盗殺人・遺失物横領・窃盗の罪に問われ、1977年9月6日に大阪地裁第4刑事部(尾鼻輝次裁判長)で死刑判決を言い渡された[225]。 控訴審では「室内を物色中に被害者に見つかり、逃げようとして夢中で手斧を振るったもので、殺意はなかった」「犯行時は日本酒2升、ビール1リットルを飲んでおり、心神喪失状態だった」と主張したが、1978年3月31日、大阪高裁(瓦谷末雄裁判長)で控訴棄却の判決を受けた[227]。同高裁は、犯行前に予め手斧を用意した計画性を認定した上で、Wは酒が強く、犯行時も犯行の隠蔽工作をするなどしていたことを指摘し、心神喪失の主張を退けた[227]。 1980年11月6日に最高裁第一小法廷(団藤重光裁判長)で上告棄却の判決を受けた[226][228]。同年11月25日付で判決訂正申立棄却決定を受け[229]、翌26日付で死刑が確定。 1988年6月16日に大阪拘置所で死刑執行(62歳没)[223]。
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静岡一家4人殺害事件(袴田巖) |
1980年12月12日[注 22][230][231][232] |
1966年6月30日 |
1936年(昭和11年)3月10日生まれ(現在88歳)。事件当時は30歳で、こがね味噌製造会社の元従業員[234]。 確定判決によれば、1966年(昭和41年)6月30日1時30分ごろ、住み込み先の[234]静岡県清水市横砂651番地の1[235](現:静岡市清水区横砂東町[236])にあった「こがね味噌」専務男性H(当時41歳)宅に忍び込んで物色中、Hに見つかって格闘となったため、持っていたくり小刀でHを滅多刺しにして殺害、さらに物音に気づいた妻(同39歳)、長男(同14歳:清水市立袖師中学校3年生)、次女(同16歳:高校2年生)の3人も次々と刺し、同家にあった売上金204,095円と小切手5枚(額面63,070円)などを奪った[234]。さらに犯行を隠蔽するため、Hの遺体やまだ息のあった3人に、工場にあった混合油をふりかけて放火し、死体もろとも同家1棟(150 m2)を全焼させたとして、強盗殺人・放火・住居侵入の罪に問われた[234]。同年8月10日に逮捕され、警察・検察官の取り調べには犯行を自供していたが、同年11月15日の初公判から「自白を強要された」と無罪を主張するようになる[234]。 1968年9月11日、第一審の静岡地裁(石見勝四裁判長)で死刑判決を言い渡された[235]。1976年6月18日、東京高裁第2刑事部(横川敏雄裁判長)で控訴棄却判決を受けた[237]。 1980年11月19日、最高裁第二小法廷(宮崎梧一裁判長)で上告棄却判決を受けた[238]。同年12月10日付で判決訂正申立棄却決定を受け[239]、同月12日付で死刑が確定[注 22][230][231][232]。 2011年3月10日(75歳の誕生日)には「世界で最も長く収監されている死刑囚」としてギネス世界記録に認定された[240](当時42年間、その後46年間)。 第2次再審請求審で、2014年3月27日に静岡地裁(村山浩昭裁判長)が再審開始と袴田に対する死刑執行・拘置を停止する決定を出したため、同日に東京拘置所から48年ぶりに釈放された[241]。検察官が即時抗告したところ、2018年6月11日に東京高裁(大島隆明裁判長)で再審開始決定を取り消す決定が出されたが、死刑の執行および拘置は停止されず[242]、弁護団が特別抗告した結果、最高裁第三小法廷(林道晴裁判長)は2020年12月23日付で東京高裁決定を取り消し、審理を同高裁に差し戻す決定を出した[243]。 その後、東京高裁(大善文男裁判長)は2023年3月13日、静岡地裁の再審開始決定に対する検察官の即時抗告を棄却する決定を出し[244]、東京高検が特別抗告を断念したため、日本の死刑確定事件としては5件目となる再審開始が確定した[245]。 再審公判で静岡地検は改めて袴田に死刑を求刑したが、静岡地裁(國井恒志裁判長)は2024年9月26日、袴田に死刑確定後の再審事件としては5件目となる無罪判決を言い渡した[246]。静岡地検は同年10月9日付で上訴権を放棄したため、袴田の無罪が確定した[247]。
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1981年死刑確定囚(3人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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釧路薬局一家3人殺害事件 (K) |
1981年4月20日 |
1974年8月7日 |
1932年(昭和7年)4月21日生まれ・漁船員[248]。本籍地は岩手県気仙郡三陸町越喜来、住居は福島県いわき市平[248]。 一家3人を殺害し金銭を強奪した[249]。 1975年9月に釧路地裁で死刑判決を受け、1977年8月23日に札幌高裁で控訴棄却判決。 1981年3月29日に最高裁第一小法廷(藤崎萬里裁判長)で上告棄却判決を受け[249]、同年4月20日付で死刑が確定。責任能力の認定などから再審請求したが、棄却された。 1993年11月26日に札幌刑務所(収監先・札幌拘置支所に隣接)[注 20]で死刑執行(61歳没)。
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長崎雨宿り殺人事件 (O)[251] |
1981年7月6日 |
1977年9月24日[252] |
1937年(昭和12年)8月29日生まれ。本籍地は大分県玖珠郡玖珠町。殺人・強盗など前科6犯[254]。 1961年に傷害・窃盗事件を起こして服役して以降、刑務所暮らしを繰り返し、1965年には大分県内の飲食店で知り合った知人を殺害して懲役13年の判決を受けたが[255]、1976年11月に熊本刑務所を仮出獄した[256]。その後、大分県内の観光会社社長宅で働いていたが[注 23]、1977年9月12日に現金42万円を盗んで逃げ[255]、その金を使い果たしたため、長崎県南高来郡で一人暮らしの老人宅などを探してうろついていた[256]。 被害者は長崎県南高来郡千々石町(現:雲仙市)塩屋で一人暮らししていた女性(当時68歳)で[258]、海の家を経営していた[255]。1977年9月24日10時過ぎ[256]、Oは被害者宅に立ち寄り、上がり込んで世間話をしていたが[252]、雑談しているうちに被害者が1人暮らしだと知り、乱暴した[255]。被害者を殺害して現金を奪うことを思いつき、テレビを観ていた被害者[252]を強姦し[254]、角材で頭を滅多打ちにして殺した上[258]、整理タンスにあった現金2万円を奪い[255]、逃走した[252]。 強盗殺人・婦女暴行などの罪に問われ[255]、1978年9月18日に長崎地裁(萩尾孝至裁判長)で死刑判決を受けた[258]。同判決は、金に困ったOが独居老人を狙って強盗殺人を計画した上で冷静に実行に移したことを指摘し、犯行が残忍であること、刑務所での矯正教育の効果が薄く、将来再犯の危険性も高いこと、Oの性格や前科前歴の内容、被害者遺族の心情などを死刑適用の理由として挙げた[258]。 1979年9月25日、福岡高裁第2刑事部(安仁屋賢精裁判長)で控訴棄却の判決を受けた[252]。同判決は犯行が計画的で残忍であることや[252]、仮釈放からわずか10か月後の犯行である点を指摘し、Oは再犯の危険性が極めて高いと評していた[257]。 上告審から無実を主張したが、1981年6月16日に最高裁第三小法廷(環昌一裁判長)で上告棄却判決を受け[255][257][254]、同年7月6日付で死刑が確定。 それ以降は自力で18年にわたり再審請求し、死刑執行時点では初めて弁護人が付いて再審請求してから4日目だった。 死刑確定後、死刑執行までに6回の再審請求を長崎地裁に申し立てたがいずれも棄却され、1998年9月24日には自ら7回目の再審請求を行った[259]。その後、1999年12月14日付で弁護士の宮川清水が再審請求の代理人として8回目の再審請求を申し立て[注 24]、翌15日には後者の請求が長崎地裁から長崎地検に通知されていたが[259]、請求中の同月17日に福岡拘置所で死刑執行(62歳没)[261]。それまで法務省は再審請求中の死刑囚に対する刑執行を見送っており、当時は極めて異例の死刑執行とされていたが、『読売新聞』は法務省がOの請求理由について、以前に棄却された再審請求とほとんど同一であり、死刑執行を回避するために考慮する理由に該当しないと判断したと見られると報じている[261]。この死刑執行を受けて「死刑廃止を推進する議員連盟」の保坂展人(衆議院議員)ら国会議員3人は同日、法務省で指揮した法務大臣の臼井日出男に抗議したが、臼井は「再審請求中は執行できないことになると、死刑確定者が再審請求を繰り返す限り永久に執行できなくなる」と説明した[262]。臼井は2000年3月14日の参議院法務委員会で、この件に関する福島瑞穂議員の質問に対する答弁で、自身もOの弁護人が再審請求していたことを把握していたことを認めた上で、執行の数日前に自ら命令書に署名したことを明かした[260]。その上で再審請求については「死刑の重大な結果に鑑み、考慮している」としながらも、刑の執行を停止する理由ではないとする見解を示し、仮に死刑確定者が再審請求中であっても、当然棄却が予想される場合(例えば「何回も同じ理由で再審請求し、何度も棄却されている場合」など)は「再審請求を繰り返せば、刑が執行できないというのは確定した裁判を実現する責務に反する」として、死刑執行はやむを得ないとの方針を表明した[260]。
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愛媛県松前町連続保険金殺人事件 (T) |
1981年7月11日 |
1971年1月12日[263] 1972年7月1日[263] |
1930年(昭和5年)10月20日生まれ・金融業。本籍地は愛媛県松山市中村町。 1971年1月12日22時ごろ[265]、愛媛県伊予郡松前町北黒田804の自宅で、1歳年上の姉と共謀し[265]、実母(当時65歳)の頭部をコンクリートブロック様のもの[263]で数回殴って意識不明の重体に陥らせた上で、自宅前の道路に運び出し、自転車をそばに倒してひき逃げ事故に見せかけ、14日に松山市内の病院で頭蓋骨骨折による内出血で死亡させたほか、事件8か月前に実母にかけていた簡易保険の保険金約4.000万円を受け取った[265]。動機は自分の横領事件の裁判で、約1,200万円を返済して実刑を免れるため、その保険金を手に入れようとしたことだった[263]。 また、この事件の現場を目撃していた自身の妻(当時35歳)[265]に犯行を口外されることを恐れ、実兄(3歳年上)と共謀し[266]、1972年7月1日21時30分ごろに自宅で妻を絞殺した上、死体を兄宅[注 25]の床下に埋めた[263]。姉と兄はそれぞれ懲役15年が確定[263]。 1976年2月18日に松山地裁で死刑判決を受け、1979年12月18日に高松高裁で、実母殺害について死刑+妻殺害について無期懲役の判決[注 26]を受けた[267]。 1981年6月26日に最高裁第二小法廷(木下忠良裁判長)で上告棄却判決を受け[263][267]、同年7月11日付で死刑が確定。 1993年3月26日に大阪拘置所で死刑執行(62歳没)。
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1982年死刑確定囚(1人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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世田谷女性殺害事件 (S) |
1982年9月17日 |
1977年12月3日[268] |
東京都世田谷区東玉川一丁目で一人暮らししていた不動産売主の女性(当時61歳)が自宅の土地[注 27]・建物を売りに出しているのを新聞広告で知り、女性を殺害して奪うことを計画[268]。知人の男を誘い、1977年12月3日、2人で女性を車で連れ出し、19時ごろに千葉県佐倉市内の東関東自動車道路上に停車した車内で、ロープを用いて絞殺[268]。土地登記関連書類や印鑑などを奪った[270]ほか、女性の遺体にブロックを結びつけ、茨城県行方郡潮来町の鰐川に遺棄した[268]。 強盗殺人・死体遺棄・有印私文書偽造罪などに問われ[271]、1979年5月17日に東京地裁刑事第12部(金隆史裁判長)で死刑判決を受けた[268]。殺人の共犯である男は懲役13年を、その他犯行に関与した男女3人は懲役2年6月から懲役1年6月の判決を言い渡されている[268]。 共犯とともに控訴したが、1982年9月1日に東京高裁第9刑事部(内藤丈夫裁判長)で控訴棄却判決を受けた[271]。上告せず[270]、同月17日付で死刑が確定。1993年11月26日に東京拘置所で死刑執行(47歳没)[270]。
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1983年死刑確定囚(1人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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徳島高齢者連続殺人事件 (F) |
1983年5月2日 |
1978年11月[272] 1978年12月16日[272] |
徳島県美馬郡美馬町(現:美馬市美馬町)生まれ[272]。 幼少期に両親が離婚し、三好郡池田町(現:三好市)の祖母に育てられたが、小学生のころから盗み癖があり、鳴門市の教護施設に収容されていた[273]。施設を出てからも定職に就かず、徳島・高知・大阪などを転々とし、その間に徳島市内で若い女性に小刀で切りつけてハンドバッグを奪おうとする強盗傷人事件を起こして逮捕されるなど、前歴6回[273]。 1978年8月に高知刑務所を出所したが[273]、遊興費に困ったことから、老人を殺害して金を奪うことを計画し、以下の事件を起こした[272]。
- 1978年11月、徳島県池田町の畑で、無職女性(当時66歳)を襲い、丸太で後頭部を殴った上、登山ナイフで首を刺して死亡させた[272]。
- 1978年12月16日、徳島市徳島町の城山で、一人で散歩していた無職男性(当時73歳)を角材で撲殺し、現金2,800円を奪った[272]。
強盗殺人罪に問われ、1983年4月14日に徳島地裁(山田真也裁判長)で死刑判決を受けた[273][272]。徳島地裁における死刑判決は、1964年3月に四国連続強盗殺人事件の犯人に言い渡されて以来、19年ぶりだった[273]。Fは控訴したが、本人が取り下げ[274]、同年5月2日付で死刑が確定。 死刑確定後、第一事件については再審請求したが、それも後に取り下げた[274]。一方で死刑違憲論を主張するグループからはFの責任能力の存在を疑問視する声が上がっており、1994年初めから大阪の弁護士が再び再審の準備を進めていた[275]。 1995年5月26日に大阪拘置所で死刑執行(40歳没)[274][275]。
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1984年死刑確定囚(3人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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大阪電解事件 (D) |
1984年5月8日 |
1974年7月10日 1974年10月3日 |
1923年(大正12年)4月19日生まれ・会社員[276]。 本籍地は大阪府大阪市西淀川区中島一丁目、住居は大阪府寝屋川市田井町[276]。 金銭欲から、Dの勤務先の会社幹部を殺害し、死体を遺棄することで幹部が金員を拐帯して失踪したように偽装し、同会社の小切手を使って取引銀行から大金を引き出そうと企て、短期間内に会社の上司2人を次々に絞殺し、死体を埋立地に埋めた[277]。 下記共犯S(本事件以前の服役中に知り合った)とともに、1978年2月23日に大阪地裁(浅野芳朗裁判長)で死刑判決を、1980年11月28日に大阪高裁で控訴棄却判決を受けた。 1984年4月27日に最高裁第二小法廷(牧圭次裁判長)で上告棄却判決を受け[277]、同年5月8日付で死刑が確定。 1993年11月26日に大阪拘置所で死刑執行(70歳没)。
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大阪電解事件 (S) |
1984年5月16日 |
1974年7月10日 1974年10月3日 |
1936年(昭和11年)11月13日生まれ・元洗車場経営[276]。本籍地は和歌山県橋本市神野々、住居は兵庫県神戸市葺合区上筒井通五丁目[276](現:神戸市中央区上筒井通五丁目)。 上記Dの共犯(裁判経緯も同一)。上告審判決に対する訂正申立を1984年5月14日付で棄却され[279]、同月16日付で死刑が確定。 1993年11月26日に大阪拘置所で死刑執行(57歳没)。
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近畿連続強盗殺人事件 (K) |
1984年9月26日 |
1975年4月3日 - 1977年 |
1944年(昭和19年)8月29日生まれ[280]。本籍地は福岡県北九州市八幡西区大字香月[280]。 1973年3月 - 1977年8月にかけ、7都府県で強盗殺人2件、同未遂1件、強盗傷人・強盗各3件、強盗予備・銃刀法違反各1件、窃盗5件と[281]、計16件の犯行を重ねた[282]。一連の犯行で3人が殺害され、7人が負傷している[283]。
- 姫路事件 - 1975年4月3日0時ごろ、兵庫県姫路市東雲町五丁目4番1号の住宅に侵入し、住人の電器商一家4人を次々とハンマーで滅多打ちにする、首を切り出しナイフで指す、手で首を絞めるなどして、一家の長女(当時10歳)と三女(同4歳)を殺害、夫婦(夫43歳、妻41歳)にも瀕死の重傷を負わせた上で現金8,000円を奪った[281]
- 菰野事件 - 1977年8月18日13時ごろ、三重県三重郡菰野町の会社社長宅へ侵入し、留守番をしていた家事手伝い女性(当時70歳)を殺害して現金40,000円とカメラなど40万円相当を盗んだ[281]。
大阪府泉佐野市の連続強盗・窃盗事件の被疑者として1977年8月、大阪府警に逮捕され、一家4人殺傷事件など一連の犯行を自供したが、1978年6月の第3回公判以来、姫路事件を否認し、弁護側も「自白は誘導された疑いが強い」と無罪を主張した[281]。 しかし、神戸地裁第4刑事部(高橋通延裁判長)は1980年9月13日に開かれた第一審の判決公判で、現場付近の足跡痕がKのものと酷似することや、遺留品(黒短靴・白カッターシャツ)には警察犬の臭気検査の結果、Kと同一の臭気が付着していたことなどを指摘した上で、取調官の誘導では引き出し得ない事実も供述していることから自白の任意性も肯定した[281]。その上で、起訴された16事件全てを有罪と認定し、姫路事件など6件について死刑、菰野事件など8件について無期懲役、その他の窃盗など2件について懲役12年(一連の犯行途中で確定判決が2件あり、その前後で分割して宣告)[注 26]をそれぞれ言い渡した[282]。 1981年11月20日に大阪高裁第3刑事部(八木直道裁判長)で開かれた控訴審初公判では、一転して姫路事件を認めた上で、反省を深めていることを理由に無期懲役への減軽を求めた[282]。1982年5月26日に大阪高裁(八木直道裁判長)で控訴棄却判決。 1984年9月13日に最高裁第一小法廷(矢口洪一裁判長)で上告棄却判決を受け[283][284]、同月26日付で死刑が確定。 1993年3月26日に大阪拘置所で死刑執行(48歳没)[210]。弁護人の中道武美は1987年以降数回、大阪拘置所からKについて「1982年1月に、『幻覚妄想状態(統合失調症の疑い)との精神科医の診断を受けた」という回答を得ており、死刑執行時点では「症状が進行、人格破壊状態に至っている」として、再審請求の準備を進めていた[285]。
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1985年 - 1989年
1986年に死刑が確定した死刑囚はいない。
1985年死刑確定囚(2人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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伊勢崎3女性殺害事件 (K)[286] |
1985年5月17日 |
1977年4月16日 |
1950年(昭和25年)2月10日生まれ。旧姓K。 群馬県新田郡藪塚本町(現:太田市)在住[288][289]。文通で知り合った婚約者の会社員女性(当時23歳:群馬県群馬郡榛名町)と親しく交際していたが[290]、1977年4月上旬[289]、自分の素行不良[注 28]や多額の借金、離婚歴の存在を知られ[291]、交際を拒否されたことから無理心中を決意[289]。1977年4月16日12時10分ごろ[289]、彼女が匿われていた伊勢崎市連取町の知人女性(当時65歳)宅に押しかけ、婚約者とその妹(当時20歳)、そして知人女性の3人を文化包丁(刃渡り18 cm)で刺殺した[注 29][288]。 殺人罪などに問われ[289]、1978年3月8日に前橋地裁(浅野達男裁判長)で死刑判決を受けた[291]。前橋地検によれば戦後、前橋地裁で死刑判決を言い渡された被告人は1994年12月時点で11人いるが、Kは7人目であり[292]、Kへの死刑判決は松井田町2女性殺害事件の死刑囚(1978年に死刑確定)以来であった[288]。量刑不当などを理由に控訴したが、1980年2月20日に東京高裁第11刑事部(岡村治信裁判長)で控訴棄却判決を言い渡されている[293][290]。 1985年4月26日に最高裁第二小法廷(牧圭次裁判長)で上告棄却の判決を受け[294][289]、同年5月17日付で死刑が確定。 死刑確定直前に支援者夫婦と養子縁組し、夫婦の姓である「A」に改姓したが、確定後の1985年5月27日以降、東京拘置所長によって養夫婦を含めた外部交通権をすべて禁止されたことから精神的苦痛を受けたと主張、Kと養父母は1988年10月26日付で慰謝料200万円支払いを求める国家賠償請求訴訟を提起した[295]。同訴訟の第一審は1993年12月に結審していた[292]。 第一審判決前の1994年12月1日に東京拘置所で死刑執行(44歳没)[286][296]。前橋地裁で死刑判決を受け、死刑が確定した死刑囚に対する刑の執行は大久保清らを含め、戦後4人目と見られる[286]。死刑執行後の同月13日、東京地裁(福井厚士裁判長)で「無罪推定を受ける被告人と違い、死刑確定者は基本的人権の制約を受けざるを得ない」として請求棄却の判決が言い渡されている[297]。原告側は控訴したが、1996年6月25日に東京高裁で原告側の控訴を棄却する判決が言い渡され[298]、1999年7月16日には最高裁第二小法廷(北川弘治裁判長)で上告棄却の判決が言い渡されている[299]。
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青森旅館連続殺人事件 (S) |
1985年7月2日 |
1984年9月9日 |
1928年(昭和3年)3月1日生まれ。岩手県上閉伊郡出身[301]。 1958年(昭和33年)6月5日に岐阜県大垣市で強盗殺人事件を起こし、同年9月2日に岐阜地裁大垣支部で無期懲役判決を受け、1976年(昭和51年)3月31日に仮釈放されるまで岐阜刑務所に服役していた。しかし1977年には北海道函館市で無銭飲食で逮捕され、1983年9月まで服役していた[301]。 1984年9月9日8時30分ごろ、宿泊していた青森県青森市安方一丁目の旅館で、女将(当時61歳)に包丁を突きつけて金を奪おうとしたが、大声を出されたため刺殺した[301]。さらに包丁を持ったまま女将の家族を追って外に飛び出し、偶然旅館前を通りかかった近くの会社員男性(62歳)を刺殺した[303]。事件当時は所持金10円だった[303]。 強盗殺人・殺人の罪に問われ[301]、1985年6月17日、青森地裁第1刑事部(守屋克彦裁判長)で死刑判決を言い渡された[301]。S本人は判決宣告時に控訴しないことを明言していたが、弁護人は「Sには正常な判断能力がない」として、控訴期限の同月1日付で仙台高裁に控訴した[304]。しかし翌2日、S本人が控訴を取り下げたため[304]、同日付で死刑が確定[304]。 1994年12月1日に宮城刑務所(収監先:仙台拘置支所に隣接)[注 20]で死刑執行(66歳没)[296]。
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1987年死刑確定囚(7人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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裕士ちゃん誘拐殺人事件 (S) |
1987年1月19日 |
1986年5月9日 |
1940年(昭和15年)9月20日生まれ。 1986年12月22日に東京地裁刑事第5部(高島英世裁判長)で死刑判決を受け、本人の控訴取り下げにより死刑確定。1983年に「永山基準」が示されて以降、被害者1人の殺人事件としては初めて死刑が確定した事件である[308]。 1995年5月26日に東京拘置所で死刑執行(54歳没)。
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半田保険金殺人事件 (I) |
1987年4月15日 |
1979年11月19日 - 1983年12月25日 |
1942年(昭和17年)6月27日生まれ。
男2人と共謀し、以下の事件を起こした。
- 1979年11月18日夜、IとTはTの知人である愛知県知多郡阿久比町の男性(当時20歳)を「カニ網揚げのアルバイトがある」と誘い出してIの釣り船に乗せ、翌19日0時ごろ、知多半島の衣浦港沖で海に突き落として水死させ、男性にかけられていた2000万円の保険金を詐取しようとしたが、警察が自殺として処理したため未遂に終わった[310]。
- I・T・Mの3人が共謀し、1983年1月、Tの元でトラック運転手として働いていた知多郡東浦町の男性(当時30歳)に2000万円の生命保険を掛け、同月24日未明、京都府相楽郡加茂町(現:木津川市)の国道脇でIが男性の頭を鉄棒で殴って殺害、Mと2人で6 km離れた山城町(現:木津川市)まで運び、交通事故死を装おうとトラックごと死体を道路下に転落させて捨てた[310]。この時に詐取した保険金はTが1280万円、Iが500万円、Mが220万円を分配した[310]。
- IとTが共謀し、1983年12月25日19時30分ごろ、金を借りていた愛知県半田市の金融業の男性(当時39歳)を誘い出し、同市亀崎町の埠頭で鉄棒で殴って重傷を負わせた上、Iの釣り船に乗せて沖合まで運び、撲殺して海に捨てた[310]。
1. 事件ではTとともに殺人罪に、2. 事件ではT・Mの2人とともに殺人・死体遺棄・詐欺罪に、3. 事件ではTとともに強盗殺人・死体遺棄の罪に問われた[310]。1985年12月5日の判決公判で、名古屋地裁刑事第2部(鈴木雄八郎裁判長)は3事件全てに関与したI・Tの両被告人を死刑、2. 事件にのみ関与したMを懲役14年(求刑:懲役18年)とする判決を言い渡した[310]。 Iは判決後、家族や弁護人の説得を受け[311]、Tとともに控訴したが、1987年3月31日に名古屋高裁刑事第1部(山本卓裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[312]。Iは同判決後、弁護人の伊藤貞利らに対し判決に服す意向を示しており、上告期限の同年4月14日までに上告せず[311]、同月15日付で死刑が確定した。 1998年11月19日に名古屋拘置所で死刑執行(56歳没)[注 30][313]。共犯のT(後にHへ改姓)は1993年に最高裁で死刑が確定し、2001年12月27日に名古屋拘置所で死刑執行[314]。
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連続企業爆破事件(大道寺将司) |
1987年4月21日 |
1974年8月30日-1975年5月4日 |
1948年(昭和23年)6月5日生まれ。共犯の一部が超法規的措置で出国。 1979年11月12日に東京地裁(蓑原茂広裁判長)で死刑判決を、1982年10月29日に東京高裁(内藤丈夫裁判長)で控訴棄却判決を受けた。1987年3月24日に最高裁第三小法廷(伊藤正己裁判長)で上告棄却判決(第一審・控訴審の死刑判決を支持)を受け[315]、同判決への訂正申し立ても1987年4月20日付で棄却されたため[316]、同月21日付で、益永とともに死刑が確定[317]。同決定により共犯者の黒川芳正は無期懲役、共犯の女も懲役8年が確定した[317]。 交流誌「キタコブシ」が出ていたほか、著書『死刑確定中』や句集『鴉の目』『棺一基』『残の月』などがある。 東京拘置所に収監されていたが2017年5月24日に収監先・東京拘置所内で多発性骨髄腫のため病死(68歳没)[318]。
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連続企業爆破事件(益永利明) |
1987年4月21日 |
1974年8月30日-1975年5月4日 |
1948年(昭和23年)6月1日生まれ(旧姓:片岡)。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在76歳)。 裁判経緯は同上。1987年4月21日に判決訂正申立の棄却決定を通知され、死刑が確定[320]。その直前(同年4月7日)に獄中結婚していた[320]。国家賠償請求訴訟を多数提訴しているほか、交流誌「ごましお通信」が出ていた。著書『爆弾世代の証言』がある。
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名古屋女子大生誘拐殺人事件(木村修治) |
1987年8月6日 |
1980年12月2日 |
1950年(昭和25年)2月5日生まれ。愛知県名古屋市の被差別部落出身(参考:白山中学校事件)。 1982年3月23日に名古屋地裁刑事第3部(塩見秀則裁判長)で死刑判決を受け[321]、1983年1月26日に名古屋高裁刑事第2部(村上悦夫裁判長)で控訴棄却判決を受けた[322]。 1987年7月9日に最高裁第一小法廷(大内恒夫裁判長)で上告棄却判決を受け[323]。判決訂正を申し立てたが、同年8月4日の第一小法廷決定[事件番号:昭和62年(み)第6号・7号]によって棄却され[324]、同月6日付で死刑が確定。 最高裁上告後「水平社宣言」や死刑廃止運動を知り、1986年2月には死刑廃止運動を行う死刑囚による「日本死刑囚会議・麦の会」に入会、同年には同会運営委員となる。上告審では死刑違憲論を主張するも棄却。大道寺将司・益永利明・坂口弘らとともに統一獄中者組合員として獄中活動。 1993年9月に恩赦を出願[325]。1995年1月に手記『本当の自分を生きたい 死刑囚・木村修治の手記』(インパクト出版会)を出版。恩赦出願の結果は代理人に通知されないまま、1995年12月21日に名古屋拘置所で死刑執行(45歳没)。また日本死刑囚会議・麦の会『死刑囚からあなたへ 国には殺されたくない』(インパクト出版会:1987年10月刊行)に手記「強く、優しく生き抜いてください」を寄稿。
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秋山兄弟事件(秋山芳光) |
1987年8月29日 |
1975年8月25日 |
1929年(昭和4年)8月23日生まれ。 秋山兄弟(双生児)の弟。兄が経営していた紙工場の元従業員。 兄(無期懲役が確定)と共謀し、1975年8月、千葉県市川市で知人の会社社長(当時47歳)をバットで撲殺、現金約1,000万円を奪って遺体を畑に埋めた[163]。また、自分の妻(当時37歳)に多額の保険金をかけて殺害しようとした[163]。 1976年12月16日に東京地裁刑事第20部で死刑判決を受け、1980年3月27日に東京高裁第12刑事部(千葉和郎裁判長)で控訴棄却判決。 1987年7月17日に最高裁第二小法廷(香川保一裁判長)で上告棄却判決を受ける[330]。判決訂正申立も同年8月28日付の決定[事件番号:昭和62年(み)第9号・10号]によって棄却され[331]、翌日(8月29日)付で死刑が確定。 2006年12月25日に東京拘置所で死刑執行(77歳没)[163]。死刑執行時の年齢は、それまで戦後最高齢とされていた古谷惣吉(71歳3か月)や、秋山と同日に処刑された今市4人殺傷事件の藤波芳夫(当時75歳)を上回る[163]。また、確定判決(上告審判決)から19年5か月後の死刑執行であるが、これは2000年以降では最長記録である[332]。 共犯者である兄も芳光とともに死刑を求刑されたが、従犯とされ、第一審で無期懲役判決を受けた。検察官が死刑を求めて控訴したものの、控訴審でも無期懲役が支持され、確定。 芳光は2003年8月、主犯は兄であるとし再審請求したが、棄却されている。
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東村山署警察官殺害事件 (T) |
1987年11月17日 |
1976年10月18日 |
1925年(大正14年)1月30日生まれ。旧姓K。 1977年11月18日に東京地裁八王子支部(現:東京地裁立川支部)刑事第2部で死刑判決を受け、1981年7月7日に東京高裁第8刑事部(市川郁雄裁判長)で控訴棄却判決。 1987年10月23日に最高裁第二小法廷(牧圭次裁判長)で上告棄却判決を受ける[338]、判決訂正申立も同年11月16日の第二小法廷決定[事件番号:昭和62年(み)第12号]によって棄却され[339]、同月17日付で死刑が確定。 1995年5月26日に東京拘置所で死刑執行(70歳没)。
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1988年死刑確定囚(12人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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熊本連続強盗殺人事件(平田直人) |
1988年2月1日 |
1979年3月28日 |
1932年(昭和7年)1月1日生まれ。 1980年10月2日に熊本地裁(辻原吉勝裁判長)で死刑判決を受け、1982年4月27日に福岡高裁(平田勝雅裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 1987年12月18日に最高裁第二小法廷(牧圭次裁判長)で上告棄却判決を受け[342]、翌1988年(昭和63年)2月1日付で死刑が確定。事実誤認を主張して再審請求していたが棄却され、1995年12月21日に福岡拘置支所[注 6]で死刑執行(63歳没)。
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福岡連続保険金殺人事件(浜田武重[343]) |
1988年3月30日 |
1978年3月(24日 - 25日) 1978年7月1日 1979年5月9日 |
1927年(昭和2年)3月10日生まれ。 内縁の妻(一審公判中に死亡)と共謀して内縁の妻の子供(当時16歳)を農業用水路で水死に見せかけ殺害するなど、3件の殺人事件を起こして被害者2人の保険金約1,100万円を詐取した[344]。 3件中2件の殺人について無罪を主張していたが[345]、1982年3月29日に福岡地裁(秋吉重臣裁判長)で死刑判決を受け、1984年6月19日に福岡高裁(山本茂裁判長)で控訴棄却判決。1988年3月8日に最高裁第三小法廷(伊藤正己裁判長)で上告棄却判決を受け[346]、同月30日付で死刑が確定。 福岡拘置所に収監されていたが、2017年6月26日に所内で死亡(90歳没・当時は確定死刑囚で最高齢)[345]。
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北九州市病院長殺害事件 (S) |
1988年5月18日 |
1979年11月4日 - 5日 |
1946年(昭和21年)10月19日生まれ・釣具店経営。本籍地は福岡県北九州市小倉北区昭和町、住居は同区木町一丁目。 北九州市で大病院を経営していた院長を殺害して大金を強奪することを計画し、大金の奪取には失敗したものの、被害者を殺害して死体を切断・遺棄した[348]。 S・Yの両被告人とも、1982年3月16日に福岡地裁小倉支部(佐野精孝裁判長)で死刑判決を受け[349]、1984年3月14日に福岡高裁第2刑事部(緒方誠哉裁判長)で控訴棄却判決を受けた[350]。 1988年4月15日に最高裁第二小法廷(香川保一裁判長)で上告棄却判決を受ける[348]。判決訂正申立も同年5月17日付の決定[事件番号:昭和63年(み)第4号]で棄却され[351]、翌18日付で死刑が確定。 1983年に最高裁で「永山基準」が示されて以降、殺害された被害者が1人の殺人事件で、複数の被告人に死刑判決が言い渡され確定した唯一の事例[352][353]。 1996年7月11日に福岡拘置所[注 6]で死刑執行(49歳没)。自力で再審請求していたとされるが、詳細は不明。
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北九州市病院長殺害事件 (Y) |
1988年5月18日 |
1979年11月4日 - 5日 |
1952年(昭和27年)9月5日生まれ・スナック経営。本籍地および住居は北九州市戸畑区椎ノ木町。 上記Sの共犯(裁判経緯はいずれも同上)。1996年7月11日に福岡拘置所[注 6]で死刑執行(43歳没)。再審請求準備中だった。
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日立女子中学生誘拐殺人事件 (W) |
1988年6月3日 |
1978年10月16日 |
1939年(昭和14年)3月25日生まれ。1978年10月16日、茨城県日立市久慈町で[355]、下校途中の義妹(金融業などを経営していた男性の娘[356]/当時14歳:市立久慈中学校3年生)を身代金目的で誘拐[355]。被害者にクロロホルムを嗅がせて気絶させ、車内で鼻・首を押さえつけて殺害し[357]、死体を山中に遺棄した上で、家族に身代金3,000万円を要求したが[356]、金を奪うことはできず[358]、韓国へ逃走しようとしたものの[355]、3日後に逮捕された。動機は経営していた鉄工所が、石油ショックで経営難に陥ったことに加え[355]、キーセン旅行に何度も行ったことから、1,400万円の負債を重ねたことだった[356]。 第一審・控訴審では捜査段階での「身代金目当て」という主張を翻し、誘拐の事実とわいせつ行為を否認した[355]。1980年2月8日に水戸地裁刑事部(大関隆夫裁判長)で死刑判決を受け[356]、1983年3月15日に東京高裁第6刑事部(菅野英男裁判長)で控訴棄却判決を受けた[358]。 上告審ではわいせつ行為を認めた上で、「犯行動機はいたずら目的で、自分に捜査の手が伸びないように電話で金を要求し、身代金目的誘拐を装った。捜査段階で『身代金目当て』と自白したのも、いたずらの事実を隠したかったため」などと主張し[355]、死刑制度の違憲論も訴えて無期懲役への減軽を求めたが、1988年4月28日に最高裁第一小法廷(角田礼次郎裁判長)で上告棄却判決を受けた[359]。判決への訂正申立も、同年6月2日付の決定[事件番号:昭和63年(み)第8号]で棄却され[360]、翌日(6月3日)付で死刑が確定。 東京拘置所に収監されていたが、2013年6月上旬にくも膜下出血で倒れ、同月23日夜に病死[361](74歳没・当時再審請求中)。
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赤城山麓連続殺人事件 (S)[362][363] |
1988年6月7日 |
1981年10月2日 1982年7月3日 |
1927年(昭和2年)2月2日生まれ。千葉県印旛郡で生まれ育った[367]。 23歳だった[367]1950年[368]、千葉県内で強盗傷害事件を起こし[367]、強盗致傷罪で懲役8年に処せられた[368]。1959年1月には千葉県印旛郡酒々井町の山林で[369]、薪拾いの女性(当時22歳)を乱暴して殺害する事件を起こした[367]。この事件では強姦致傷、殺人、死体遺棄の罪に問われ[370]、精神鑑定では精神病的傾向があり、短気で衝動的な面を持っていることが指摘されていた[369]。翌1960年に東京高裁で無期懲役の判決を受け[367]、同年7月に無期懲役が確定。千葉刑務所に服役していたが[367][371]、1976年2月に仮釈放され[368]、その翌月の3月には知人を頼り[367]、保護観察中の身で群馬県に移住した[372]。事件当時も保護観察中で[368]、第1の犯行は仮釈放から5年7か月後の犯行だった[371]。 1981年10月2日16時10分ごろ、群馬県佐波郡境町上渕名(現:伊勢崎市境上渕名)の畑で農作業中の女性(当時56歳)を脅していたずらをした上、手ぬぐいや前掛けなどで首を絞め、さらに小刀で胸や首を10回突き刺し、窒息と失血により死亡させて殺害した[373]。境町事件では乱暴目的で被害者を襲った上、近くに人の気配を感じながらもあえて犯行を継続していた[373]。また1982年7月3日16時30分ごろには、勢多郡宮城村柏倉(現:前橋市柏倉町)の畑で農作業をしていた女性(当時79歳)に声を掛けたが、騒がれたため山林内に連れ込み、手ぬぐいと前掛けを首に巻き付けて窒息死させ殺害した[373]。 また以上の2事件で逮捕・起訴された後には、20歳だった1947年10月15日1時40分ごろ、千葉県印旛郡富里村十倉(現:富里市十倉)の生茶仲買業者A(当時58歳)宅に侵入してAを短刀で刺し殺し、Aの妻B(当時61歳)も短刀で負傷させた上で金を奪おうとしたという強盗殺人・致傷事件も自身の犯行である旨を自供した[374]。同事件当時は一度被疑者として捜査線上に浮上したが、証拠不十分で逮捕には至らず[374]、1962年に公訴時効(当時は15年)が成立していた[375]。また旧刑事訴訟法(1948年廃止)時代の事件であり、また1982年時点では捜査資料はほとんど残っておらず、事件関係者も他界していたが[375]、群馬県警察の捜査本部は近隣住民らからの聞き込みによってその裏付けを取り、同事件について1982年10月19日付で前橋地検へ書類送検した[374]。 境町事件および宮城村事件の2事件で殺人および強姦致傷の罪に問われ[370]、1983年12月26日に前橋地裁(小林宣雄裁判長)で死刑判決を言い渡された[373]。同地裁は、Sが起訴された2事件を含めそれまでに4回の殺人事件を起こして4人を殺害している(1件は自供のみ)こと、また2事件はいずれも仮釈放中に起こしたことから、凶悪な犯罪性向は「もはや現下の矯正方法では改善不可能」であると断じた[373]。また死刑適用の枠を示し、下級審の緩刑化傾向に事実上歯止めをかけたものと評されている「永山判決」(同年7月8日宣告)において死刑適用が許されるか否かの判断基準として判示された9項目に照らし、Sの事件は9項目いずれも死刑適用に傾く条件を有していると結論付けた[373]。なおこの判決は、1973年の大久保事件の第一審判決以来、群馬県内では5件目(他3件のうち1件は1978年に死刑確定、残り2件も後に死刑確定)死刑判決とされ[373][376]、また「永山判決」以降では初となる第一審での死刑判決でもあった[376]。 弁護人の池田昭男によればSは判決後、控訴するかどうか迷っていたが、控訴期限(1984年1月9日)の直前である1月7日に量刑を不服として控訴した[377]。しかし1985年1月17日、東京高裁刑事第12部(小野慶二裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[371]。1988年5月20日に最高裁第二小法廷(奥野久之裁判長)で上告棄却判決を受け[368][370]、判決への訂正申立も同年6月6日付の決定で棄却されたため[378]、翌日(6月7日)付で死刑が確定。 1995年12月21日に東京拘置所で死刑執行(68歳没)[379][372]。
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男娼等連続強盗殺人事件[380] (W) |
1988年6月29日 |
1967年4月24日 1967年8月5日 1972年4月10日 1973年3月20日 |
1948年(昭和23年)3月17日生まれ。2020年9月27日時点で大阪拘置所に収監中(現在76歳)。 以下の事件を起こした(被害者は売春婦3人・男娼1人)[382]。前半2件は少年時代の犯行(少年死刑囚)。
- 1967年(昭和42年)4月24日朝(当時19歳)、愛知県名古屋市中区葉場町の旅館で同宿した女性(当時36歳)を絞殺し、現金35,000円を奪った[383]。
- 1967年4月10日(当時19歳)、大阪府大阪市西成区のホテルで女性(当時39歳)を絞殺し、現金2,000円を奪った[383]。
- 1972年(昭和47年)8月5日未明(当時24歳)、大阪市天王寺区茶臼山町で客引きしていた男性(当時26歳)を絞殺し、現金2,000円などを奪った[383]。
- 1973年(昭和48年)3月20日(当時25歳)、大阪市浪速区のホテルで女性(当時40歳)を絞殺し、がま口(現金640円入り)・腕時計などを奪った[383]。
第一審・大阪地裁(大政正一裁判長)で1975年8月29日に無期懲役判決を受けたが[382]、控訴審・大阪高裁(西村哲夫裁判長)で1978年5月30日に一審破棄・死刑判決。 1988年6月2日に最高裁第一小法廷(高島益郎裁判長)で上告棄却判決を受ける[380]。判決への訂正申立も、同年6月27日付の決定で棄却され[384]、同月29日付で死刑が確定。4件中2件は無実を主張。
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神田ビル放火殺人事件 (I) |
1988年7月12日 |
1981年7月6日 |
1947年(昭和22年)8月23日生まれ[386]。本籍地は東京都三鷹市下連雀六丁目、住居は東京都田無市(現:西東京市)北原二丁目[386]。 酒色に溺れて多額の会社資金を使い込んだことから、証拠となる帳簿類を焼却し、会社所有の現金を入手した上で逃走することを計画[387]。深夜、それを実行する過程で、妨げとなった会社上司とビル管理人を殺害するとともに、現金252万円余りを強取してビルの一部を焼燬した[387]。 1982年12月7日に東京高裁(大関規雄裁判長)で死刑判決を受け、起訴から1年半後となる1984年3月15日に東京高裁(寺沢栄裁判長)で控訴棄却判決。 1988年7月1日に最高裁第二小法廷(奥野久之裁判長)で上告棄却判決を受け[387]、同月12日付で死刑が確定。 1996年7月11日に東京拘置所で死刑執行(48歳没)。
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夕張保険金殺人事件 (HN) |
1988年10月8日ないし13日[注 31] |
1984年5月5日 |
1947年(昭和22年)生まれ。北海道夕張市出身[391]。 下記HYの妻[392]。裁判経緯は夫と同一で、1997年8月1日に札幌刑務所札幌拘置支所[注 20]で死刑執行(51歳没)[391][393]。戦後3人目に死刑を執行された女性死刑囚[394]。
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夕張保険金殺人事件 (HY) |
1988年10月8日ないし13日[注 31] |
1984年5月5日 |
1944年(昭和19年)生まれ。北海道日高管内様似町出身[391]。夫婦による犯行で、上記HNの夫[392]。 北海道夕張市南部青葉町に在住し、炭鉱下請け会社「H工業」の社長を務めていた一方、暴力団組長でもあった[392]。妻HNや配下の組員と共謀し、夕張市鹿島栄町の「H工業」従業員宿舎に゙放火して火災保険金と従業員の生命保険金を詐取し、借金返済に充てることを計画[392]。1984年5月5日22時40分ごろ、配下組員に宿舎(木造一部3階建て約350平方メートル)を放火させて全焼させ、従業員4人と賄い婦の子供である姉弟(姉は中学生、弟は小学生[注 32])の計6人を焼死させた[392]。また消火活動に当たっていた消防士1人も殉職したため、火災による死者は計7人となる[392]。さらに失火を装い保険金の支払いを請求、火災保険金(約2,400万円)と生命保険金(約1億1,400万円)を詐取した[392]。組員は分け前100万円を受け取ったが、H夫婦に殺されると恐れ、事件から約3か月後に逃亡先の青森県で自首した[396]。これがきっかけで北海道警はH夫婦が宿舎の火災保険のほか、炭鉱災害に備えて従業員に加入させていた生命保険金を狙った放火殺人事件としてH夫婦を逮捕するに至った[396]。 H夫婦と組員はそれぞれ、現住建造物等放火・殺人・詐欺罪に問われた[392][396]。第一審の公判でH夫婦は放火の事実を認めた一方、殺意は否認した[注 33]。[392]札幌地裁刑事第3部(鈴木勝利裁判長)は1987年3月9日の第一審判決で、首謀者は夫HYと位置づけた一方、妻HNも犯行を持ちかけられると制止しなかったどころか配下組員を実行犯として選び、死者が出ることを一時的に躊躇した夫HYを強い言葉で納得させるなど、謀議過程で最も重要な役割を果たしていたことや、保険金詐取の際にも主導的立場にあったと認定し、刑事責任はHYと同等であると認めた[392]。その上で夫婦ともに被害者6人に対する未必的殺意を有していたと認定した上で、HY・HNの両被告人に死刑判決を言い渡した[392]。夫婦が揃って死刑判決を言い渡された事例は1947年7月に大津地裁で宣告された尊属殺人事件の第一審判決(同年11月、大阪高裁で夫婦ともに懲役15年に減軽されて確定)以来40年ぶりで[392]、新刑事訴訟法が施行された1948年以降では初である[397]。北海道内の地裁における死刑判決は戦後40人目で、1984年3月に札幌地裁で言い渡された「平取事件」第一審判決以来[397]。また戦後、死刑判決を宣告された女性はHNが9人目で、彼女以前の8人のうち3人は既に死刑が確定、別の3人は控訴審で無期または有期刑に減軽され確定、当時は「連合赤軍事件」の永田洋子ら2人が上告中だった[392]。 実行犯の組員は分離公判となり、子供らに対する殺意は否認した一方、検察官は子供らに対しても「未必的殺意」があったと主張して無期懲役を求刑していた[396]。札幌地裁刑事第2部(吉本徹也裁判長)は配下組員への判決(1987年3月9日)で、被告人には被害者6人への確定的殺意があったことを認定し[注 34]、「H夫婦の指示に基づくとはいえ、刑事責任はH夫婦と比較して軽いとは言えない」と指弾したが、犯行後に自首したことや反省の色が濃いことから、求刑通り無期懲役を宣告した[396]。組員は控訴したが、同年6月30日に控訴を取り下げて無期懲役が確定[395]。 第一審判決後、HNとともに量刑不当を理由に札幌高裁へ控訴[393]。1988年6月16日に札幌高裁第3部(岡本健裁判長)で開かれた控訴審初公判では弁護側が、実行犯である組員の供述には誇張があり信用性を欠くことや、捜査段階でHYが「未必の殺意」の意味を理解していなかったことなどを主張した[398]。しかし同年9月7日 - 8日に行われた弁護側の証人尋問で、組員は第一審と同様に「死人が出ても構わないという話をした」と証言しており、弁護側が期待を寄せていた組員の証言の変化も当てにできなくなっていた[395]。1988年11月1日に第5回公判が予定されていたが[399]、同年10月に夫婦2人とも控訴を取り下げ、それぞれ10月8日ないし13日付で死刑が確定。『毎日新聞』によれば、夫婦揃っての死刑確定は戦前には記録がなく、戦後でも全国初とされる[400]。『北海道新聞』『毎日新聞』によれば、HNは同月11日付で、HYも同月13日付でそれぞれ控訴取下げ手続きを取った[399][400]。当時、死刑判決が第一審で確定することは珍しく、控訴審の途中で控訴取り下げがなされることは異例とされた[400]。当時は昭和天皇の容体が悪化しており[393]、HY・HN夫婦を含む同時期に控訴を取り下げて死刑が確定した死刑確定者4人による取り下げは大喪の礼に伴う恩赦(大赦以外は刑の確定が恩赦の条件とされているため)を期待したものとされているが、その期待に反して死刑確定者への恩赦減刑は行われなかった[401]。1996年5月には夫HYだけが控訴取り下げ無効を申し立てたが、札幌高裁・最高裁ともにこれを棄却し、1997年6月までにすべて審理を終えていた[393]。 1997年8月1日に札幌刑務所札幌拘置支所[注 20]で死刑執行(54歳没)[393]。北海道における死刑執行は1993年11月、釧路市薬局一家3人殺害事件の犯人に対しなされて以来だった[402]。
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銀座社交クラブママ殺害事件 (H) |
1988年10月17日 |
1978年5月21日 1978年6月10日 |
高知県高知市内で化粧品販売会社を経営していたが、借金返済に窮したことから、部下である同社役員の男Nとともに上京[403]。1978年5月21日、東京都港区白金一丁目のマンションで、知人関係にあった銀座の社交クラブのママ(当時54歳)を扼殺して2,000万円超の金品を奪った[403]。また同年6月10日、愛媛県松山市内に知人であるトルコ嬢の女性(当時41歳:東京都港区南麻布三丁目在住)を呼び出した上で2人がかりで首を絞めて殺害、現金数万円などを奪った上で遺体を全裸にして道路脇の空き地に埋めた[404]。1978年7月10日、Nとともに逮捕される[403]。 強盗殺人・詐欺などの罪に問われ、1980年1月18日に東京地裁刑事第6部(小野幹雄裁判長)で共犯の男Nとともに死刑判決を受けた[405]。2人とも控訴したが、1982年1月21日に東京高裁(市川郁雄裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 恩赦を期待して1988年10月20日までに上告を取り下げ、死刑が確定したが[406]、期待に反して恩赦はされなかった[401]。共犯Nは1990年2月に最高裁で死刑確定。 1996年12月20日に東京拘置所で死刑執行(60歳没)。
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昭和石油元重役一家殺害事件 (I) |
1988年10月24日 |
1983年1月29日[407] |
1983年1月25日、自身の経営していた保険代理店の経営が思しくなく、資金繰りに困ったことから[408]、おじである昭和石油の元取締役男性(当時76歳)[注 35]に約30万円の借金を申し込んだが、断られた上に自身の両親や一族の生活態度を非難されたことや[407]、直後に保険会社から保険料納入の催促があったことから、おじを殺害して金を奪うことを決意[408]。同月29日1時ごろ、東京都大田区東雪谷のおじ宅に侵入しておじとその妻(当時62歳)、妻の母親(当時91歳)の3人をナイフで突き刺したり、手製の棍棒などで頭を滅多打ちにしたりして殺害し[408]、預金通帳2通(残高約570万円)を奪った[407]。 犯行後、3人の遺体の台所の床下貯蔵庫に詰め込んで隠した上、奪った銀行の預金通帳など2冊を用いて約400万円をおろし、一部を借金返済に充てた[408]。また犯行から2日後には現場のおじ宅を訪れて罪証隠滅工作をした[408]。 公判でIの弁護人は強盗目的を否定し、犯行動機は被害者になじられた恨みであると主張したほか[408]、専修大学法学部教授の森武夫による精神鑑定書などを基に、「被告人は1982年8月から精神安定剤を常用しており、犯行に歯止めが効かなくなっていた」として有期懲役刑にするよう主張していた[407]。1984年6月5日に開かれた第一審判決公判で、東京地裁刑事第7部(佐藤文哉裁判長)は、被告人は犯行時心因性の抑うつ状態だったと認定した一方、安定剤が正常な判断を阻害していたとは認められないとして完全な責任能力を認定[407]。恨みと同程度に強盗目的もあったとして強盗殺人罪の成立を認定し、Iに死刑判決を言い渡した[408]。控訴審でも事件当時は金策に窮して抑うつ状態・絶望状態におちい平判断力にも病的な異常があったと主張したが、東京高裁刑事第9部(内藤丈夫裁判長)は1985年11月29日、控訴棄却の判決を言い渡した[410]。 1988年10月22日付で上告を取り下げ、同月24日付で死刑が確定。控訴取り下げは大喪の礼に伴う恩赦を期待したものだったが、恩赦はされなかった[401]。 1996年12月20日に東京拘置所で死刑執行(55歳没)。
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1989年死刑確定囚(5人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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日建土木保険金殺人事件 (N)[411] |
1989年6月8日 |
1977年1月7日 |
1936年(昭和11年)12月18日生まれ。暴力団菅谷組系清田連合会幹部[413]。 組の運営資金や遊興費欲しさに保険金殺人を計画[413]。1977年1月7日、男Y(愛知県名古屋市西区の土木会社「日建土木」の実質的な社長)と共謀し[414]、同社取締役で3億円の生命保険に入っていた男性(当時48歳)を、自身と同じ菅谷組の組員(第一審で無期懲役判決)を通じて雇った暴力団員3人に命じて[413]、静岡県浜松市内でロープを用いて絞殺させ[414]、死体を同市馬郡町(現:浜松市中央区馬郡町)の駐車場に遺棄させた[413]。その後、Yが男性の死亡保険金3億円を保険会社に請求したが、保険会社が支払いを留保したため、詐取は未遂に終わった[414]。 また1976年9月21日未明には愛知県西春日井郡師勝町(現:北名古屋市)で、同様に3億円の保険に入っていた同社従業員男性を車ではねて殺そうとしたが未遂に終わり(被害者は2か月の怪我)[413]、保険会社から保険金630万円を騙し取った[414]。同年7月1日にも[413]、「日建土木」の名目上の社長だった男性を殺害しようと長良川に連れ出して溺れさせようとし[414]、翌8月にも恵那峡ダム(岐阜県恵那市)に゙誘おうとした(いずれも殺人予備)[414]。共犯Yも被害者3人と同じく、日建土木を保険金受取人とした保険に加入していたが、Yは4人で唯一被害に遭わなかった[414]。 1977年7月に保険金殺人事件が発覚[414]。1974年に゙発生した別府3億円保険金殺人事件をヒントにしたとも言われ、後に愛知県内で相次いで発生した大型保険金殺人事件の皮切りともなった事件である[注 36][411]。 殺人・死体遺棄などの罪に問われ、1980年7月8日に名古屋地裁刑事第3部(塩見秀則裁判長)で死刑判決を言い渡された[413]。名古屋地裁における死刑判決は当時、1974年5月20日に言い渡された武豊町一家3人殺害事件の判決以来だった[413]。控訴したが、1981年9月10日に名古屋高裁刑事第2部(海老原震一裁判長、転任のため服部正明裁判長が代読)で控訴棄却の判決を言い渡された[416]。 1989年3月28日に最高裁第一小法廷(安岡満彦裁判長)で上告棄却判決を受け[417]、同年6月8日付で死刑が確定。 1998年11月19日に名古屋拘置所で死刑執行(61歳没)[注 30][313]。 共犯の男Yは1977年10月、Nの「Yに犯行を依頼された」という自供がきっかけで逮捕・起訴されたが、Yは「Nが自分の罪を軽くするために虚偽の供述をした」として殺人・殺人未遂3件については無罪を主張し、殺人事件とは無関係な自動車修理に関連する保険金(計約24万円)の詐欺事件のみ起訴事実を認めていた[414]。しかし名古屋地裁刑事第2部(桜林三郎裁判長)はNの供述などから、Yも殺人・殺人未遂の首謀者であると認定し、1984年3月28日に死刑判決を言い渡した[注 37][415][414]。Yは同判決を不服として控訴したが、1988年3月11日には名古屋高裁刑事第2部(鈴木雄八郎裁判長)から控訴棄却の判決を言い渡された[418][419]。しかし最高裁第二小法廷(根岸重治裁判長)は1996年9月20日、Yについて「犯行は明らかだが、積極的に殺人計画を進めた共犯者 (N) に引きずられたのであって、量刑は是認できない」として、殺害された被害者が1人であること、Yが殺人の実行行為・殺害方法の謀議に関与していないことなどを理由に挙げ、原判決を破棄自判し、Yに無期懲役の判決を言い渡している[420]。最高裁が量刑不当を理由に下級審の死刑判決を破棄した事例は、1953年6月に言い渡された強盗殺人事件の上告審判決以来、戦後2件目だった[411]。また実行犯を手配した男(Nと同じ清田連合会幹部)もNと同日に無期懲役の判決を言い渡され[413]、後に確定[419]。N・Yを含む計9人が関与した事件として[411]、N・Yと先述の組幹部以外に6人が起訴され、彼らはいずれも無期懲役から懲役4年の判決を言い渡され[413]、確定している[注 38][414][419]。
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埼玉2女性殺害事件(石田富蔵[421]) |
1989年7月5日 |
1973年8月4日 1974年9月13日 |
1921年(大正10年)11月13日生まれ。1973年8月、埼玉県川口市内の河原で、交際中の主婦(当時33歳:同県鳩ヶ谷市〈現:川口市〉南町)を絞殺し、現金などを奪った上で遺体を焼いた[422]。また1974年9月には、鳩ヶ谷市桜町の飲食店に盗み目的で侵入し、経営者女性(当時50歳)に乱暴しようとしたが、抵抗されたため絞殺し、指輪などを奪った[422]。前者事件の動機は、交際中だった主婦から別れ話を持ち出されたことに逆上したことだった[422]。1件の強盗殺人事件で取り調べを受けていた際にもう1件の殺人を自白したが、刑事裁判では強盗殺人事件(1974年の事件)[423]について冤罪を主張し、後者(1973年の事件)[423]についても傷害致死罪を主張した。 1980年1月30日に浦和地裁(杉山英巳裁判長)で死刑判決を受け、1982年12月23日には東京高裁(菅間英男裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 最高裁第三小法廷(坂上壽夫裁判長)で1989年6月13日に上告棄却判決を受け[422]、同年7月5日付で死刑が確定。 2009年6月以降は東京拘置所内の病棟で治療を受けていたが、2014年4月19日に前立腺癌のため所内で病死(92歳没)[423]。当時は再審請求を棄却され、再度請求する準備をしていたところだった[423]。
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「殺し屋」連続殺人事件 (F) |
1989年11月2日 |
1970年2月13日 - 1973年4月15日 |
1942年(昭和17年)2月23日生まれ(旧姓S)。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在82歳)。 従兄弟の暴力団員に依頼し都合の悪い相手3人を殺害したほか、会社経営者らから恐喝で金銭を巻き上げるなど多数の余罪がある[424]。中日スタヂアム事件にも関与した。 1977年3月31日、Sは東京地裁(林修裁判長)で実行犯のうち2人とともに死刑判決を受けるが、起訴事実のうち殺人一件は「共謀の証明がない」として無実が言い渡された[425]。1982年7月1日に東京高裁(船田三雄裁判長)で控訴棄却判決。 1989年10月13日に最高裁第三小法廷(貞家克己裁判長)で上告棄却判決を受け、同年11月2日付で死刑が確定。
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埼玉父親ら3人殺害事件 (K) |
1989年12月1日 |
1985年3月8日 |
1954年(昭和29年)4月6日生まれ。 1986年5月20日に浦和地裁(杉山忠雄裁判長)で死刑判決を受け、1986年12月22日(控訴から半年後)に東京高裁(萩原太郎裁判長)で控訴棄却判決。 1989年11月20日に最高裁第二小法廷(香川保一裁判長)で上告棄却判決を受け、同年12月1日付で死刑が確定。 1997年8月1日に東京拘置所で死刑執行(43歳没)。
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伊勢崎2少女殺害放火事件 (T) |
1989年12月26日 |
1976年4月1日 |
1951年(昭和26年)6月29日生まれ。群馬県伊勢崎市東上之宮町出身[428]。病死した時点では「U」姓に改姓していた[429]。事件前に強盗傷害など前科・前歴2犯[430]。 1976年4月1日、覚醒剤の購入資金を得るため、当時身を寄せていた女性宅の隣家である伊勢崎市三和町の会社員男性(当時48歳)宅に盗み目的で侵入、家人がいれば殺害して金を奪おうと計画した[428]。同日13時30分ごろ、柳刃包丁[428](刃渡り約30 cm[430])を隠し持って隣家に侵入し、男性の長女(当時13歳、殖蓮中学校2年生)と従姉妹の中学2年生の女子生徒(当時13歳、第三中学校2年生)の2人が包丁を見て悲鳴を上げたため、Tは2人の胸を包丁で刺して失血死させた[428]。その後、この家から指輪やネックレスなどを盗んだ上で[430]、犯行を隠すため、ストーブの灯油を2人の体や周囲に撒き散らして放火、この家と隣家を全焼させた[428]。 強盗殺人、現住建造物等放火などの罪に問われ、公判で弁護人は覚醒剤による幻覚で心神耗弱状態にあったと主張したが、1979年3月15日に前橋地裁(浅野達男裁判長)はTには事件当時、妄想症状は見られず、善悪の識別能力が多少欠けていたにすぎず、心神耗弱だったとまでは言えないと判断[428]。また自白の任意性も認定し、死刑判決を言い渡した[428]。Tは控訴したが、1983年11月17日に東京高裁刑事第4部(山本茂裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[431]。 1989年12月8日に最高裁第二小法廷(島谷六郎裁判長)で上告棄却の判決を受け[432]、同月26日付で死刑が確定。 死刑確定後も「犯行時は覚醒剤の影響があり責任能力に問題があった」として再審請求していたが、2013年7月に癌と診断され[429]、同年11月15日に肺癌のため、収監先の東京拘置所内で病死(62歳没)[429][434]。
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1990年 - 1994年
1990年死刑確定囚(7人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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銀座社交クラブママ殺害事件 (N) |
1990年2月22日 |
1978年5月21日 1978年6月10日 |
1946年(昭和21年)12月18日生まれ。共犯のHは1988年に上告を取り下げ、死刑が確定。 1980年1月18日、東京地裁刑事第6部(小野幹雄裁判長)でHとともに死刑判決を受けた[405]。控訴したが、1982年1月21日に東京高裁(市川郁雄裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 1990年2月1日に最高裁第一小法廷(佐藤哲郎裁判長、定年退官のため四ツ谷巖裁判官が代読)で上告棄却判決を受け[435]、同月22日付で死刑が確定。 1996年12月20日に東京拘置所で死刑執行(50歳没)。
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熊本主婦殺人事件(金川一[436]) |
1990年4月21日 |
1979年9月11日 |
1950年(昭和25年)7月7日生まれ。2020年9月27日時点で福岡拘置所に収監中(現在74歳)。 1979年9月11日14時ごろ、熊本県球磨郡免田町(現:あさぎり町)の路上で、偶然すれ違った主婦(当時21歳)を乱暴しようと追いかけ、近くの畑で襲って首を絞めた上、持っていた短刀で滅多刺しにして殺害した[437]。同事件以前にも少年時代に強盗殺人事件を起こし[438]、懲役5年以上10年以下の不定期刑の判決を受け[437]、10年間服役していたが[439]、その刑期を終えて出所してから3か月後の犯行である[437]。凶器は未発見のままだが、確定判決はKの供述から「短刀様の鋭利な刃物」と認定している[440]。 検察官は1981年7月9日に熊本地裁八代支部で開かれた第一審の公判で死刑を求刑したが、Kは同月17日の最終弁論でそれまでの供述を翻して殺害を避妊、弁護側も自白以外の証拠がなく、凶器も未発見であることを主張。証拠の見直しが行われたが、検察官は1982年3月15日の公判で改めて死刑を求刑した。同月6月14日、熊本地裁八代支部(河上元康裁判長)は有罪を認定、残忍な犯行であることや反省がないことから「極刑も考えられる」としながら死刑求刑を退け、無期懲役の判決を言い渡した[441]。検察官が「残忍であり、再犯の恐れも極めて高い」と控訴した一方、弁護人も控訴し、控訴審では「凶器のナイフが見つかっていないなど不確定なものを残して死刑にすべきでない。異常人格で犯行時は心神耗弱に近い状態だった」と主張していたが、福岡高裁第2刑事部(緒方誠哉裁判長)は1983年3月17日に原判決を破棄自判し、Kを死刑とする判決を言い渡した[439]。 1990年4月3日に最高裁第三小法廷(安岡満彦裁判長)で上告棄却判決を受けた[437]。異議申立も同月20日付で棄却され、同月21日付で死刑が確定。 死刑確定後、2006年12月までに福岡高裁に3回の再審請求を起こしている[442][443]。
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永山則夫連続射殺事件(永山則夫) |
1990年5月9日 |
1968年10月11日 - 11月5日 |
「警察庁広域重要指定108号事件」[444]。 1949年(昭和24年)6月27日生まれ。各事件当時19歳の少年死刑囚。 1979年7月10日に第一審・東京地裁刑事第5部(蓑原茂広裁判長)で死刑判決を受けたが控訴し[446]、1981年8月21日に控訴審・東京高裁刑事第2部(船田三雄裁判長)は第一審判決を破棄自判して無期懲役判決を言い渡した[447]。 しかしこの控訴審判決を不服とした東京高検が最高裁へ上告したところ[448][449]、1983年7月8日に最高裁第二小法廷(大橋進裁判長)は上告審判決公判で「死刑を回避した控訴審判決は量刑不当。破棄しなければ著しく社会正義に反する」などとして原審を破棄し、審理を東京高裁に差し戻した[450]。最高裁が量刑不当を理由に被告人に不利益な方向で控訴審判決を破棄して高裁への差し戻しを命じた事例は戦後刑事裁判史上初で、最高裁は同時に判決理由で死刑適用基準について初めて詳細に明示した[450](後の「永山基準」)。 差し戻し後の控訴審では1987年3月18日に東京高裁刑事第3部(石田穣一裁判長)が第一審・死刑判決を支持して被告人・永山の控訴を棄却する判決を言い渡した[451]。そして1990年4月17日に最高裁第三小法廷(安岡満彦裁判長)が上告棄却判決(差し戻し控訴審の死刑判決を支持)を言い渡し[452]、永山は同判決に対し訂正を申し立てたが、これも最高裁第三小法廷(坂上壽夫裁判長)から棄却決定が出されたため、(決定が永山に通達された)1990年5月9日に死刑が確定[453]。 1997年8月1日に東京拘置所で死刑執行(48歳没)[393]。
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長崎3人殺害事件(村竹正博[454]) |
1990年5月12日 |
1978年3月21日 |
1944年(昭和19年)3月30日生まれ。 第一審・長崎地裁佐世保支部(亀井義朗裁判長)では情状酌量により無期懲役判決(1983年3月30日)を受けたが、控訴審・福岡高裁(桑原宗朝裁判長)で1985年10月18日に一審破棄・死刑判決を受けた。 1990年4月27日に最高裁第二小法廷(藤島昭裁判長)で上告棄却判決を受け[455]、同年5月12日付で死刑が確定。1998年6月25日に福岡拘置所で死刑執行(54歳没)。
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空知連続殺人事件 (H) |
1990年10月25日 |
1972年5月6日 1972年8月19日 1974年5月12日 |
1934年(昭和9年)5月8日生まれ。離婚後、重機の運転手として勤務しながら男で1つで小学生の息子2人を育てていたが、1972年5月6日に空知支庁管内・月形町で女子専門学校生A(当時19歳)を乗用車内で暴行して窒息死させた[458](殺人・強姦致死事件)ほか、同年8月19日には同管内奈井江町でデパート店員の女性B(当時19歳)を同様の手口で殺害して遺体を山林に遺棄した[458](殺人・強姦致死および死体遺棄事件)。また1974年5月12日には奈井江町内で農家の主婦C(当時40歳)を乗用車で拉致し、強姦して負傷させた上で農道上に放置する事件(強姦致傷事件)を起こし、同年5月26日にC事件の容疑で緊急逮捕された。その後A・B両被害者の殺害を自供し、1974年6月6日にC事件(強姦致傷)の加害者として、同月22日にはA事件(殺人・強姦致死)とB事件(殺人・強姦致死および死体遺棄)の加害者としてそれぞれ起訴された。「証拠は違法捜査による自白のみで物証がない」として無罪を主張。1976年6月24日に札幌地裁岩見沢支部は罪状のうち死体遺棄を無罪と判断し、殺意も否定して無期懲役判決を言い渡したが、被告人H・検察官とも控訴した。その後、札幌高裁は検察官の主張を全面的に認め、1979年4月12日に原判決を破棄して死刑判決を言い渡した。上告審では安田好弘らが弁護団を再編して弁護活動を行ったが[注 39]、1990年9月13日に最高裁第一小法廷(角田礼次郎裁判長)で上告棄却判決を受け[461]、同年10月23日付で判決訂正の申し立ても棄却されたため、同月25日に死刑が確定[注 40]。 死刑確定後の1992年9月24日に札幌高裁へ再審請求したが、2001年2月16日に再審請求棄却決定がなされた。同月19日に異議申し立てをしたが2003年3月31日に異議申し立ても棄却されたため、同年4月7日に最高裁へ特別抗告していた。 札幌刑務所札幌拘置支所[注 20]に収監されていたが、2003年8月にスキルス性胃癌と診断され、同年12月には胃の全摘手術を八王子医療刑務所で受けた後、収監先・札幌拘置支所へ戻り[458]療養していた。しかし2004年6月4日、癌性悪液質により札幌刑務所[注 20]の病舎内で病死(70歳没)。
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三崎事件(荒井政男[464]) |
1990年10月31日 |
1971年12月21日[465] |
1927年(昭和2年)2月4日生まれ。事件当時は神奈川県横浜市金沢区谷津町363に在住し、横浜の寿司店「あらい」と藤沢市内の鮮魚店2軒を経営していたが、経営不振に陥り、店舗の家賃など約50万円が未納となり、返済を迫られていた[466]。 1971年12月22日23時35分ごろ、神奈川県三浦市三崎町二丁目18番6号の船舶食料品販売業者宅1階で、経営者の男性(53歳)に対し、100万円の借金を申し出たが、断られたことに立腹[467]。持ってきた魚切包丁で男性と妻(当時49歳)の胸・首・背中などを刺して殺したほか[注 41]、2階にいた夫婦の長女(当時17歳:県立大津高校2年生)も胸などを刺して殺害した[467]。夫婦の次男(14歳:市立三崎中学校2年生)は事件当時、殺された姉(長女)とともに同宅2階にいたが、窓から飛び降りて助かった[467]。その後、犯人の男2人は駐車してあったコロナマークIIで国道16号沿いに横須賀方面へ逃走した[465]。当初の目撃証言によればマークIIのボディカラーは「グリーン」だったが[465]、後に「グレー」となっている[468]。 被害者の男性と荒井は約20年前から知り合いだった[466]。被害者遺族である次男(当時14歳)らの証言から、車のナンバーは「4375」と断定されたほか[468]、次男の証言により、顔見知りの犯行と推測されていた[466]。現場の住宅の瓶に遺されていた清涼飲料水の瓶に付着していた指紋が荒井のものと一致したことや、荒井が目撃された車のナンバーとよく似た「横浜5む4379」のコロナマークIIを持っていたことから、荒井の犯行と断定された[466]。 逮捕直後は犯行を自供していたが[466]、1974年2月24日の初公判以降は自供を翻して殺人を否認、凶器が未発見に終わるなど物証が乏しかったことから、判決公判までに35回の審理が重ねられた[467]。しかし、横浜地裁横須賀支部(秦不二雄裁判長)は唯一の手掛かりである次男の証言の信用性を認め、1976年9月25日に死刑判決を言い渡した[467]。 荒井は控訴したが、1984年12月18日に東京高裁第12刑事部(小野慶二裁判長)は現場に遺留されていた足跡などから荒井の犯人性を認定し、控訴棄却の判決を言い渡した[469]。1990年10月16日に最高裁第三小法廷(坂上壽夫裁判長)で上告棄却判決を受け[470]、同月31日付で死刑が確定。 東京拘置所に収監されていたが、高血圧や糖尿病などの持病があり、2009年7月ごろから体調を崩して拘置所内の病棟で酸素吸入や投薬治療を受けるようになり、9月3日に所内で敗血症のため病死(82歳没)[471]。死後、1991年からなされていた再審請求を荒井の長女が継承し[472]、2023年(令和5年)1月17日には遺族が横浜地裁横須賀支部へ第3次再審請求した[473]。 救援会の機関紙『潮風』がある。
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1991年死刑確定囚(4人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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福岡県直方市強盗殺人事件 (T) |
1991年1月16日 |
1980年4月23日 |
1932年(昭和7年)6月20日生まれ。 1956年(昭和31年)9月9日に福岡県飯塚市外二瀬町の質屋へ3人組で押し入り、経営者を刺殺する強盗殺人事件を起こし、飯塚警察署(福岡県警)に逮捕された[474]。同事件では1957年(昭和32年)10月30日に福岡高裁で無期懲役判決を受けて熊本刑務所に収監され、1978年(昭和53年)11月22日に仮釈放されたが[475]、仮釈放中に本事件を起こした(再犯)[476]。 1980年4月23日に福岡県直方市頓野で女性(当時64歳)宅に侵入し、金品を物色中に被害者に見つかったことから絞殺して現金2,000円を奪った[476]。また同年6月25日には同県北九州市八幡西区楠木二丁目へ盗みに入り、それを見つけて追いかけてきた男性の首などをナイフで突き刺し[477]、約6か月の怪我を負わせたほか、1979年11月 - 1980年6月にかけて15件の盗みを重ねた[478]。 1981年7月14日に第一審・福岡地裁小倉支部(佐野精孝裁判長)で死刑判決[478]。1986年12月2日に控訴審・福岡高裁刑事第1部(永井登志彦裁判長)で控訴棄却判決を受け[479]、最高裁第二小法廷(中島敏次郎裁判長)で1990年12月14日に上告棄却の判決を受けたが、上告審の判決文に殺人事件と余罪の空き巣の間隔を「2か月」とすべきところ「1年2か月」と誤記していたため、これを把握した最高検察庁が同日中に判決訂正の申し立てを行い[476]、同月17日に改めて訂正判決が言い渡された[480]。最高裁が刑事事件判決における誤記などを訂正する判決を言い渡した事例は1964年(昭和39年)[注 42]以来26年ぶりで、死刑事件では史上初だった[480]。その後、1991年1月16日付で死刑が確定。 1998年6月25日に福岡拘置所で死刑執行(66歳没)。
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パチンコ景品商殺害事件 (S) |
1991年2月28日 |
1983年1月16日 |
1931年(昭和6年)12月28日生まれ。1950年11月、強盗殺人などで無期懲役の判決を受け、1975年10月に仮釈放された。 知人男性(当時69歳)に借金を申し込み、拒絶された場合は殺害して現金を奪うことを考え、1983年1月16日深夜、男性宅に忍び込んで借金を申し込んだが、拒絶されたため頭部を殴打して殺害し、現金128万円を強取した。 1984年1月23日に東京地裁(田尾勇裁判長)で死刑判決を受け、1985年7月8日には東京高裁(柳瀬隆治裁判長)で控訴棄却判決。 1991年2月5日に最高裁第三小法廷(可部恒雄裁判長)で上告棄却判決を受け、同月28日付で死刑が確定。 1998年6月25日に東京拘置所で死刑執行(66歳没)。
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自殺偽装夫殺害事件 (M) |
1991年3月2日 |
1974年8月8日 1978年4月24日 |
1932年(昭和7年)3月10日生まれ[482]。本籍地は東京都江東区東陽一丁目、住居は同区南砂二丁目、飲食店経営[482]。戦後5人目の女性死刑囚[483][484]。 元バー経営者[485]。夫(死亡当時47歳)に愛人ができ、家庭を顧みなくなったことから、自身の愛人である元バーテンの男A(事件当時79歳)[注 43]と共謀した上で[485]、夫を殺害して退職金を得ることを計画[484]。1974年8月8日夜、東京都江東区南砂二丁目の自宅で都市ガスを放出して就寝中の夫を一酸化炭素中毒死させ[485]、犯行後にAとともに夫の遺体を風呂場へ運び、入浴中に一酸化炭素中毒死したように偽装した[486]。また自身が経営していたバーにホステスとして勤めていた女T(殺人罪などで懲役15年が確定)が[486]、内縁の夫O(死亡当時36歳)と別れたがっていたことから[485]、死亡保険金1,200万年の保険に加入していたOを殺害して保険金を分配することを計画[485]。A・Tの2人に加え、Tの愛人だった店のバーテン(懲役10年が確定)も含む3人と共謀した上で、1978年4月24日深夜、江東区内の有明埋立地にOを誘い出して睡眠薬入りドリンクを飲ませ、首を絞めて殺害、遺体を叢に遺棄した[485]。 1978年、共犯者らと経営していたバーの店員の内縁の夫を殺害して死体を遺棄。警察がMらを逮捕して取り調べる過程で、1974年にMが夫をガス中毒死に偽装して殺していた事実も判明した[487]。 殺人・死体遺棄の罪に問われた[486][483]。裁判でMは夫殺害については無実を主張したが[485]、1980年5月6日に東京地裁刑事第15部(小林充裁判長)は両事件ともMの有罪を認定した上でMを死刑(求刑通り)、Aを懲役9年(求刑:懲役12年)とする判決を言い渡した[486]。女性に対する死刑判決は当時、「日本閣事件の」の犯人である女(戦後3人目の女性死刑囚)に宣告されて以来と言われた[486]。 2人とも控訴したが、1986年6月5日に東京高裁刑事第10部(寺沢栄裁判長)は2人の控訴を棄却する判決を言い渡した[485]。 M・Aともに上告したが、1991年1月31日に最高裁第一小法廷(四ツ谷巖裁判長)は2人の上告を棄却する判決を言い渡した[483]。判決訂正申立も同年3月1日付で棄却され[488]、Mは同月2日付で死刑が確定。 東京拘置所に収監されていたが、再審請求中の2007年7月17日に所内で病死(75歳没)。
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泰州くん誘拐殺人事件 (T) |
1991年7月1日 |
1984年2月13日 |
1939年(昭和14年)8月15日生まれ。 1985年7月17日に広島地裁福山支部(雑賀飛龍裁判長)で死刑判決を、1986年10月21日に広島高裁(久安弘一裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 1991年6月11日、最高裁第三小法廷(園部逸夫裁判長)で上告棄却判決を受ける[490]。判決訂正申立も同月28日付の第三小法廷決定[事件番号:平成3年(み)第5号・6号]で棄却され[491]、同年7月1日付で死刑が確定。 死刑確定後に俳句の投稿を禁止され、1998年11月19日に広島拘置所で死刑執行(59歳没)[注 30][313]。
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大宮母娘殺害事件(佐川和男) |
1991年12月18日 |
1981年4月4日 |
1951年(昭和26年)3月21日生まれ。 1982年3月30日に浦和地裁(米沢敏雄裁判長)で死刑判決を、1987年6月23日に東京高裁(小野慶二裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 1991年11月29日に最高裁第二小法廷(藤島昭裁判長)で上告棄却判決を受け[494]、同年12月18日付で死刑が確定。共犯は逃亡中に病死。 1999年12月17日に東京拘置所で死刑執行(48歳没)。
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1992年死刑確定囚(5人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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市原両親殺害事件 (S) |
1992年2月25日 |
1974年10月30日 |
1952年(昭和27年)9月14日生まれ。2019年10月1日付で東京拘置所に収監中(現在72歳)。 無実を主張したが、1984年3月15日に千葉地裁(太田浩裁判長)で死刑判決を、1986年8月29日に東京高裁(石丸俊彦裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 1992年1月30日に最高裁第一小法廷(大堀誠一裁判長)で上告棄却判決を受け[497]、判決訂正申立も同月24日付の決定で棄却されたため[498]、25日付で死刑が確定。 両親を殺害した青年の心理をめぐり、本事件をモデルとした中上健次の小説『蛇淫』や[499]、同小説を原作とした映画『青春の殺人者』(監督:長谷川和彦)が制作された[497]。
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東京都北区幼女殺害事件 (S) |
1992年2月29日 |
1979年7月28日 |
1937年(昭和12年)2月12日生まれ。無期懲役刑の受刑者が仮釈放中に再犯した事件。1979年9月9日に逮捕されたSは、20年前にも7歳の少女を殺害した前歴があり、15年間服役して仮釈放を受けている最中の事件であった[501]。 1981年3月16日に東京地裁(松本時夫裁判長)で死刑判決を、1985年9月17日に東京高裁(寺沢栄裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 1992年2月18日に最高裁第三小法廷(可部恒雄裁判長)で上告棄却判決を受け[502]、同月29日付で死刑が確定。 1999年9月10日に東京拘置所で死刑執行(62歳没)。
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福島女性飲食店経営者殺害事件 (T) |
1992年7月3日 |
1990年5月2日 |
1938年(昭和13年)4月27日生まれ。無期懲役刑の受刑者が仮釈放中に再犯した事件。 1992年6月18日に福島地裁郡山支部(慶田康男裁判長)で死刑判決を受けた。控訴せず、同年7月3日付で死刑が確定。 1999年9月10日に宮城刑務所(収監先・仙台拘置支所に隣接)[注 20]で死刑執行(61歳没)。
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熊本母娘殺害事件 (M) |
1992年10月6日 |
1985年7月24日 |
1930年(昭和5年)4月10日生まれ。無期懲役刑の受刑者が仮釈放中に再犯した事件。 1986年8月5日に熊本地裁(荒木勝己裁判長)で死刑判決を受け、1987年6月22日に福岡高裁(浅野芳朗裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 1992年9月24日に最高裁第一小法廷(大堀誠一裁判長)で上告棄却判決を受け[506]、同年10月6日付で死刑が確定。 1999年9月10日に福岡拘置所で死刑執行(69歳没)。
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赤穂同僚妻子殺害事件 (N) |
1992年10月19日 |
1983年1月19日 |
1950年(昭和25年)6月17日生まれ。 1983年1月、兵庫県赤穂市で同僚の妻(当時33歳)と長男(同4歳)を車で連れ出し、妻を絞殺したほか、長男も千種川に投げ込んで水死させた[507]。また健康保険証や印鑑を奪い、その保険証を悪用して現金100万円を引き出した[507]。ゲーム機賭博に凝った末、サラ金への借金返済に困ったことが動機である[508]。 1984年7月10日に神戸地裁姫路支部(藤原寛裁判長)で死刑判決を[509]、1987年1月23日に大阪高裁第6刑事部(家村繁治裁判長)で控訴棄却判決を受けた[510]。 1992年9月29日に最高裁第三小法廷(貞家克己裁判長)で上告棄却判決を受け[507][508]、同年10月19日付で死刑が確定。 2007年4月27日に大阪拘置所で死刑執行(56歳没)。
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1993年死刑確定囚(7人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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連合赤軍事件(坂口弘) |
1993年3月10日 |
1971年 - 1972年2月 |
1946年(昭和21年)11月12日生まれ。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在77歳)。 共犯の一部が超法規的措置で出国。 1982年6月18日に東京地裁(中野武男裁判長)で死刑判決を、1986年9月26日に東京高裁(山本茂裁判長)で控訴棄却判決を受けた。1993年2月19日に最高裁第三小法廷(坂上壽夫裁判長)で上告棄却判決(第一審・控訴審の死刑判決を支持)を受け[512]、同判決への訂正申し立ても1993年3月9日付で棄却されたため[513]、同月10日付で、坂口・永田の死刑が確定。また、植垣康博(元兵士)も懲役20年の判決が確定している[514]。 著書『坂口弘歌稿』『あさま山荘1972』や歌集『常しへの道』『暗黒世紀』など。
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連合赤軍事件(永田洋子) |
1993年3月10日 |
1971年 - 1972年2月 |
1945年(昭和20年)2月8日生まれ。坂口の共犯(裁判経緯は坂口と同一)。 脳腫瘍の手術後に脳萎縮・誤嚥性肺炎などを患い[515]、2011年2月5日に多臓器不全のため東京拘置所内で死去(65歳没)[515][516]。死去時点で再審請求中だった。著書『十六の墓標』『私生きてます』など多数。
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山中湖連続殺人事件(澤地和夫) |
1993年7月5日 |
1984年10月11日[517] 1984年10月25日[517] |
1939年(昭和14年)4月15日生まれ。元警視庁警部[518]。 1980年1月、21年あまり勤務した警視庁を退職し、新宿に大衆割烹店を開店したが、経営が悪化、1983年8月には1億5,000万円の負債を抱えて閉店に追い込まれ、一攫千金を狙って強盗殺人を計画した[517]。 1984年10月11日、自分と同じく借金に苦しんでいた仲間の男2人(I・Pの両名。それぞれ死刑と無期懲役が確定)と共謀し、東京都北区の宝石商男性(当時36歳)を山梨県南都留郡山中湖村の別荘に誘い出して絞殺、現金や指輪など6,000万円相当を奪い、死体を床下に埋めた[517]。次いで同月25日、Iと共謀して埼玉県上尾市の女性金融業者(当時61歳)を土地をめぐる融資話で誘い出し、浦和市(現:さいたま市浦和区)内を走行中の車内で絞殺、現金2,000万円や指輪、預金通帳などを奪い、死体を別荘床下に埋めた[517]。 刑事裁判では強盗殺人・死体遺棄罪などに問われた[519]。1987年10月30日、東京地裁刑事第2部(中山善房裁判長)は澤地・Iの両被告人を死刑、P被告人を無期懲役とする判決を言い渡し[517]、東京高裁第9刑事部(内藤丈夫裁判長)も1989年3月31日に3被告人の控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した[520]。 その後澤地・Iの両被告人は最高裁に上告していたが、1993年3月に死刑執行が3年4か月ぶりに再開されると、澤地はそれに対する抗議の意図で[521]、同年7月5日、東京拘置所長に上告取下書を提出[522](同日付で死刑確定)[注 44]。なお、共犯Iは1995年(平成7年)7月3日に最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長)で上告棄却の判決を受け、死刑が確定している[525]。 2007年10月から胃癌の治療を受けていたが[519]完治せず延命治療を拒否し、2008年12月16日に東京拘置所内で多臓器不全のため獄死(69歳没・再審請求中)[518]。公判中の1989年1月に手記『監獄日記 東京拘置所の四季』(彩流社)を出版。以後、死刑確定後には『東京拘置所死刑囚物語 獄中20年と死刑囚の仲間たち』(2006年3月・彩流社)・『なぜ死刑なのですか 元警察官死刑囚の言い分』(2006年10月・柘植書房新社)を刊行したほか、死後にも『殺意の時 元警察官・死刑囚の告白』(2010年4月・彩流社)が刊行された。
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今市4人殺傷事件(藤波芳夫[526]) |
1993年10月4日 |
1981年3月29日 |
1931年(昭和6年)5月15日生まれ。本籍地は埼玉県鴻巣市逆川一丁目75番地1[527]。 栃木県今市市大室(現:日光市大室)で離婚した妻の実家に押し入り、親類の男女2人を刺殺した[528]。 1982年2月19日に宇都宮地裁(竹田央裁判長)で死刑判決を受け、1987年11月11日に東京高裁(岡田満了裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 1993年9月9日に最高裁第一小法廷(味村治裁判長)で上告棄却判決を受け[527]、判決訂正申立も同年10月1日付の決定で棄却され[529]、同月4日付で死刑が確定。 死刑確定後に「事件当時は覚醒剤の影響下にあり、飲酒によりフラッシュバック状態になって事件を起こした」として、責任能力の問題を主張し、再審請求していた。 2006年12月25日に東京拘置所で死刑執行(75歳没)[163]。この年齢は同日に処刑された秋山芳光(当時77歳)とともに[163]、それまで戦後最高齢とされていた古谷惣吉(71歳3か月)を上回っている。 2008年10月11日に開催された「響かせあおう死刑廃止の声2008 死刑囚からあなたへ」では「死刑執行時は車椅子に乗った状態から刑務官に両脇を抱えられて刑場に立たされた」とする死刑執行の場面が再現されているほか、『年報・死刑廃止2007』には遺書全文が掲載されている。
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半田保険金殺人事件 (H) |
1993年10月12日 |
1979年11月19日 - 1983年12月25日 |
1950年(昭和25年)11月3日生まれ[533]。旧姓T。 経営していた板金塗装会社の経営不振から、1979年11月に知人の共犯Iと共謀して知り合いの織布工A(当時20歳)[536]に生命保険(2,000万円)を掛け[537]、衣浦港(愛知県知多郡武豊町)に突き落として殺害した[536]。さらに1983年1月にも雇っていた従業員B(同30歳)に生命保険(2,000万円)[537]を掛けた上で京都府相楽郡加茂町内にて交通事故を装って殺害したほか、同年12月には愛知県半田市内で金融業者C(当時39歳)を[536]借金逃れのために殺害した[537]。 1985年12月5日に名古屋地裁刑事第2部(鈴木雄八郎裁判長)で共犯Iとともに死刑判決を受け、1987年3月31日に名古屋高裁刑事第1部(山本卓裁判長)で控訴棄却判決を受けた[537]。共犯Iは控訴審判決後に上告せず、死刑が確定。 自身も1993年9月21日に最高裁第三小法廷(園部逸夫裁判長)で上告棄却判決(5裁判官全員一致)を受け[539]、判決訂正申立も同年10月8日付の決定で棄却され[540]、同月12日付で死刑が確定。同判決に当たり、裁判官・大野正男が「死刑制度は憲法違反とは断言できないが、合憲判断を下した1948年の大法廷判決以降、死刑が「残虐な刑罰」(日本国憲法36条違反)に当たると評価される余地は著しく増大した[注 45]。死刑廃止に向かいつつある国際的動向と、死刑制度の存続を支持する我が国民との意識とが大きな隔たりを持ち続けることは好ましくない。一定期間、死刑執行を法律で実験的に停止し、犯罪増加の有無との相関関係を調べるなどの立法的施策が考えられる」と補足意見を述べた[536]。 死刑確定後には1997年11月[541]・2000年5月下旬と[542]2度にわたり恩赦出願をしたが、2度とも名古屋拘置所から「恩赦不相応」の告知がなされた[541]。死刑が確定した1993年および死刑確定後の2000年には被害者Bの遺族(母親・兄ら)が「Hを許すことはできないが、生きてこそ償いだ。死刑執行は望まない」とする嘆願書を収監先・名古屋拘置所宛に提出し、後者は死刑囚Hの弁護人が2000年5月下旬に提出した恩赦願いに添えていた[542]。 Bの兄は2001年4月にも高村正彦法務大臣に対し死刑執行の中止などを訴えたが[543]、森山眞弓法務大臣の死刑執行命令により2001年12月27日に名古屋拘置所で死刑執行(51歳没)[314]。
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北九州母娘殺傷事件 (M) |
1993年11月16日[544] |
1990年3月12日 |
1950年(昭和25年)3月18日生まれ。無期懲役刑の受刑者が仮釈放中に再犯した事件。 1993年10月27日に福岡地裁小倉支部(森田富人裁判長)で死刑判決を受け、弁護人が控訴したが、1993年11月16日に自ら控訴を取り下げたことで死刑が確定した。その後公判再開を申し立てたが棄却され、2009年1月29日に福岡拘置所で死刑執行(58歳没)。 本事件の死刑確定以降、被害者1人の殺人事件に対する死刑確定は1998年4月(熊本大学生誘拐殺人事件)までなかった[308]。
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平取事件 (O)[545] |
1993年12月21日 |
1979年7月18日 |
1944年(昭和19年)1月19日生まれ。 1979年7月18日夜、日高振興局管内・沙流郡平取町の剥製業者男性(当時51歳)宅で、毛皮の代金支払い繰り延べの交渉をしたが断られ、自分が持ってきたライフル銃を振り回されるなどしたため、そのライフル銃で男性を射殺[547]。犯行を隠すため、業者の妻(当時37歳)、次男(同2歳)、長女(同22歳)の3人も相次いで射殺した[547]。 1984年3月23日に札幌地裁(安藤正博裁判長)で死刑判決を受け、1987年5月19日に札幌高裁(水谷富茂人裁判長)で控訴棄却判決。 1993年12月10日に最高裁第三小法廷(小野正男裁判長)で上告棄却判決を受け[547]、同月21日付で死刑が確定。 1999年11月8日に収監先・札幌拘置支所(札幌刑務所に隣接)[注 20]で入浴中、貸し出された剃刀で右頸部(頸動脈)を切り自殺(55歳没)[注 46][545]。
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1994年死刑確定囚(3人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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勝田清孝事件(勝田清孝) |
1994年2月5日 |
1972年9月 - 1983年1月 |
1948年(昭和23年)8月29日生まれ。事件の一部(1982年10月 - 1983年1月 / 警察官を襲撃して拳銃を強奪し、その拳銃で起こした連続強盗殺傷事件)は「警察庁広域重要指定113号事件」に指定された[550]。 強盗殺人罪など合計33の罪状・計27の犯罪事実で名古屋地方裁判所へ起訴されたが、併合罪(刑法第45条)の規定により[注 26]、「113号事件」を起こす以前に受けた有罪判決X[注 47]を境に「X判決前の強盗殺人7件ほか17罪」(前半事件)+「X判決後の殺人1件ほか『113号事件』16罪」と分離されて判決が言い渡された[552]。 1986年3月24日に名古屋地裁刑事第4部(橋本享典裁判長)で、前半事件・113号事件ともに死刑判決を受け[552]、名古屋高裁に控訴したが[553]、1988年2月19日に名古屋高裁(吉田誠吾裁判長)で控訴棄却判決を受けた[554]。 1994年1月17日に最高裁第一小法廷(小野幹雄裁判長)で上告棄却判決を受けたが[555]、同日に支援者である来栖宥子の実母(藤原姓)と養子縁組して「藤原清孝」に改名していた。 1994年1月26日付で最高裁判決を不服として最高裁第一小法廷(小野幹雄裁判長)に判決を訂正するよう申し立てたが、1994年2月3日付で同小法廷から申立て棄却決定が出され、同決定書が1994年2月5日に勝田宛に届いたことで正式に死刑判決が確定した。 2000年11月30日に名古屋拘置所で死刑執行(52歳没)。
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岐阜前妻一家殺害事件 (M) |
1994年3月7日 |
1989年2月14日 |
1943年(昭和18年)7月26日生まれ。殺害した被害者3人のうち2人については傷害致死罪を主張したが、1989年12月14日に岐阜地裁(橋本達彦裁判長)で死刑判決。 1990年7月16日に名古屋高裁(吉田誠吾裁判長)で控訴棄却判決を受け上告したが、上告を取り下げ、1994年3月7日付で死刑が確定。2000年11月30日に名古屋拘置所で死刑執行(57歳没)。
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北海道庁爆破事件(大森勝久) |
1994年9月6日[557] |
1976年3月2日 |
1947年(昭和22年)9月7日生まれ。2020年9月27日時点で札幌刑務所札幌拘置支所[注 20]に収監中(現在77歳)。 極左暴力集団「東アジア反日武装戦線」によるテロ事件。一貫して無実を主張したが、1983年3月29日に札幌地裁(生島三則裁判長)で死刑判決を受け、1988年1月21日に札幌高裁(水谷富茂人裁判長)で控訴棄却判決。 1994年7月15日に最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長)で上告棄却判決(一・二審の死刑判決を支持)を受け[559]、同判決に対し「本件は冤罪」として訂正を申し立てたが[560]、1994年9月5日付で棄却されたため[561]、同月6日付で死刑が確定[557]。 1985年、支援者と獄中結婚。獄中で極左から保守主義に転向し、外部協力者によって論文を雑誌に掲載しているほか、政治評論のホームページを運用している。
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1995年 - 1999年
1995年死刑確定囚(3人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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鳥栖親子3人殺害事件 (O) |
1995年5月10日 |
1983年5月16日[562] |
1945年(昭和20年)1月10日生まれ。 1983年5月16日夕方、佐賀県鳥栖市で近くに住む会社員男性(当時38歳)の長男(当時13歳)が、自宅の水道用ホースの取付用金具を盗んだと思い込み、男性と口論になった。男性と妻(当時36歳)を包丁で刺殺した上、逃げ出した長男も追いかけて滅多突きにして殺害した[562]。 刑事裁判では「事件当時は精神障害だった」として責任能力を争ったが、1987年3月12日に佐賀地裁(早船嘉一裁判長)で死刑判決。1989年10月24日には福岡高裁(丸山明裁判長)で控訴棄却判決を受けた。1995年4月21日に最高裁第二小法廷(中島敏次郎裁判長)で上告棄却判決を受け[562]、判決訂正申立も同年5月8日付の決定で棄却され[563]、同月10日付で死刑が確定。 2000年11月30日に福岡拘置所で死刑執行(55歳没)。
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山梨・新潟連続殺人事件 (F)[564] |
1995年6月27日[565] |
1986年3月6日 1986年3月11日 |
1958年(昭和33年)4月22日生まれ、秋田県大館市出身[566]。 傷害事件で執行猶予中だった1986年3月、以下の2事件を起こした[566][567]。また甲府市・京都府京都市などで盗みを重ねたほか、恐喝もしていた[566]。
- 1986年3月6日13時30分ごろ、前妻に会うために山梨県東山梨郡春日居町寺本(現:笛吹市春日居町寺本)の前妻の祖母A(当時73歳)[注 48]宅を訪れたが、Aに見つかったため、警察に通報されて前妻との交際を邪魔されることを恐れ、Aの手足を縛った上で浴槽に沈めて殺害[567]、遺体を6畳間の床下に隠した[566]。
- 1. の事件を起こして逃亡中の同月11日17時ごろ、前妻と共謀した上で、新潟県新潟市本町通(現:新潟市中央区本町通)のホテル「シノン」で前妻の元交際相手である男性会社員B(当時26歳)を1. 事件と同様の方法で殺害した[566]。
『山梨日日新聞』は一連の事件を「県内の事件史上、例のない連続殺人事件」と報じた[568]。 殺人、死体遺棄、窃盗などの罪に問われ、1987年7月6日に甲府地裁(古口満裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[566]。甲府地裁における死刑判決は、1982年に宣告された司ちゃん誘拐殺人事件の第一審判決以来5年ぶりで、戦後4件目と報じられている[566]。また2. 事件の共犯である前妻(当時29歳)も同日に懲役5年(求刑:懲役10年)の判決を言い渡され[566]、同月21日付で判決が確定している[569]。 控訴審でFは死刑違憲論や情状、量刑不当を主張したが、1988年12月15日に東京高裁(石丸俊彦裁判長)で控訴棄却の判決を受けた[570]。 上告審では情状が認められておらず、量刑不当である旨を主張したが、1995年6月8日に最高裁第二小法廷(高橋久子裁判長)で上告棄却判決を受け[567]、判決訂正申立も同年6月26日付の決定で棄却され[571]、同月27日付で死刑が確定[565]。 2013年12月12日に東京拘置所で死刑執行(55歳没)[572][565]。
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山中湖連続殺人事件 (I) |
1995年7月25日[573] |
1984年10月 |
1949年(昭和24年)7月2日生まれ。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在75歳)。 1987年10月30日に東京地裁(中山善房裁判長)で死刑判決、1989年3月31日に東京高裁(内藤丈夫裁判長)で控訴棄却判決を受けた。共犯・澤地和夫は1993年7月に上告を取り下げ死刑が確定(2008年12月に病死)。 自身も1995年7月3日に最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長)で上告棄却判決を受け[525]、判決訂正申立も同月24日付の決定で棄却され[574]、同月25日付で死刑が確定[573]。
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1996年死刑確定囚(3人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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徳島隣人3人射殺事件 (I) |
1996年3月20日 |
1985年6月3日[575] |
1932年(昭和7年)12月12日生まれ。 徳島県海部郡日和佐町奥河内井ノ上(現:美波町球磨郡)で1985年6月3日、不仲の隣人および近隣住民の計3人を猟銃で射殺し[575]、別の1人も流れ弾が当たって2週間の怪我を負った[576]。殺人・殺人未遂罪に問われた[577]。動機は射殺した被害者の1人が自分に嫌がらせをしたと思い込み、文句を言ったところ怒鳴り返されたことに立腹したことだった[576]。 第一審の徳島地裁(山田真也裁判長)では1988年3月22日に無期懲役判決を受けたが[578]、控訴審の高松高裁(村田晃裁判長)は1989年11月28日に原判決を破棄して死刑判決を言い渡した[576]。 1996年3月4日に最高裁第二小法廷(河合伸一裁判長)で上告棄却判決を受け[577]、判決訂正申立も同月18日の決定で棄却され[579]、同月20日付で死刑が確定。 2007年12月7日に大阪拘置所で死刑執行(74歳没)。
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不動産会社連続殺人事件(山野静二郎[580]) |
1996年11月13日 |
1982年3月21日 1982年3月25日[581] |
1938年(昭和13年)7月31日生まれ。2020年9月27日時点で大阪拘置所に収監中(現在86歳)。 自身が経営していた不動産会社が2億円超の負債を抱えて資金繰りに困ったことから[582]、1982年3月21日に知人である大阪府豊中市の不動産会社「ダイケン企業」の社長(当時39歳)に架空取引を持ち掛け、豊中市にあった自分の会社事務所まで誘き出し、後頭部を金属バットで殴りつけて気絶させ、麻紐で首を絞めて殺害、社長が持参していた小切手1通(額面3,000万円)を奪った上、社長の遺体を豊能郡豊能町川口の山林に埋めた[581]。その小切手を同社取締役総務部長(当時56歳)に頼んで現金化したが、さらに金を奪う目的や[581]、社長殺害を隠す目的などから[582]、この総務部長の殺害を計画、同月25日には滋賀県滋賀郡志賀町(現:大津市)の分譲用別荘に総務部長を誘い出し、金属バットで数回殴って殺害、手付金として持ってきた2,100万円を奪い、遺体を別荘地内に埋めた[581]。 強盗殺人・死体遺棄の罪に問われた[581]。刑事裁判では殺意や殺害の計画性を否定したが、1985年7月22日に大阪地裁(池田良兼裁判長)で死刑判決を受けた[581]。控訴したが、1989年10月11日には大阪高裁(西村清治裁判長)で控訴棄却判決を受けた[583]。 1996年10月25日に最高裁第二小法廷(福田博裁判長)で上告棄却判決を受ける[582]。判決への訂正申立も、同年11月11日付の決定で棄却され[584]、同月13日付で死刑が確定。 著書に『死刑囚の祈り』『死刑囚の叫び』、支援会誌に「オリーブ通信」がある。
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練馬一家5人殺害事件 (A) |
1996年12月4日 |
1983年6月27日 |
1935年(昭和10年)3月9日生まれ[585](秋田県秋田市出身)・元不動産鑑定士[585][587]。1961年9月10日に死亡した父親の遺産を巡り、弟が姉の夫に対し暴力をふるったことから弟を出刃包丁で刺し、左目を失明させる事件を起こしたことで殺人未遂罪・傷害罪に問われ、1962年8月7日に秋田地裁で懲役3年の実刑判決を受けた前科がある。 「競売で落札した物件に立退き料吊り上げのために居座っていた賃借人が邪魔になった」という動機から、一家5人を玄能やまさかりで殺害し、遺体をバラバラにした[589]。 1985年12月20日に東京地裁(柴田孝夫裁判長)で死刑判決を、1990年1月23日に東京高裁(高木典雄裁判長)で控訴棄却の判決を受けた。 1996年11月14日に最高裁第一小法廷(高橋久子裁判長)で上告棄却の判決を受ける[589]。判決への訂正申立も、同年12月3日付の決定で棄却され[590]、同月4日付で死刑が確定。 2001年12月27日に東京拘置所で死刑執行(66歳没)[314]。
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1997年死刑確定囚(4人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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姫路・神戸3人連続殺害事件 (M) |
1997年1月19日 |
1985年11月29日 1985年12月3日 |
1961年(昭和36年)8月17日生まれ。 長崎県生まれで旧姓は「Ma」だが、判決時点では「Mu」姓[592][593]。姫路少年刑務所に住居侵入罪で服役中「大金を手にして遊んで暮らしたい」と強盗殺人を計画、出所から3日後の1985年11月29日昼、兵庫県姫路市仁豊野の民家に押し入って主婦(当時30歳)から現金約42,500円を奪い、持っていた刺身包丁で主婦と泣き叫ぶ長男(3歳)を刺殺した[592]。4日後の同年12月3日、神戸市東灘区魚崎北町一丁目[592]のアパートに侵入し、果物ナイフで主婦(当時34歳)を突き刺して殺害したが、金を見つけることはできなかった[594]。 強盗殺人罪に問われ、1988年2月26日に神戸地裁第2刑事部(加藤光康裁判長)で死刑判決を受けた[592]。弁護側は犯行時、Mが8年前の交通事故による頭部外傷のため心神耗弱状態にあったとする主張や、犯行の背景には複雑な家庭事情(小学生時代に母親が家出するなど)があり、「母親に捨てられた」という心の傷が凶行に結びついたとして、懲役刑を求めていたが、同地裁は犯行が計画的で冷酷・残忍であることから「酌量の余地はない」として死刑を適用した[592]。 控訴したが[592]、1990年10月3日に大阪高裁(池田吉兼裁判長)で控訴棄却判決を受けた[593]。 1996年12月17日に最高裁第三小法廷(尾崎行信裁判長)で上告棄却判決を受け[594]、判決訂正申立も翌1997年(平成9年)1月17日付の決定で棄却され[595]、19日付で死刑が確定。 2003年9月12日に大阪拘置所で死刑執行(42歳没)。死刑執行直前には控訴審から弁護人を務めた中道武美と席巻したが、その際に拘置所からの指導で遺言を書き残したことを打ち明け、「生きすぎた。疲れた」と話していた[596]。アムネスティ・インターナショナル日本支部が2006年に出した報告書によれば、死刑囚Mは精神状態に問題があり、死刑執行当時は再審請求準備中だった。
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大阪府和泉市宝石商夫婦殺害事件 (N) |
1997年3月2日 |
1982年5月20日 |
1943年(昭和18年)12月24日生まれ。 1982年3月ごろ、喫茶店などで貴金属を売り歩いていた男性(事件当時70歳:大阪府和泉市鶴山台在住)と出会い、「宝石販売の手伝いをしたい」と近づき顔見知りとなったが、ギャンブル好きで金に困ったことから、同年5月20日19時40分ごろ、繰り小刀を持って男性宅を訪れ、台所にいた妻(当時58歳)を背後から刺殺。駆けつけた男性も胸などを刺して殺害し、応接間にあった財布から24,000円を盗んで逃走した[598]。3日後の23日には再び現場の家に行き、男性の遺体の右手にはめられていた金のブレスレットや、背広につけてあったダイヤのネクタイどめ(計時価25万円相当)を奪って逃走、それらを入質した[598]。 強盗殺人・窃盗の罪に問われたが、、夫婦殺害については大阪地裁堺支部(重富純和裁判長)で開かれた第一審の初公判から無罪を主張した[598]。検察官は1984年1月の第15回公判で死刑を求刑したが、その直後にNは「現場検証の際、自分のものではない血染めの足跡を見た」などと供述したため、弁護人が証人調べ再開を申請して認められ、4回の公判を経て同年7月に結審したが、その後も重富裁判長が職権で証人尋問を続けた[598]。1985年5月16日、同地裁支部はNが盗みのときに使った鍵を入手した経緯や、凶器と遺体の傷が一致することなどといった数々の状況証拠、および自白の信用性の高さから有罪を認定し、Nに死刑判決を言い渡した[598]。 Nは控訴したが、1991年10月27日に大阪高裁(池田吉兼裁判長)で控訴棄却判決を受けた[599]。1997年1月28日に最高裁第三小法廷(可部恒雄裁判長)で上告棄却判決を受け[600]、判決訂正申立も同年2月28日付の決定で棄却され[601]、同年3月2日付で死刑が確定。 死刑確定から約11年1か月後の[602]2008年4月10日に大阪拘置所で死刑執行(64歳没)[603]。
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徳島・愛知主婦連続強盗殺人事件 (M) |
1997年5月9日 |
1988年4月18日 1988年6月1日 |
1944年(昭和19年)3月19日生まれ。香川県高松市生まれ[604][605]。 以下の罪を犯した[604]。事件前に別の窃盗罪で服役しており、事件当時は仮釈放中だった[606]。
- 1988年4月18日、徳島県麻植郡山川町川田(現:吉野川市山川町川田)の住宅に侵入し、室内を荒らしていたところを住人である菓子製造業男性の妻(当時61歳)に発見されたため、電気コードで絞殺して現金28,000円を奪った[604]。
- 逃走中の6月1日、愛知県刈谷市幸町一丁目の会社員男性宅に侵入し、帰宅した妻(当時44歳)の首を絞めて殺害、現金99,000円余を奪った[604]。
- このほか、九州から東海地方までの19県で計23回にわたって空き巣を働き、現金46万円余と、乗用車など時価約223万円相当を奪った[604]。
強盗殺人などの罪に問われ、1990年5月22日に徳島地裁(虎井寧夫裁判長)で死刑判決を言い渡された[604]。控訴したが、1992年1月23日に高松高裁(村田晃裁判長)で控訴棄却判決を受けた[605]。 1997年1月28日に最高裁第二小法廷(根岸重治裁判長)で上告棄却判決を受け[606]、同年5月9日付で死刑が確定。 死刑確定から約10年8か月後の[607]2008年2月1日に大阪拘置所で死刑執行(63歳没)。
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福岡内妻一家4人殺害事件(秋好英明[608]) |
1997年10月10日 |
1976年6月13日 |
1942年(昭和17年)3月10日生まれ。旧姓は「秋好」で[609][610][611]、死刑確定後に「大城」に改姓している[612]。2020年9月27日時点で福岡拘置所に収監中(現在82歳)。 1976年6月14日未明、内妻(当時48歳)の姉A(当時44歳)が住む福岡県飯塚市菰田東二丁目の民家に侵入[609]。1階で就寝していたAと夫B(当時46歳)、2階で就寝していた長女C(同20歳)、母親D(同73歳)の4人の首を次々と包丁で刺して殺害した[609]。この家で寝ていた内妻が事件に気づき、近所の派出所に逃げて事件を知らせた[609]。 動機は秋好がよく嘘をついたり、負債をめぐる裁判所からの支払い命令がA宅に送られたりしたことなどから、Aらが秋好との結婚に反対し、別れるよう迫ったことを逆恨みしたことであると認定されている[609]。 捜査段階から第一審の公判途中までは全面的に起訴事実を認めていたが、1978年9月の第18回公判以降、被害者4人のうちDを除く3人については「内妻が殺害した」と共犯説を主張、内妻を殺人罪で福岡地検飯塚支部に告訴した[609]。同支部は内妻を不起訴処分としたが、1984年7月に飯塚検察審査会は「捜査は杜撰で、不起訴は説得力がなく不当」と議決した[609]。しかし同年12月、同地検支部は内妻を改めて不起訴処分とした[610]。 このような経緯から「1人しか殺害していないので、死刑や無期懲役は重すぎる」と有期懲役を求めていたが、1985年5月31日に福岡地裁飯塚支部(松信尚章裁判長)で死刑判決を受けた[609]。控訴したが、1991年12月9日に福岡高裁(雑賀飛龍裁判長)で控訴棄却判決を受けた[610]。 1997年9月11日に最高裁第一小法廷(藤井正雄裁判長)で上告棄却判決を受け[611]、判決訂正申立も同年10月8日付の決定で棄却され[614]、同月10日付で死刑が確定。 死刑確定後の2000年1月17日に再審請求したが[612]、福岡地裁飯塚支部(西理裁判長)は2001年3月23日までに請求棄却の決定を出した[615]。 関連書籍に『秋好事件』『秋好英明事件』(いずれも著者:島田荘司)がある。
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1998年死刑確定囚(7人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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京都・大阪連続強盗殺人事件(神宮雅晴[616]) |
1998年1月16日[618] |
1984年9月4日 |
1943年(昭和18年)1月5日生まれ。2020年9月27日時点で大阪拘置所に収監中[注 49](現在81歳)。 旧姓:廣田[注 50]。1997年11月の上告審弁論後に改姓届を出し、姓を結婚前の「神宮」(しんぐう)に戻した[616]。 元京都府警察巡査部長だが、西陣警察署十二坊派出所[注 51]に勤務していた1978年3月、署内から盗んだ拳銃で強盗傷人事件を起こし、同月24日付で懲戒免職。1981年2月に大阪高裁で懲役7年に処され、同年4月から加古川刑務所に服役していたが、1984年8月30日に仮出所した。1984年9月4日、かつて勤務していた十二坊派出所(京都府京都市北区)の巡査(当時30歳)を近くの船岡山公園に呼び出して包丁で刺殺し、拳銃を強奪。さらに約3時間後、大阪府大阪市都島区の金融業者支店へ侵入し、奪った拳銃で店員(当時23歳)を射殺し、現金約60万円を奪った。一連の事件は警察庁により、広域重要115号事件に指定されている[625]。 1988年10月25日に大阪地裁第1刑事部(青木暢茂裁判長)で死刑判決を受け、1993年4月30日に大阪高裁第6刑事部(村上保之助裁判長)で控訴棄却判決を受けた[628]。 1997年12月19日に最高裁第三小法廷(園部逸夫裁判長)で上告棄却判決を受けた[616][629]。判決への訂正申立も、1998年1月13日付で棄却され[630]、同月16日に死刑が確定[618]。 2事件とも無実を主張し、1998年12月3日から7回の再審請求を行ったが、いずれも棄却され、2011年1月21日に8回目の再審請求を起こしている[618]。 控訴中、雑誌『噂の眞相』(1992年1月号)に実名(当時は「廣田雅晴」)で手記「毎日を先陣としたマスコミ報道陣は「赤報隊」に射殺されよ!」を寄稿している。また2013年には[618]、再審請求費用を工面するため、「極悪死刑囚の笑福転倒」と題する原稿を徳間書店から出版して印税を得ようと、原稿を同封した知人宛の信書を郵送しようとしたが[635]、不許可にされたことから、同年4月27日付で国に対し、処分取り消しを求める訴訟を提起[618]。大阪地裁第7民事部(田中健治裁判長)[注 52]は2014年5月22日に原告(神宮)の請求を認める判決を言い渡した[618][636][634]が、大阪高裁(森義之裁判長)[635]は同年11月14日に原判決を取り消し、請求を棄却する判決を言い渡した[注 55][640][641]。最高裁第三小法廷(山崎敏充裁判長)は2016年5月31日付の決定で神宮の上告を棄却した[642]ため、神宮の敗訴が確定[643]。
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岐阜県坂祝町一家3人殺害事件 (H) |
1998年6月3日 |
1994年6月3日 |
殺人前科あり。1994年6月、岐阜県加茂郡坂祝町で、交際中の女性とのトラブルから、女性の実家に侵入し、女性の父親(当時61歳)、母親(当時59歳)、妹(当時31歳)の3人を監禁し、出刃包丁で胸や背中などを刺して殺害した[644]。 1998年5月15日に岐阜地裁(沢田経夫裁判長)で死刑判決を受け、名古屋高裁に控訴したが、6月3日に自ら控訴を取り下げ、同日付で死刑が確定。 2002年9月18日に名古屋拘置所で死刑執行(51歳没)[644]。
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熊本大学生誘拐殺人事件(田本竜也) |
1998年7月24日 |
1987年9月14日 |
1966年(昭和41年)4月18日生まれ。 1988年3月30日に熊本地裁(荒木勝己裁判長)で死刑判決を受けた。第一審では半年未満の審理で判決に至っていることから、「事実関係について十分な審理がなされたとは言いがたい。」との指摘がなされている。1991年3月26日に福岡高裁(前田一昭裁判長)で控訴棄却判決。上告中に脱獄未遂を起こし、当時の福岡拘置所所長が自殺。 1998年4月23日に最高裁第一小法廷(遠藤光男裁判長)で上告棄却の判決を受けた[648]。同年7月22日付で判決訂正申立を棄却する決定を受け[649]、同月24日付で死刑が確定。 2002年9月18日に福岡拘置所で死刑執行(36歳没)[644]。上告審判決後、および死刑執行時点では「春田」に改姓していた[649][644]。
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中村橋派出所警官殺害事件 (S) |
1998年9月29日 |
1989年5月16日 |
1969年(昭和44年)1月1日生まれ。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在55歳)。元陸上自衛官。 銀行強盗のために拳銃を奪おうとして、練馬警察署の「中村橋派出所」を襲撃し、警察官2名をサバイバルナイフで刺殺した。派出所勤務中の警察官2人が同時に殺害され殉職した事件は、1955年(昭和30年)以降では初だった[650]。 1991年5月27日に東京地裁(中山善房裁判長)で死刑判決、1994年2月24日に東京高裁(小林充裁判長)で控訴棄却判決を受けた。 1998年9月17日に最高裁第一小法廷(井嶋一友裁判長)で上告棄却判決を受け[651]、同月29日付で死刑が確定。死刑確定後の2003年8月、犯行時の責任能力を問題として再審請求。
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富山・長野連続女性誘拐殺人事件 (M) |
1998年10月9日[652][653] |
1980年2月23日 - 3月7日[654] |
1946年(昭和21年)2月14日生まれ[655]。本籍地[注 56]および住居は富山県富山市上千俵872番地[注 57][658]。 2020年9月27日時点で名古屋拘置所に収監中。戦後7番目の女性死刑囚。 「警察庁広域重要指定111号事件」[660]。1980年2月23日[654]、富山市で帰宅途中の女子高生(当時18歳)を誘拐し[661]、2日後(2月25日)[654]に睡眠薬を飲ませた上で、腰紐を用いて絞殺した[661](富山事件)[654]。 富山事件で身代金獲得に失敗したため[654]、8日後[661](3月5日)[654]には長野県長野市で帰宅途中の女性会社員(当時20歳)を同様に誘拐[661]し、翌6日に殺害(長野事件)[654]。遺体を山中に遺棄し、2人の家族にそれぞれ電話で身代金を要求した[注 58][661]。 当初は被害者2人の殺害・死体遺棄を実行したのは[662]、Mと愛人関係にあった男性[663](共謀共同正犯として起訴)とされていたが、検察は第一審の第125回公判(1985年3月5日)で「殺害・死体遺棄ともMが被害者に睡眠薬を飲ませた上で実行した」と主従関係を逆転させた[662]。 1988年2月9日に富山地裁(大山貞雄裁判長)は「一連の事件はMの単独犯行」と認定し、被告人Mに求刑通り死刑判決を言い渡した一方、共謀共同正犯とされていた男性(求刑:無期懲役)については「(起訴の根拠とされた)Mの自白には信用性がなく、共謀は認められない」として無罪を言い渡した[654]。 死刑を不服としたMと、(男性について有罪を訴えた)富山地検が名古屋高裁金沢支部へ控訴した[664]が、1992年3月31日に名古屋高裁金沢支部(濱田武律裁判長)は「両事件ともMの単独犯行。男性の関与は証拠上認められず、むしろ共謀を否定する消極的事情さえも指摘できる」として、双方の控訴を棄却(Mに死刑、男性に無罪を言い渡した原判決を支持)する判決を言い渡した[665]。名古屋高検が同判決への上告を断念したため、男性は1992年4月15日0時に無罪が確定[666]。 Mは1998年9月4日に最高裁第二小法廷(河合伸一裁判長)で上告棄却判決を受け[661]、同年10月7日付の第二小法廷決定[判決訂正申立棄却決定 事件番号:平成10年(み)第4号・平成10年(み)第5号]により[667]、同月9日[注 59]に死刑が確定[652][653]。 上告審判決前の1998年7月、東京拘置所に収監されていた死刑囚と養子縁組して「F」姓に改姓した[注 60][673]。さらに2000年1月時点では「S」姓を名乗っていた[674]が、2007年8月31日時点では元の「M」姓に戻っている。 2021年1月までに5度にわたり再審請求を起こしたが、いずれも棄却されている[677]。
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宮代事件(村松誠一郎[678]) |
1998年10月29日 |
1980年3月21日[679] |
1956年(昭和31年)5月17日生まれ、事件当時は埼玉県春日部市在住[679]。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在68歳)。 1980年3月21日0時15分ごろ、弟と共謀して埼玉県南埼玉郡宮代町道仏のボイラーマン宅に侵入、2階で物色していたところボイラーマンの妻(当時51歳)に気づかれたため、ビニール紐で絞殺した[679]。1時ごろ、帰宅した長男(当時23歳)も絞殺して現金14万円などが入った手提げ金庫を奪い、犯行を隠すため[679]室内に灯油を撒き、食用油をガスレンジにかけたまま逃走[680]、家に放火して台所の一部を焼いた[679]。また事件後の3月31日、栃木県日光市で食料品店に押し入る強盗致傷事件を起こして逮捕され、殺人放火事件を自供したが、2人は取調べ中に再び供述を翻し、無罪を主張していた[681]。。兄弟が起訴され、兄(村松)の死刑、弟の無期懲役が確定したが[682]、冤罪説もある。 村松は宮代事件について無実を主張したが、1985年9月26日に浦和地裁刑事第3部(林修裁判長)で死刑判決を言い渡された[679]。浦和地裁における死刑判決は、1982年3月に言い渡された大宮母娘殺害事件の第一審判決以来3年半ぶりだった[681]。両被告人とも控訴したが、1992年6月29日に東京高裁刑事第5部(新谷一信裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[注 61][680]、1998年10月8日に最高裁第一小法廷(小野幹雄裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[684]、同年10月28日付の同小法廷決定[判決訂正申立棄却決定 事件番号:平成10年(み)第76号]により[685]、同月29日付で死刑が確定。 死刑確定後の2001年2月27日に日本弁護士連合会(日弁連)に対し「東京拘置所が自分に対し違法に新技術を用いたポリグラフ実験を行ったり、ミクロ通信器による人工テレパシー・遠隔痛覚実験などを行っている」などと人権救済を申し立て、これを受けた日弁連は「村松は統合失調症あるいは拘禁ノイローゼなど重篤な精神疾患を患っている」として、法務省に対し死刑執行停止を勧告した。
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妙義山麓連続殺人事件 (M) |
1998年12月21日 |
1990年12月4日 1991年7月6日 |
1965年(昭和40年)2月20日生まれ。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在59歳)。 1990年12月4日、友人の男と共謀し、群馬県碓氷郡松井田町(現:安中市)の男性A(当時26歳)を絞殺、遺体を妙義山中に埋めた。また1991年7月6日には、遊び仲間だった安中市の男性B(当時28歳)のキャッシュカードを不正に使い、現金300万円を盗み出したことをBとその父親C(当時54歳)に知られたため、Cを殴るなどして死亡させた上、その口封じのためBも頭をスコップで殴って殺害、2人の遺体を妙義山中に埋めた。 検察官はCの死亡について、MはCがまだ生きていることを知りながら穴に生き埋めにして殺害したとして殺人罪を主張し、被害者3人全員について殺人罪と死体遺棄罪などで起訴していたが、Mは公判で、Cは穴に埋められた時点で既に死亡していたと思っていた旨を主張、弁護人も殴り合いの結果の傷害致死事件であると主張した。前橋地裁高崎支部(佐野精孝裁判長)は1993年9月24日の判決公判で、MがCを穴に埋めた時点でCが生存していたことを認識していたかは疑わしいとして、Cの死亡については弁護人の主張通り傷害致死罪が成立すると認定したが、3人の人命が奪われた結果の重大性、遺族や地域社会に与えた影響の大きさなどから極刑はやむを得ないと判断、死刑判決を言い渡した[687]。前橋地裁で言い渡された死刑判決は、1983年に赤城山麓連続殺人事件の死刑囚S(1988年に死刑確定)に対し宣告されて以来、10年ぶりのことであった[687]。 M側のみが控訴したが、1994年9月29日に東京高裁(小林充裁判長)で控訴棄却の判決が言い渡された[688]。上告審では責任能力に関する重大な事実誤認、およびA殺害への不関与、B殺害時の別の共犯者の存在などを主張したが、1998年12月1日に最高裁第三小法廷(元原利文裁判長)で上告棄却判決を言い渡され[689]、同年18日付で同小法廷から判決訂正申立棄却の決定を受け[690]、同月21日付で死刑が確定。 1件の殺人については無実を主張し、他の殺人・傷害致死についても「犯行はシンナーの影響によるもの」と主張して再審請求中(2004年6月末時点)。 アムネスティ・インターナショナル日本支部は2013年の報告書で死刑囚Mについて「『マイクロ波放射線に曝されている』『血液が紫色である』などの妄想があり、弁護団が再審請求しているが、自身の弁護活動に関与できていない」と述べている。
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1999年死刑確定囚(4人)
事件名(死刑囚名) |
判決確定日 |
事件発生日 |
備考(事件概要・死刑執行日など)
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熊谷3人連続殺人事件 (T)[693] |
1999年3月19日 |
1972年2月 1973年7月 1974年2月[694] |
1932年(昭和7年)8月17日生まれ。埼玉県熊谷市美土里町在住の鳶職で、1972年から1974年にかけ、熊谷市[注 62]で以下の事件を起こした[693]。
- 1972年2月、熊谷市の農業男性A(当時46歳)から預かっていた金を使い込んだことから、遊び仲間である2. 事件の被害者の男Bと共謀し、Aを大里郡川本村長在家(現:深谷市長在家)の路上に呼び出し、ハンマーで殴るなどして殺害した[693]。
- 1973年7月、1. 事件の発覚を恐れて同事件の共犯である男B(当時53歳)[注 63]をダルマジョッキで撲殺した[693]。
- 1974年2月、知人である熊谷市の不動産業男性C[注 64](当時32歳)の多額の預金に目をつけ、川本村の荒川河川敷で頭を石で殴って殺し、奪った預金通帳で銀行から312万円を引き出した[693]。
被害者3人のうち、Bは遺体が発見されていない[693]。第一審の公判当初は起訴事実を全面的に認めていたが、1982年5月の公判からはB・Cの殺害については1976年4月に自殺した自身の仕事の親方(55歳没)が主犯であり、また殺害現場や凶器は起訴状とは異なり、B殺害現場にCも居合わせていたと主張した[693]。1986年3月27日、浦和地裁(杉山忠雄裁判長)は旧供述は客観的証拠と合致する一方、新供述は裏付けがないとしてT側の主張を退け、Tに死刑判決を言い渡した[696]。なお、Tは1件目と2件目の殺人の間の1973年1月に別件の窃盗罪で有罪判決が確定していたため[697]、刑法第45条の規定に基づき、1件目の殺人であるA殺害などについては懲役14年[注 65]、B・C両被害者の殺害などについては死刑がそれぞれ言い渡された[698]。浦和地裁で言い渡された死刑判決は、1985年9月の宮代事件第一審判決以来だった[698]。 Tは控訴したが、1994年9月14日に東京高裁(小泉祐康裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[698][697][699]。起訴事実のうち1件は遺体や凶器などが発見されておらず、Tの供述も変化したため、控訴審で8年にわたって争われた[697]。 1999年2月25日に最高裁第一小法廷(小野幹雄裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され[700][701]、判決訂正申立も同年3月18日付の決定で棄却され[702]、同月19日付で死刑が確定。 「真犯人は事件後に自殺した親方だ」と主張し、2003年12月に再審請求していたが、2019年に棄却されていた[703]。 2018年6月に肺炎と診断され、収監先・東京拘置所内の病棟で投薬などの治療を受けていたが、2020年10月17日に病死(88歳没)[694]。
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熊本保険金殺人事件 (S) |
1999年4月23日 |
1988年3月 |
1945年(昭和20年)3月22日生まれ。 熊本県菊池市の山口組系北岡会「S組」元組長[705]。同組は組員数人で菊池市に勢力を有していたが、上部団体から絶縁されたことから1988年6月に自然消滅し、組員は散り散りになっていた[706]。配下の組員らと共謀し、保険金目的で菊池市の配下の組員(当時44歳)に生命保険金約1億円を掛け[注 66][707]、1988年3月13日、大分県日田郡上津江村川原の崖から[708]、85 m下に突き落として殺害した[709]後、現場にロープなどを置き、組員が崖を降りようとして転落死したように偽装した[705]。Sらはこの組員ら2人に合計約1億2500万円の生命保険を掛けており、この犯行の1週間前にも2人を車ごと崖から落として殺害しようとしたが、2度失敗していた[710]。 さらにこの犯行の発覚を恐れ、同月25日に組の相談役(当時53歳)を自宅から連れ出し[705]、熊本県阿蘇町西湯浦[707]の牧場で殺害[705]、死体を宮崎県えびの市の山中に埋めた[711]。また同年5月17日[707]、配下の組員(当時59歳)を熊本市から[705]鹿本郡菊鹿村下内田[707]の山中まで拉致して殺害、死体を埋めた[705]。後者2人の殺害方法はいずれも絞殺。このほか保険金殺人未遂2件、強盗致傷2件、拳銃強盗1件などの余罪あり[711]。1989年7月31日、最初の殺人事件に関する殺人・死体遺棄容疑で共犯4人とともに逮捕された[705]。 殺人罪、殺自民未遂罪、死体遺棄罪などに問われ、熊本地裁刑事第1部(赤塚健裁判長)で開かれた第一審の公判では、Sと実行グループのリーダー格だった男に死刑が、他の共犯3人にも無期懲役、懲役18年、懲役15年がそれぞれ求刑されたが[708]、1992年11月30日の判決公判で、同地裁はSら死刑を求刑された2人に無期懲役を、無期懲役を求刑された被告人には懲役20年を、懲役18年を求刑された被告人には懲役13年を、懲役15年を求刑された被告人には懲役15年をそれぞれ言い渡した[709]。検察官はSら無期懲役を言い渡された2被告人と、懲役20年を言い渡された被告人1人の計3人について、それぞれ量刑不当を理由に控訴した[712]。福岡高裁(池田憲義裁判長)は1995年3月16日、「暴力団内部の事件であるとして量刑に特別に配慮するのは相当ではない」として、Sについて原判決を破棄し、Sを死刑とする判決を言い渡した[710]。控訴審で第一審判決が破棄されて死刑判決が言い渡された事例は、1992年6月に仙台高裁で言い渡された岩手県種市町妻子5人殺害事件の控訴審判決以来、2年9か月ぶりだった[710][711]。なお、他に検察官が控訴していた2被告人については控訴が棄却されている[711]。 1999年3月9日に最高裁第三小法廷(千種秀夫裁判長)で上告棄却の判決を受け[713]、判決訂正申立も同年3月16日付の決定で棄却され[714]、同年4月23日付で死刑が確定。 2004年9月14日に福岡拘置所で死刑執行(59歳没)[715]。
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高知3連続殺人事件 (F) |
1999年7月18日 |
1978年12月 1980年4月 1981年1月 |
1942年(昭和16年)7月13日生まれ。 1978年12月から1981年1月の2年2か月間に、高知県で義姉や義父、知人だったホステスの計3人を殺害した[716]。
- 1978年12月8日未明、高知県高知市加賀野井二丁目でバーを経営していた義姉(当時42歳)を絞殺し、現金通帳などを奪って遺体を安芸郡安田町内の山中に埋めた[716]。
- 1980年4月19日夜、安芸市穴内の山林で知人のスナックホステス(当時32歳)を絞殺し、遺体を安芸郡北川村の山中に埋めた[716]。
- 1981年1月30日夜、安芸市染井町の義父(当時72歳:時計商)宅で義父の頭を金槌で殴り、包丁で胸を刺すなどして殺害、23万円と預金通帳などを奪った[716]。
別件の私文書変造、同行使の容疑で逮捕された後、犯行を自供したが、高知地裁で開かれた第一審の公判中から否認に転じ、1. は自殺であり、2. と3. はそれぞれ真犯人は別人であり、自白は取調官の暴行や脅迫によるもので、自身にはアリバイがあり、凶器である金槌や包丁の処分場所などを知っていたのは真犯人から聞いたためであると主張した[716]。また検察官と弁護人の主張が真っ向から対立したことなどから刑事事件の第一審としては異例となる長期裁判(初公判から判決まで6年7か月)が展開されたが、高知地裁(田村秀作裁判長)は1988年3月9日、無罪主張の供述は信用できないとしてFに死刑判決を言い渡した[716]。Fは控訴し、控訴審では真犯人を知っているという男性の証言を受けて高知県内で現場検証・捜索がなされたが、証言を裏付ける物証は見つからず、1994年3月8日、高松高裁(米田俊昭裁判長)は控訴棄却の判決を宣告した[717]。 1999年6月25日に最高裁第二小法廷(福田博裁判長)で上告棄却判決を受け[718][719]、判決訂正申立も同年7月16日付の決定で棄却され[720]、同月18日付で死刑が確定。 2006年12月25日に大阪拘置所で死刑執行(64歳没)[721]。
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群馬県安中市親子3人殺害事件(松井喜代司[722]) |
1999年9月28日 |
1994年2月13日 |
1948年(昭和23年)1月23日生まれ。 1975年2月14日[724]、群馬県高崎市内で自身との交際を断った[725]女子専門学校生(当時20歳)を包丁で刺殺する殺人事件を起こし[724]、懲役10年の判決を受け、刑務所に服役した前科があった[725]。 前述事件の刑期を終えて出所後、群馬県安中市で交際相手の女性(当時42歳)の両親(夫69歳・妻65歳)から結婚に反対され、女性からも結婚を断られたことに逆上し、3人をハンマーで撲殺した[725]。さらに女性の妹夫婦宅にも侵入し、妹とその長女を殺そうと首を絞めるなどした[726]。 1994年11月9日に前橋地裁高崎支部(佐野精孝裁判長)で死刑判決を受け[726]、1995年10月6日に東京高裁(小泉祐康裁判長)で控訴棄却判決を受けた[727]。 1999年9月13日に最高裁第一小法廷(大出峻郎裁判長)で上告棄却判決を受け[728]、判決訂正申立も同年9月27日付の決定で棄却され[729]同月28日付で死刑が確定。上告中には、『週刊金曜日』1999年1月22日号に実名で「死刑制度は犯罪防止にならない」という投書を寄稿している[注 67][722]。 一時期は「N」姓を名乗っていた[注 68]。第4次再審請求中の2017年12月19日に東京拘置所で死刑執行(69歳没)[738]。
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脚注
注釈
- ^ 平沢貞通は1955年5月7日付で死刑が確定したが、死刑を執行されぬまま、1987年5月10日(死刑確定から32年後)に肺炎のため、拘置先の八王子医療刑務所で死亡した(95歳没)[13]。
- ^ 当時の名古屋高裁刑事第1部の合議体は、裁判長の上田孝造と、斎藤寿・藤本忠雄の両陪席裁判官で構成されていた[22]。
- ^ 現:岩手県一関市。
- ^ 名護市呉我地原とする報道もある[84][85]。現場は広いパイン畑の真ん中にあった木造住宅で[84]、負傷した義父は畑の管理人だった[85]。
- ^ 沖縄の日本復帰後、那覇地裁で最初に言い渡された死刑判決は、1972年10月31日に刑事第2部(大山栄太郎裁判長)で宣告された判決である[92]。同事件の被告人である那覇市在住の男(事件当時31歳)は1971年6月21日、借金返済を免れるため、結婚を前提に交際していたコザ市(現:沖縄市)の女性(当時29歳)をナイフで滅多刺しにして殺害したとして[92]、沖縄の刑法による死刑を言い渡された。しかし、控訴審(福岡高裁那覇支部)では1977年2月14日に原判決を破棄され、沖縄の刑法による無期懲役とする判決を言い渡され、確定している。それ以前(アメリカ統治時代)には計5人が死刑を言い渡されており、うち2人は琉球上訴裁判所で死刑が確定したが、いずれも弁務官の恩赦で無期懲役に減刑されており、死刑執行まで至った者は1人もいない[92]。
- ^ a b c d e f 福岡拘置所はかつて、福岡刑務所の下部機関[100](福岡刑務所福岡拘置支所)だった[101]が、1996年5月11日に福岡拘置支所から昇格し、独立機関の福岡拘置所になった[100]。同時に、それまでの小倉拘置所は福岡拘置所の下部機関(小倉拘置支所)へ降格した[101]。
- ^ 大分県別府市生まれだが、6歳のころ(1951年夏ごろ)に父親からの虐待に耐えかねて母とともに家を出、親戚や担任教師の家(佐賀市や熊本県天草郡など)に預けられ、佐賀市内の小中学校を卒業した。
- ^ 脅迫1回、横領・傷害等(2回)、強盗・同未遂等(1回)の前科あり。
- ^ 1928年(昭和3年)12月3日生まれ。
- ^ 1941年(昭和16年)5月9日生まれ。
- ^ 2件目の殺人の直後(6月18日未明まで)、小倉北区中津口一丁目のホテルに潜伏していたところ、ホテル従業員が警察に通報したため、小倉北警察署(福岡県警)などの警察官たちに取り囲まれ、説得された。このため逮捕を免れ、あるいは遅延させる目的で警察官を射殺しようとし、小倉北署の警察官2人に相次いで拳銃を発砲したが、防爆盾に阻まれたり、標的を外したりしていずれも未遂に終わった。
- ^ 一時は家出少年を自宅に同居させるなどしていたが、同性愛行為の現場を妻に発見されて性癖が露見したり、妻が1962年ごろに胎児を逆子のため死産したことなどから、妻はやがてKとの性交渉を忌避するようになり、1. 事件後の1967年ごろからは関係が途絶していた。
- ^ Kの失恋が遠因になった事件ではあったが、何ら関係ない通行中の女性から財布を奪おうとし、抵抗されたことから胸などを所携の折込小刀で突き刺して死亡させた事件である。
- ^ 1953年7月14日に長崎地裁で無期懲役の判決を受け、同年10月19日には福岡高裁で控訴棄却の判決を受けた。1954年1月27日付で、最高裁第二小法廷から上告棄却決定が出ている[175]。
- ^ 現場には熊本地方法務局高森出張所事務室(義兄の職場)と、廊下伝いに棟続きになっていた義兄宅があった。
- ^ Yは同年春に須賀川市立第二中学校を卒業し[197]、卒業後には隣接する鏡石町の農機具会社へ就職することが決まっていた[198]。
- ^ 殺害方法はうつ伏せに倒して背中に足をかけ、強く押さえつけながら手で首を絞めるというもので、死因は肝臓・膵臓の破裂である[200]。
- ^ 事件当時は主人夫婦が老人クラブの旅行で出かけていたため、長男一家が父の家で夕食を摂っていた[195]。長男は自身の長男(当時2歳)とともに、父親の家(民宿の離れ)で泊まった一方、民宿の住宅の寝室(建物2階)でAとBが寝ていた[203]。
- ^ 共犯の男は殺人・放火・詐欺のほか、Kと共謀して強盗殺人・死体遺棄にも関与したとされており[214]、起訴状ではこの男が犯行を計画してKを唆したとされていた[208]。しかし福島地裁白河支部は、それらの罪状については証拠不十分で無罪とした[208]。
- ^ a b c d e f g h i j 札幌高裁・仙台高裁の管内(前者は北海道全域・後者は東北6県)で死刑が確定した死刑囚はそれぞれ札幌拘置支所・仙台拘置支所に収監されるが、死刑執行設備(刑場)はそれぞれ拘置支所に隣接する札幌刑務所・宮城刑務所に位置するため、死刑執行はそれぞれ刑務所で行われる。
- ^ 約37万円との報道もある[219]。
- ^ a b 福田 (2007) では12月11日とされている。
- ^ 1977年9月、玖珠郡九重町の宿泊先から49万円を盗んで逃げ、熊本・長崎両県下を放浪、盗みや賽銭泥棒を繰り返しながら一人暮らしの家を物色していた、とする報道もある[257]。
- ^ ただし福島によれば、弁護人が長崎地裁に「再審請求書を送付した」との電報を打った日付は同月13日で、翌日(14日)にはOが弁護人宛の礼状を送っている[260]。
- ^ 松前町北黒田[266]。
- ^ a b c 刑法第45条「確定裁判を経ていない二個以上の罪を併合罪とする。ある罪について禁錮以上の刑に処する確定裁判があったときは、その罪とその裁判が確定する前に犯した罪とに限り、併合罪とする。」
- ^ 約370平方メートル[270]。
- ^ 他に婚約した女性もあるなど、女性関係が派手だったこと[290]。犯行以前から結婚する医師もないのに女性と次々と肉体関係を結び、妊娠すると中絶させるなどしていた[288]。
- ^ 知人女性は事件から4か月後の同年8月29日に死亡した[288]。
- ^ a b c 法務省はこの死刑執行(1998年11月19日)にあたり、初めて死刑執行の事実と人数を公表した[492]。
- ^ a b 『読売新聞』によればHNは10月11日付、HYは13日付で、それぞれ控訴取り下げを行った[388]。
- ^ 姉は当時12歳、弟は当時11歳[395]。
- ^ 夫婦ともに宿舎の保険金を狙った事実は認めたが、夫HYは「全員が逃げ出すと思った」として被害者全員への殺意を否認し、妻HNも「泥酔した従業員1人は焼死すると思った」と一部を曖昧に認めた以外は否認した[396]。
- ^ ただしHY・HN夫婦の公判で、鈴木裁判長は夫婦だけでなく配下組員についても「犠牲者に対する未必的殺意が認められる」と認定している[392]。
- ^ Iにとっておじである被害者は自身の母親(5姉妹の次女)の姉(長女)の元夫であり、被害者であるIのおじにとってIは自身の先妻の妹の次男に当たる[409]。おじは石油王・新津恒吉の甥(恒吉は3人兄弟姉妹の長男で、長女である妹と次男である弟がいた)で、恒吉の妹(長女)の次男である[409]。また同じく殺害されたおじの義母(おじの妻の母親)は岩崎家80代で、京城軌道社社長の次男との間に2女1男(長女・次女・長男)をもうけており、次女が同様に殺害されたおじの後妻だった[409]。Iは一時期、おじが所長を務めていた昭和石油川崎製油所で約10年間勤務していた[409]。
- ^ 1979年に発覚した愛知宝運輸・長崎グループによる保険金連続殺人事件の先例になったとされる[415]。
- ^ 名古屋地裁管内の第一審で言い渡された死刑判決は1965年(昭和40年)以降、同判決が8件目だった[415]。[415]。
- ^ 殺人1件と殺人未遂事件に゙関与した男が無期懲役、殺人1件に関与した男3人は無期懲役・懲役10年・懲役13年、殺人未遂1件に関与した男3人は懲役8年・懲役7年・懲役4年が確定、殺人予備1件のみに関与したとされた人物1人は不起訴処分となっている[415]。
- ^ 弁護団結成のきっかけは北海道庁爆破事件で死刑判決を受けた大森勝久(1994年に死刑確定)から「冤罪の可能性がある人がいる」と情報を寄せられたことである。
- ^ 最高裁における係属期間は11年5か月で、死刑事件としては当時、戦後最長だった[461]。上告審が長期化した理由は、担当裁判官が定年退官で相次いで交代するなどしたためで、通常は1度限りの口頭弁論が2回[458](1985年7月4日・1990年6月21日)開かれた[458]。
- ^ 当初の目撃証言によれば、男性は出刃包丁を持った男2人と口論となり、喧嘩を止めようとした妻ともども刺殺された[465]。
- ^ 1964年7月、窃盗未遂事件の被告人に対し第一審への差し戻し判決を言い渡した際、主文で「上告審の訴訟費用を被告人に負担される」と誤記した例[476]。
- ^ 1945年(昭和20年)4月10日生まれ[482]。
- ^ 上告取下書は同月7日付で最高裁に送付され[523]、同日付で第二小法廷(大西勝也裁判長)によって受理された[524]。
- ^ 死刑冤罪4事件(免田・財田川・松山・島田の各事件)の存在や死刑廃止国の増加など[536]。
- ^ 法務省によれば当時、自殺した死刑囚は1936年以降で4人目だった[545]。
- ^ 1981年1月に窃盗罪で大阪簡裁から懲役10月・執行猶予3年の判決を受けていた[551]。
- ^ 前妻の養母[566]。
- ^ 1984年9月30日に都島警察署(大阪府警)から大阪拘置所に入所[618]。
- ^ 結婚後に「廣田」姓に改姓した。
- ^ 現:北警察署 十二坊交番(所在地:京都市北区紫野十二坊町33-4)[623]。
- ^ a b 田中健治(裁判長)・三宅知三郎・松本論の裁判官3人は、2014年4月1日時点・2015年2月16日時点で、いずれも大阪地方裁判所第7民事部(合議1~4係)を担当していた[632][633]。
- ^ 森義之は2014年6月4日に大阪高裁の部総括判事として赴任し、2017年(平成29年)まで務めた[637]。裁判所ウェブサイト (2015) によれば、森は2015年11月1日時点で大阪高裁の第14民事部を担当していた[638]。
- ^ 裁判所ウェブサイト (2014) によれば、龍見昇・金地香枝は2014年5月22日時点で、ともに大阪高裁の第14民事部を担当していた[639]。
- ^ 大阪高裁 (2014) は、「刑事施設の長の裁量により、信書の発信を認められるためには、社会通念上必要というべき事情がなければならないが、原告(神宮)の主張する理由(再審請求のために必要な費用を工面するために原稿を出版して印税を得ようとした)はそれに該当しない。また、出版社(徳間書店)との間で折衝が行われた形跡はなく、原稿の内容も元内閣総理大臣を誹謗中傷する趣旨のものが中心で、犯罪被害者を批判する記載、他民族を侮辱・蔑視する記載、わいせつな表現などが多数含まれるものであり、徳間書店によって出版される可能性が高かったとはいえない」と判断した[635]。
- ^ 上告棄却時点(当時、Mは「F」姓に改姓済み)での本籍地は埼玉県鴻巣市逆川一丁目75番地1[655]。
- ^ Mの実家(富山市上千俵)は借地に建っていたが、事件翌年(1981年)に解体され、母親(Mの逮捕当時69歳)[657]は石川県の老人ホームに入居。また、長男(同当時10歳)[657]も父親(事件前に離婚したMの前夫)に引き取られた。
- ^ 長野事件の被害者宅への身代金要求は3月6日夜 - 7日にかけ行われた[654]。
- ^ 判決訂正申立棄却決定がMの下に送達された時点をもって、Mの死刑が確定した[668]。
- ^ 『年報・死刑廃止』シリーズによれば、1999年9月28日時点 - 2006年9月15日時点までは「F」姓を名乗っていた。
- ^ 同日以降、村松は自身の弁護人(後に解任 / 弟の弁護人になった)だった安田好弘を敵とみなしている。
- ^ 『朝日新聞』 (2020) では「熊谷市など」と報道されている[694]。
- ^ ギャンブル仲間だった不動産業者。
- ^ TとCは不動産取引を通じて知り合った[694]。
- ^ 求刑は懲役15年[693]。
- ^ 懲役12年の判決を受けた自動車修理販売業の男が保険金の受取人になっていた[707]。
- ^ 松井はその投書で、「事件を起こした時、結婚詐欺の被害にあってその加害者一家を殺した」と述べた上で、「自分を含め、殺人を犯すような人間は犯行時に『もし捕まったら』とは考えていない。刑の軽重は犯罪の発生には関係なく、厳罰化は犯罪の防止にならない」「死刑制度は『悪いことをした人は殺しても良い』というもので、一番人命を軽視させている」と主張している[722]。
- ^ 『年報・死刑廃止』によれば、2004年7月末時点では「松井」姓だったが。2005年7月31日時点・2006年9月15日時点および2007年8月31日時点では「N」姓を名乗っていた。その後、2008年9月30日時点では元の「松井」姓に戻っている。
出典
参考文献
永山判決
- 最高裁判所第二小法廷判決 1983年(昭和58年)7月8日 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第37巻6号609頁、昭和56年(あ)第1505号、『窃盗、殺人、強盗殺人、同未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件』「一・死刑選択の許される基準 二・無期懲役を言い渡した控訴審判決が検察官の上告により量刑不当として破棄された事例」、“一・死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される。二・先の犯行の発覚をおそれ、あるいは金品の強取するため、残虐、執拗あるいは冷酷な方法で、次々に四人を射殺し、遺族の被害感情も深刻である等の不利な情状(判文参照)のある本件においては、犯行時の年齢(一九歳余)、不遇な生育歴、犯行後の獄中結婚、被害の一部弁償等の有利な情状を考慮しても、第一審の死刑判決を破棄して被告人を無期懲役に処した原判決は、甚だしく刑の量定を誤つたものとして破棄を免れない。”。 - 永山則夫連続射殺事件(被告人:永山則夫)の上告審判決。後に「永山基準」と呼ばれる死刑適用基準が明示された。
死刑事件全般関連の文献(判例集など)
- 「死刑事件判決集 (昭和44-46年度)」『刑事裁判資料』第213号、最高裁判所事務総局刑事局、1977年3月、NCID AN00336020。 - 『刑事裁判資料』第213号は朝日大学図書館分室、富山大学附属図書館に所蔵。また『死刑事件判決集』(昭和44-46年度)は久留米大学附属図書館御井学舎分館、熊本大学附属図書館に所蔵。
- 「死刑事件判決集 (昭和47-51年度)」『刑事裁判資料』第216号、最高裁判所事務総局刑事局、1977年12月、NCID AN00336020。 - 『刑事裁判資料』第216号は朝日大学図書館分室、専修大学図書館神田分館、金沢大学附属図書館、富山大学附属図書館に所蔵。また『死刑事件判決集』(昭和47-51年度)は大阪市立大学学術情報総合センター、学習院大学図書館、明治学院大学図書館(白金校舎図書館)に所蔵。
- 「死刑事件判決集(昭和52・53・54年度)」『刑事裁判資料』第227号、最高裁判所事務総局刑事局、1981年3月、NCID AN00336020。 - 朝日大学図書館分室、富山大学附属図書館、東北大学附属図書館に所蔵。
- 「死刑無期事件判決集[死刑事件(昭和60-62年度) / 無期事件(昭和58-62年度)]」『刑事裁判資料』第247号、最高裁判所事務総局刑事局、1989年3月、NCID AN00336020。 - 『刑事裁判資料』第247号は朝日大学図書館分室に所蔵。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第203号、最高裁判所、1978年、国立国会図書館書誌ID:000001375692。 - 昭和52年1月 - 4月分。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第217号、最高裁判所、1980年、国立国会図書館書誌ID:000001530997。 - 昭和55年1月 - 5月分。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第220号、最高裁判所、1980年、国立国会図書館書誌ID:000001531000。 - 昭和55年10月 - 12月分。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第222号、最高裁判所、1981年、国立国会図書館書誌ID:000001595309。 - 昭和56年5月 - 7月分。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第249号、最高裁判所、1988年、国立国会図書館書誌ID:000001995318。 - 昭和63年4月 - 6月分。
- 「第一審判決の無期懲役の科刑を維持した控訴審判決が量刑不当として破棄された事例」『最高裁判所刑事判例集』第53巻第9号、最高裁判所、1999年12月、1280-1289頁、全国書誌番号:00009089、国立国会図書館書誌ID:000000009021。 - 福山市独居老婦人殺害事件の第一次上告審[1999年(平成11年)12月10日第二小法廷判決:平成9年(あ)第479号]で、検察官が提出した上告趣意書の別表。別表2「殺害された被害者が1名の死刑確定事件一覧表」[1280-1285頁(上告趣意書282-287頁)]には「永山判決」(1983年7月)以降、被害者1人で死刑が確定した事例が収録されている。また別表3「無期懲役の仮出獄期間中に殺人を含む犯罪を犯した事例一覧表(最高裁判所判例分)」[1286-1289頁(上告趣意書288-291頁)]には、無期懲役の仮釈放中に殺人および強盗殺人を犯し、「永山判決」から1992年までに判決(いずれも死刑)が確定した5人に関する情報が収録されている。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第287号、最高裁判所、2005年、575頁。 - 平成17年1月 - 8月分。
- 三重連続射殺事件の共犯者(死刑を求刑されたが、一・二審で無期懲役判決)に対する検察官の上告趣意書別表3「被害者二名の強盗殺人事件で、永山判決以後最高裁判所において死刑選択の当否が判断された事例一覧表」が収録されている。同事件は2005年(平成17年)7月15日付で、最高裁第二小法廷(津野修裁判長)が上告棄却の決定[平成12年(あ)第690号]を出した。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第289号、最高裁判所、2006年。 - 平成18年1月 - 8月分。光市母子殺害事件の第一次上告審判決[2006年6月20日第三小法廷判決:平成14年(あ)第730号]における検察官の上告趣意書。49 - 68頁に「(別表1)永山判決以後死刑の科刑を是認した最高裁判所の判例一覧表」[収録対象:2002年6月11日(多摩市パチンコ店強盗殺人事件の上告審判決)以前に上告棄却判決を宣告された死刑囚]が、69 - 84頁に「(別表2)永山判決以前に犯時少年であった者に死刑の科刑が是認された判例一覧表」が、85 - 86頁に「(別表3)死刑の求刑に対し、永山判決後無期懲役とした控訴審判決について検察官が上告した事例一覧表」が掲載されている。
- 福田康夫 (2007年11月2日). “第168回国会(臨時会) 答弁書 答弁書第三一号 内閣参質一六八第三一号” (PDF). 参議院議員松野信夫君提出鳩山邦夫法務大臣の死刑執行に関してなされた発言等に関する質問に対する答弁書. 参議院. 2022年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月22日閲覧。 - 第168回国会における内閣総理大臣・福田康夫の答弁書(HTM版)。死刑執行に関する鳩山邦夫法務大臣の発言などに関して、松野信夫議員が行った質問に対する答弁書である。この答弁書には、1977年(昭和52年)1月1日から2007年(平成19年)9月30日までの30年間に確定した死刑判決の事件名および確定年月日がまとめられている。
- 『最高裁判所裁判集 刑事』第307号、最高裁判所、2012年。 - 平成24年1月 - 4月分。長崎市長射殺事件の上告審決定[2012年1月16日第三小法廷決定:平成21年(あ)第1877号]における検察官の上告趣意書。48 - 55頁に「(別表)被害者1名に対して死刑判決が確定した事案」[収録対象:裕士ちゃん誘拐殺人事件の死刑囚S(死刑確定:1987年1月19日)から、闇サイト殺人事件の死刑囚KT(死刑確定:2009年4月13日)]が掲載されている。
死刑事件全般関連の文献(書籍・雑誌)
個別事件関連の文献(加害者・被害者などの手記を含む)
- 大下英治「練馬一家五人殺し」『増刊週刊大衆』第29巻第28号、双葉社、1986年7月11日、214-239頁。 - 1986年7月11日号(通巻1582号)。練馬一家5人殺害事件の関連記事
- 「一、仮釈放の五日後に、パトロール中の警察官一名を殺害してピストルを強奪し、さらにそのピストルでサラ金の従業員一名を射殺して現金約六〇万円を強奪したという事案につき、死刑が言い渡された事例 二、自白につき、捜査官の暴行によるものである旨の被告人の主張が排斥され、任意性が認められた事例 三、目撃証言につき、観察条件、目撃内容、証言の具体性などの信用性が高いとされた事例――ピストル強盗連続殺人事件第一審判決 大阪地裁 63. 10. 25 判決」『判例時報』第1304号、判例時報社、1989年5月11日、55-81頁。 - 京都・大阪連続強盗殺人事件の加害者・廣田雅晴(1998年に死刑確定)への第一審判決文。
- 大阪地方裁判所第一刑事部判決 1988年(昭和63年)10月25日、昭和59年(わ)第4576号、『強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件』
- 主文:被告人を死刑に処する。
- 裁判官:青木暢茂(裁判長)・林正彦・河田充規
- 廣田雅晴(大阪拘置所)「毎日を先陣としたマスコミ報道陣は「赤報隊」に射殺されよ!」『噂の眞相』第14巻第1号、株式会社噂の真相、1992年1月、94-97頁。 - 通巻第155号(1992年1月号:毎月10日発売)。京都・大阪連続強盗殺人事件の加害者本人による手記。
- 野中恭太郎「「フェアレディZの女」12年の執念 あくまで男を道連れにしようとした女の哀切」『文藝春秋』第70巻第6号、文藝春秋、1992年6月1日、346-357頁、doi:10.11501/3198585。 - 1992年6月号。富山・長野連続女性誘拐殺人事件の加害者女性M(1998年に死刑確定)を取り扱った記事。
- 「一、仮釈放の五日後に、パトロール中の警察官一名を殺害してピストルを強奪し、さらにそのピストルでサラ金の従業員一名を射殺して現金約六〇万円を強奪したという事案につき死刑を言い渡した原判決の判断を正当とした事例 二、自白は警察官の拷問により強要されたものであるから任意性がないという被告人側の主張を排斥した事例 三、目撃証言の信用性などを認めて被告人と犯人の同一性を肯定した事例――ピストル強盗連続殺人事件控訴審判決 大阪高裁 平5. 4. 30 刑六部判決」『判例時報』第1503号、判例時報社、1994年11月1日、151-161頁。 - 京都・大阪連続強盗殺人事件の加害者・廣田雅晴への控訴審判決文。
- 大阪高等裁判所刑事第六部判決 1993年(平成5年)4月30日、平成元年(う)第162号、『強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件』
- 主文:本件控訴を棄却する。
- 裁判官:村上保之助(裁判長)・米田俊昭・安原浩(安原は転勤のため署名・押印できず)
- 来栖宥子 著、斉藤繁人(発行人) 編『113号事件 勝田清孝の真実』(初版)恒友出版、1996年8月8日。ISBN 978-4765261104。 - 勝田清孝事件の関連書籍
アムネスティ・インターナショナルからの報告書
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