死刑合憲判決

日本国憲法第36条 > 死刑合憲判決
最高裁判所判例
事件名 尊属殺、殺人、死体遺棄
事件番号 昭和22年(れ)第119号
1948年(昭和23年)3月12日
判例集 刑集第2巻3号191頁
裁判要旨
  1. 死刑そのものは憲法第三六條にいわゆる「殘虐な刑罰」ではなく、したがつて刑法死刑の規定は憲法違反ではない。補充意見がある。
  2. 原審辯護人が原審公判において、被告人に精神病の懸念があることを主張したに過ぎないときは、刑事訴訟法第三六〇條第二項に規定する事由があることを主張したものとは解せられないので、原判決がその點について判断を示さなかつたからとて判断を遺脱したものとはならない。
最高裁判所大法廷
裁判長 塚崎直義
陪席裁判官 長谷川太一郎霜山精一井上登真野毅庄野理一島保齋藤悠輔岩松三郎河村又介藤田八郎
意見
多数意見 全員一致
意見 補充意見(島保・藤田八郎・岩松三郎・河村又介)、意見(井上登)
反対意見 なし
参照法条
憲法13・31・36条,刑法9・11条,刑事訴訟法360条2項
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死刑合憲判決[1][2][3][4][5](しけいごうけんはんけつ)とは、1948年昭和23年)3月12日日本最高裁判所大法廷塚崎直義裁判長)が宣告した判決。死刑制度は日本国憲法第36条で固く禁止された「残虐な刑罰」には該当せず、1947年(昭和22年)に施行された同憲法の下でも違憲ではなく合憲であるという憲法解釈を示した判決であり、死刑制度合憲判決[6]とも呼称される。

この刑事裁判は、1946年(昭和21年)9月16日広島県佐伯郡吉和村(現: 広島県廿日市市吉和[注 1])で同居していた母親と妹を殺害する事件を起こし、尊属殺人[注 2]殺人死体遺棄の罪に問われた被告人邑神 一行(当時19歳)が広島高裁死刑判決を受け、上告していたものである。邑神の弁護人は上告趣意書で、死刑制度は憲法第36条に違反する旨を主張していたが、最高裁大法廷は違憲審査の末、憲法第13条および第31条を根拠に死刑制度は合憲であると結論付け[8]裁判官11人全員一致の意見で、上記の判断から被告人の上告を棄却し、死刑を確定させる判決を宣告した。なお、邑神は最高裁に記録が残る限りでは戦後日本で初めて死刑が確定した少年死刑囚である[9]

以降はこの判例における憲法解釈が死刑制度存置の根拠とされ、日本の裁判所はこの判例に従って死刑判決を宣告してきたとされている[1]。また福田平 (1985) は、最高裁は死刑の合憲性を肯定した多数の判例を示しているが、この大法廷判決はそれらの中で最も重要な判例であると評している[3]

事件

地図
場所 日本の旗 日本: 広島県佐伯郡吉和村字妙音寺原2228番地[注 3][12][13](犯人宅)[14]
座標
北緯34度29分15.18秒 東経132度8分55.14秒 / 北緯34.4875500度 東経132.1486500度 / 34.4875500; 132.1486500座標: 北緯34度29分15.18秒 東経132度8分55.14秒 / 北緯34.4875500度 東経132.1486500度 / 34.4875500; 132.1486500
標的 同居していた母ハルノ(当時49歳)、妹キミヨ(当時16歳)の2人[14][9][15]
日付 1946年(昭和21年)9月16日[16][9][17]
1時ごろ[14][17] (UTC+9)
概要 男が自身を邪魔者扱いしていた母親と妹の2人を就寝中に槌で撲殺し、死体を古井戸に遺棄した[14][9][17]
攻撃手段 槌で頭部を殴る[14][17]
攻撃側人数 1人
武器 藁打ち(重さ一余り)[14][17]
死亡者 2人[14][9]
犯人 邑神一行[12](事件当時19歳8か月)[9]
容疑 尊属殺人罪[注 2]殺人罪死体遺棄罪[18][19]
動機 家族から邪魔者扱いされたことへの恨み[19]
対処 邑神を逮捕起訴
刑事訴訟 死刑上告棄却判決により確定[20]: 少年死刑囚[9]
管轄
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この判決を言い渡された被告人は、邑神 一行(むらかみ かずゆき[注 4][24]1927年〈昭和2年〉1月10日[12][25] - 1949年〈昭和24年〉7月27日[23][25])である[12]。彼は事件当時、19歳8か月の少年だった[9]。邑神の本籍地および住居は広島県佐伯郡吉和村字妙音寺原2228番地[注 3]で、職業は日雇稼だった[12]

邑神は1946年9月16日未明、自宅で睡眠中の母・ハルノ(当時49歳)と妹・キミヨ(同16歳)を藁打ち槌(重さ一余り)で撲殺し、2人の死体を自宅近くの古井戸に遺棄する事件を起こした犯人である[17]

事件前

一行は尋常小学校4年生の時に父親と死別して以降、家が貧しかったことから居村の「教龍寺」[注 5]へ奉公に出された[28][15]。さらに荒物屋の丁稚・料理店の板場・自動車会社の助手などの仕事を転々としていたが、最後の自動車会社で会社の金を費消したために解雇され、1946年(昭和21年)2月ごろに生家へ帰ってきた[29][15]。当時、生家では一行の母・ハルノと妹・キミヨが、それぞれ手内職や日稼ぎなどをして乏しい配給生活で糊口を凌いでおり、一行本人も第一審の初公判で、自分たちの家庭では米・麦は一切耕作しておらず、配給生活だったため、自分や妹の日稼による収入だけで生活していたと述べている[30]。しかし一行はもともと板場のような職業に興味を持っていたため、田舎での労働を好まず、自分の力で一家を支えようとする意気込みもなかったため、邑神家は一行の帰宅により、さらに暮らしにくくなった[14][31]。また一行は食欲旺盛なため、食生活もより一層逼迫したことから、ハルノやキミヨは彼を邪魔者扱いするようになり、家庭内は険悪になっていた[14][17]。なお一行には兄がいたが、彼は事件当時まだ復員していなかった[32]

事件の第一通報者である一行の知人男性・乙は、一行は1945年(昭和20年)ごろに働き先から実家に帰ってきて日稼をしていたが、あまり仕事が好きではなく、金遣いも荒いと聞いていた一方、ハルノやキミヨはいずれも大人しく、評判は良かったと証言している[30]

同年6月ごろ、一行は自宅がそれまで融通を受けていた近所の「住田精米所」から米2を盗み出し、大部分を煙草などと交換したことが発覚して検挙された[14][17]。同事件は起訴猶予処分となったが、一行はそれ以来、これを苦にしたハルノから口癖のように「お前があんなことをしたから世間に恥しい上、住田から米を借りることも出来なくなった」と愚痴を言われ、ハルノはキミヨとともに一行を冷遇するようになった[14][17]。このため、一行は同年9月13日から14日ごろにかけ、母と妹を殺してしまおうかという気持ちになっていた[14][17]

事件発生

一行は事件前日の9月15日、友人宅へ遊びに行って17時30分ごろに帰宅したが、2人はそれまでに既に夕食を済ませており、食物は全く残っていなかった[14][17]。そして、キミヨから「仕事もせずに遊んでいる者は飯を食べなくてもよい」と放言されたことに腹を立て、再び家を出た[14][17]。その後、一行は23時過ぎに再び帰宅したが、その際にはいつもと異なり、ハルノやキミヨが一行のための床を敷いていなかった[14][17]。このため一行はいったん床で寝たが、空腹や立腹のあまり寝付けず、夕方の2人からの仕打ちや、日ごろの冷たい態度を思ううちに、いよいよ今夜2人を殺そうと決断した[14][17]

そして翌9月16日1時ごろ、一行は自宅納屋から藁打ち槌(重さ一余り)を持ち出し、熟睡していたハルノの顔面を2度殴打して殺害すると、直後にはキミヨも同様に顔面や頭部を殴って殺害した[14][17]。そして、2人の死体を自宅東南方数の地点にあった古井戸内に投げ込んで遺棄した[14][17]。遺棄現場となった井戸は普段使われていない古井戸で[21]、家の畑の中にあった[30]。鑑定人の香川卓二が1947年2月15日付で作成した鑑定書によれば、ハルノとキミヨの死体はいずれも死後数か月が経過しており、死因は不詳だが、ハルノの前頭部前下方と右上顎骨部、キミヨの右側頭骨鱗状部の前上部と右前頭顴骨連接部にそれぞれ鈍器による打撲で発生したと見られる骨折があり、仮にこれらの損傷が生前に生じたものである場合、2人はいずれも負傷直後に死亡したと思われるという旨の記載がある[33]

事件後

一行は事件後、近所づきあいがあった友人の男性・甲[注 6]に対し、ハルノとキミヨの2人は山県郡の親族の家に行っていると話していたが、甲は2人が祭りや正月にさえ姿を見せないこと、また山県郡の方にも行っていないことが判明したことから不審に思っていた[30]。一方で2人については、家出保護願いが出されていた[21]

事件翌年の1947年(昭和22年)1月17日、甲は邑神家に遊びに行ったが、その際に別の友人(乙)も邑神家を訪れていたため、2人は一行に対し、ハルノやキミヨを探さずにいては申し訳ないのではないかと問い詰めた[30]。一行は当初黙り込んでいたが[30]、2人は家の井戸にでも落ちているかもしれないから、一度井戸を見ようと乙から言われ、青ざめた様子で、今晩乙の家へ相談に行くという旨を話した[34]。しかし乙は何となく井戸の中が気になり、甲を誘って一緒に井戸の中を見ることにした[33]。同日18時ごろ[21]、帰り際に乙が何の気もなく井戸の蓋をどけて中を覗いてみたところ、「何か変なものがある」と言ったため、甲が同様に井戸の中を覗いてみたところ、人の死骸らしきものが見つかった[30]。2人に同行していた一行は顔色が悪くなり、最終的には泣き出したため、乙は甲と相談した上で甲に一行を見張っているよう任せ、駐在所へ届け出た[30]。事件を把握した廿日市警察署は一行の引致取り調べを行った一方、18日には一行が母と妹を殺害した嫌疑が濃厚であるとして、広島地方検察庁から実地検証に向かった[21]。一行は同年1月22日[25]刑法199条(殺人罪)および刑法200条(尊属殺人罪[注 2]死体遺棄罪起訴された[18]

刑事裁判

被告人・邑神一行の刑事裁判は、旧刑事訴訟法(大正11年法律第75号)に基づいて行われた[注 7]。同年2月20日に予審が終了した[25]

第一審公判広島地方裁判所刑事第1部(横山裁判長)で開かれ、1947年(昭和22年)5月16日の公判で、邑神は大町検事から死刑求刑された[22]。同年5月23日、邑神は広島地裁で無期懲役の第一審判決を宣告されたが[9][19][25]、同年8月25日には広島高等裁判所で死刑の控訴審判決を宣告された[注 8][9][19][25]

邑神の弁護人を務めた西村直人は控訴審判決に対し、憲法違反などを理由に最高裁判所へ上告し[17]、弁護人は上告趣意書で「死刑は最も残虐な刑罰であるから、日本国憲法第36条によって禁じられている公務員による拷問や残虐刑の禁止に抵触している。そもそも『残虐な殺人』と『人道的な殺人』とが存在するというのであれば、かえって生命の尊厳を損ねる。時代に依存した相対的基準を導入して『残虐』を語るべきではない」として、死刑適用の違憲性を主張した[36]。このため、事件については死刑制度が憲法36条に違反するか否かについて憲法解釈が行われることになった[37]

「残虐な刑罰」の定義については、この判決以降に最高裁大法廷判決(1948年6月23日宣告・刑集2巻7号777頁)で「不必要な精神的、肉体的苦痛を内容とする人道上残酷と認められる刑罰」とされている[38]が、学説上は「刑罰の種類・性質が残虐である場合」「犯罪と刑罰が極端に均衡を失している場合」が問題とされる[37]。そのため、前者の観点からは「死刑そのものは残虐な刑罰に該当するか」「死刑の執行方法(絞首刑[注 9]は残虐と言えるか」がそれぞれ問題となり[37]、後者の観点からは「軽微な犯罪に対して死刑を予定・選択することが残虐と言えるか」が問題とされた[40]

大法廷判決

最高裁判所裁判官11人による最高裁大法廷塚崎直義裁判長)は1948年(昭和23年)3月12日、日本国憲法の主旨と死刑制度の存在は矛盾せず、合憲であるとして、邑神の上告を棄却する判決を言い渡した[20]。これにより、邑神の死刑が確定した[注 10][9]

判決文では「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球よりも重い[36]。……憲法第十三条においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重必要とする旨を規定している。しかし、同時に……もし、公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども、立法上制限ないし剥奪されることを当然予想しているといわねばならぬ。そしてさらに憲法第三十一条によれば、国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手続によって、これを奪う刑罰を科せられることが、明らかに定められている。すなわち憲法は、現代多数の文化国家におけると同様に、刑罰として死刑の存置を想定し、これを是認したものと解すべきである。」として、社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性は承認されていると結論付けた[42]

次いで「残虐な刑罰」と主張した点については、「刑罰としての死刑そのものが、一般に直ちに同条にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。ただ死刑といえども、他の刑罰の場合におけると同様に、その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから、将来若し死刑について火あぶりはりつけさらし首釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法第三十六条に違反するものというべきである。」としている[43]

なお、この判決には島保藤田八郎岩松三郎河村又介の4裁判官による補充意見と[44]井上登裁判官の意見が付せられている[45]

  • 島裁判官ら4人の補充意見は、「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によつて定まる問題である。而して国民感情は、時代とともに変遷することを免かれないのであるから、ある時代に残虐な刑罰でないとされたものが、後の時代に反対に判断されることも在りうることである。したがつて、国家の文化が高度に発達して正義と秩序を基調とする平和的社会が実現し、公共の福祉のために死刑の威嚇による犯罪の防止を必要と感じない時代に達したならば、死刑もまた残虐な刑罰として国民感情により否定されるにちがいない。かかる場合には、憲法第31条の解釈もおのずから制限されて、死刑は残虐な刑罰として憲法に違反するものとして、排除されることもあろう。しかし、今日はまだこのような時期に達したものとはいうことができない。」としている[46]
  • 井上裁判官の意見は、島裁判官らの補充意見は「何と云つても死刑はいやなものに相違ない、一日も早くこんなものを必要としない時代が来ればいい」といったような思想ないし感情が基になっているのであろうと推察した上で、「この感情に於て私も決して人後に落ちるとは思はない、しかし憲法は絶対に死刑を許さぬ趣旨ではないと云う丈けで固より死刑の存置を命じて居るものでないことは勿論だから若し死刑を必要としない、若しくは国民全体の感情が死刑を忍び得ないと云う様な時が来れば国会は進んで死刑の条文を廃止するであろうし又条文は残つて居ても事実上裁判官が死刑を選択しないであろう、今でも誰れも好んで死刑を言渡すものはないのが実状だから。」とする[47]

大法廷判決後

かくして邑神は死刑確定者(死刑囚)となり、1949年(昭和24年)7月27日に福岡刑務所死刑を執行された(22歳没)[23][25]。死刑執行当時の法務大臣殖田俊吉であった[48]。邑神には収監中に交流していた人物はおらず、死刑執行後に彼の遺体を引き取る者もいなかったため、遺体は九州大学医学部へ献体された[23]

村野薫 (1990) によれば、かつて広島矯正管区内で死刑が確定した死刑確定者は広島刑務所に収監されていたが、1949年(昭和24年)4月2日から約1年間にわたり、広島刑務所在監の死刑確定者は同刑務所の刑場(死刑執行設備)新改築のため、収監・死刑執行とも当時刑場を有していた福岡刑務所[注 11]で行われており[51]、それに伴う福岡刑務所への死刑確定者の移送は「福岡送り」と呼ばれていた[52]。その後、広島矯正管区内の死刑確定者は1951年(昭和26年)から現在の広島拘置所へ収監されるようになったが[53]、その一方で1957年(昭和32年)までに広島拘置所に収監されていた死刑確定者は同年までに全員が死刑を執行され、1959年(昭和34年)までは同所の死刑確定者は不在になっていた[54]

この判決以降、2018年(平成30年)時点までに日本の裁判所は死刑の合憲性・違憲性について、新たな判断を示していない[1]。なお、1993年(平成5年)9月21日には最高裁第三小法廷[1]園部逸夫裁判長)で言い渡された半田保険金殺人事件の上告審判決(控訴審の死刑判決に対する被告人側の上告を棄却)[55]では、大野正男裁判官が補足意見で、この大法廷判決から45年が経過し、その間に死刑制度とその運用に著しい変化がある[注 12][57]。しかし、死刑に対する国民の意識・感情について(各種世論調査などの結果を踏まえ)検討すると、我が国民の多くは、今日まで死刑制度の存置を希望してきており、死刑廃止を基本的に支持する者の中でも、即時全面廃止を支持する者は少なく、その多くは死刑の漸次的廃止を支持しているとみられると指摘した[58]。その上で、大野は「死刑適用の一般的基準については『各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合』と判示されている。このように、裁判所は死刑を極めて限定的にしか適用していないが、なおその厳格な基準によっても死刑の言渡しをせざるを得ない少数の事件が存在しているというのが我が国の現状である。」と指摘し[59]、「我が国民の死刑に対する意識にみられる社会一般の寛容性の基準及び我が国裁判所の死刑の制限的適用の現状を考えるならば、今日の時点において死刑を罪刑の均衡を失した過剰な刑罰であって憲法に反すると断ずるには至らず、その存廃及び改善の方法は立法府にゆだね、裁判所としては、前記のように死刑を厳格な基準の下に、誠にやむを得ない場合にのみ限定的に適用していくのが適当である」と結論づけている[60]

また絞首刑の合憲性については東京地裁民事第2部(浅沼裁判長)が1960年9月28日、現行の死刑執行方法たる絞首刑は憲法第31条に違反するとして、自身には死刑執行を受ける義務がないとして、その事実の確認を求めた死刑確定者(当時29歳、宮城刑務所在監)の請求(死刑受執行義務不存在確認請求)を棄却する判決を宣告した[61]。同訴訟の原告である死刑確定者は、1949年10月1日夜、長野県南安曇郡穂高町(現:安曇野市)で農業の男性宅に押し入り、日本刀で一家4人を殺害して腕時計など数十点を奪ったとして、第一審(長野地裁松本支部)、控訴審(東京高裁)で死刑判決を受け、死刑は残却な刑罰を禁止した憲法第36条に違反するとして最高裁へ上告していたが、1958年5月に上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定していた[61]。原告は訴状で、死刑執行方法を絞首と定めた規定は明治6年の太政官布告しかなく、同布告は新憲法で無効になっている上、自分の体重で首を絞めるのは絞首ではなく縊首であるなどの理由から、死刑執行は憲法第31条に違反すると主張、死刑受執行義務不存在確認に加え、判決まで死刑執行の停止を求める仮処分を申請していたが、同地裁は死刑執行についての明確な準則を規定すべきとして現行法規の不備を指摘したものの、死刑執行の具体的な細目までことごとく法律によるものと解すべきではないとして、死刑確定者の訴えを棄却した[61]。なおこの行政訴訟は最高裁まで跳躍上告されたが、別の強盗殺人事件で死刑判決を受け、同様の理由で絞首刑の違憲性を主張して上告していた2被告人の刑事訴訟で[注 13]、最高裁大法廷(横田裁判長)が1961年7月19日に「太政官布告は法律と同様の能力を持つもので、現在も生きている」として上告棄却の判決を言い渡しており、この大法廷判決によって行政訴訟も上告棄却となる公算が強くなったと報じられている[62]。また、これに先んじて1956年11月にも最高裁第一小法廷で、絞首刑は残虐な刑罰に当たらないという判断が示されている[62]

反応・評価

この大法廷判決は死刑およびその執行方法(絞首刑)の合憲性を肯定した判例として、2019年令和元年)時点でもなお重要な判例とされている[39]。最高裁第二小法廷は1983年(昭和58年)7月8日、連続ピストル射殺事件の被告人・永山則夫に対し言い渡した第一次上告審判決で死刑選択の可否を判断する基準を明示したが、その判決などでもこの大法廷判決が判例として踏襲されている[63]。一方で大法廷判決当時は、邑神が起こした事件そのものに関する社会的関心は低く、日本国民の死刑に対する関心は一般犯罪よりもむしろ戦争犯罪の方に向いていた[注 14][64]

弁護士の六車明は2018年、井上がこの大法廷判決で、「一日も早くこんなもの(死刑制度)を必要としなくなる時代が来ればいい」と述べたことに言及した上で、それから70年が経過した2018年時点でもなお死刑制度を支持する世論が根強いことについてはは、大法廷判決当時の国内情勢(GHQ占領下の戦後復興期)から70年が経過してもなお、4人の裁判官が指摘したような「公共の福祉のために死刑の威嚇による犯罪の防止を必要と感じない時代」には至っていないということであり、その理由としては日本社会が経済優先を本質とする社会だったことなどが挙げられるだろうと指摘している[1]

一方、罪刑均衡の観点から死刑そのものが「残虐な刑罰」に該当するか否かについては判断されていないが[39]、後義輝 (1993) は最高裁が「瞬間的に致命傷が加えられ、瞬間的に決定的な意識剥奪が行われて確実な死が速やかに招来されるに至ったことは、死刑の進化・人道化である」としていることについて触れ、死刑の残虐性の中枢は生命剥奪、および「確実な死が絶対的に強制される」ことに起因する精神的苦痛という点にあり、こうした見解こそ死刑における受刑者の生命剥奪およびそれと不可分一体の精神的苦痛、その経験の残虐性というものへの恐るべき無知・独断を示しているものであって、生命剥奪そのものが残虐である限りは最高裁が考えている「残虐でない死刑執行方法」などそもそも存在しないと指摘している[65]

また、大法廷判決後の同年11月12日に極東国際軍事裁判東條英機A級戦犯7名が死刑判決を受け、12月23日巣鴨プリズン絞首刑となっているため、当時日本を占領・統治していたGHQが日本の元戦争指導者達を死刑にしようとしていた中、死刑制度を違憲とすることはできなかったのではないかとの指摘もある[66]

その他

アメリカ合衆国連邦最高裁は1976年7月2日(ワシントンD.C.現地時間)、死刑は憲法が規定する残酷かつ異常な処罰には当たらず合憲であるという判決を言い渡したが[67]、この判決も「死刑合憲判決」と呼称される[68]。連邦最高裁は1972年6月、当時死刑を定めていた連邦と36の、コロンビア特別区(ワシントンD.C.)のすべての刑法の規定について、死刑についての各刑法の定め方に統一性がなく、裁判官・陪審員の裁量の幅も非常に大きいことを理由に、死刑が非常に恣意的に科される傾向があり、憲法で保障されている法の下の平等に反するとして違憲判断を下しており、また1967年以降、全米では死刑執行が一度も行われていなかった[68]。しかしその後も、アメリカ国内で凶悪犯罪が増加の一途をたどる中でアメリカ国民が強い法の執行、死刑の存続を求めていたという事情があり、それがこの死刑合憲判決の背景にあると評されている[68]。この判決以降、1977年からアメリカでは死刑執行が再開され[69]、またいったん死刑を廃止した州が死刑を復活させることも相次ぎ、2000年時点では連邦政府やに加え、38州に死刑制度があった[70]

脚注

注釈

  1. ^ 佐伯郡吉和村は廿日市市と合併して消滅し、旧吉和村一円は2003年(平成15年)3月1日から「廿日市市吉和」に住所変更された[7]
  2. ^ a b c 尊属殺人罪は1995年(平成7年)の刑法改正で廃止。その経緯については尊属殺重罰規定違憲判決も参照。
  3. ^ a b 現住所: 広島県廿日市市吉和2228番地(座標[10]中国自動車道吉和インターチェンジ (IC) 料金所のほぼ真北に位置し、国道186号に面する地点で、至近の国道186号には「妙音寺原」バス停(座標)がある[11]
  4. ^ GHQ/SCAP文章によれば、邑神の姓名のスペルはKazuyuki Murakami[23]
  5. ^ 「教龍寺」は広島県廿日市市吉和2897番地(現住所、座標)に位置する[26][27]
  6. ^ 甲は当時31歳、乙は28歳。
  7. ^ 現行の刑事訴訟法(昭和23年法律第131号)は1948年7月10日に公布されている。
  8. ^ なお、旧刑事訴訟法における控訴審は現行法における事後審ではなく、第一審と同じ手続きを繰り返す「覆審」であった[35]
  9. ^ 死刑執行方法を規定した法令は、2019年時点でも1873年(明治6年)に出された「明治6年太政官布告65号(絞罪器械図式)」が現行法である[39]
  10. ^ 現行の刑事訴訟法第418条では、「上告裁判所の判決は、宣告があつた日から第415条の期間(※判決の宣告があった日から10日以内)を経過したとき、又はその期間内に同条第1項の申立があった場合には訂正の判決若しくは申立を棄却する決定があったときに、確定する。」と規定されているが、旧刑事訴訟法では上告審判決の訂正に関する規定(現行法の第415条・416条417条における規定に相当するもの)はない[41]
  11. ^ 福岡刑務所では1948年11月11日に刑場が完成し、同日から死刑確定者の収監・執行を行っていたが[49]、同刑務所は1965年(昭和40年)4月16日に福岡市外へ新築・移転したため、以降は同拘置所跡地に移転した土手町拘置支所特別舎(現:福岡拘置所)で死刑確定者の収容・執行が行われている[50]
  12. ^ 大野正男 (1993) は死刑廃止国の増加や、1989年(平成元年)12月15日の国連総会第44通常会期で死刑廃止を目的とする「市民的及び政治的権利に関する国際規約第二選択議定書」(いわゆる「死刑廃止条約」)が採択されたことなどを踏まえ、国家が刑罰として国民の生命を奪う死刑が次第に人間の尊厳にふさわしくない制度と評価されるようになり、また社会の一般予防にとって不可欠な制度とは考えられなくなってきたと指摘した上で、大法廷判決後に死刑確定者が再審により無罪となった冤罪事件4件(免田事件財田川事件松山事件島田事件)が発生したことから、死刑が残虐な刑罰に当たると評価される余地は著しく増大したということができるとも指摘した[56]
  13. ^ 同事件は1956年2月、愛知県名古屋市瑞穂区瑞穂通の浴槽会社支店で留守番していた夫婦(夫63歳、妻58歳)を殺害して鋼板約150 kgを奪ったとして、この店に勤めていた工員の男X(上告審判決当時26歳)と別の工員の男Y(同21歳)が強盗殺人罪に問われたもので、第一審の名古屋地裁では同年12月、Xを無期懲役、Yを懲役15年とする判決が言い渡されたが、控訴審の名古屋高裁が原判決を破棄し、2被告人をいずれも死刑とする判決を言い渡していたところ、2被告人は当時、死刑執行方法が明文化されていなかった一方、絞首刑という方法は太政官布告で規定されたものであるが、同布告は日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律によって失効しており、その布告を根拠としている絞首刑の執行方法は憲法第31条に違反すると主張して上告していた[62]
  14. ^ 朝日新聞』(朝日新聞社)では本事件については取り上げられず、『読売新聞』(読売新聞社)でも1948年3月13日朝刊2面記事「死刑は違憲に非ず」で「法曹界の注目をひいていた死刑存廃問題に終止符が打たれた」と紹介されたのみだった[64](いずれも東京版)。

出典

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参考文献

事件の刑事裁判の判決文

  • 最高裁判所事務総局刑事局「死刑と日本國憲法: 尊屬殺殺人死體遺棄被吿事件(昭和二二年(れ)第一一九號 同二三年三月一二日大法廷判決 棄卻)」『最高裁判所刑事判例集』第2巻第3号、最高裁判所判例調査会、1948年、191-202頁。 
    • 広島高等裁判所判決 1947年(昭和22年)8月25日 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第2巻3号199頁、『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例ID:24000076(下記「27760012」の控訴審)、、『尊属殺、殺人、死体遺棄被告事件』。 - 上記文献199-202頁収録。
      • 判決主文:被告人を死刑に処する 訴訟費用は全部被告人の負擔とする
    • 最高裁判所大法廷判決 1948年(昭和23年)3月12日 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第2巻3号191頁、『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例ID:27760012、昭和22年(れ)第119号、『尊属殺、殺人、死体遺棄被告事件』「1. 死刑の合憲性 / 2. 被告人に精神病の懸念があることの主張と刑訴法第三六〇條第二項」、“1. 死刑そのものは憲法第三六條にいわゆる「殘虐な刑罰」ではなく、したがつて刑法死刑の規定は憲法違反ではない。補充意見がある。 / 2. 原審辯護人が原審公判において、被告人に精神病の懸念があることを主張したに過ぎないときは、刑事訴訟法第三六〇條第二項に規定する事由があることを主張したものとは解せられないので、原判決がその點について判断を示さなかつたからとて判断を遺脱したものとはならない。”。 - 上記文献191-199頁収録。

関連する刑事裁判の資料

  • 「付録 死刑事件判決総索引」『刑事裁判資料』第227号、最高裁判所事務総局刑事局、1981年3月、135頁、NCID AN00336020  - 朝日大学図書館分室、富山大学附属図書館、東北大学附属図書館に所蔵
  • 「検察官の上告趣意:別表 犯時少年の事件に対し死刑の判決が確定した事例」『最高裁判所刑事判例集』第37巻第6号、最高裁判所判例調査会、1983年、659-689頁。 
  • 最高裁判所第三小法廷判決 1993年(平成5年)9月21日 集刑 第262号421頁、昭和62年(あ)第562号、『強盗殺人、死体遺棄、殺人、詐欺被告事件』「死刑事件(保険金殺人事件)(補足意見がある)」。 - 半田保険金殺人事件の死刑囚(2001年に死刑執行)に対する上告審判決。
    • 最高裁判所裁判官:園部逸夫(裁判長)・貞家克己佐藤庄市郎可部恒雄大野正男(大野の補足意見がある)
    • 判決主文:本件上告を棄却する。(第一審の死刑判決を支持した控訴審判決を支持し、同判決に対する被告人側の上告を棄却)

雑誌・書籍・論文

  • 向江璋悦『死刑廃止論の研究』(初版発行(初版印刷日:1960年10月10日))法学書院、1960年10月20日、430-432頁。 
  • 福田平 著「第三章 犯罪と刑罰 > II 刑罰 > 死刑の合憲性」、中川善之助, 林屋礼二 編『判例による法学入門』(新版第1刷発行)青林書院、1985年5月30日、147-152頁。NDLJP:11931740/82 
  • 村野薫『日本の死刑』(第1版第1刷発行)柘植書房、1990年11月25日。ISBN 978-4806802983 
  • 後義輝(旧姓:羽藤義輝)「第四章 死刑における精神的苦痛の残虐性 八 最高裁判所の認識に対する批判」『死刑論の研究』(第1版第1刷発行)三一書房、1993年9月15日、78-91頁。ISBN 978-4380932410 
  • 奥田博昭 著「死刑囚の死刑制度違憲裁判事件」、(編者)事件・犯罪研究会、村野薫 編『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(初版発行)東京法経学院出版、2002年7月5日、309頁。ISBN 978-4808940034 
  • (編集製作)明治大正昭和新聞研究会 編「『読売新聞』1950年3月27日朝刊三面「死刑 是か非か 執行を待つ62名 電気椅子悔んで死んだ発明者」(読売新聞東京本社)」『新聞集成 昭和編年史 三十年版II』(刊行(印刷:2006年8月28日))(発行所)新聞資料出版・(発行者)中尾順子、2006年9月9日、380-381頁。ISBN 978-4884102043 
  • 櫻井悟史「死刑制度合憲判決の「時代と環境」 ─1948年の「残虐」観─」『犯罪社会学研究』第42巻、日本犯罪社会学会、2017年、91-105頁、doi:10.20621/jjscrim.42.0_91ISSN 2424-1695 
  • 中島宏(著)、長谷部恭男・石川健治・宍戸常寿(編)「死刑と残虐な刑罰」『憲法判例百選II』第55巻第5号、有斐閣、2019年11月30日、254-255頁、ISBN 978-4641115460  - 第246号(通巻)

関連項目