| この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。 ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 |
日本における死刑囚(にほんにおけるしけいしゅう)では、日本における死刑囚に関し記述する。
日本の法令(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律など)においては、死刑囚、すなわち日本の刑事裁判で死刑判決が確定した者を死刑確定者(しけいかくていしゃ)と呼称する。
日本の死刑囚の処遇
死刑執行が猶予される場合
闘病中や精神障害、妊娠中など刑の執行を停止しなければならない場合や、非常上告の有無、再審請求中、恩赦に相当するかどうかの件は慎重に確認されなければならないとされる。そのうち妊娠中を理由に死刑執行が猶予された者は現行法上存在しない。これは被告人が妊娠している場合には裁判手続きが停止になるためである[注 1]。なお1872年に処刑された夜嵐おきぬは、江戸時代の法であったが、出産まで執行が猶予されている。そのため、死刑判決確定から20年以上経過して執行されていない場合には、これらの条件のうちいくつかが該当しているといえる。また組織犯罪の死刑囚では共犯が逃亡していたり公判が終了していないため、死刑執行が行われていない例がある(例として連合赤軍事件の死刑囚や三菱重工爆破事件の死刑囚など)。
また財田川事件(後に再審無罪)の元死刑囚のように故意もしくは過失で裁判記録の一部が破棄されたために上申書作成が不可能になり死刑執行が出来なかったケースや、樺太で戦中発生した樺太・西柵丹強盗殺人事件の死刑囚が同様に、ソ連軍の侵攻で裁判記録を運び出せず消滅したために、個別恩赦で無期懲役に減刑されたケース[1]がある。
死刑囚の扱い
死刑の判決を受けた者の刑は、死刑そのものであることから、死刑執行に至るまでの期間の身柄拘束は「刑の執行ではない」として、処刑までの間の身柄は、刑務所ではなく拘置所に置かれる。
マスコミでは、死刑確定者を「死刑囚」と呼んでいるが、既に執行された場合や、刑の執行によらず獄中で死亡した場合は「元死刑囚」と呼ぶ。再審によって無罪が確定した場合、新証拠等によって無罪の可能性が高くなり釈放された場合は、敬称に戻している。
戦後、恩赦による減刑は政令恩赦は15名、個別恩赦は11名いる。政令恩赦はサンフランシスコ平和条約締結を機に行われ、個別恩赦は諸般の事情を考慮して行われたが、1975年に福岡事件の殺人の実行者に対する事例を最後に行われていない。そのため、日本において現在では死刑囚がどんなに改悛したとしても恩赦減刑される道は事実上閉ざされている。そのほか、再審で無罪になった元死刑囚は4名いたが、いずれも1980年代の事例である。また死刑が執行されず獄死したものも少なくない。1946年から2007年3月までの死刑確定者は自殺・獄死・恩赦減刑を除くと728人であった。この時点までに死刑執行者は627人、この時点での未執行者は101人であった。なお戦後女性死刑囚は2021年6月時点で16人(収監中6名、執行5人、獄死5人)である。
2020年7月時点での、日本における死刑確定囚は111名(うち女性6名)であり、確定後の拘置期間は2005年9月時点[2](この時点での確定者は68名)で、平均して8年3ヶ月である。
死刑囚の処遇
日本における死刑囚の処遇は、他の懲役刑のそれと大きく異なる。まず自らの死をもって罪を償うのが死刑であるため、国家の収入の一部となる刑務作業を科されず、「死」の直前まで原則として拘置所に収監されることになる。死刑囚の中には被害者への償いのために軽作業を行ったり、書籍の点字翻訳のボランティアをしていた[3]ものもいる。
また、例えば東京拘置所には特別に死刑囚房といった設備が無いため、死刑囚と同じフロアに刑事被告人が収監されている場合[4]があるという。実際に元外交官で文筆家の佐藤優は、東京拘置所に収監中、両隣に袴田事件の袴田巌元死刑囚(現在釈放中)と連合赤軍事件の坂口弘死刑囚がいたと証言[5]している。また、死刑囚の処遇には次のようなもの[4]があるという。主に自らの罪を悔い改めさせる事を目的としている。
- 請願作業 - 本人が希望する場合、軽作業(内職等)を7時間程度行わせる事ができ、作業に見合った収入を受け取らせることもできる
- 教誨 - 死刑囚に単独の宗教教誨を受けさせる
- 礼拝用具等の使用 - 宗教的用具を所持使用させる
- 教科指導 - 俳句や書道などを学習させる
- 情操教育物の使用 - 書道の道具などを所持使用させる
- ビデオ視聴 - 映画等のビデオ鑑賞を独房内で行わせる
死刑囚の移送
死刑判決が確定した死刑囚を移送することは、刑事施設の側は保安上の理由等から回避したい事態と思われる。近年、死刑囚を移送する際の事故は、少なくとも報道されていない。(しかし、懲役20年の判決が確定した受刑者については、2013年に移送中に逃走を試みた事件があった[6]。)
死刑囚の移送は以下のような場合に行われる。
刑場のある刑事施設への移送
刑場のある刑事施設は、2021年現在、全国で7箇所(札幌刑務所〈収監先は隣接する札幌拘置支所〉、宮城刑務所〈収監先は隣接する仙台拘置支所〉、東京拘置所、名古屋拘置所、大阪拘置所、広島拘置所、福岡拘置所)あり、多くの死刑囚は未決のうちから、刑場のある上記の施設のいずれかに収容されて死刑判決が確定することになる。それは、地方裁判所で一審判決を受けた後も身柄の拘束が続く場合、原則的に高等裁判所がある場所の拘置所・拘置支所に移送されるためである(例:ファミレス2人射殺事件の元死刑囚。千葉から東京へ移送ののち、2013年4月26日に東京拘置所で死刑執行。)。
高等裁判所がある場所の拘置所・拘置支所は全国で8箇所あるが、高松矯正管区以外の拘置所には刑場がある。もちろん、一審段階から刑場のある拘置所・拘置支所に収容されている者は、死刑判決が確定しても原則として移動することはない(例:名古屋市中区栄スナックバー経営者殺害事件の元死刑囚。名古屋から移動せず、2013年2月21日名古屋拘置所で死刑執行。)。
刑場のない刑事施設で死刑判決が確定するのは、主に以下の場合である。
また、1945年 - 1963年の間は、東京に刑場がなかったため、死刑執行のため、宮城刑務所に死刑囚を送っていた。これは「仙台送り」と呼ばれていた[13]。
共犯死刑囚の分散
刑場のある施設であっても、1箇所に3人以上の共犯死刑囚が収容されている場合、1つの施設あたり2人以下になるよう分散が図られる。
例えば、警察庁広域重要指定118号事件の3死刑囚はもともと3人とも宮城刑務所仙台拘置支所に収容されていたが、うち1人は東京拘置所へ移送された(3人とも執行はされず病死)。
また、大牟田4人殺害事件の4死刑囚は、死刑確定時には4人とも福岡拘置所に収容されていたが、死刑囚のうち1人は広島拘置所、もう1人は大阪拘置所に移送されている。
オウム真理教事件の死刑囚13人は長年東京拘置所に全員が収容されていたが、全裁判が終結したことを受け2018年3月に分散された(その後、7月6日に元教団代表で全事件の首謀者の麻原彰晃(松本智津夫)以下7名、7月26日に残りの6名が執行)[14][15][16]。なお、この13人については、2012年の春に刑場のある7施設への分散の予定があったが、2011年末に逃亡共犯者が出頭したために移送が立ち消えになった旨の報道があった[17]。
この他、大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の3死刑囚、マニラ連続保険金殺人事件の3死刑囚(うち1人は最近病死)も分散されている。
一方で、東京拘置所に収容中の架空請求詐欺仲間割れ殺人事件の死刑囚3人は分散されていない。
なお、3人以上の共犯死刑囚を1箇所の拘置所に収容しない理由は、共犯関係にある死刑囚は同日に死刑執行されるのが原則だからである。同日に同じ刑場で3人以上の死刑を執行するのは困難とされる[18]が、1984年以降で1つの拘置所で同日に3人の死刑を執行した例もオウム真理教事件以外にも1例だけ存在する(1996年12月20日の死刑執行)。オウム真理教事件では2018年7月6日に3人、同年7月26日に3人が東京拘置所で執行された。
死刑囚の出廷
これは死刑囚本人が被告人として出廷する場合と、証人として出廷する場合がある。
前者としては、宇都宮監禁殺人事件の死刑囚が、収容されていた東京拘置所から水戸へ移送され、水戸地裁で判決を受けたのち、再び東京拘置所に移送された例がある[19]。
後者としては、オウム真理教事件の逃亡犯3人の裁判員裁判に、2013年から2015年にかけて、井上嘉浩、中川智正、新実智光、小池泰男、広瀬健一の5名が出廷した例がある。この出廷に関しては、検察側は死刑囚の心情の安定の問題、死刑囚に危害が加えられる可能性など、移送に伴う混乱は必至であるとし、「裁判所に呼ぶのはリスクしかない」と反対した[20]。これは、死刑囚13名を全国7箇所の拘置所・拘置支所へ分散しようと計画していたこととは大きな矛盾であった。一方で、拘置所で行なった死刑囚の出廷の予行演習の情報は外部へ漏れ、テレビで放映された。実際の死刑囚の出廷は厳戒態勢のもと行われ、事なきを得た。
死刑囚の医療機関への受診
死刑囚が病気に罹患し、その刑事施設で対応出来なければ、医療施設の整った他の刑事施設や外部の医療機関に受診させるため移送することがある。場合によっては入院もあり、そこで死亡する場合もある。
医療刑務所で死亡した例としては、高知連続保険金殺人事件の女性死刑囚(大阪医療刑務所)、平沢貞通元死刑囚(八王子医療刑務所)、マニラ保険金殺人事件の元死刑囚(八王子医療刑務所)[21]。
外部の医療機関で死亡した例としては、高岡暴力団組長夫婦射殺事件の元死刑囚(名古屋の病院)、警察庁広域重要指定118号事件の元死刑囚(仙台市内の病院)。
外部の医療機関を受診させなかったために死刑囚で失明したとして民事訴訟となり、国側が死刑囚に対して和解金を支払った事例もある[22]。
日本における死刑囚の確定と執行の推移
江戸時代後期・幕末
日本全体及び江戸時代全体を通じた死刑執行数は不明であるが、江戸や大阪町奉行並びに奈良奉行、その他の代官・郡代における死刑執行数は、期間は限定されるが、以下の通りである[23]。
江戸における15歳以上の男性庶民(武士・公家・僧侶神職・被差別部落民を除く)に対する死刑執行数と死刑種類別内訳
年 |
磔 |
獄門 |
火罪 |
死罪 |
下手人 |
江戸庶民 死刑執行数
|
引回あり |
引回なし |
引回あり |
引回なし |
引回あり |
引回なし
|
1862年(文久2年) |
3 |
0 |
7 |
33 |
2 |
19 |
74 |
1 |
139
|
1863年(文久3年) |
0 |
0 |
2 |
24 |
3 |
14 |
49 |
0 |
92
|
1864年(元治元年) |
1 |
0 |
2 |
19 |
5 |
6 |
54 |
0 |
87
|
1865年(慶応元年)5〜12月 |
1 |
2 |
5 |
31 |
0 |
11 |
58 |
1 |
109
|
死刑執行 方法別総計 |
5 |
2 |
16 |
107 |
10 |
50 |
235 |
2 |
427
|
死刑執行方法別 割合内訳(%) |
1.2 |
0.5 |
3.7 |
25.1 |
2.3 |
11.7 |
55.0 |
0.5 |
100.0
|
- 上記の表では、15歳未満少年少女と女性は含まれていない。この期間中に15歳未満少年は死刑執行されておらず、
罪1等を減じて遠島となって、親戚預かりとなった者が3人いる。計上されていない女性は10人死刑執行されている。
- 上記の表では、死後磔刑により執行された者は含まれていない。この期間中に死体の状態で磔刑を執行された者8人、晒の上死体の状態で磔刑を執行された者1人いる。また、江戸での執行ではないが死体の状態で磔刑執行された有名人に大塩平八郎(大塩平八郎の乱の首謀者)がいる。
- 市中引き回しは、伝馬町牢屋敷で行われる獄門と死罪の場合は江戸中引廻、刑場(小塚原と鈴ヶ森)で行われる磔と火罪の場合は五ヶ所引廻であり、当時の極刑は火刑や磔であったため、後者の方が罪が重いとされた。但し獄門の場合、牢屋敷にて斬首後、刑場にて3日2晩、晒し首にされた。
大阪町奉行における15歳以上の男性庶民(武士・公家・僧侶神職・被差別部落民を除く)に対する 死刑執行数と死刑種類別内訳
年 |
磔 |
獄門 |
火罪 |
死罪 |
下手人 |
大阪庶民 死刑執行数
|
引回あり |
引回なし |
引回あり |
引回なし |
引回あり |
引回なし
|
1781年(天明2年) |
1 |
0 |
0 |
1 |
0 |
4 |
12 |
2 |
20
|
1782年(天明3年) |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
1 |
32 |
4 |
39
|
1783年(天明4年) |
0 |
0 |
4 |
3 |
6 |
3 |
28 |
3 |
47
|
1784年(天明5年) |
0 |
0 |
16 |
8 |
0 |
8 |
43 |
6 |
81
|
1785年(天明6年) |
0 |
0 |
10 |
14 |
0 |
3 |
16 |
0 |
43
|
死刑執行 方法別総計 |
1 |
0 |
30 |
28 |
6 |
19 |
131 |
15 |
230
|
死刑執行方法別 割合内訳(%) |
0.4 |
0 |
13.0 |
12.2 |
2.6 |
8.3 |
57.0 |
6.5 |
100.0
|
大坂の火罪は江戸とは比較にならないほど少なく、天明5年から天保2年までの47年間は一件も執行されていない[24]。
江戸と大阪町奉行以外における15歳以上の男性庶民(武士・公家・僧侶神職・被差別部落民を除く)の死刑執行数と死刑種類別内訳
奉行・代官・郡代名 |
年 |
磔 |
獄門 |
火罪 |
死罪 |
下手人 |
庶民死刑 執行数
|
引回あり |
引回なし |
引回あり |
引回なし |
引回あり |
引回なし
|
奈良奉行所 |
1811年(文化8年) |
0 |
0 |
3 |
0 |
8 |
0 |
11
|
備中国倉敷代官所 |
1789(寛永9年) |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
1
|
西国郡代 |
1845年(弘化2年) |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
1
|
飛騨郡代 |
1866年(慶応2年) |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
1
|
明治時代
年 |
執行数 |
備考
|
一般刑法犯[25][注 2][注 3] |
旧日本陸軍 常設軍法会議[26][注 4] |
旧日本海軍 常設軍法会議 |
総数
|
旧刑法施行以前
|
1869年(明治2年) |
480以上[注 5] |
24[27][28] |
1[27] |
505以上 |
江戸時代の法に基づく裁き。東京府内では128人(梟首38人[男37人、女1人]、斬首:90人[全員男])、京都府内では14人(刎[身首処ヲ異ニス]:9人、梟首4人、斬罪[袈裟斬り]:1人)、神奈川県は30人(磔:1人、市中引廻しの上梟首:1人、梟首:16人、斬首:12人)[29]、若松県(現福島県)は斬首刑1人[30][31]、長崎県内で4人(市中引廻しの上死罪:3人、斬罪[袈裟斬り]:1人)が死刑執行されている[32][33]。但し、群馬県では執行はなかった[34]。
明治二年公文録の刑部省伺(二十巻・二十一巻)[35]で確認できたこの年の7月〜12月の間に出された断刑伺で刑部省により死刑可決された一般刑法犯の数は583人(磔:3人、梟首:231人、斬首:337人、自裁:1人)である。死刑可決された罪状は、最も多いのが強盗であり、全可決数の約84%(492人、内47人は強盗殺人)[注 6]を占める。次いで、殺人の約6%(36人)である。また放火(放火殺人、放火窃盗含む)は11人である。但し、後述するように明治新政府に報告していない死刑があるため、日本国内全てでないことに注意する。
1868(明治元)年10月29日に仮刑律が制定され、死刑は、刎(身首処ヲ異ニス)と斬(袈裟斬)とがあったが、梟首(獄門に相当)・斬首(死罪に相当)・絞首刑の3種になった。そのほかに、磔、火罪(放火犯に対するもの)も用いられたが、明治元年太政官達916号[36]により、前年11月13日に、磔刑は君父に対する大逆罪に対してのみ用いられることになり、火罪は梟首に代えられた[37]。この年の8月に科刑名が変更され、磔を「磔刑」へ、梟首を「梟示」へ、刎首を「斬罪」に変更された[38][39]。
また仮刑律より、官人と諸藩士に対して梟首は行わないことになっており、刎・自裁も他に知られないように行われた[40][41](但し、除族[士族の身分剥奪]した上で斬首刑を執行することが出来る。)。 更に、90歳以上又は7歳未満の者については死刑にせず(90歳以上で反逆の罪に問われた者は除く。)、7歳以上10歳以下の者と80歳以上90歳未満の者・重度障害者が殺人により死刑対象になる場合は、よく論議し、天皇に上奏した上で出された指令に従うこととし、その他の罪は刑罰を科さないこととなった(新律網領では、傷害と窃盗は収贖)。また、11歳以上15歳以下の者と70歳以上80歳未満の者と中度障害者は、死刑対象となる犯罪を犯したときを除き、流罪以下の罪を犯したときは収贖(刑に服する代わりに、金銭を納めて罪過をあがなうこと)させた[42][39]。また、女性で懐妊した場合、産後100日は、刑罰を免除された[43]。 しかしながらも、その法が適用された地域は旧天領である府県であり、諸藩に対しては残酷な刑罰を除去する事を命じた上で当面の間は自藩の刑法を施行させていたため、日本全国に適用されたわけではない。そして、版籍奉還が行われた後は死刑執行には政府の許可を得ることとなったが、版籍奉還直後に全ての藩へ実行されたわけではない(版籍奉還される前の1867年(明治元年)10月31日に、刑部省の前身に当たる刑法官に伺いを出すよう各藩に指示しているが、遵守しているとは言い難かった。)[41][44]。更に、引回し・鋸挽・晒の附加刑は、この年7月8日に、刑法官指令により廃止された[45][41]が、記録上では1870年(明治3年)5月27日に若松県(現福島県)で通貨偽造製造及び使用した罪で久右衛門が引き回しの上梟首されるまで、続いている[46]。
国事犯では、兵部大輔大村益次郎の暗殺を実行した罪で、6人の梟首(12月27日朝執行)[47]と神代直人の斬首(執行日不明であるが、確定日は10月20日)[48][49]が執行された。また梟首の6人は、この年の12月20日に執行される予定であったが、攘夷派に同情的であった弾正台(京都支台)により、執行直前に差し止められている(粟田口止刑事件)[49]。
軍事裁判の方面では、軍律の発布と糺門司の設置を行い、日本で初めて軍事裁判制度が確立している[50]が、 1872年(明治5年)3月25日に死刑執行方法を銃殺刑に定め、4月5日に銃殺を鎮台兵で行うことが定まるまで、主に斬首刑及び梟首で執行された[51][52]。 また、糺門司による死刑執行数は、「太政類典草稿・第一編・慶応三年〜明治四年・第百二十二巻・兵制・軍律及行刑」と「公文録・明治二年・第十六巻・己巳七月〜十月・兵部省伺」で確認できた数であり、全て斬首刑(死罪相当)である。 なお、旧陸軍の執行数は、この年の8月17日に死刑が可決された旧会津藩兵8人(罪状:脱獄し、会津藩復興を企てる。内3人は侵入窃盗を行っている。)が含まれる。 旧海軍は、1869年(明治2年)9月8日に艦内のクロノメーターを盗み、逃走した罪で長鯨丸艦内に服役する形で鍛冶職に携わっていた政吉を、旧海軍による死刑と見做している(見做した理由は、短期間とはいえ軍務官所管時に可決されたことと箱館戦争で新政府軍により捕獲される前は、旧幕府海軍に所属していたため。また、旧海軍の歴史を兵部省海軍掛だった時期まで遡った場合、この死刑が旧海軍初となる。)[53]。・
|
1870年(明治3年) |
1080以上[注 5] |
12[54] |
0[54] |
1092以上 |
暫定刑法である新律綱領の制定され、この年の12月に発布される。この法により、磔刑は廃止され、梟首・斬首刑・絞首刑の3種類となった。更に、この法では親族から希望があれば死体の埋葬や弔いが許されているが、梟首により執行された者は、翌年8月24日に司法省が認めるまで、許可されなかった[55][56]。 これらの方法で死刑執行される罪種は、絞首は強盗傷人・謀殺加功・闘殴殺であり、斬首は兇徒聚衆(後の騒乱罪にあたる)・謀殺・故殺・強盗殺人・祖父母父母殴・放火であり、最も重い梟首は家長謀殺人・一家三人殺人・祖父母父母殺人であった[41]。 この時、斬首刑が主に執行されていた。また、士族に対しては、自裁(切腹)を設け、官吏にも準用した[57][55]。 また、老小廢疾収贖條により、90歳以上又は7歳未満の者については死刑にせず、7歳以上10歳以下の者と80歳以上90歳未満の者・障害者が殺人をして死刑対象になる場合、よく論議し、天皇に上奏した上で出された指令に従うこととし、傷害と窃盗を犯した場合は収贖(刑に服する代わりに、金銭を納めて罪過をあがなうこと)し、その他の罪は刑罰を科さないこととなった。11歳以上15歳以下の者と70歳以上80歳未満の者は、死刑対象となる犯罪を犯したときを除き、流罪以下の罪を犯したときは収贖させた[55][42][39]。
そして、この年の4月15日の太政官布告により、刑死者の試し斬りと人胆等の取り扱いが禁止される[40]。また、禁止前の3月に刑部省より大学東校に肝臓・脳髄・陰茎等に効能がないか問い合わせたところ無いとの回答が3月17日に来ている。この回答により、前述の刑死者の人胆等の取り扱いを禁止するとともに、残酷であるとして試し斬りを禁止するよう4月12日に地方官(現在の都道府県知事)に通達している[58][39](なお、1902年[明治35年]に、野口男三郎が、ハンセン病の治療に人肉が有効だという俗信を信じ、義兄のハンセン病の治療のため当時11歳の児童を殺害する事件が起きている。)。 また、この年を最後に磔刑が廃止されているが、「太政類典・外編・明治三年〜明治四年・治罪法・行刑・死罪」で確認できる限りにおいては、この年の9月23日に刑部省により耕雲(罪状:父を殺し母を傷つける。更に、父母以外の3人の内2人を死に至らしめる。)の磔刑が可決されており、この人物が刑部省により磔刑執行を可決された最後の人物となる[59]。更に、この年に刑部省により磔刑を可決された人数は11人[注 7]であり、主人殺しの1人を除き、養実父及び祖父の殺害をしている[60]。
これとは別に、偽造通貨の横行による経済的混乱と各国使節団による要請により、この年の6月18日には、偽造宝貨律が新たに制定されて、7月初旬までには全国に伝達された[61]。この律では、偽造通貨を用いた主犯は梟首、従犯と偽造通貨製造犯を斬首刑にする厳しい刑罰が定められた[62]。その後、12月3日に改定され、偽造通貨を用いた主犯のみ斬首刑となった[63]。
東京府内では87人(磔:女1人、梟首:男28人、斬首:男58人)[32]、京都府内では9人(刎[身首処ヲ異ニス]:1人、梟首6人、斬罪[袈裟斬り]:2人)[33]、群馬県で77人(梟首:19人、斬首:47人、絞首:10人)[34]、若松県(現福島県)64人(引回しの上梟首:1人、梟首:13人、斬首:49人<内1人女性>、絞首:1人)[64]、神奈川県12人(梟首3人、斬首9人)[29]が死刑執行されている。
「太政類典・外編・明治三年〜明治四年・治罪法・行刑・死罪」で確認できた1870年(明治3年)に出された断刑伺で刑部省により死刑可決された一般刑法犯の数は849人(磔:11人、梟首:261人、斬首:463人、絞首:113人、自裁:1人)である。また、この年の10月27日を境に可決された死刑の種類が異なっており、1月1日〜10月26日までは364人中、磔11人・梟首253人・斬首99人・絞首0人・自裁1人に対して、10月27日以降は485人中磔0人・梟首8人・斬首364人・絞首113人・自裁0人と死刑の種類別の構成比が大幅に異なっており、前者は梟首が7割近くを占めるのに対して、後者は斬首が約4分3を占め、10月26日まで可決がなかった絞首刑の可決(強盗でも10両未満の場合、絞首刑となっているケースがある。)が出ている。これは、10月に新律綱領が出来上がり、後は出版と清書のみの状態となっていたため[65]、近々発布される新律綱領に合わせて可決された為である。 死刑可決された罪状は、最も多いのが強盗であり、全可決数の約72%(613人、内40人は強盗殺人)[注 6]を占める。次いで、殺人の約14%(115人)である。また放火(放火殺人、放火窃盗含む)は32人である。
但し、明治新政府に報告していない死刑があるため、日本国内全てでないことに注意する。更に、こちらに記録されていない死刑執行があり、前述の若松県(現福島県)は、この太政類典では7人であるが、「旧若松県誌 政治部 刑」によれば、前述の64人となっている[66]。何故なら若松県は、会津戦争により生じた経済の疲弊を主要因として、若松県内に流通する通貨が全て偽造通貨である程流通していたことにより、偽造通貨製造及び行使犯(新政府転覆を目的に旧会津藩士が中心に偽造通貨に関わっていた。中には若松県県民に対して、遣い走りをさせたりしていた。)が他府県藩に比べ多く、この年に死刑執行された者の内50人(市中引き回しの上梟首:1人、梟首:4人、斬首:45人)は偽造通貨の罪で死刑執行されていたこと[64][67]、偽造宝貨律により偽造通貨の罪は若松県で刑部省に伺いを立てずに処断できること[68]を主要因として、この差が生じることとなった。そのため、この太政類典に載っていない偽造通貨の罪により死刑執行された者らは含まれていない。
また絞首刑は、この太政類典では10月29日を皮切りに可決されているが、その日以前にも、群馬県においてこの年の6月に武装強盗をした安吉(強盗で得られた4両2分の内、1両1分125文が安吉の分として配分される。)と317両3分137文窃盗した小三郎が絞首刑に処されている[69](これら2人を含め、この年に10人絞首刑により執行されている。)。更に、東京府では、5月頃に金之助・房次郎・市蔵の3人が絞首刑を宣告されている[70]。そして、大阪府においては、脱藩したことを隠し、土佐藩士を偽り詐欺をした上、仲間4人で偽造通貨売買の現場から大阪府監察役と偽り1700両分の2分金を窃盗した千吉郎が絞首刑を宣言されている(この年の2月に大阪府は斬首刑で行うよう刑部省に伺ったが、絞首刑となっている。)[71]。しかし、新律綱領以前の絞首刑であるため、地上で首に縄をかけ、縄の両端を持った二人が縄をねじって締める「縛り首」の方法で絞首していた可能性がある。
そして、庚午事変により、この年の9月15日に10名が切腹しているが、日本法制史上最後の切腹ではない。何故ならその後に当たる1872年(明治5年)に切腹刑が執行された例があるからである。これとは別に横井小楠の暗殺を実行した罪で4人が梟首の判決を受けて10月10日に執行される[72]。
また、死刑囚数は、雑誌『統計集誌』の8号[73]に呉文聡が紹介した廃藩置県前の府藩県別の身分人員表より、1066人(内、東京府は171人、大阪府は104人、岩鼻県で55人)いた。
糺門司による執行数は、「s:太政類典・第一編・慶応三年〜明治四年・第百十三巻・兵制・会計」より確認できた執行数であり、その内8人は梟首(1人:市中見廻りと偽って侵入窃盗及び侵入強盗の主犯格:1人、7人:強盗殺人)で執行されている。
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1871年(明治4年) |
1246以上[注 5] |
0[74] |
0[74] |
1246以上 |
1871年までの数値は、戊辰戦争による刑死は含まれない。更にこの年の8月29日に廃藩置県が行われ、更なる中央集権化が行われた。また、8月28日に軍律に代わり、海陸軍刑律が発布[75]。 京都府内では9人(梟首1人、斬罪[袈裟斬り]:8人)、長崎県内で12人(斬罪[袈裟斬り]:3人、絞首:9人)、岐阜県内で1人(絞首1人)が死刑執行されている[33]。また、この年の8月24日に梟首で執行された者の遺体の引き取りが認められ、10月10日には、執行日当日に獄囚掛(刑務官の前身)に、当日でない場合は解剖場に申し出るように定めた[56][76][39]。 国事犯では、新政府転覆の陰謀の疑いにより、十分な取り調べもされず、雲井龍雄の梟首(2月17日に伝馬町牢獄で斬首刑が執行され、斬首刑後の首を小塚原刑場で晒された。)と11人の斬首刑が執行された(斬首刑により執行された者の内5人の罪状に、偽造貨幣の製造及び使用も加えられている。)[77]。
旧日本陸海軍の執行数は、「太政類典・第一編・慶応三年〜明治四年・第百十三巻・兵制・会計」で確認できた執行数である。
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1872年(明治5年) |
1128 |
6[78][79] |
0 |
1134 |
旧日本軍に軍事裁判所が設置される。また、この年の3月25日から軍事裁判での死刑執行方法が、1875年(明治8年)に行われた絞首刑1件を除き、銃殺刑と定められた。更に、銃殺を鎮台兵によって行われることが4月5日に定められる。そして、6月8日早朝に明治以後で初めて日本国内で銃殺刑により執行された(江戸時代以前まで遡った場合、天正17年10月29日(1589年12月6日)に須田盛秀の嫡男であった須田秀広が、伊達政宗の手により火縄銃で執行されたのが、最初である。)。と同時に、旧日本陸軍創立以来初の死刑執行となった[注 8](但し、陸海軍省分離前の兵部省の時期まで遡った場合、1869年(明治2年)8月13日に脱走の罪で銃手7人が死刑が可決されたのが最初となる[80][81][注 9]。)。執行された者は、元兵部省鳶人足の藤吉と定次郎であり、罪状は仲間を作って、1971年(明治4年)12月上旬〜1972年(明治5年)2月中旬の間に前者は約600両、後者は約520両相当を得るまで官物窃盗を繰り返したことであり、5月13日に死刑が確定した。また、多田陸軍裁判中主理(9等判任官)立会いの下、矢上大尉・勝部少尉・葉山少尉率いる小隊により執行された[78][82]。
一般刑法犯死刑執行方法別内訳:梟首69人(男67人、女2人)、斬首:775人(男766人、女6人、不明:2人[83])、絞首刑:283人(男279人、女4人)、自裁:1人(京都府士族男性:1人[84])[85][注 10] そして、この年の11月28日に絞柱により絞首刑により執行された田中藤作(罪状:久万山・久米騒動で放火を行う。)が蘇生した事件が起こっており、翌年9月に既に執行されたこととフランスで国王により赦免した事例(フランスでは、1791年6月3日以降にギロチンよる死刑に統一されたため、それ以前の事例である。)があることを理由に刑が免ぜられ、戸籍を回復している[86]。
但し、以下の死刑を執行された17人(裁判を受けずに執行された市川栄之助含む。)は含まれていない[41]。
国事犯として若松県徒刑場にて会津藩復興陰謀を計画し獄外で同様の運動を行っている一部の旧会津藩足軽に連絡しようとした罪で首謀者の庄八が4月20日に刑部省により梟首が可決され、その後執行されている[90][91]。
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1873年(明治6年) |
961 |
1[92] |
0 |
962 |
欧米の近代刑法の影響を受けた改定律例の制定。この律令の第2条により、死刑になる罪種が制限される形となり、謀殺故殺・強盗・放火・官物又は雇い主の財産の窃盗(官物以外の自己管理下の財産は200円以上[但し、再犯は150円以上、3犯は30円以上]、それ以外の場合は300円以上[但し、再犯の場合は250円以上、3犯の場合は40円以上][93][94])・通貨偽造・終身刑を科された囚人の脱獄に限定された(但し、国事犯や軍事裁判所で裁かれた場合は、その限りでない。)[41][95]。なお、刑死者は、改定律例第10条より、葬儀を行うことと墓石に氏名や死亡年月日を記載することを許さなかった[39]。
なお、新律網領において、重度障害者が殺人により死刑対象になる場合は、よく論議し、天皇に上奏した上で出された指令に従うこととし、傷害と窃盗は収贖し、その他の罪は刑罰を科さないこととなっているが、改定律令では両目を失明した視覚障害者については、終身懲役以下は収贖出来るものの、死刑に関しては科されることとなる。[96][97]
また終身懲役を導入したことで、死刑を回避された者が、少なくともこの年で228人いる。 一般刑法犯死刑執行方法別内訳:梟首34人(男33人、女1人)、斬首:709人(男690人、女19人)、絞首刑:218人(男217人、女1人)[85] 軍事裁判所:陸軍軍人:1人(近衛歩兵第3大隊曹長、罪状:明治六年政変の混乱(この時、近衛の将兵が大量に離脱したため、近衛隊が、事実上解体に追い込まれている。)に乗じて、1,354円8銭24厘[注 11][98]の官金窃盗、執行日:12月18日。一説には、山縣有朋による近衛隊の綱紀粛正のターゲットにされたためと言われている。なお、海陸軍刑律の第166条より50円以上の窃盗は死刑対象となっている[99][100][101][102])
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1874年(明治7年) |
748 |
3[103] |
0[103] |
751 |
一般刑法犯死刑執行方法別内訳:梟首14人(男13人、女1人)、斬首:617人(男601人、女16人)、絞首刑:117人(男113人、女4人)[104]
上記の死刑執行に下記の事件や士族反乱により国事犯として死刑執行された38名は含まれる。
軍事裁判所:陸軍軍人及び軍属:3人(罪状:台湾出兵時にて台湾蕃地に設けた官庫の洋銀を窃盗:2人、大阪市内で自ら管轄していた武器庫で盗んだ銃剣2,040本を売り、1,020円を得る[注 12][98]:陸軍武庫権中令使[執行日:1月22日、多田陸軍裁判中主理(9等判任官)立会いの下、矢上大尉・勝部少尉・葉山少尉率いる小隊により執行された][109][110][111])
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1875年(明治8年) |
452 |
6[112][113] |
0[114] |
458 |
一般刑法犯死刑執行方法別内訳:梟首13人、斬首:371人、絞首刑:68人[115]。 旧日本陸海軍の執行数は、「s:太政類典・第二編・明治四年〜明治十年・第二百四十一巻・兵制四十・軍律及行刑五」より確認できた執行数にこの年に死刑が確定し翌年執行された1人を除いた数である。また、この年の旧日本陸軍において4人の死刑が執行されたが、その内の1人である大阪鎮台の徒刑人(終身刑)の岡田政吉が脱獄により絞首刑によって執行されている(終身刑になる前は、伍長の時計を盗み逃走した罪と2度の脱獄を経て、終身刑となっている。)[116]。絞首刑となった理由は、当時の陸海軍軍律には、脱獄に関する刑罰が定められておらず、改定律例第302条[117]より、終身刑囚の脱獄の場合、絞首刑と定められていたからである。このケースは、旧日本陸軍において連合国による軍事裁判を除き、陸軍省年報及び陸軍省統計年報の限りにおいては、絞首刑になった唯一の例であると言える。他の3人はいずれも下士官であり、銃殺刑により執行された。
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1876年(明治9年) |
388 |
3[118][119][120][113] |
0[121] |
391 |
一般刑法犯死刑執行内訳:梟首6人(男性:4人、女性:2人)、斬首:352人(男性:345人、女性:7人)、絞首刑:30人(男性:28人、女性:2人)[115][122][123][124][125][126][127][128][129][130][131][132][注 13]
2月14日に布達された司法省布達20号より、死刑及び終身懲役を科される可能性がある者に対して、地方の裁判官に酌量軽減の裁量を認めた[133]。
更に、この年と翌年に布告された以下の太政官布告により、窃盗及び偽造と殺人を伴わない強盗は一番重くとも懲役終身となる。
- 5月19日布告:明治9年太政官第74号による私借官物律令の削除と雇人盗家長財物律及び窃盗条例の改正[134][135]
- 7月18日布告:明治9年太政官第101号による常人盗条例(改正律令126条)削除と監守盗常人盗条例、監守盗条例、常人盗条例の新設(後者2つの条例は再犯した場合)[136][137][94]
- 翌年3月2日布告:明治10年太政官第25号による強盗律及び偽造宝貨律の改正[138]。
そのため、陸軍刑法と海軍刑法が施行するまで続いた旧日本軍による窃盗犯と死傷を伴わない強盗犯に対する死刑執行を除き、この年を最後に窃盗(3人[注 14])及び通貨偽造(8人)と死傷を伴わない強盗により死刑執行された者はいなくなる[139][140][141]。特に死傷を伴わない凶器を用いた強盗犯の死刑執行がこの通達により、この年には235人いたが、次年の1877年(明治10年)には全くいなくなった[139][140]。しかし改正強盗律では凶器を用いて金品を強奪した場合、主従関係なく終身懲役(強奪していない場合は、主犯格)としたため、終身懲役を科された者が、8割近く(791人中623人)いた[142]。 そして、士族反乱を起こしたことにより国事犯として斬首刑を執行された13人(神風連の乱:3人、萩の乱:8人、秋月の乱:2人)が含まれている[122][106]。 旧日本陸海軍の執行数は、「太政類典・第二編・明治四年〜明治十年・第二百四十一巻・兵制四十・軍律及行刑五」に確認できた執行数に前年に死刑が確定しこの年に執行された1人を加えた数である。
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1877年(明治10年) |
160 |
4[143][144] |
1[145][146] |
165 |
一般刑法犯死刑執行内訳:梟首10人(男性:9人、女性:1人)、斬首:126人(男性:122人、女性:4人)、絞首刑:24人(男性:21人、女性:3人)[115][147][148]
国事犯として、西南戦争時に西郷軍側に立っていた22人が斬首刑を執行された。その一人に、官金を西郷軍に提供した罪でこの年の9月30日に斬首された大山綱良がいる[106]。 その他に東京臨時裁判所に思案橋事件により死刑判決が下され斬首刑を執行された3人がおり[106]、国事犯として死刑執行された25人は含まれている。
反対に日本陸軍側においては西南戦争中に起こした犯罪により、以下の4人が死刑となっている。
また、旧日本陸海軍の執行数は「s:太政類典・第二編・明治四年〜明治十年・第二百四十一巻・兵制四十・軍律及行刑五」と「陸軍省大日記」より確認できた執行数である。
そして、この年に旧日本海軍創設以来、11月1日に死刑執行が確定し、同月28日に初めて死刑が執行された。日本海軍による死刑執行者第1号は一等若水兵伊藤鉱吉であり、罪状は倉庫に侵入し383円95銭相当[注 17][98]の官物を窃盗したことである[158][159](但し、兵部省海軍掛だった時期まで遡った場合、1869年(明治2年)9月8日に艦内のクロノメーターを盗み、逃走した罪で長鯨丸艦内に服役する形で鍛冶職に携わっていた政吉が死刑宣告されたのが最初である[53]。
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1878年(明治11年) |
166 |
58[160] |
0[161] |
224 |
この年を最後に梟首が無くなる。また、旧日本陸軍の死刑がこの年多く執行されたのは、明治11年8月に発生した竹橋事件によるもの(死刑執行の際は、十字架に縛り上げた上で、15人ずつ一度に銃殺された[162]。)。そして、旧日本陸海軍の執行数は、陸軍については第四回陸軍省年報の死刑執行数から「太政類典・第三編・明治十一年〜明治十二年・第五十三巻・兵制・軍律及行刑」により明治12年1月〜6月まで確認できた2人とこの年に死刑が確定し翌年執行された1人及び竹橋事件で1879年(明治12年)4月10日に執行された2人を引いた執行数である。 一般刑法犯死刑執行内訳:梟首18人(男15人[注 18]、女3人)、斬首:133人(男125人、女8人)、絞首刑:15人(男14人、女1人)[163][164][165][166][167][注 19] また、大久保利通暗殺事件を起こし、国事犯として斬首刑で執行された6人は含まれる[165]。
また、この年の10月14日に不倫を疑い、このままでは自分を殺害し不倫相手と結ばれてしまうと思い込み、夫婦喧嘩をきっかけに就寝中の夫を鉈と包丁と山刀で13カ所の傷を負わせ刺殺した稲イシが静岡市内で執行され、静岡市内の安倍川湖畔で斬首された首を晒され、日本国内で最後に梟首(獄門)された女囚となった[168][169][170]。その4日後に、代言人(弁護士の前身)の免許を取得するために東京での勉学費用を得ようと刀を武装した状態で、この年の5月12日23時に他人の家に忍び寄り、忍び寄った家の夫婦と長女を殺害し、次女に傷害を負わせた罪で、林平次に対して梟首の判決が下されている[171]。
また、20歳未満で死刑執行された者が14人(絞首刑:1人、斬首刑:11人、梟首刑:2人)[172][173]いたが、その内の1人が女性であり斬首刑により執行されており、日本で最後に20歳未満で斬首刑により執行された最後の女性となる。そして、15歳未満の少年が斬首刑により執行されており、この執行が15歳未満の少年死刑囚の最後の死刑執行となった。
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1879年(明治12年) |
142 |
6[174][175][176] |
1[174][161][177] |
149 |
この年の1月4日に明治12年太政官布告第1号により梟首を正式に廃止[178][179]。 また、旧日本陸海軍の執行数は、「太政類典・第三編・明治十一年〜明治十二年・第五十三巻・兵制・軍律及行刑」により確認できたケースに加えて、前年に確定しこの年の1月21日に執行された1人と竹橋事件でこの年の4月10日に執行された2人をを加えた執行数である。そして、この年の12月3日に軍事裁判所により死刑が確定し、翌日に執行された東京鎮台騎兵第1大隊1等卒兵の宇留根利吉(罪状:工兵第1大隊営下副官室に侵入し、2,572円37銭8厘[注 20][98]の窃盗)が、日本国内で軍事裁判を含めて最後に窃盗で死刑になった人物となる[180][181]。 一般刑法犯死刑執行内訳:斬首:125人(男112人、女13人)、絞首刑:17人(男14人、女3人)[182][124][125][126][127][128][129][注 21][166][183][184][注 22] また、大久保利通暗殺事件を起こし、国事犯として斬首刑で執行された6人は含まれる[165]。
また、この年に高橋お伝が斬首刑に処せられている。因みに、高橋お伝は最後に斬首された女囚ではない。そして、当時15歳未満であった三浦千代太郎(罪状:1879年[明治12年]4月から同年7月の間に年給3円[注 23][98]で約8畝の畑を耕耘する仕事をしていたが、自身1人に対する仕事量が多く、休暇を何度か願い出たが却下されるばかりか叱責されたため、休暇を得るために雇用主の家の放火を決意し、同年7月7日に放火。)がこの年の11月4日に広島裁判所により斬首刑の判決が下されたが、情緒酌量の余地があり15歳未満の少年であることを理由に、翌年1月9日に懲役10年に減刑する形で恩赦が与えられ、日本で最後に15歳未満で斬首刑の判決が下された人物となった[185]。
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1880年(明治13年) |
111 |
4[186] |
0[187] |
115 |
旧刑法(明治13年太政官布告第36号)が制定される。また、旧日本海軍の執行数は、「太政類典・第四編・明治十三年・第三十五巻・兵制・徽章」で確認できた執行数である。 一般刑法犯死刑執行内訳:斬首:107人(男100人[注 24]、女7人)、絞首刑:4人(全員男)[188][189][184][190][注 25]。脱獄を理由とした死刑執行がこの年に2人の斬首刑により執行された(その内の1人は、脱獄の上放火した細見忠助[191])。それ以後、脱獄のみで死刑になることはなくなった[192]。
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1881年(明治14年) |
96 |
2[193] |
0[194] |
98 |
陸軍刑法と海軍刑法が制定される[50]。また旧日本陸海軍の執行数は、明治14年の公文録(陸軍省)の138巻及び140巻に記載されている犯罪処分された者で、死刑執行されたことが確認できた執行数である。そして、この年の3月31日に死刑宣告され、同年4月18日に銃殺刑により執行された東京鎮台歩兵第1連隊二等卒兵長谷川栄太郎(罪状:武装強盗)が、軍事裁判を含めて死傷及び不同意性交を伴わない強盗で最後に死刑執行された人物となる[195][196]。
一般刑法犯死刑執行内訳:斬首:93人(男86人、女7人)、絞首刑:3人(全員男)[197]。
この年の7月27日に市ヶ谷監獄にて強盗目的で一家4人を殺害した岩尾竹次郎、川口国蔵の2人の死刑執行が山田浅右衛門による最後の斬首刑である[198]。このケースとは別に、府県史料で確認出来る限り、日本法制史上最後の斬首刑(少なくとも当時の法に適法である)の判決が下されたのは、鳥取県でこの年の12月30日に下された徳田徹雄(罪状:徳田含めた6人組で武装し、強盗殺人[殺害人数:1人])である[199]。また、判決では除族も付加されている。そして、15歳以上20歳未満の少年4人が、斬首刑により執行されており、1911年まで20歳未満の執行が行われなかった[200]。
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旧刑法施行下
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1882年(明治15年) |
51 |
1[201] |
0[202] |
52 |
1月1日に新律綱領・改定律例に代わって旧刑法が施行される。旧刑法施行により、一般刑法犯の死刑執行方法が絞首刑に限定された。 また、20歳未満に犯行を及んだ場合、旧刑法第79条〜第81条より、年齢12歳未満の者を刑事責任無能力者とし、12歳以上16歳未満の者については,是非の弁別なくして犯したときは罪を論ぜず、ただ情状によって20歳に達するまで懲治場に留置できることとし、弁別のあるときは2等減刑することが定められていた。また16歳以上20歳滿の者は、1等減刑することが定められており、20歳未満の場合、現刑法施行時まで死刑に出来なかった[203][204][205]。 この年の12月21日に中之島監獄分署で岡田福松(罪状:強盗犯で終身懲役の刑を受け服役したが、脱獄。脱獄後、強盗の罪を重ね、1882年[明治14年]5月19日に行った強盗で1人殺害)の死刑が執行されるが、縄がちぎれる事故が発生する。その後、引き揚げて、執行用の縄を交換して執行した[206]。 また、軍事裁判所から軍法会議へ改称する。 そして、旧日本陸軍の執行数は、第七回・第八回陸軍省年報[201][207]の軍法の章内にある行刑表に記載された死刑執行数の合計値(明治14年7月〜明治16年6月の間に執行された人数:2人)から、明治14年の公文録(陸軍省)の138巻及び140巻に記載されている犯罪処分された者で、死刑執行されたことが確認できた者が執行された年月が明治14年1月〜6月の間であることを確認し、第1回陸軍省統計年報[208](明治16年中執行人数:2人)と第九回陸軍省年報[209](明治16年7月〜12月執行人数:1名)より、明治16年1月〜6月の間に死刑執行された人数が1人であることから、この1人を差し引いた数を1882年(明治15年)に旧陸軍常設軍法会議により執行された人数としている。
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1883年(明治16年) |
61 |
2[208] |
0[202] |
63 |
軍事裁判の訴訟手続法として陸軍治罪法が制定される[50]。
この年の7月6日に市ヶ谷監獄で小野澤おとわ(罪状:1882年[明治15年]7月25日に藤澤お里かを絞殺。)の死刑が午前8時半に執行され5分程で絶命したが、おとわが肥満体であったため、首が半分ちぎれる事故が発生する[210][211]。執行後の死体をおとわの兄に引き渡す際、おとわの首に執行用の縄が食い込んでいたため、刃物を以て切断し直に棺に入れた上で引き渡された[212]。
なお、イギリスでは、死刑が廃止(1969年12月。但し、北アイルランドは1973年、完全撤廃は1998年)されるまで絞首刑による執行が行われており、ジョン「ババコーム」リー (John 'Babbacombe' Lee) に代表される一連の絞首刑の失敗の反省から1888年(明治21年)に公式ドロップテーブルが作成されており、このマニュアルに基づき、執行者の体重に応じて、執行用の縄の長さを調整していた。
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1884年(明治17年) |
52 |
1 |
0[202] |
53 |
海軍治罪法が制定される[50]。
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1885年(明治18年) |
130 |
1 |
0[213] |
131 |
激化事件である秩父事件により5人がこの年の5月17日に熊谷監獄にて絞首刑が執行される。また、同年7月27日に赤井景韶(罪状:冤罪事件である「高田事件」により収監。その後脱獄し、逃走中の所を目撃した人力車夫を殺害)の執行を旧自由党党員を始め100余名が観覧している[214]。
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1886年(明治19年) |
131 |
2 |
0[215] |
133 |
この年の12月に「青森の亭主殺し」事件の加害者である小山内スミと小野長之助の公開斬首刑が青森県弘前市の青森監獄前で行われた。この時2人の斬首刑に兼平巡査が斬首刑の執行人として、死刑執行者付添役に森矯(東奥義塾教師)がそれぞれの任を果したと言わている。 しかし、このことが事実である場合、この死刑執行は事実上の斬首刑の最後であると共に、官憲による日本国内における一般刑法犯に対する最後の非合法の死刑執行かつ公開斬首刑であると言わざるをえない[216][217]。
この年の11月24日に沖縄県で新垣亀(罪状:脅迫と窃盗と謀殺。この3つの犯罪の内、謀殺の罪により沖縄県裁判所[現・那覇地方裁判所 ]にてこの年の4月に死刑判決。)に対する死刑執行命令が下され[218]、琉球処分による沖縄県設置以降で初めて死刑執行された人物となった。 なお、治罪法第460条より執行命令から3日以内に行うように規定されているが[219]、翌年の3月20日の大阪朝日新聞に掲載された記事によれば、翌年の1月に執行されていることになっている[220]。 そして、沖縄県においては新垣亀が執行されるまで、琉球王国時代含め百数十年以来執行されていなかった[220]。なお、琉球王国において、1786年に制定された琉球科律という刑法があり、全体の量刑は大清律に比べて一般に軽く、自由刑が多かった。死刑に次いで重い刑罰は、刑期が10年か終身の流罪で流罪先は八重山列島であった[221][222]。
また、激化事件である加波山事件によりこの年の10月2日に3人、10月5日に3人が絞首刑により執行される。
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1887年(明治20年) |
97 |
1 |
0[215] |
98 |
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1888年(明治21年) |
60 |
1 |
0[223] |
61 |
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1889年(明治22年) |
49 |
0 |
0[224] |
49 |
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1890年(明治23年) |
39 |
2 |
0[224] |
41 |
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1891年(明治24年) |
66 |
0 |
0[224] |
66 |
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1892年(明治25年) |
51 |
0 |
0[224] |
51 |
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1893年(明治26年) |
46 |
0[225][226][227]
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0[224] |
46 |
この年の7月27日に市ヶ谷監獄で長島高之助(罪状:前年<明治25年>7月24日深夜に強盗目的で侵入し、犯罪の発覚を恐れて斧で侵入した家の家主に重傷を負わせ死に至らしめ、長島に飛び掛かってきた家主の妻を殺害。更に、当時4歳だった主人の娘が泣き出したことを理由に殺害。その後、強盗殺人ではなく家主から賭博で貸した金の催促の際、口論となって殴っただけであると主張したが、この年の5月12日に東京控訴院により死刑判決が確定する[228]。)の死刑が執行されたが、執行用の縄が外れる事故が発生する。2回目の執行も外れ、3回目にようやく執行される[229][230][231]。
旧日本陸軍で、上官(歩兵少尉)に対し暴行を行った罪で、第4師団野戦砲兵第4連隊所属の砲兵1等軍曹・砲兵上等兵・砲兵1等卒兵に対して、この年に死刑判決が下されたが、事件当時、酩酊状態で犯行に及んだこと、上官の服装が軍服以外の平服であり、夕暮れ時で顔が判別しづらい状況であったことを考慮し、同年6月19日に有期流刑15年に2等減刑されている[226][227]。そのため、この年に死刑判決が下されているものの執行された者はいない。 その後、砲兵1等軍曹は後述する英照皇太后崩御により更に減刑され、1897年(明治30年)4月26日に特赦されているが、砲兵上等兵と砲兵1等卒兵も同様に放免されたか集治監で何らかの理由で獄死したかは定かではない[232]。
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1894年(明治27年) |
52 |
0 |
- |
- |
1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日清戦争が行われる。その間に、戦地での軍法会議含めて1895年(明治28年)5月11日に野砲兵第4連隊所属の20代前半の1等兵(罪状:賭博を密告した疑いのある上等兵を賭博仲間とこの年の3月8日夜に布団を被せて集団私刑を行う。その後、上等兵に集団私刑について詰め寄られ、短刀で刺殺。更に、新兵時に書籍購入の事で殴打した別の上等兵を刺す[休業10日間を伴う重傷]。そして、暴行を行っていると言われている曹長も刺す[休業2週間を伴う重傷]。曹長を刺したことで、上官に対して兵器を用いて暴行した罪でこの年の3月28日に死刑判決が出される[233])の死刑執行のみである[234][235][236]。
また戦中の1894年11月に発生した旅順虐殺事件(この事件による死者数は、中国側は2万名弱、日本側では秦郁彦により多くとも2,000人、樋口晴彦は旅順陥落後死亡した6,000人[軍人:5,000人、民間人:1,000人]の内、国際法に反した虐殺に当たるのは500人[軍人:100人、民間人:400人]としている。またこの事件の背景には、敗走した清国軍兵が軍服を脱ぎ捨て偽装非戦闘員に成り済ました者が多数いたことが要因の1つに挙げられる[237]。)により軍法会議により処された者は、当時の政府首脳により不可能と判断したため、いない。
そして、軍法会議とは別に日清戦争中における占領地において死刑執行された者は11人(1894年:2人、1895年:9人 全員男性)いる。罪状は軍需の妨礙が2人、間諜行為が8人(内2人は、1894年に執行)、軍用電線の切断が2人であった[238]。いずれの犯罪も軍令の中で重罪に分類されているが、この表には含まれていない。 死刑執行は、獄舎内で憲兵により銃殺刑及び絞首刑[239]により行われ、罪状書を公衆に晒した[240]。
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1895年(明治28年) |
75 |
1 |
0[241] |
76
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1896年(明治29年) |
72 |
1 |
0[241] |
73 |
この年の9月15日に検事の許可の元、斎藤甚吉の死刑執行を見届けようと北海道根室の刑場で30人が参観している[242][243]。
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1897年(明治30年) |
21 |
0 |
0[241] |
21 |
英照皇太后崩御により、崩御翌日の1月12日から1月26日まで死刑執行が停止される[244][245]。
更に、この年の1月19日に出された明治30年勅令第7号(大喪ニ附キ減刑ノ件)により、勅令が出た日までに死刑判決を受けた者は、勅令の第1条第1項により、無期徒刑(国事に関する罪以外を犯した場合。集治監で期間の定めない懲役を受刑する。但し、女性の場合は、流さずに懲役場[現在の刑務所 ]で受刑する。)又は無期流刑(国事に関する罪を犯した場合[246]。集治監で期間の定めのない禁錮刑を受刑する。)に減刑されることとなった[247]。そのため、前後年に比べ執行数が少なく、前年12月30日からこの年の6月7日までの158日間は、死刑執行がなかった[248][249][250]
。
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1898年(明治31年) |
48 |
1[251][252][253][254] |
0[241][255] |
49 |
元陸軍戸山学校助教(後備兵役歩兵曹長)(罪状:越後の縮商人の貸主による反物代の厳しい取り立てを背景に1897年(明治30年)9月11日に自らの職場である陸軍戸山学校に誘い出し酒を飲み交わした後で、貸主を校外へ誘い出し首を縄で絞めて気絶させた後、軍刀により殺害し顔面を切り刻んだ上で遺体を高田馬場付近の草むらに遺棄して、貸主が所持していた30円余り[注 26][256]を奪う[257][258]。)に対して死刑判決が下されたが、殺意が生じたタイミングが校内で酒を飲み交わした時であるか校外へ出た時であるか不明瞭であり、どちらにしろ殺害直前であり計画的に行ったと断定できないため、この年の2月4日に上奏して減刑が裁可され、無期徒刑となる[253][254]。そのため、旧日本陸軍ではこの年の11月22日に上奏の上、死刑判決が裁可された第5師団歩兵第12連隊所属の歩兵2等卒(罪状:強盗殺人)の死刑執行のみである[252]。 なお、この事件で陸軍刑法第28条及び第29条により元陸軍戸山学校助教の勲章(日清戦争時に兵站部に配属され従軍した暁に授かった勲8等旭日章と勲記、従軍記章と証状)及び恩給受領権が剥奪される[253][259]。 旧日本海軍では死刑判決が出たが執行はされていない。執行がされなかった理由が獄死が自死又は恩赦によるものかは不明である。
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1899年(明治32年) |
37 |
0 |
1[241][260]
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38 |
ミルラー事件により、この年の1月に日本で初めて条約改正後に日本の法律に基づいて在留外国人の死刑が執行される[261]。 旧日本海軍では1等機関兵による殺人既遂により20年振りに旧日本海軍で死刑執行が行われた。
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1900年(明治33年) |
33 |
0 |
0[262] |
33 |
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1901年(明治34年) |
29 |
1 |
0[262] |
30 |
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1902年(明治35年) |
28 |
0 |
0[262] |
28 |
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1903年(明治36年) |
41 |
1 |
0[262] |
42 |
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1904年(明治37年) |
45 |
1[263] |
0[262] |
46 |
1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日にかけて日露戦争が行われたが、旧日本軍軍法会議によって死刑執行された者は戦地も含めて台湾陸軍軍法会議により謀殺を行った軍人軍属でない常人1人(元台湾守備軍歩兵軍役志願者)のみである[264]。
そして軍法会議とは別に、戦中での占領地での死刑執行は56人(軍政署[注 27]:39人、民政署[注 28]:17人)いた。 軍政署期(1904年4月〜1905年6月9日)では、罪状別で間諜が13人、馬賊が6人、官名を濫用の上私印偽造をし恐喝して財を得るが5人、強盗殺人が3人(内2人は欠席裁判により宣告された者)、軍の妨害行動・鉄道破壊・哨兵に対し暴行がそれぞれ2人、鉄道橋を破壊し鉄桿窃盗・軍用電線を切断し電線窃盗・武装強盗・銃器隠匿・戦利品隠匿・凶器を用いて脅迫がそれぞれ1人であり、清国及び韓国人である。 民生署期(1905年6月10日以降)では謀殺が2人、強盗が12人、強制性交強盗未遂が2人、殴って死に至らしめた(傷害致死)のが1人であり、全て清国人である[265]。また、戦中の占領地における死刑執行数は含まれていない。 執行は、銃殺刑及び絞首刑で執行され憲兵により行われた。(民政署は、民政長官の認可を得た上で、絞首刑及び斬首刑)[266]。
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1905年(明治38年) |
36 |
0 |
0[267] |
36
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1906年(明治39年) |
19 |
0 |
0[267] |
19 |
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1907年(明治40年) |
12 |
4 |
0[267] |
16 |
陸軍刑法と海軍刑法が改正される[50]。
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現行刑法施行下
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1908年(明治41年) |
51 |
1 |
0[268] |
52 |
現行刑法が制定。刑事事件に対する刑罰が現在の法体系となる。また、現刑法の第41条より、14歳未満は死刑にすることは出来なくなったが、旧刑法で出来なかった14歳以上20歳未満の死刑を科し、執行することが法的に可能となった。
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1909年(明治42年) |
18 |
1 |
0[269] |
19 |
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1910年(明治43年) |
39 |
0 |
0[270] |
39 |
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1911年(明治44年) |
40 |
0 |
0[270] |
40 |
幸徳事件で、幸徳秋水ら12名に死刑執行される。 この年の7月13日8時11分に東京監獄にて、数え年20歳(実年齢18歳)の岩上洪治(罪状:阿弥陀堂に忍び入り、堂守の僧侶を殺害し、米5升と4円[注 29][256]の金銭を窃盗する。)の死刑執行が執行され、8時24分に絶命した。旧刑法制定以来、20歳未満で初めて死刑執行された人物となり、30年ぶりに20歳未満の者に死刑執行された[271][272]。
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- 1868年(明治元年)における東京府内の死刑執行者は190人(磔3人、梟首95人、斬首:92人、全て男)[32]、京都府内の死刑執行者は17人(刎[身首処ヲ異ニス]:11人、梟首5人、死罪[袈裟斬り]:1人)、群馬県で9人(梟首:3人、斬首:6人)[34]。神奈川県内では、死刑執行はなかった[29]。
- 1869年(明治2年)〜1871年(明治4年)の執行数は、1876年(明治9年)10月13日に行われた元老院会議の改定律例249條1項改正ノ件(號外第16號意見書)第3議会における細川潤次郎の発言による[273]。但し、手塚豊によれば、廃藩置県が行われるまで藩が存在しており、藩独自の司法や行政を行っていたこと、版籍奉還後は明治新政府に許可を得るよう指示されたが、即座に実行されたわけでないため、藩が明治新政府に報告していない死刑が1871年(明治4年)以前に存在していることが指摘されている[44]。そのため、1871年(明治4年)以前の細川潤次郎の発言による執行数は、明治新政府として把握した数であるため、細川潤次郎が発言した該当年の執行数に「以上」と付加している。
- 国事犯として1869年(明治2年)〜1878年(明治11年)の間に死刑執行された者が107人(梟首された江藤新平含めた15名、それ以外は斬首刑)いる。死刑執行理由は、士族反乱で反乱側についたこと(51人、未遂の思案橋事件含む)・明治政府関係者暗殺(27人、未遂の岩倉具視襲撃事件含む)・一揆を主導及び一揆で殺人を犯したもの(15名)・明治新政府転覆の疑い(12人)・会津藩復興陰謀を企てたこと(1人)・外国人殺害(1人)である。国事犯とは別に、1872年(明治5年)11月25日にキリスト教信仰を理由により京都で秘密裏に獄内で死刑執行された市川栄之助(公式発表では獄死)や秩父事件と加波山事件の激化事件による11人の死刑執行や幸徳事件を含めた大逆事件により死刑執行された14人を含めた場合、133人となる。
また、治安維持法による死刑執行者はいないが(ゾルゲ事件により死刑執行されたリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実は、治安維持法より重い国防保安法により、死刑判決を受けている。)、特高警察の拷問・虐待により194人(小林多喜二も拷問により亡くなっている。)が死亡しており、この死因とは別に病死による獄死が1,503人いる[274][275]。 他にも1923年(大正12年)の9月1日に発生した関東大震災の混乱によって生じた「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」というデマにより、自警団・警察・旧日本軍により朝鮮人の虐殺事件が大量に生じている。朝鮮人以外にも、朝鮮人と誤解されて中国人が犠牲となった事件、沖縄・秋田・三重出身者が犠牲となった検見川事件や秋田出身者が犠牲となった妻沼町事件[276]、香川出身からの薬の行商団15人の内9人が犠牲となった福田村事件など地方出身の日本内地人、発音のために朝鮮人と誤認され殺害された聴覚障害者の事件の事例がある。そして、社会主義や無政府主義の指導者を殺害した動きがあり、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが殺された甘粕事件、川合義虎ら社会主義者10名が犠牲となった亀戸事件も起きている。この震災の混乱により生じた犠牲者数は不明であり、少なくとも約578人が殺害されている(朝鮮人の殺害者数については、吉野作造の調査より2,613人、大韓民国臨時政府機関誌『独立新聞』より6,661人[但し、山田昭次によれば、内訳を再計算すると6,644人になると指摘している]となっている)[277]。
- 1872年(明治5年)の4月3日に鞠山騒動により自裁した4人と同年11月4日に自裁した加賀本多家旧臣12人、11月25日の京都でキリスト教信仰を理由により京都で秘密裏に獄内で死刑執行された市川栄之助(公式発表では獄死)は含まれていない。
- 1876年(明治9年)、1878年(明治11年)~1878年(明治13年)については、昭和43年版犯罪白書の「II-7表 死刑執行人員(明治6〜昭和42年)」に記載の該当年の執行人員が、恩赦によって減刑された者が含まれているため、「太政類典・第三編・明治十一年~明治十二年」の「第九十三巻 治罪・赦宥一」~「第九十四巻 治罪・赦宥三」[166][183][167]と「太政類典・第四編・明治十三年」の「第六十一巻・治罪・赦宥一・犯情酌量」[184]と「公文録・明治十四年」の「百九十三巻・明治十四年五月・司法省(三)」[190]により恩赦を受けたことを確認できた者を差し引いた人数である。
なお、この期間に限定している理由は、以下である。
- 1874年(明治7年)については、広島県史料の「国史稿本 刑罰(明治4‐10年)」に記載しているその年の執行人数が斬首9人と絞首1人であり[278]、日本政表(明治7年)の刑事裁判の20ページに記載の数値と一致しているが、この年に金丸京平(当時15歳)が放火の罪(罪状内容:病気の母にバイ(巻貝の一種)とバショウの根を具にしたお味噌汁を食べさせようとしたが、味噌については、購入するお金が無いため金井久佐衛門の家に行って貰い受けようとしたが、その家の妻に断られたため、そのことを恨んで1874年(明治7年)3月5日夜にその家を放火)で斬首刑が言い渡されたが、殺意を持って犯行に及んだわけではないことを理由に翌年1月19日に終身懲役へ減刑されている[279]が、広島県史料にその青年の名前が記載されていないため、恩赦による減刑を受けた者がその年に含まれていないと判断し、執行人数は昭和43年版犯罪白書に記載の数値のままとしている。
- 1875年(明治8年)については、滋賀県史料の「滋賀県史(2編) 政治部 聴訴断獄(明治8・9年)」では強盗傷害により6人の男性が斬首されているが、この年に恩赦の減刑を受けた者2人の罪状が殺人(罪状内容:領民から金銭を掠め取るなど非道行為を行った駿河守最上五道家の家臣宮田忠左衛門を4人組で殺害。)であることと言い渡された刑罰が絞首刑と異なるため、執行人数は昭和43年版犯罪白書に記載の数値のままとしている。
- 1876年(明治9年)については、強盗傷害で斬首刑が言い渡された奥海吉(罪状内容:仲間2人と組んで、1件の侵入窃盗と強盗2件を起こし、1874年(明治7年)10月6日)に起こした強盗事件で、家主に左膝に傷害を負わせる。)が、同年8月8日に起こった同獄者の首つり自死に対して人命救護を行ったため、翌年3月7日に終身懲役に減刑されているが、滋賀県史料の「滋賀県史(2編) 政治部 聴訴断獄(明治8・9年)」と第二司法省年報より、計上されているため、この年については昭和43年版犯罪白書に記載の数値から1名差し引いている[130][280][132]。
- 1877年(明治10年)については、第3司法省年報より恩赦を差し引いた数値であるため、執行人数は昭和43年版犯罪白書に記載の数値のままとしている[281]。
- 1878年(明治11年)については、長崎県史料の「刑罰条(明治9‐11年)」[282]より、斬首刑を言い渡された2人の内、1人(松尾多吉 罪状:田畑を売り渡した際、勝手に借金分を差し引かれた上で支払われたことに恨み、酒で酔った勢いに任せて、2度の放火未遂を経て、1877(明治10年)6月3日深夜に放火する[283])は恩赦により終身懲役へ減刑されているが、司法省第四刑事統計年報[284]より、長崎県裁判所本庁で男性2人に斬首刑の判決が下されたており、両者の数値より含まれた人数であった。しかし、長崎県裁判所佐賀支庁で斬首刑の判決が下された持永ノイ(罪状内容:1875年(明治8年)5月に自身の男児を死産する。その後、再び妊娠するも夫は漁に出ている時に不倫をする。更に、生活苦により出来た借金を返済するため、近所から預かった品物を返済のために勝手に売ったこと、自身の病気によって鼻が欠損している外見を夫が良く思ってなかったことにより、翌年7月19日に妊娠している状態で離婚する。しかし、両親ともに死別しており頼れる親戚も無く、行く当てもなく住む場所も無い状態を嘆き、そのような状態にさせかつ自身の容姿を嫌う夫を恨み、同年7月28日に夫の家へ放火して、夫の家だけでなく隣家と牛小屋を焼失させる[285]。)が1878年(明治11年)7月26日に懲役終身に恩赦により減刑ささたが、第3司法省年報[286]と司法省第四刑事統計年報[287]と長崎県史料の「刑罰条(明治9‐11年)」[282]より含まれていないことが確認できたため、持永ノイを除いて「太政類典・第三編・明治十一年~明治十二年」の「第九十三巻 治罪・赦宥一」[166]と「第九十五巻 治罪・赦宥三」[167]により恩赦を受けたことを確認できた斬首刑4人と絞首刑3人の合計7人を差し引いている。
- 1879年(明治12年)については、山口県史料の「政治之部 刑罰5(明治5‐17年)」[288]より3人の男性が斬首刑の判決が言い渡されていることになっているが、司法省第五刑事統計年報より、広島裁判所支庁より男性4人が斬首刑の判決が下されており[289]、残り1人は光永伊三郎(罪状:大上民三郎とその母親と同居人に8円余り[注 30][98]の窃盗の疑いを掛けられ、神籤や祈祷で自身が犯人にされるものの、最終的に村の集会で犯人でないと判断された。それに対して、大上民三郎に5円[注 31][98]の賠償金を求め、最終的にその半額を支払いとなったが支払ってもらえず、殺害を決意をする。その後、警察に訴えて公で裁く方が良いと判断し殺意がいったん無くなったが、偶然に大上民三郎に会い、祈祷の際の質に入れた品物を受け戻すように厳しく責められ、再び殺害を決意。その後、1878年(明治11年)9月25日に大上民三郎に重傷を負わせ、民三郎の母親を殺害する。殺害後自死しようとしたが、止められ未遂に終わる[290]。)に対する恩赦による終身懲役への減刑によるものであった。但し、大分県に関しては、恩赦による減刑を受けた者が1人(荏隈伝七 罪状:不倫相手が離婚後に婚約することを約束をしていたが、幼いころからの親しい友人と結婚することを知り、結婚の邪魔をするため、1879年(明治12年)12月11日に学校から盗んだ石炭油で友人の家を放火[291])いたにもかかわらず大分県史料[292]と司法省第五刑事統計年報に差異が生じていないため、大分県の荏隈伝七を除いた「太政類典・第三編・明治十一年~明治十二年」の「第九十三巻 治罪・赦宥一」[166]と「第九十四巻 治罪・赦宥二」[183]及び「太政類典・第四編・明治十三年」の「第六十一巻・治罪・赦宥一・犯情酌量」[184]により恩赦を受けたことを確認できた斬首刑12人(内、女性が2人)と絞首刑2人の合計14人を差し引いている。なお、大分県に関しては、大分県史料[292]より1878年(明治11年)に2人の男性がそれぞれ梟首刑と斬首刑をそれぞれ1人に判決が下されているが、司法省第四刑事統計年報[293]では、熊本県裁判所支庁より梟首は2人に判決が下されていることになっている。
- 1880年(明治13年)については、静岡県史料の「駿河国史 第3輯 材料 処刑書類(明治11‐14年)」[294]と司法省第六刑事統計年報[295]より、女性1人(半田ハツ 罪状:生計を助けるため、養育費5円を貰う形で棄てられていた乳児を育てたが、母乳があまり出せない状況で粥を与えたが日に日に弱っていき、養育費も尽き果ててしまい困り果て、乳児が泣き叫んでいることを理由に夫から「この子は死んでしまった方が良い。」という言葉をきっかけに乳児を圧死させる[296]。)斬首刑の判決が1880年(明治13年)6月4日に下されているが、情緒酌量の余地があるとして同年8月24日に恩赦により懲役終身に減刑されているため、昭和43年版犯罪白書の「II-7表 死刑執行人員(明治6〜昭和42年)」に記載の明治13年の執行人員から「太政類典・第四編・明治十三年」の「第六十一巻 治罪・赦宥一・犯情酌量」[184]と「公文録・明治十四年」の「百九十三巻・明治十四年五月・司法省(三)」[190]により恩赦を受けたことを確認できた斬首刑11人(内、女性が1人)と絞首刑2人の合計13人を差し引いている。
- 1881年(明治14年)については、「公文録・明治十四年」にある太政官と司法省との間で授受した文書の中で、この年に死刑判決を下された死刑囚の恩赦が旧刑法施行直前のためか無かったため、執行人数は昭和43年版犯罪白書に記載の数値のままとしている[297]。
- 1882年以降は、死刑の判決を下された人数と執行された人数で区別しているため、執行人数は昭和43年版犯罪白書に記載の数値のままとしている[298]。
- 軍法会議は常設軍法会議(戦時・平時を問わず恒常的に設置されていた軍法会議で、陸軍には「高等軍法会議」や「師団軍法会議」があり、海軍には「高等軍法会議」や「鎮守府軍法会議」等があった。)と特設軍法会議(戦時事変等に際して必要に応じて設置され、陸軍の「軍軍法会議」や「合囲地軍法会議」等が、また海軍には「艦隊軍法会議」及び「合囲地軍法会議」等があった。)の2種類ある。日清・日露戦争で旧陸軍の戦地裁判に関しては死刑執行された者はおらず(旧海軍は、日清戦争における執行者数は、1895年(明治28年)の常設軍法会議を除き不明であるが、日露戦争においては死刑執行された者はいない。)、両戦争とも内地で起きた犯罪により常設軍法会議によって死刑判決が下され、執行されている[234][235][236][264]。そして、日清戦争中に起きた旅順虐殺事件により軍法会議によって処された者はいない。
- 日清・日露戦争における占領地での死刑執行は含まれていない。日清戦争では死刑執行された者は11人(1894年:2人、1895年:9人 全員男性)[238]であり、日露戦争では56人(軍政署:39人、民生署:17人)[265]であり、あくまでも裁判により死刑宣告された者に限る。
大正時代
- 軍法会議は常設軍法会議(戦時・平時を問わず恒常的に設置されていた軍法会議で、陸軍には「高等軍法会議」や「師団軍法会議」があり、海軍には「高等軍法会議」や「鎮守府軍法会議」等があった。)と特設軍法会議(戦時事変等に際して必要に応じて設置され、陸軍の「軍軍法会議」や「合囲地軍法会議」等が、また海軍には「艦隊軍法会議」及び「合囲地軍法会議」等があった。)の2種類ある。第1次世界大戦時に設置された青島守備軍臨時軍法会議において、1919年(大正8年)に強盗殺人により死刑執行された6人は含まれるが、シベリア出兵時の特設軍法会議(浦塩派遣軍軍法会議、北部沿海州派遣隊臨時軍法会議[後に、薩哈嗹州派遣軍臨時軍法会議と改称する。]、⻄伯利亜派遣第十三師団軍法会議、野戦第十一師団臨時軍法会議)により執行された者は不明である為、含まれていない。
- 1923年(大正12年)の9月1日に発生した関東大震災の混乱によって生じた「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」というデマにより、自警団・警察・旧日本軍により朝鮮人の虐殺事件が大量に生じている。朝鮮人以外にも、朝鮮人と誤解されて中国人が犠牲となった事件、沖縄・秋田・三重出身者が犠牲となった検見川事件や秋田出身者が犠牲となった妻沼町事件[276]、香川出身からの薬の行商団15人の内9人が犠牲となった福田村事件など地方出身の日本内地人、発音のために朝鮮人と誤認され殺害された聴覚障害者の事件の事例がある。そして、社会主義や無政府主義の指導者を殺害した動きがあり、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが殺された甘粕事件、川合義虎ら社会主義者10名が犠牲となった亀戸事件も起きている。この震災の混乱により生じた犠牲者数は不明であり、少なくとも約578人が殺害されているが、上表には含まれていない(朝鮮人の殺害者数については、吉野作造の調査より2,613人、大韓民国臨時政府機関誌『独立新聞』より6,661人[但し、山田昭次によれば、内訳を再計算すると6,644人になると指摘している]となっている)[277]。
昭和時代前期
- 1925年に制定された治安維持法による死刑執行者はいないが(ゾルゲ事件により死刑執行されたリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実は、治安維持法より重い国防保安法により、死刑判決を受けている。)、特高警察の拷問・虐待により194人(小林多喜二も拷問により亡くなっている。)が死亡しており、この死因とは別に病死による獄死が1,503人いる[274][275]。
- 軍法会議は常設軍法会議(戦時・平時を問わず恒常的に設置されていた軍法会議で、陸軍には「高等軍法会議」や「師団軍法会議」があり、海軍には「高等軍法会議」や「鎮守府軍法会議」等があった。)と特設軍法会議(戦時事変等に際して必要に応じて設置され、陸軍の「軍軍法会議」や「合囲地軍法会議」等が、また海軍には「艦隊軍法会議」及び「合囲地軍法会議」等があった。)の2種類ある。
- 旧日本陸軍の1938〜1947年まで(特設軍法会議に関しては、1936年(昭和11年)以降)と1942〜1947年の旧日本海軍の軍法会議による死刑執行数は不明である。また、戦時中における軍法会議の中には、本来死刑にする罪でない逃亡兵士を故意に敵に投降逃亡したとみなし、銃殺刑に処された例が多くあると指摘されている[353]。
- 第2次世界大戦終戦から1951年6月11日までの間に連合国による軍事裁判によって死刑執行されたA級戦犯(7人)やBC級戦犯(約1,000名)は含まれていない。また、死刑執行者の中には、当時日本の植民地支配下にあった朝鮮や台湾出身者の軍人軍属も含まれている[354]。処刑方法は、約3分の2が絞首刑、残りは銃殺刑であり、中国においては市中引き回しの上、死刑が執行されている。そして、BC級戦犯の軍事裁判において、捕虜虐待等の実態の誇張や反論の機会が与えられないまま、虚偽の一方的な証言のみによって、事実審理も行わず死刑判決が下った例が多くあると指摘されている[355]。
昭和時代中後期・平成以降
グラフ
1949年以降の死刑確定数、死刑執行数、死刑囚収容数を示す。情報源は本項の表による。
日本の死刑囚の事例
- 生き返った死刑囚
- 1872年、石鉄県(現・愛媛県)の久万山騒動に参加し、役所に放火した田中藤作(当時31歳)が絞首刑執行後に蘇生した事例があった。彼は「既に死刑が執行されており、再度執行する法的根拠がない」として、放免と原籍編入を指示された。原因は当時の処刑器具「絞柱」に構造欠陥があったため確実に絶命させられなかったためといわれている。ほかにも同時期に2人がおなじように蘇生したとされるが、こちらについての伝承は明らかではない。
- 執行されなかった死刑囚
- 1945年8月9日にアメリカ軍が行った長崎市への原子爆弾投下では、爆心地近くに戦時中の規定で九州地区唯一の処刑場に指定されていた長崎刑務所浦上刑務支所があったため、死刑囚2名(4名とする書籍もある)も含む刑務所にいた全員が一瞬にして死亡した。
- 戦後在日米軍によって処刑された少年死刑囚
- 上坂冬子著『巣鴨プリズン13号鉄扉』によれば、ほかの戦争犯罪人と同じように、18歳の少年(数え年であるため、満年齢で16〜17歳である。)が死刑になった事実があるという。それによれば1945年12月19日に、北海道札幌市にあった進駐軍宿舎に盗みに入った少年がアメリカ兵を殺害したために、アメリカ軍の軍事法廷で、わずか2日の審理で1946年1月23日に死刑が確定、5月17日に巣鴨拘置所で絞首刑になった。
- 過去に長期収監されていた死刑囚
- 平沢貞通死刑囚は、1955年4月7日に最高裁で上告棄却で死刑確定後、歴代法務大臣が死刑執行命令書へ署名しなかったために執行されないまま、1987年5月10日に獄中で95歳で病死した。確定死刑囚の確定後収監期間32年0ヶ月(逮捕後通算38年9ヶ月)は当時の世界最長であり、ギネス世界記録にも世界記録として認定された。ただしこの記録はすでにマルヨ無線事件の死刑囚が死刑確定後収監期間49年4ヶ月(2020年3月末時点)と超えている。
- 福岡事件のうち、実行犯とされた死刑囚は1947年に逮捕され死刑確定後の1975年に恩赦により無期懲役に減刑された。この時点で28年収監されていたが、仮出所したのが1989年であり、釈放された元死刑囚の逮捕後収監期間としては最長の42年7ヶ月の記録を持っていた。
- 現在、長期収監されている死刑囚
- 冤罪と主張される死刑囚の執行は避けられる傾向にある。これは執行された後で仮に無罪の証拠が発見された場合、もはや回復不能であることが理由である。実際に名張毒ぶどう酒事件では1972年に死刑確定後、冤罪の可能性が指摘されていることから執行は行われていない。同様に川端町事件の死刑囚も1970年に確定しているが執行されていない。
- 一方、飯塚事件の死刑囚は冤罪疑惑があったにもかかわらず、2006年の死刑確定から約2年後の2008年に執行された。
- 1974年に発生したピアノ騒音殺人事件の死刑囚は1977年に死刑判決が確定したが、2022年7月末現在死刑が執行されていない。これは犯行動機(近隣騒音)に同情した全国の騒音被害者たちが助命嘆願運動を繰り広げたほか、控訴審で行われた精神鑑定で責任能力なしの判断が出され、無期懲役に減軽される可能性があったにもかかわらず、死刑囚が「刑務所内の騒音に耐えられず、死にたい」との理由で控訴を取り下げた事情がある。現在彼は精神異常が亢進しているといわれており、今後も死刑執行が行われない可能性があり、冤罪を指摘されず再審請求を提出していないにもかかわらず、前述の平沢の確定死刑囚としての年数を更新した。
- 確定後、最も執行までの収監期間が長かった死刑囚
- 1975年に発生した秋山兄弟事件は、兄弟2人が犯した事件であったが、裁判では相手が主犯であると擦り合った。裁判所は弟を主犯と認定し死刑に、兄を無期懲役とした。死刑が確定したのは1987年であったが、執行されたのは2006年であった。そのため、判決確定後19年5ヶ月で死刑が執行され、その待機期間としては戦後最長であった。また執行時の年齢が77歳であったが、記録が残る中では日本国憲法下で最高齢の記録である。
- 日本の女性死刑囚
- 現代の日本における死刑囚の大半は男性である(約94%)。そのため女性死刑囚は少なく、第二次世界大戦後に死刑判決が確定した女性死刑囚は17人である。そして、2024年12月26日時点で6人が収監中である。また、戦後に死刑判決が確定した女性死刑囚17人中5人は執行、5人は病死、1人は恩赦により減刑されている。
- 戦後初めて女性に対し死刑判決が確定したのは、1949年に発生した菅野村強盗殺人・放火事件の女性に対するものであったが、彼女は精神異常と結核のため恩赦されている。戦後初めて死刑が執行されたのは1960年に発生したホテル日本閣殺人事件の主犯(確定は3番目)に対するもので、1970年に執行された。また同じ年には女性連続毒殺魔事件で確定した59歳の女性(確定は2番目)も執行されている。その後、1980年代は女性死刑囚の執行は無かったが、死刑執行モラトリアム後の1997年に夕張保険金殺人事件の主犯の妻が執行され、約27年ぶりに執行された。その後2000年代に執行されることなく、2012年には福島悪魔払い殺人事件の加害者が、2016年には久留米看護師連続保険金殺人事件の加害者の執行が行われた。
備考
死刑囚の時効
2010年(平成22年)4月27日に公布・施行された改正刑法により、死刑確定者の時効は廃止されている。
刑法第32条に「時効は、刑の言渡しが確定した後、次の期間その執行を受けないことによって完成する」とあり、死刑については30年と規定されており、30年執行されなければ時効が成立するかのような誤解があるが、刑法第34条に「死刑、懲役、禁錮及び拘留の時効は、刑の言渡しを受けた者をその執行のために拘束することによって中断する」と時効が中断することが定められているため、拘置所等に身柄が拘束されている場合は刑が時効消滅しない。
帝銀事件の元死刑囚が死刑判決確定後30年経過した際に「時効の成立」を主張したが、身柄が拘束されて時効が中断していたために認められなかった。なお、拘置所から脱獄して30年以上、逃亡生活を送れば時効が成立するものとされていた。ただし、死刑囚の脱獄は実際に何件か起きているが、30年後の時効完成まで確実に逃亡出来た者は現在まで1人もいない[注 47]。
脚注
注釈
- ^ 読売新聞1913年12月26日の紙面によれば、傷害致死で死刑を宣告され控訴中の女性(当時21歳)が妊娠していることが発覚し、出産するまで公判中止になった記事がある。
- ^ 1872年(明治5年)以前の一般刑法犯死刑執行数は昭和43年版犯罪白書にはない。
- ^ 1876年(明治9年)〜1878年(明治11年)の国事犯は、昭和43年犯罪白書には含まれていないが、明治7年の国事犯及び幸徳事件による死刑執行者が含まれているため、これらの国事犯死刑執行者も含まれてることに留意する。
- ^ 1883年(明治16年)以前の旧日本陸軍死刑執行数は第49回陸軍省統計年報にはない。
- ^ a b c 1876年(明治9年)10月13日に行われた元老院会議の改定律例249條1項改正ノ件(號外第16號意見書)第3議会の細川潤次郎の発言による。
但し、手塚豊によれば、廃藩置県が行われるまで藩が存在しており、藩独自の司法や行政を行っていたこと、版籍奉還後は明治新政府に許可を得るよう指示されたが、即座に実行されたわけでないため、明治新政府に報告していない死刑が1871年(明治4年)以前に存在していることが指摘されている。 そのため、1871年(明治4年)以前の執行数は、明治新政府として把握した数であるため、細川潤次郎が発言した執行数に「以上」と付加している。
- ^ a b 強盗破牢とそれぞれの犯罪で計上している場合、重いと思われる罪(この場合、強盗)で計上している。
- ^ 4月〜6月は各月に1人ずつ、8月は7人、9月は耕雲のみ。
- ^ 日本陸軍の創立年を明治4年とした場合である。
- ^ 閲覧注意。URL先には表示されないが、コマ送りの際、5コマ目にフェリーチェ・ベアトによって撮影された明治2年に磔刑に処された惣吉(罪状:奉公先の両替金を持って逐電したが、後に盗賊となって仲間一人と押し込み強盗に舞い戻り、泣き声を上げた元奉公先の主人の息子を殺害。)と明治5年3月頃に獄門により晒し首となった笠原伊兵衛(罪状:母親を殺鼠剤で毒殺)の死体写真(モノクロ)あり。
- ^ 日本政表2号の刑事裁判ノ部より、明治六年政表にある執行数に加えて、開拓使において斬首刑により執行された者が2人いる。
- ^ 1円を2万円で換算した場合、約2,700万円。
- ^ 1円を2万円で換算した場合、約2,040万円。
- ^ 明治9年(1876年)8月24日に東京裁判所(現・東京地方裁判所)で、「姦に依り夫を毒殺す」により梟首判決が下された浅子お仲と「姦夫姦婦本夫を毒殺す」により斬首刑が下された安川巳之助は、高橋お伝と同じ市ヶ谷監獄で明治12年(1879年)1月31日に共に斬首刑により執行されたこと、そして、強盗傷害で斬首刑が言い渡された奥海吉(罪状内容:仲間2人と組んで、1件の侵入窃盗と強盗2件を起こし、1874年(明治7年)10月6日)に起こした強盗事件で、家主に左膝に傷害を負わせる。)が、同年8月8日に起こった同獄者の首つり自死に対して人命救護を行ったため、翌年3月7日に終身懲役に減刑されたため梟首で1名、斬首で2名減。
- ^ 自己の管理下でない官物を盗む(常人盗):1人、群馬県で雇い主から740円余りを盗む:1人、終身の囚人による金銭等盗取:1人。
- ^ 1円を2万円で換算した場合、約1,280万円。
- ^ 1円を2万円で換算した場合、約11.4万円。
- ^ 1円を2万円で換算した場合、約770万円。
- ^ 兄を殺害した男性2人が梟首判決前に死亡したため、含まれていない。
- ^ 昭和43年版犯罪白書の「II-7表 死刑執行人員(明治6〜昭和42年)」に記載の明治11年の執行人員から「太政類典・第三編・明治十一年~明治十二年」の「第九十三巻 治罪・赦宥一」と「第九十五巻 治罪・赦宥三」により恩赦を受けたことを確認できた斬首刑4人と絞首刑3人の合計7人を減じた数である。
- ^ 1円を2万円で換算した場合、約5,140万円。
- ^ 明治9年(1876年)8月24日に東京裁判所(現・東京地方裁判所)で、「姦に依り夫を毒殺す」により梟首判決が下された浅子お仲と「姦夫姦婦本夫を毒殺す」により斬首刑が下された安川巳之助は、高橋お伝と同じ市ヶ谷監獄で明治12年(1879年)1月31日に共に斬首刑により執行されたため、斬首で2名増。
- ^ 昭和43年版犯罪白書の「II-7表 死刑執行人員(明治6〜昭和42年)」に記載の明治12年の執行人員から大分県の荏隈伝七を除いた「太政類典・第三編・明治十一年~明治十二年」の「第九十三巻 治罪・赦宥一」と「第九十四巻 治罪・赦宥二」及び「太政類典・第四編・明治十三年」の「第六十一巻・治罪・赦宥一・犯情酌量」により恩赦を受けたことを確認できた斬首刑12人(内、女性が2人)と絞首刑2人の合計14人を減じた数である。
- ^ 1円を2万円で換算した場合、約6万円。
- ^ 一家死罪に非ざる3人以上を殺した男性1人が斬首刑判決前に死亡したため、含まれていない。
- ^ 昭和43年版犯罪白書の「II-7表 死刑執行人員(明治6〜昭和42年)」に記載の明治13年の執行人員から「太政類典・第四編・明治十三年」の「第六十一巻 治罪・赦宥一・犯情酌量」と「公文録・明治十四年」の「百九十三巻・明治十四年五月・司法省(三)」により恩赦を受けたことを確認できた斬首刑11人(内、女性が1人)と絞首刑2人の合計13人を減じた数である。
- ^ 元陸軍戸山学校助教が無期徒刑となった2年後にあたる1900年(明治33年)で大卒銀行員が23円、巡査初任給が9円、大工の日当が84銭、白米1升で12銭であった。これらを現在の価値で換算した場合、約75.4万〜約23.6万円となる。
- ^ 1904年4月に設置された占領地の統治を行う機関。
- ^ 1905年6月9日の軍政署廃止後に設置された占領地の統治機関。関東都督府の前身。
- ^ 岩上洪治執行前年にあたる1910年(明治43年)で大卒銀行員が30円、巡査初任給が12円、大工の日当が1.1円、白米1升で13銭であった。これらを現在の価値で換算した場合、約7.5万〜約1.1万円となる。
- ^ 1円を2万円で換算した場合、約16万円。
- ^ 1円を2万円で換算した場合、約10万円。
- ^ 1938年に軍法会議により死刑や懲役・禁固刑に処された者は2,197人(内地:769人、満州:343人、中国:1,085人)である。
- ^ 1939年に軍法会議により死刑や懲役・禁固刑に処された者は2,923人(内地<台湾・朝鮮含む>:954人、満州:493人、中国:1,476人)である。
- ^ 1940年に軍法会議により死刑や懲役・禁固刑に処された者は3,119人(内地:1,063人、満州:706人、中国:1,350人)である。
- ^ 1941年に軍法会議により死刑や懲役・禁固刑に処された者は3,304人(内地:1,320人、満州:899人、中国:1,081人、南方:4人)である。
- ^ 1942年に軍法会議により死刑や懲役・禁固刑に処された者は4,868人(内地:1,849人、満州:1,021人、中国:1,245人、南方:753人)である。
- ^ 1943年に軍法会議により死刑や懲役・禁固刑に処された者は4,981人(内地:1,905人、満州:900人、中国:1,320人、南方:856人)である。
- ^ 浙贛(かん)作戦中、兵士達に対して、「赤紙1枚で来た兵士達は馬よりも価値が低い。」「奴隷扱いする。」と暴言を吐いている。
- ^ 1944年の1月から11月までに軍法会議により死刑や懲役・禁固刑に処された者は5,586人(内地:2,484人、満州:980人、中国:1,308人、南方:814人)である。
- ^ 死刑執行者は朝鮮人であり、中学校在校時の日本人と朝鮮人との間に差別的待遇があるのを知ったことをきっかけに内鮮融和に対して嫌悪感を抱いていた。
- ^ その後、この事件により報復を恐れ町から逃げ出したスティニー家の兄弟による再審理を求める運動により、死刑執行から70年後の2014年12月17日に州地方裁判所により死刑判決を破棄し、冤罪を証明することとなる。そして、判決文には「法を適正に運用する上で重大な憲法違反があった」と述べてい
- ^ 死刑確定数は、1949年のみ別冊宝島『死刑囚最後の1時間』の表より引用。1950年(昭和25年)〜2001年(平成13年)はサイト「CrimeInfo」、2002年(平成14年)〜2023年(令和5年)は矯正統計の数値。2024年はメディアの報道から加算。
- ^ 死刑執行数は1967年(昭和42年)までは昭和43年版犯罪白書記載の数値。1968年(昭和43年)〜2001年(平成13年)はサイト「CrimeInfo」、2002年(平成14年)〜2023年(令和5年)は矯正統計記載の数値。2024年はメディアの報道より執行が無いため、7月28日時点で0としている。
- ^ 収容数は2022年までは令和5年版犯罪白書、2023年は2023年版矯正統計である。2024年はメディアの報道に記載の6月30日時点の数値。
- ^ 閲覧注意。死刑無期刑刑事事件判決集に、死刑確定者による犯罪で亡くなられた被害者の事件当時の死体写真(モノクロ)あり。
- ^ 閲覧注意。死刑無期刑刑事事件判決集に、死刑確定者による犯罪で亡くなられた被害者の事件当時の死体写真(モノクロ)あり。
- ^ 明治時代にあった若干の例外があり、たとえば剣術家連続針金強盗団事件の一味4人が護送中に脱走する広島護送死刑囚脱獄事件を引き起こしているが、3人は殺害もしくは再拘束されたが、明石章吉だけがそのまま消息不明になっており、時効が成立した可能性もあるが、行方知れずであり時効成立まで生存していたかは不明である。
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参考文献
- 「死刑囚監房から―年報・死刑廃止〈2015〉」インパクト出版会、2015年10月
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