1999年のJリーグ ディビジョン1
この項目では、1999年シーズンのJリーグ ディビジョン1(J1)について述べる。 概要→「J1参入決定戦」も参照
Jリーグが2部制となって初めてのシーズンとなる。 リーグ戦の方式としては、前年と同様に2ステージ制を継続し、各ステージ(15節)ごと1回戦総当り(年間でホーム・アンド・アウェーの2回戦総当り)方式となった。また、各ステージの優勝クラブがチャンピオンシップで年間優勝を争うことも前年通りであった。自動降格の対象となるクラブについては年間の勝ち点に基づく順位の下位2クラブと定められたが、各ステージの優勝クラブは勝ち点によらず自動的に2位以内になる(チャンピオンシップによって1位・2位が決まる)ことになった。 なおクラブ数が16クラブに戻ったため、2004年までの5シーズンの間、年間の総試合数30節は、J1における年間最少試合数タイ(他1996年)にあたる。 1999年シーズンのJ1のクラブ1999年シーズンのJ1のクラブは以下の通り。参加クラブは、前年のシーズンに参加した18チームのうち、横浜マリノスに吸収合併された横浜フリューゲルス(マリノスは同時にチーム名を変更)と、J1参入決定戦の結果Jリーグ ディビジョン2 (J2) 参入となったコンサドーレ札幌を除いた16チーム。
レギュレーションの変更点前シーズンまでVゴール方式の延長戦で決着が付かない場合に行われていたPK戦は、このシーズンから廃止となった。延長戦を行っても決着が付かない場合は引き分けとする事に変更された。 各試合ごとの勝ち点は、90分勝利の場合3、延長戦で勝利の場合2、引き分けの場合は両チームに1ずつが与えられることになった。 スケジュール1stステージは3月6日に開幕、5月29日に閉幕。中断期間を経て2ndステージは8月6日に開幕、11月27日に閉幕(リーグ戦の日程を終了)。12月4日・12月11日にチャンピオンシップが行われた。 リーグ戦概要→「1999年J1最終節」も参照
前年の年間勝点一位の磐田が、チームの柱であったドゥンガの退団がありながらも好調を維持し、リーグ戦の合間に行われたアジアクラブ選手権制覇の勢いのまま1stステージを制する。しかし2ndステージに入るとMF名波浩の移籍、FW中山雅史の欠場もあって磐田は調子を落とし、替わってスティーブ・ペリマン監督がオズワルド・アルディレス前監督の戦術を引き継ぎながらチームの熟成を進めた清水が2ndステージを制した。 一方、初の「降格」がかかる下位争いは、市原・福岡・浦和・平塚が生き残りを懸けた争いを繰り広げ、試合ごとに下位の順位が入れ替わる熾烈な争いとなったが、平塚が2ndステージ第1節で名古屋に勝利して以降全く勝てず(1分13敗)第13節終了時点で15位以下が決定。残る3チームは最終節まで残留が確定しなかったが、年間15位だった市原が勝ち、年間14位だった浦和が延長に持ち込まれたことで、順位が逆転。浦和は最終的にVゴール勝ちしたものの、J2降格の涙を呑むことになった。 順位表
1stステージ
2ndステージ
年間総合順位上位2チームの順位はJリーグチャンピオンシップの結果により確定する。
チャンピオンシップJリーグチャンピオンシップ(J1リーグ)についてはサントリーが冠スポンサーとなり、サントリーチャンピオンシップの名称で開催された。初の静岡ダービーで行われたチャンピオンシップであった。 ホーム・アンド・アウェーの2回戦制(1stステージの勝者が第1戦ホーム)で争われ、勝ち点の合計→2試合の通算得点→PK戦により勝敗を決定した。
2試合とも同スコア・Vゴール勝ちとなったため優勝決定のためのPK戦が行われ、磐田GK尾崎勇史のPKストップもあり4-2でジュビロ磐田が2年ぶり2度目の優勝を飾った[1]。この時の第2戦は、2013年のJクロニクルベストにおいて、ベストマッチの第3位となった。
得点ランキング
1999年11月27日 出典
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