岡田奈々
岡田 奈々(おかだ なな、本名:矢井 弘子(やい ひろこ)[3]、1959年〈昭和34年〉2月12日 - )は、日本の女優、元歌手。岐阜県岐阜市鏡島出身[1]。身長162cm、B78cm、W55cm、H85cm(1975年6月)[4]。 人物・来歴1959年(昭和34年)2月12日、岐阜県岐阜市鏡島に生まれる[2][5]。生家は稲葉郡鏡島村(1955年岐阜市に編入)で、代々絹織物業(岐阜縮緬など)を営んでいた旧家であった[5]。 1974年6月、岐阜市の鶯谷女子高等学校高校1年在学時に、岐阜市の繁華街・柳ヶ瀬を歩いていた時にレコード店にキャンペーンで来ていたある歌手のスタッフにスカウトされたのがデビューのきっかけ[6]。同年、オーディション番組『あなたをスターに!』の第2回チャンピオンとなり、翌1975年5月10日、16歳でシングル『ひとりごと』がNAVレコードより発売され歌手としてデビューした。占いによると本名は「芸能界に向かないばかりか全体的に字画が悪い」[3]ということで芸名を付けることになり、芸名は父が養蜂業であることから[7]、菜の花の優しく可憐なイメージから所属事務所社長が命名[7]。最初は「菜々」にしようと思ったが、姓名判断で字画を考えた上で「奈々」に変更した[3]。「岡田」はやはり占いで、四角張った字がいいということから決定した[3]。 デビュー後、すぐにお茶の間で人気が爆発し[8]、松竹と年間3本の映画出演契約を交わす[8]。ライオン油脂「エメロンシャンプー」や[8]、ポッキーの初代CMガール(1975年 - 1980年)や、『俺たちの旅』での田中健演ずる中谷隆夫の妹・中谷真弓役、1976年のシングル『青春の坂道』のヒットなど[9]、清純・正統派アイドルとして活躍[1]。 1977年3月、堀越高等学校を卒業、同年4月、戸板女子短期大学に進学した。 1977年7月15日午前2時ごろ、自宅マンションにて一人でいたところ、ベランダから覆面の男が押し入る事件が起きた[10]。この時、岡田は犯人の持つ果物ナイフによって右手親指の付け根と左手の掌に30針の重傷を負い、ネクタイで拘束された[10]。犯人は怪我をした岡田に簡単な応急手当てを行った後、「(犯行の)覚悟はできている。あんたのファンでどうにも気持ちが抑えられない。許してくれ。朝には帰る」などと一人でしゃべりまくり、朝7時には岡田の拘束を解いて玄関から出て行ったという[10]。その後、通報を受けた警察の捜査を経て所属事務所は記者会見を開き、岡田は両手を包帯につつまれつつ「犯人は意外と親切だったが、生きた心地がしなかった」と事件の顛末を説明した[10][11]。当時、岡田はテレビドラマ『俺たちの朝』にレギュラー出演中でもあったが、事件の2日後には仕事を開始したという[12]。この折の犯人は以降も逮捕されぬまま[11]、時効が成立した[1]。 20歳となった1979年からは女優業に本格転向し、短期大学は中退した。その後は、『戦国自衛隊』(1979年)や『里見八犬伝』(1983年)といった全盛期の角川映画や、『不良少女とよばれて』(1984年4月 - 1984年9月)や『スクール☆ウォーズ』(1984年10月 - 1985年4月)、『ポニーテールはふり向かない』(1985年10月 - 1986年3月)などの大映ドラマで活躍した[1]。作家の安部譲二は岡田の熱烈なファンで、自身原作の映画作品に出演依頼をしてこれを実現させたのが、1987年の『塀の中のプレイ・ボール』であった。 10代のころに石井輝男監督の東映最後の作品『暴力戦士』(1979年)に出演した縁で、石井の劇場用映画への復帰作『ゲンセンカン主人』(1993年)、続けて『無頼平野』(1995年)に出演、ヒロインを演じた。石井は「彼女のような顔が、好み」だという[13]。プライベートは独身だが、映画『ラブ&ポップ』(1998年)やテレビドラマ『ストロベリー・オンザ・ショートケーキ』(2001年)では主人公の母親役を演じている。 近年では清純派を脱皮する演技力を見せている[1]。 同姓同名で元AKB48の岡田奈々の認知度が高くなって以降は、「昭和の岡田奈々」とも呼ばれている[14]。 ディスコグラフィシングル
アルバムオリジナル・アルバム
ベスト・アルバムライブ・アルバムCD
CD & DVDコンプリートボックス
タイアップ曲
フィルモグラフィ映画
テレビドラマ1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
配信ドラマ
女優以外の出演情報・バラエティ番組
ほか多数 CM
初代ポッキーガール
イメージビデオ
書籍
受賞歴脚注
関連項目
外部リンク
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